All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

海原市から新浜市へ戻った日、それは天野紬(あまの つむぎ)と天野成哉(あまの せいや)の結婚三周年の記念日だった。紬は新浜へ着く前にインフルエンザにかかり、咳も決して軽くはなかった。それでも、成哉と息子、娘の三人とはすでに三か月も会っていない。会いたい気持ちが勝ち、無理を押して帰ってきたのだった。天野家は新浜の名家である。のちに事業を海原へと広げ、家族も海原へ移り住んだものの、本宅だけは変わらず新浜に残っていた。その本宅に足を踏み入れた瞬間、紬のスマホにニュースがポップアップで浮かび上がった。【天野の御曹司、気前よく大金を投じ、人気女優・橋本望美(はしもと のぞみ)のためにキャンプファイヤーを開催】紬の表情からすっと血の気が引いていく。天野家で働く家政婦、田中恵子(たなか けいこ)は海原出身で、ニュースを見るなり、慌てて紬に声をかけた。「メディアなんてデタラメを書くのが大好きなんですよ、奥様。どうかお気になさらないでください。旦那様は今夜、お仕事でお忙しいのですから」しかし紬は何も言わなかった。帰る前、紬はわざわざ成哉にメッセージを送っていた。ただ、そのメッセージはいまもスマホの中で静かに眠っている。返信は、ひとつもない。紬はくよくよする性格ではない。それでも考えてしまう。ピラミッドの頂点に立ち、新浜全体の経済の生命線を握るあの男は、一体どれほど忙しいのだろうか。妻からのたった一通のメッセージに返信する暇もないほどに。これ以上考えてはだめだ、と紬は自分に言い聞かせた。コートを脱ぎ、キッズスペースにいる息子と娘のもとへ向かう。三か月会わないうちに、二人はずいぶんと成長していた。紬はそっと笑みを浮かべ、おままごとに興じる双子の前でしゃがみ込んだ。二人は砂で小さな家をつくり、その中に二つの人形を置いていた。一目で、それがパパとママを表しているのだとわかる。紬は娘の天野芽依(あまの めい)に、からかうように尋ねた。「ねぇ、この二人は誰なの?」芽依は砂を盛りながら、顔も上げずに答えた。「パパと望美さん」「違うよ」息子の天野悠真(あまの ゆうま)が首を振る。「僕のおうちに住んでるのが望美さんで、芽依のおうちに住んでるのはママだよ」「でも私、望美さんにママになってほしいもん
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第2話

すぐに、二人の子供の声が紬の耳へと届いた。「じゃあ、望美さんとパパが、ずっと健康で幸せでいられますように!」望美は微笑み、からかうように言った。「ママの分はお願いしないの?」「ママは意地悪だもん!いつも望美さんをいじめてばかり。神様も仏様も、そんなママのこと見放すよ!」その無邪気な言葉に、紬は底なしの冷たさの中へ突き落とされるような感覚に襲われた。しばらくして、紬はただ黙って、寺の前で望美のために祈りを捧げる夫と子供たちを見つめていた。そこにあるのは、紬が六年間深く愛してきた男と、血の繋がった我が子たち。やがて紬はふいに立ち上がり、ためらいなくその場を離れた。六年間、紬はただ一心に尽くしてきた。いつか成哉の心が自分に向く日を夢見て――ただそれだけを支えに、耐え続けてきた。しかしその果てに目にしたのは、神仏の前で別の女性を慈しむ夫の姿だった。ここまで執着してきた自分が、ひどく哀れに思えた。紬は旧宅に戻ると、自分の荷物をすべてまとめた。そして成哉に、最後のメッセージを送った。【成哉、離婚しましょう】ベッドサイドに結婚指輪を置き、紬は振り返ることなくタクシーに乗り込んで空港へ向かった。寺を出た成哉は子供たちを連れて旧宅へ戻った。人の行き交う寺の外では雑踏が渦巻き、その中で成哉のスマホの着信音が鳴り響いた。彼がメッセージを確認しようとした、まさにその時だった。「泥棒だ!」騒がしい叫び声が次々と湧き上がる。