爽やかな笑顔でカラバーンの商店街を歩く。
「おはようレベッカ、早朝からお疲れ! 今日も調子いいのかい?」 ミュージカルのアンサンブルのような軽やかな足取り。肉屋の店主が私に声をかける。 「ええ! とても。まだ疲れてないわ」 「そりゃいい! うちでも働くかい?」 「遠慮しておくわ。予定があるのよ」 体の調子がとても良い。それはローズマリーのサロンに行ってからなの。血の巡りが良くなって、体の老廃物も吐き出された感じ。 体が軽くなると気持ちまで軽くなる。 だけどサロンに行った後は大変なことになった。 軽い脱水症状になり体も動かない。なので昼を過ぎてもアパートには戻らず、ずっとサロンでごろごろ横になっていたの。 夕方になり、アレックスの部屋をこっそり見ると……。 彼女は激しい貧乏ゆすりをしていた。目は宙を見てぶつぶつ言っている。かなりやばかった。 見なかったことにして、自分の部屋に戻ろうと思ったけど、そんなことできない。そっと扉を開ける。 初めてアレックスと会った夜のことを思い出した。 彼女を違法な薬の常習者と勘違いしたあの夜のこと- 「遅かったなぁ……どこまで油を売りに行ってたんだぁ?」 やはり私を待っていたんだ。 「アレックス……ごめん……なさい」 部屋に入った途端、アレックスを抱きしめるようにして、私は倒れてしまった。 それから夜なのか朝なのかわからないくらいぐっすりと寝て、目を開けたら目の前にアレックスの顔があった。昼寝ではなく、夕寝をしていたみたい。 「ア、アレックス?」 心配そうに私の顔を覗き込んでいて、手を握られていたの。今までそんなことを一度もなかった。 アレックスは涙を流して、私の手に顔をくっつけてきた。そして軽く手の甲にキスをした。 「………」 アレックスはなにか囁いた。 短い言葉。聞き取れなかったけど、綺麗な響きだった。花の名前か、人の名前のような……短い言葉だった。 そして夜なのに急に獣のように唸って、外に飛び出して行ったわ。 **** 「たっだいまー」 アレックスの部屋のドアを威勢よく開けた。 「気持ち悪いな。ニヤニヤしやがって」 一蹴される。一応、爽やかな笑顔なんだけど。 「なに見てんだよ」 「いいえ、別にぃ〜。はい、パンのお土産よ」 いいんだ、少しくらい雑に扱われたって。だってあの夜、アレックスは泣いていたもの。そして私にキスをした。 「アレックス、実はパンをこれから届けに行くの。だから一応許可を取ろうと思って」 「はぁ? 勝手に行けよ。子どもかよ」 「そうよね、勝手に行くわ。北のナイトブロックまで行くの。あっちの商店街でアレックスの服を買ってこようか? かわいい服を」 「いらねーって言ってんだろ………え?」 その地区にはアレックスの天敵がいる。 「ナイトブロック? ……て、まさか……」 アレックスはものすごく嫌そうな顔した。 アレックスはローズマリーとあの夜、激しい喧嘩をしたらしい。 なんだか動揺してる? アレックスはよろめきながらキッチンに行くと、蛇口を強く捻った。水が出ないのはいつものこと。バンバンと蛇口を叩く。 「くそっ。お前は召使いのくせに、あたしよりいい部屋に住みやがって。水が出ない!」 「アレックス、水はすぐ出るから落ち着いてよ……そう。ローズマリーのとこ-」 次の瞬間、水が勢いよく出て、シンクにあったスプーンに直撃した。 「キャーー!」 「おおっ!」 スプーンで水が跳ね返り、噴水のように盛大に飛び散る。 「ちょっとー、早く止めて!」 すでにキッチンはびしょびしょで、アレックスも派手に濡れてしまった。 灰色の大きなシャツを着ていたが、濡れると体のライン、豊満な胸にシャツがぴったりと張り付いた。 「……アレックス、服、着替えないと」 アレックスはその場でシャツを脱ぎ捨てた。私は慌てて目をそらす。 ちょっとぉ……平気で上半身裸になるんだから。恥じらいを持ってよ。