ボディガードが成哉を庇おうと身を寄せるその瞬間、人混みに押された望美は、ぐらりとバランスを崩し、成哉の胸元に倒れ込んだ。その拍子に成哉の手から滑り落ちたスマホは、地面に叩きつけられ、続いて押し寄せる人波に踏みつけられて、画面が無惨にも粉々に割れた。「ごめんね、成哉……あなたのスマホが……」成哉は眉をわずかにひそめただけで、淡々と告げた。「構わない。新しいのに替えればいい」そのスマホは、ほとんど家族との連絡のためだけに使っていた。天野家の人間はメッセージを好まず、送ってくるのはせいぜい紬くらいのものだ。だが、紬のことはいつだって重要ではなかった。帰り道、芽依と悠真はずっとはしゃいでいた。芽依が成哉の服の裾を掴み、甘えるように見上げる。「パパ、数日後に
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第3話

次の瞬間、成哉はすでに電話を切っていた。フロアから天井まで続く窓ガラスに、成哉の完璧なまでに整った顔が映っている。その目元には、かすかな翳りが漂っていた。彼は新しく買い替えたスマホに視線を落としながらも、結局は一番上にある番号へかけ直すことはなかった。あの日、寺でスマホはカードごと無残に壊れてしまったのだ。本来なら、そのことを紬に知らせるつもりでいた。彼女は、どうあっても彼の妻なのだから。だが、ここ数年の手厚い扱いが、この女の生意気をわずかに増長させたのかもしれない。成哉は紬に一度、痛い思いをさせるべきだと考えていた。紬はそんな成哉の思惑など露ほども知らなかった。一晩ぐっすり眠り、翌朝には天野グループに出向いて退職届を提出した。辞職の手続きは驚くほど滞りなく進んだ。そもそも、成哉が彼女に与えたのは、ただの小さな肩書きに過ぎず、社内の誰一人として紬の素性を詳しく知る者はいなかった。そのため、業務の引き継ぎさえ終えれば、彼女は静かに会社を去ることができた。紬が辞職を申し出たと知った同僚は、思わず感嘆の声を上げた。「子どもたちの面倒を見るためでしょ?四、五歳って親から離れられないし、ほんと甘えん坊だものね。それに、あなたはあの子たちをすごく大事にしてたじゃない。デスクに写真を飾ってたし、ネックレスにも入れてたでしょ?」紬はふと手を止めた。彼女は成哉を深く愛し、そして当然ながら、二人の子供たちも心から愛していた。たとえ遠く離れていても、芽依と悠真のことはいつも胸にあった。ただ……紬は首を振り、やわらかく笑った。「あの子たちとは関係ないわ」その言葉は紬の本心だった。天野グループは大手で海外とも取引があるが、扱うのは建材と不動産ばかりで、紬の興味とは合わなかった。以前は成哉の妻として、天野家の事情もあって仕事にこだわりを持つ余裕などなかった。しかし離婚を選んだ今、自分自身のキャリアをあらためて考え直さねばならない。紬はスマホの画面に映るイベント告知──「和香百景」に目を留めた。香道、煎茶。そして……現代の感性で味わう「和」の美学。胸の奥がふと浮き立った。紬はしばし考え、いとこの綾瀬亮(あやせ りょう)にメッセージを送った。【このチケット、何とか手に入れてく
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第4話

紬は、娘が病気になっていたことをまるで知らなかった。それでも日曜日になれば、二人の子どもにビデオ通話をかけようと思った。紬はやはり母親であり、たとえそこに深い愛情がなくとも、果たすべき責任と義務はある。電話をかけた時、芽依と悠真は、望美がイブニングドレスを試着するのに付き添っていた。二日後には、崇が退院する。本来なら、崇が退院した後は成哉が新浜に留まる必要はなく、海原に戻って事業の版図を広げ続けるはずだった。しかし海原へ帰ることを思うと、芽依と悠真はどうにも名残惜しい。二人とも、そんなに早く母親に会いたいとは思っていなかった。ましてや、望美さんと離れたくなかった。子どもたちがしょんぼりしているのを見て、望美は笑いながら二人の頭を撫でた。