こっちが恥ずかしくなっちゃうじゃない。 「早く着ないと風邪引くわ!」 私はタオルを投げつけた。 「一緒に行く」 「……え?」 「あの女に用があるんだ」 …………波乱の幕開けだわ。 困った。今日、ローズマリーの家にパンを届けに行くのだけど、ついでにお茶会をしようって誘われている。自室に戻って荷物の整理をしていた。 アレックスが一緒に行きたいって……。絶対喧嘩するよなぁ。どうしたものか……。 そのとき外から声が聞こえた。 「おーい、レベッカ! 聞こえるか?」 通りに配達屋の馬車が来ている。彼らは荷物や手紙の配達、伝言を伝えてくれる。 顔見知りになると、外から大声で伝言の内容を伝えたりもする。もちろん許可があるときに限るけど。 隣近所に当然聞こえてるので、玄関まで来て欲しいところだけど、彼らも忙しいから仕方ない。 私は、度々アレックスの荷物や伝言を受けているのだ。 「おはよう。なにか荷物?」 「いや、珍しくレベッカに伝言だ! パンの配達、できたら一時間早く来てほしいだと」 珍しくって……まるで私に友達がいないみたいじゃないの。まぁ、ほぼ当たってるけれど……なんて考えている場合じゃない。ローズマリーの伝言。 急がないとまずいじゃないの! 職場の白いシャツ、黒いズボンを慌てて脱ぐ。ズボンは小麦粉がたくさん付着しているわ。 「服、どうしよう……」 私には服のセンスがないってアレックスは言うの。でも体を覆うトゥニカは着ていて楽だし、安心できて好きなのだが。 鏡の前に立つ。身体にメリハリがないからおかしいのかしら? すとんとしたトゥニカでも、アレックスが着たら胸が強調され、ウエストはくびれてかっこいいだろうな……。 ガンガンと強く扉がノックされる。アレックスだ。配達屋の声を聞いたのね。 「レベッカ! 早く行くぞ!」 「え? もう? ちょっと待ってよ!」 まだキャミソール姿なんだから! **** カラカラカラと、木々のぶつかり合う音。森の中にいるようでかわいらしい。 竹で作られたウィンドチャイムだ。前のときと違う音だわ。日によって違うのかしら? 翡翠《ひすい》色のワンピースを着たローズマリーは今日も美しい。私を見ると、ふんわりとハグをしてくれて、甘い香りに包まれた。 「久しぶりね〜。レベッカ、会いたかったわ」 「ローズマリー、この前は迷惑をかけました。次の日はパン屋の仕事場まで手伝ってくれて」 「あの状態で、次の日に早朝の仕事なんてさせられないもの〜」 「ありがとうございます」 私は丁寧にお辞儀をした。 「いえいえ、こちらこそ。ごめんくださいまし……あ、フーガス! 本当にこれ美味しいのよね。葉っぱの形がかわいらしいし」 「パンのお代はいらないそうです。この間のお礼なので」 袋に入った三種類のパンを手渡す。ハーブやオリーブの香りが漂う。 「まぁ、まだ温かいわ! それにいい香り」 ローズマリーは子どものように目を輝かせた。 「パンを作るのにどれだけ労力がいるか改めてわかったわ。レベッカ、お金は受け取りなさい」 そう言いながら背中をそっと押され、家の中に促された。 「そこのワンちゃんも入っていいのよー」 ローズマリーが庭の方に話しかけた。 犬? 「……言葉には気をつけろよ……」 遠くにいたアレックスが、いつの間にか私の真後ろに立っている。三白眼でローズマリーを睨む。 怖すぎる。それを見たローズマリーはにっこにこの笑顔。 いや……怖すぎます。 「……さて、お茶にしましょうよ。アレクサンドラ、あなたもね」 「アレックスだ」 「……あ、そうでしたっけぇ?」 ローズマリー、わざとよね? わざとアレックスを怒らせてる? 「アレックスも今日は一緒に来たいって言って。大丈夫ですか?」 ローズマリーはカトラリーの準備をしている。 「もちろん。人数が多いほうが楽しいわ! 