「さて、二人とも、どうしてそんなに浮かない顔をしているのかしら……?」一呼吸おいて、またわざとらしく言う。「海原に帰るからじゃない?ママに会えるんだから、本当は喜ぶと思ったんだけどな」その言葉に、芽依の目には涙が滲んだ。小さな唇を尖らせ、思わず呟く。「ママに会って何が嬉しいの?望美さんと離れたくないもん」悠真もこくりと頷いた。彼は少しだけ母親に会いたい気持ちもあったが、それ以上に望美と離れるのが辛かった。「そっか……じゃあ、いいニュースを教えてあげる」望美はわざと少し間を置き、口角を上げて告げた。「私、海原で仕事があってね。しばらく海原にいることになるかもしれないの……だから今回は、私もあなたたちと一緒に海原に帰るわ!」「本当?」芽依はぱっと顔を輝かせ、歓声を上げた。望美さんが一緒に帰ってくれるなら、ずっと会える――その考えが胸いっぱいに広がった。ちょうどその時、紬から電話がかかってきた。スマホのビデオ通話の着信音が続けざまに鳴り響き、芽依はわざと少し待ってから通話を切った。紬は何度もかけ直してきたが、やがて芽依は痺れを切らし、紬をブロックリストに入れてしまった。望美は笑いながら芽依の頭を指先でつついたが、叱ることはなかった。「芽依ちゃん、どうしてママの電話に出ないの?」「一昨日、わざと私に電話してくれなくて病気になっちゃったんだもん。ママ、意地悪だから、もう知らない!」芽依は唇を尖らせて言い放った。――どうせ二日後には海原へ戻る。これからはずっとママに会える。もしママは自
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第5話

紬はその言葉にそっと顔を上げ、展示された作品へと視線を向けた。長いまつげがわずかに震える。美咲は眉を軽く上げ、楽しげに言った。「神谷商事はここ二年、宝飾品からアパレルまで、新しい和風スタイルのデザイン開発と提携に力を入れてるの。それって、まさにあなたの得意分野じゃない。紬、戻ってきなさいよ」美咲の口にした神谷商事という名を、紬はもちろん知っていた。近年急成長を遂げ、特に実業界での存在感は群を抜いている。その御曹司・神谷雅彦(かみや まさひこ)は若くして辣腕を振るい、冷酷非情とさえ噂されるほどの先見の明で有名だった。美咲が神谷商事と手を組み、新しい和風スタイルの道を切り拓こうとしていることに、紬は驚かなかった。ただ……自分は果たして、もう一度デザインの世界へ戻れるのだろうか。思考の淵に沈んでいた紬の耳に、不意に遠くから天野凛花(あまの りんか)の冷ややかで傲慢な声が届いた。「紬さん?お母さんのお世話もしないで、こんなところで何してるの?」凛花は成哉の妹であり、帝大が誇る才媛として知られていた。紬が天野家に嫁いで以来、凛花は終始紬に冷たく当たってきた。彼女は、男に頼って家庭に収まるだけで、実際には何の取り柄もない女――すなわち紬のような女を、心の底から嫌っていた。紬もまさかここで凛花に出くわすとは思っていなかった。彼女は多くを語らず、ただ「ちょっと寄っただけ」とだけ答えた。「展示されてる作品は芸術的価値の高いものばかりよ。たとえ一番ありふれたデザインだとしても、あなたに理解できるような代物じゃないわ。お兄ちゃんと悠真くん、芽依ちゃんがもうすぐ帰ってくるんだから、そっちに集中したら?」凛花の声音は冷え切っていた。彼女にとって紬は、高学歴でデザインの才能があると聞いてはいたが、所詮は無名の人間にすぎない。男に頼ることしかできない女に、何の価値があるのかと、常日頃から見下していた。しかし紬は、その場で呆然と立ち尽くした。成哉が、海原に帰ってくる?指先がかすかに丸まり、胸の奥に苦いものが込み上げる。離婚するつもりでいるのに、彼は子供たちを連れて帰ることさえ、自分には一言も知らせたくないのだろうか。成哉にとって、自分はもう取るに足らない存在なのだ。凛花は、紬と話す価値などないと判断
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第6話

成哉の視線が部屋をゆっくりと走り、瞳に落ちる陰りは、時間とともに深さを増していった。しばし沈黙の後、彼はすぐには頷かなかった。その間に、望美が芽依の小さな手をそっと取って、気遣うように柔らかく言った。「ありがとう、芽依ちゃん。でも大丈夫よ。私はどこでも平気だから。もし紬さんが嫌なら、私のほうが出ていくわ」そう告げた瞬間、ガラス玉のような彼女の淡い瞳に、ちょうどよい塩梅の寂しさが掠めた。「だめ!」「だめだよ!」焦りを帯びた二つの子供の声が、同時に空気を震わせた。悠真の幼い顔が悩ましげにゆがむ。ママに会いたい気持ちはあるけれど、ママがいつ帰ってくるのかは分からない。それなら、せっかく帰ってきた望美さんを、一時的にママの部屋に泊まらせるくらい……きっと大丈夫なはずだ。「望美さんは絶対に残らなきゃ!ママはケチなんだから、出ていくべきなのはママのほうよ!」ママのことになると、芽依の小さな頬はふくれっ面になる。ママはもうここにいないくせに、どうしてまだみんなに迷惑ばかりかけるの?芽依は成哉の袖を強く引き、懇願するように見上げた。「パパ、何か言ってよ!あの部屋はもともと望美さんのだったんだから、パパは望美さんのことが一番好きなんでしょ?」望美は耳の先をほのかに赤く染め、恥ずかしそうに芽依の口をそっとふさぎ、柔らかく声をかけた。「芽依ちゃん、もういいの……どうしてもだめなら、私、芽依ちゃんと一緒の部屋でいいから」「いや、それはできない」成哉はわずかに眉を寄せ、迷いのない口調で言った。「望美に芽依との相部屋を強いるなんてありえない。君を子供たちの世話役として呼んだのではないから」望美は白くほっそりとした首を上げ、赤みを帯びた澄んだ瞳で成哉を見つめた。「大丈夫……私は辛くないわ」その姿に、成哉はひと瞬きした。かつてのあの少女の面影が、不意に目の前の彼女に重なったのだ。気づけば、成哉の手は望美の頭に伸びていた。「部屋ひとつのことだ。泊まればいい」紬が戻ってきたら、自分と同じ部屋に住まわせればいい。フッ、それくらい紬にとっても都合がいいだろう。そうして、成哉が最終決定を下した。「イェーイ!」芽依は二人の手を左右に取り、歓声を上げてぴょんと跳ねた。ママなんて、永遠に帰っ
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第7話

紬は全身から一気に血の気が引いていった。冷えきった指先で震えながら娘へ電話をかける。ただ一つ、何が起きているのか、それだけを確かめたかった。電話先では、芽依がぬいぐるみを抱え、望美に寄り添って写真を撮っていた。着信画面に表示された名前を見ると、芽依は小さく眉をつり上げ、瞳に不機嫌な影を落とす。着信音はしつこいほど鳴り続けたが、望美が柔らかい声で言った。「芽依ちゃん、ママから電話よ。出なくていいの」芽依はぷいと首を振る。「ママって超うざいんだもん。出たらまた根掘り葉掘り聞かれるし、絶対イヤ」そう言って、鳴り止まない電話を容赦なく切った。そして振り返りざま、悠真に文句を言う。「お兄ちゃん、だからママを着信拒否のままにしとけばよかったのに。ほら見て、ちょっと外しただけでガンガンかけてくるじゃん。お兄ちゃんは何ビビってんの?」「ビビってなんかないよ!ただ、ママが言い忘れたことでもあるかと思っただけだし。それに、拒否外したのは芽依ちゃんだよ」強がった声とは裏腹に、悠真の表情には妙な苛立ちが浮かんでいる。――まったく、ママは少し時間を置いてからかけてくればいいのに。これじゃ僕の立つ瀬がないじゃないか。芽依は唇を尖らせ、突き放すように言った。「ママが言い忘れるわけないじゃん。一回話し出したら止まらないんだから、うるさいって」新浜にいた頃、紬は毎日決まった時間に二度電話をしてきた。朝食時に一度、夕食時に一度。細かな衣食住に至るまで、まるで息をするようにあれこれ口を出してきたのだ。最初はママと離れたばかりで心細く、二人も決まった時間に電話を待っていた。