天気もいいし、テラスでお茶にしましょう」 「いいですね! これ、運びます」 「めんどうだな」 文句を言うアレックスを軽く小突いて、テーブルの上の三人分のお皿やナフキンを運ぶ。 あれ? アレックスは急遽参加したのに、ナフキンがちゃんと三人分用意してあった。 不思議に思いながらも、私はローズマリーの後を追った。 アレックスから香りの強い飲み物は却下され、紅茶はアールグレイになった。それにフーガスを添えて私たちのお茶会が始まった。 「美味しい! 蜂蜜とシナモンを少し加えるとこんなに変わるんですね」 ローズマリーお薦めの飲み方。本当に美味しいわ。アレックスはなにも入れずにストレートで飲んでいるけど。 「おかしな臭いだな!」 言うと思ったわ。アレックスはシナモンの香りが無理そうよね。 「シナモンを入れると、オリエンタルな感じになるでしょ?」 ローズマリーは気にせず私に向かって微笑む。 「ええ…………オリエンタルな感じで」 「わかってんのかよ?」 アレックスに突っ込まれるけど、ローズマリーがすぐにフォローしてくれる。 「ふふふ、私だって本当はわかってないのよ」 ああっ、なんて優しいの。 私は気になっていたテーブルの上の封筒をローズマリーにそっと戻した。もらうわけにはいかない。パンの値段より多い額が入っているわ。 「オーナーにも言われてるんです。私の代わりに無償で働いてもらって申し訳ないと……」 「もう、私が勝手にやったことよ。その話はもうおしまいっ」 ローズマリーは私のサコッシュに素早くお金を入れた。 「レベッカ、くれるっつんだからもらっとけよ。お前の懐に入れとけばいいんだよ。パン屋にも黙っとけ。その女は狡猾な経営者だからな。引っ張れるところからは、金引っ張ってるから気にするな」 「ちょっとアレックス! なんてこと。あなたはなんの用事があって来たの?」 アレックスはなにも手伝わず、フーガスを片手に芝生に寝転がった。 なんなのよ、全くもう。アレックスの細い脇腹から背中にかけて、紫の大きな痣と、その中央に刺されたような傷があった。刺し傷の方はほぼ治りかけてはいたけど。 「酷い怪我じゃない?! 馬車にでもはねられたみたい。病院は? ていうか、いつからなの? なんで言ってくれないの?」 とにかく捲し立てる私。 「なんで……」 「レベッカ、落ち着けよ。たいしたことない。この仕事をしていれば、こんなこともあるんだ」 「そうかもだけど……」 そうかもしれない。でも……どうして言わないのよ。たいしたことじゃないことばかり頼むくせに! ハッと私は息を止めた。 つい最近ローズマリーが、私に似合う香油があったと、急に訪ねてきた。 どことなく不自然だった。 そのとき私は、仕事で肘を少し擦りむいていた。ローズマリーは傷によく効くヨモギと毒ダミの塗布薬を持っているからと、私の肘に塗ってくれたわ。 あの独特の香り……そう。アレックスの部屋でもここ最近、同じ匂いがしていたの。アレックスは花の香りは苦手だけど、薬草とか薬味は大丈夫なのを知ってたから、疑問は特にもたなかったけど……。 「……ローズマリーは知っていたの?」 「なんのことだ?」 「その怪我よ!」 「どうでもいいだろ?」 どうでもよくないわ! どうでもよくない! だって! …………だって………。 なぜ、どうでもよくないの? そ、そうよ! そっちは私がサロンに行くときも、熱を出したときも、めちゃくちゃ怒ったじゃない。理不尽なくらいに。 だから私だって怒るわ! 「あ……そうだ。それよりも前……ジョーイが行方不明になった夜。アレックス……次の日の昼に帰って来たわよね?」 「そうだったか?」 「ええ。でもジョーイが、さっき言ってたじゃない。すぐにアレックスはいなくなったと……頭が痛いからって。ジョーイを引き渡したのは夜中。それから次の日の昼近くまで……一晩中どこにいたの?」 アレックスはあの夜、山で怪我をしたに違いない。だってあの日以来、私の前で洋服を脱がないから。 あの夜、夜間病院か………それとも……。 「ローズマリーのところにいたの?」 黙っている。アレックスは目をそらした。ほんとわかりやすいわ。これは肯定。 もし間違っていたら……あぁ? なに言ってるんだ。とか言うも
さて……と呟いて、アレックスは子供たちが出ていった扉から目を離した。「悪い悪い。今度は使いをよこすから、ここに来る前に連絡をくれたらいい」 私は怪訝な顔をする。「使い?」「こちらがレベッカ……俺の召使いだ」 アレックスが私を指差した。 私? 私だって予定はいろいろあるのよ? そして召使いって紹介はやめて。「ふん、……いい気なもんだ。使いねぇ。こんなのっぺり顔の貧相な女、まっぴらごめんだえ」 はぁ?! 聞き間違えたのかと思うほどの暴言。「なっ、こっちの台詞よー! もっと可愛らしいご婦人なら喜んで行くわよ」 こんな婆さん嫌よ! と言い放ち、私は腕を組んでプイッと横向いた。「型遅れのワンピースを着た娘と一緒に歩きたくはない。こっちからお断りだぇ」 なんですってー! かなり傷付いた。お気に入りのトゥニカなのよ!「大切な人からもらった服なんです!」 婦人を魔女と言って、叫んだ事は棚に上げ、傷つく私。「レベッカ、年配者には敬意を払え。いつも言ってるだろ。すみませんねえ」 なによ偉そうに。だいち、ここは私の部屋よ。やっぱり出て行ってもらおうかしら!「クックックックッ」 突然、ガチョウのような声で婦人が笑った。彼女は笑いをこらえ、丸い腰を震わせている。「相変わらずだね、アレックス」 婦人が顔を伏せたまま、太いしゃがれ声を出す。まさかアレックスと知り合いなの?「いや……アレクサンドラえぇ。俺と言うのはやめろと教えただろ?はしたない」 アレックスはふぅとため息をついた。婦人はうなだれた頭を持ち上げる。企んでるような……それこそ魔女のような顔で、アレックスを見つめていた。 アレクサンドラと呼ぶ人がいるのね。この街の人はアレックスと呼ぶのに。「もう猿芝居よせよ」 アレックスはため息をついた。 婦人はにたりと笑う。アレックスは人から恨みも買っていそうだけど、こんな小さな老婦人とトラブルはないわよね?昔からの知り合いっぽいし。 私は気を取り直して、キッチンに向かった。「あの、紅茶入れてきますね」「お嬢さん、できたらバターたっぷりのスコーンも付けてー」 背後で地鳴りのような音が聞こえ、私は思わず身を屈めてしまう。 振り返ると、アレックスが婦人を締め上げていた。 えええええ!?「ふざけるなよ」 私は目を疑った。重たいソファー
子供たちのアップルティーが空になった。アレックスは、時計と彼らを交互に見て私に合図をする。 「はい、これでおしまい! さあ帰りなさい」 ごねるライチとジョーイの背中を押しながら、扉へ向かった。そこへちょうど呼び鈴が鳴る。 ジョーイが焦った。 「まずい……お母さん迎えに来ちゃった!」 「ほらね、言ったじゃない」と私。 「確認してから開けろ」 アレックスの声とほぼ同時に、はーいと言って私はにこやかにドアを開けた。 一瞬にして凍りついた。 ライチが大絶叫。その声に反応し、私とジョーイも玄関で尻もちをつき、ひっくり返ってしまう。 「ま、ま、まっ、魔女ー!」 ライチが叫ぶ。私たちの目の前にいるのは、白と黒が半分ずつ入り混じった長髪のチリチリ髪……。 「裏山から、ま、魔女が下りてきた!」 髪で隠れて顔がわからない。ジョーイはガタガタ震えている。 魔女? は腰が曲がっていて、真っ黒いローブを着ている。 「助けて……子供たちだけは……食べないで」 魔女から目が離せず、前を向いたまま子供たちを庇った。後ろを向いたら、そのすきに喰われてしまうわ。 怖がりのジョーイは、奥の扉にまで這いつくばると、扉を開けようしたよう。 「開けるな!!」 アレックスが怒鳴る。ジョーイはヒッと言って固まってしまう。 