だが、成長するにつれて自分たちの世界ができ、望美がそばにいてくれるようになると、次第に電話が重荷になっていく。一日二回が一回になり、通話時間は十分にも満たなくなった。そしてここ二日間、芽依はついに直接着信拒否にしていた。紬の手の中で、スマホの画面はゆっくりと暗転していく。それと同じように、胸の奥に灯っていた微かな光も、音もなく消えていった。自分は、いったい何を期待していたのだろう。突如、紬は激しく咳き込み、鮮血を点々と吐き出した。運転手は顔を青ざめ、アクセルを踏み込み、最寄りの病院へ急行する。一方その頃、新居では――望美との撮影を
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第8話

海原の雨は一晩中降り続き、手術室の灯りは点いては消え、また点いた。夜が明ける頃、紬は重たいまぶたをようやく持ち上げたが、全身を焼くような痛みはまだ収まっていなかった。「天野さん、ウイルス感染ですね。幸い、運ばれてくるのが早かったので何とか助かりましたが、もう少し遅れて肺炎を起こしていたら命の危険がありました。昨日、ご主人に連絡を試みたんですが、何度かけても繋がらなくて……最後は携帯の充電が切れちゃったんです。早めにご連絡してあげてくださいね。ご家族、きっと心配してますよ」薬を替えに来た若い看護師が、耳元で小言をこぼしながら、充電の終わったスマホを紬に手渡した。紬はその言葉にも微動だにしなかったが、胸の奥には苦いものが溜まっていく。口元を無理に引き上げて微笑む。「ええ、ありがとう」あの四人家族は、今も仲睦まじく暮らしている。紬の電話に出る暇など、あるはずがない。紬はスマホの電源を入れた。画面が明るくなり、成哉からの不在着信が瞬時に目に飛び込んでくる。紬は一瞬固まった。その刹那、芽依のために設定していた専用の着信音が病室に響いた。芽依に何かあったのでは――そう思うと胸がざわつき、紬は慌てて電話を取った。「もしもし、芽依ちゃん?どうしたの……」「ママ」その冷たい一語が、紬の声を容赦なく遮った。「ママのせいで、望美さんが死にかけたってわかってるの!?」紬は呆然とした。「……芽依ちゃん、何を言ってるの?」芽依の声は怒りに震え、さらに鋭さを増した。「お医者さんが言ってた!望美さんはママの服を着たせいで、ヨモギのアレルギーが出たんだって!パパが徹夜で看病して、やっと助かったんだよ!ママがパジャマにヨモギを焚きしめたりしなければ、望美さんは危険な目に遭わなかった!この人殺し!どうして病院に運ばれたのがママじゃないの!?」その言葉は、紬の胸の奥を錆びた刃物でゆっくり切り裂くようだった。ヨモギの香りがする服……芽依も悠真も体が弱かった幼い頃、漢方で体を整えていた。ヨモギの香りだけは、あの子たちが唯一受けつける薬草だった。だから紬は、何年も自分の服にヨモギを焚きしめ続けてきた。薬も度を過ぎれば毒となる。紬も初めてその服を着た時、体にかゆみを伴う赤い発疹が出たことがあった。それでも子ども
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第9話

紬は看護師を呼んで点滴を換えてもらったが、その子は意識が朦朧とする中で人違いし、紬を掴んで「ママ」と呼んだ。「ありがとう、唯ちゃん」紬は少女が好意で差し出したティッシュを受け取り、ここ数日で初めて心からの笑顔を見せた。神谷唯(かみや ゆい)は、ぱっと小さな手で口元を覆った。「わあ、きれいなお姉ちゃんが笑ったら、まるで女神様みたい。絶対、たくさん笑ったほうがいいよ」紬は子どもの純粋な称賛に、さらにやわらかく微笑んだ。「残念だけど……パパにはもうママがいるんだ」唯は小さく頭を揺らし、ため息をついた。ふと何かを思いついたように、両目をきらきらさせる。「じゃあ、きれいなお姉ちゃん、私の叔父さんと結婚してよ!叔父さん、まだ奥さんいないの」紬は思わず目尻を下げ、小さな櫛で唯の髪を梳いてやった。