「アレックス商会はこちらかぇ?」 「キャー、魔女がしゃべったー!」 「…………いや、すまんが、アレックス商会で間違いはないかぇ?」 意外と流暢な話し方の魔女だわ。 「魔女なのに探し物は探偵に頼むの?」 ライチが震えながら質問すると、全員が黙った。 「なんなんだい……私みたいな貴婦人を3階まで上らせ、留守のときは下の階に来いとは! 老体に鞭打って上ったり下りたり。そしてこの対応かい?」 「あ、あなたはもしかして、人間ですか?」 ジョーイがひょっこりと顔を出す。 「あんたバカかい?」 「いいから入ってもらえ。客だ」 えーー!と子供たち。 アレックスは一人落ち着いている。私たち三人は死ぬほど驚いていたのに。 「あ……。アレックス、案内を出してるのね。こっちに来るように」今この婦人の発言でわかったわ。 アレックスが私の部屋でくつろいだり食事をしていると、アレックスの依頼人が私の部屋に来るの。ライチ
闇に包まれた森の中で、満月は手元を照らし、太い幹にロープを頑丈に巻きつけることができた。 アレックスは、大きな平たい石の割れ目にロープを垂らして降りていく。 岩の割れ目は、雷が落ちて真っ二つに割れたように鋭い。「おい、聞こえるか? 痛っ……クソッ。いるんだろ?」 アレックスはさらに慎重に降りた。「ここだよ……」 子供の声と小さく唸る獣の鳴き声。「マカロニ、静かに……誰なの?」 茶色にくせっ毛の犬を抱きしめた少年が、裂け目の途中、平らな部分に座っていた。 アレックスは優しく犬を撫でる。「あぁ……お前もここにいたのか。俺はアレックス、探偵だ」「落とし物をして山に入ったら……道を間違えてどんどん奥に進んじゃったみたい」 少年は青ざめた顔をしているが、元気そうだった。アレックスの顔をまじまじと見つめる。「犬の声がこの岩から聞こえてきたの。助けようとしたら僕も落ちちゃって」「お前は怪我はしてないか?」「うん。でもマカロニが……お腹空いてるんだよ」 犬は静かに震えていた。最後の力を振り絞り、アレックスに唸ったのだ。「ジョーイ、親父さんが心配してる……ほらマカロニ、こっちだ。随分と探したぞ」 アレックスは衰弱している犬、マカロニをそっと両手で包み込んだ。何度か頭を撫でると目を閉じて眠り出した。「……アレックスって男なの? それとも女の人?」「……今はどうでもいい。さぁ、登るぞ」 真夜中……ウィンザー通りに犬を抱えたジョーイと、組合の男たちが笑いながら戻ってきた。 母親は、ジョーイを見たと同時に堪えていた涙が一気に溢れ出た。涙を拭うことも忘れ、少年を強く抱きしめた。*****数日後、ライチとジョーイがアレックスの部屋ではなく、なぜか私の部屋にいた。「アレックス!この苺、すごく甘いわ」「でしょでしょ!」 ライチは自分が褒められたように満面の笑顔。八百屋の息子のジョーイは、野菜と果物を持てるだけ持ってきた。アレックスの要望で報酬が果物と野菜になったらしい。これはかなりありがたいわ。運ぶ手間もなくなったし。「通りのみんなには、ものすごーく怒られたよ」「当たり前だ」アレックスに一蹴される。「でもマカロニを探してくれたから許してくれたよ」ジョーイは恥ずかしそうに言って頭を掻いた。私たち四人はジョーイの差し入れてく
アレックスが出て行って、私は少女の手を握った。 「ライチ、ここまで一人で来たのね? あなたになにもなくてよかった」 「子供は絶対家から出るな!って、言われたけど……レベッカの話を思い出したの。あたしは約束を破ってここに来た」 「わ、わたし?」 「レベッカ、アパートに変な探偵がいるって言ってたでしよ?腕はいいけどって」 「ええ、馬車の中で言ったわね」 「ウィンザー通りにもね、探偵がマカロニ……犬を探してた。変人だけど腕はいいって大人たちが話してた」 「そうだったの……よく思い出したわね」 ライチ、なんだかすごい子だわ。そしてやっぱりアレックスはおかしな探偵なのね。 * **** 学校の裏山の入り口に、大勢の男たちがランプを手に集まっていた。 「狼か?」 低くて長い遠吠えが遠くから聞こえた。その声は恐ろしいような美しいような……調和したハーモーニーのようにも聞こえる。 「大丈夫だ。ずいぶんと山奥からだ」 「ああ……山に反響して、近くに聞こえてるだけさ」 「ああ。狼に遭遇したなんて聞いたことがない。さて……ジョーイを見つけるぞ! 東側にはいなかったんで、次は手分けして西を探すぞ」 ウィンザー通りの組合の男たちや、ウエストリバーの教師たち。ロープやシャベル、刺股などを持ち出している者もいる。 「悪いな……あのアホタレが」 ジョーイの父親は皆に頭を下げる。 「今夜は雲もない。満月も綺麗に出ている。きっと見つかるさ」 恰幅のいい男が、ジョーイの父親の肩に手をポンと置く。 「こんなときはお互い様だろ」 「なぁ、アレックス商会の兄さん見たか?」 全員が横に首を振る。 「いや。声かけたのかい?」 「いいや。急に現れてな。あの探偵、ジョーイの部屋を見てきたって言ってたなあ」 「部屋を? 意味あるのか?」 シャベルを持った男は首を横に振る。 「あいつ動物専門だ。うちの犬、まだ見つからないみてぇだけどな。まぁ、今はいい。休憩も済んだし、俺たちもおっぱじめよう」 適当なことを各々ぼやき、男たちは獣道に再び進んで行った。 同時刻、学校の裏山を一匹の大きな獣が駆け抜ける。見たことのない紫黒色の毛並みは月の灯りで輝いてみえた。大きな耳と口。 真っ赤に光る眼- 狼だった
世の中には、たくさんの謎があると思うけど、ここ最近の一番の謎は…………。 アレックスにキスをされたこと……。かなり強引に。 ロマンチックな場所ではなく、人様の庭で。二人きりでもなく、ローズマリー、マーゴ(気絶中)そしてルイという紳士の目の前で。 普通じゃない状況だった。だけど失意のどん底だった私は、幸せの真ん中にいるような気持ちになったの。 なのに……。 アレックスは断固キスはしていないと言う。 キスじゃないなら、なに? そして今さらだけど、召使いの契約っていつまで続くのかしら? 今だって、ベランダにいた私を見つけ、そのまま私の部屋に不機嫌になだれ込んできた。「おいレベッカ、八百屋と鍛冶屋が角にある通りあるだろ?」「ウィンザー通り?」「そうだ。八百屋から三軒目の犬が逃げて見つからなくてな……」 私の部屋で唯一自慢できる革製のソファーに、アレックスはどかっと腰かけた。男のように足を開いて、左足でガタガタと貧乏ゆすりを始める。彼女の癖だ。 私は彼女の横に腰をかける。「どんな種類の犬なの?」 アレックスは、私の髪をくしゃくしゃにしながら-「お前みたいなくせっ毛の茶色の毛並みで、かわいげのない犬」「はい?」「そうだ。レベッカに似て目が離れてるんだ」「またそうやって、やめてよ!」「…………もう死んでるかもな」 アレックスは変わり者で、近寄りがたい性格だ。だけど探偵の腕はいいみたい。 この間も発見した猫と犬が一匹づつ部屋にいて騒がしかったし、アレックスも機嫌がよかった。 死んでるかもなんて………… 一番悲しむのはアレックスでしょ。「今している仕事はそれだけ?」 「それだけとはなんだ。こっちは呑気に粉を練ってるわけにはいかないんだ」 私は持っていたポットをシンクに音を立てて置いた。「おい、レベッカ。物に当たるな」「当たってないわ」「当たってるだろ、どう見ても!」 フン、とアレックスは鼻を鳴らす。「……わかったわ。呑気と言われて頭にきたので、八つ当たりしました。じゃあ、言わせてもらいますけど、アレックスだって私にキスをしたわ。どう見ても!」 参ったかとばかりに私も言い返す。「またその話か。いいからなんか食べ物くれよ」 はぐらかすのはそっちよ。「パンケーキがあるんだけどぉ〜。一口もあげないんだか