「唯ちゃん、お姉ちゃんはもう結婚してるんだよ」唯はショックを受けたように顔を曇らせた。「え?きれいなお姉ちゃん、結婚してるの?そっか……こんなにきれいなんだもん、旦那さんがいて当然だよね。でも、なんでお見舞いに来てくれないの?ママが病気になった時は、パパ、一晩中寝ないでそばにいたよ」今回、唯が急に帰国して環境が合わず体調を崩して入院した時、両親はすぐに戻れず、叔父に世話を任せていた。ところが唯の父親は当てにならず、叔父が出張中であることすら把握していなかったらしい。昨夜は唯の祖父が食事を届け、付き添いのヘルパーを手配してくれたものの、すぐに家の植物の世話をしに帰ってしまった。紬の笑顔がゆっくりと薄れていく。頭の奥で、先ほどの娘の言葉が蘇った。昨夜、成哉は一晩中望美に付き添っていたはずだ。唯一の着信も、おそらく責め立てるためのものだったのだろう。唯はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせ、紬に髪を撫でられながら大人しくしていた。――きれいなお姉ちゃん、また悲しくなっちゃったみたい。旦那さんのせいかな?……VIP病室では、芽依と悠真が朝早くから望美の見舞いに来ていた。昨夜は遅すぎたため、成哉は子どもたちを連れてこられなかったのだ。二人とも望美のことが心配で、一晩中ビデオ通話をかけ続けていたらしい。「ママってば本当にひどいよ。電話したのに自分の間違いを認めないんだもん!許可もなくママの服を着た望美さん
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第10話

紬の視線が、成哉の冷えきった横顔をふわりと掠めた。「私が何でここにいると思う?」そう言い残し、紬は電話を切った。成哉の表情は険しい。「病気なら、どうして言わなかった?」紬が点滴スタンドを必死に持ち上げようとする様子を見るや、成哉は思わず手を伸ばし、支えようとした。だが紬はすっと身をかわし、自ら針を抜いた。「お気遣いは無用。自分のことは自分でできるから。病気なら、自分で医者にかかる」以前、紬がインフルエンザで全身の節々が軋むほど苦しみ、ベッドから一歩も動けなかったあの日。耐え切れずに成哉へメッセージを送ったとき、彼は何と言っただろう。「病気なら病院へ行け。俺に言ってどうする。医者でもないし、治せるわけでもない」成哉も、ぼんやりとその会話を思い出したようだった。だが、紬がここまで深く傷ついているとは思いもしなかったらしい。成哉の眼差しに、複雑な色が差した。「紬……俺に怒っているのか?」ちょうどその時、ドアの外の気配に気づいた二人の子どもが勢いよく飛び出してきた。病衣姿の紬を見た瞬間、ふたりは目を見開いた。「ママ、病気なの?」悠真は久々に会う母の姿に喜びながらも、驚愕が勝り、駆け寄ってその手を強く握った。いつも自分を叱るママは嫌だった。けれど、病気になるママはもっと嫌だった。芽依はその場に立ち尽くし、震える声でつぶやいた。「ママ……どうして病院にいるの……?もしかして、さっき私がママを呪った言葉が……本当に……?」幼い瞳が涙で揺れ、怯えの色が浮かぶ。その言葉を聞いた紬の胸に、ひどく冷たいものが走った。自分が命を懸けて産んだ子どもが、陰で自分の病気を願っていた。紬の声は静かで、しかし凍りつくほど冷たかった。「芽依、悠真……ママが一体何をしたの?どうしてそんなにママを嫌うの?憎むほどに」子どもたちは途端に泣きそうな顔になった。「悠真くん、芽依ちゃん……誰かに何か言われたの?」その時、病室から慌ただしい女性の声が響いた。望美がよろよろとベッドを降り、慌てて姿を現したが、「衰弱」した身体は廊下に出た途端、崩れ落ちそうになった。「望美さん!」芽依と悠真が叫び、真っ先に駆け寄る。一番近くにいた成哉がすぐさま望美を抱き留めた。「まだ病み上がりなんだ。ベッドで大人しくしてて
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