それから私は、洗顔を済ませて、ベッドで目覚めの紅茶を頂いてから身支度をして、お父様と朝餐を共にする為に食堂へ向かった。
「おはようございます、お父様」 「ああ」 「……」 朝餐は静けさに包まれていたわ。お父様は元から口数の多い人ではないけれど、今朝は特に寡黙だった。 多分、午後には異母兄妹の事で私に話さなければならないから、それで会話もしにくいのでしょう。 私はというと、お父様に悪印象を抱かせない振る舞いを心がけて緊張したわ。正直、朝食を味わうどころではなかった。 「──では、私は先に仕事へ向かう」 お父様がナプキンで口もとを拭い、席を立った。私は何も知らないふうを装って微笑みを浮かべた。 「はい、お父様。お仕事お疲れ様です」 食堂に取り残されて、思うのは一つよ。 ベリテと名乗った彼を召喚する事。時空を司ると言っていたから、それを可能にする力を持つ──悪魔かしら? 今ならまだダリアがいないから、悪魔を召喚しようとしても邪魔されないわ。 書庫には召喚に必要な魔法陣やベリテについて書かれた書物も、きっとあるはず。何しろ過去の私が召喚に必要な書物を読んで、試してきたのだもの。 もっともそれは、ダリアが先に悪魔を召喚していたから、全て徒労に終わった挙げ句の果てに処刑台へ送られる事になったけれど……。 それにしてもダリアは、どのタイミングで悪魔と契約するのかしら? 悪魔に関する書物は禁書よ。どこの屋敷の書庫にでも置かれているものではないわ。 「……公爵家に来てからかしら」 「お嬢様、何か?」 「何でもないのよ。お茶のお代りをもらえる?」 「はい、かしこまりました」 危ない、思わず呟いていたわ。どんな一言も下手を打てば命取りよ。気をつけないと。 でも、子爵家ごときの書庫にあるとは思えないわね。しかも一人娘を嫁がせず愛人にさせたような家よ。 前世では「貴族とは名ばかりの貧しい家」と聞いた記憶もあるし、だから尚さらダリア達を蔑んで毛嫌いしたのだもの。 ……それなら、まだダリアには先を越されてはいないわね。私でも悪魔を召喚出来るわ。 「ご馳走様。私は書庫へ行くわ」 「かしこまりました、お一人で調べものをなさりたいのですよね?どなたにも立ち入らせませんので、ご安心を。ですが、旦那様にお会いする時刻はお忘れなきようお願い致します」 「ええ、大丈夫よ。お父様が執務室に私を呼ぶだなんて、きっととても大切なお話ね。きちんと時刻を守るわ」 言っていて白々しい気持ちになるわね。でも、今は気にするより行動に出てベリテを召喚しなければ。 書庫の中でも、普段滅多に使われない禁書の類を置いた棚は埃っぽい匂いがする。私は少しむせてしまい、手近な窓を開けてから書物に手を伸ばした。 ──前世で何度も私を破滅させた本。 でも、その気味悪さよりも、今度こそダリアを出し抜ける昂揚感が強い。 ページをめくって名前を探してゆくと、インクがかすれて読み取りきれないものの、それらしき名前を見つけたわ。 「……え?何を司る悪魔かさえ書いてないわ」 ベリテは時空を司るのよね?あの時見た相手に嘘がなければ。 なのに扱いが雑というか……名前の他に書かれている事は、大悪魔から怒りを買った事のみ。 本当に大丈夫なのかしら、信じても。でも、私はこうしてダリアが来る前に戻れているし。 それは何度生き直しても出来なかった事なのよ。それを可能にしたのは、やはりベリテだとしか思えない。 「──急がないと、お父様に会いに行く時間になってしまうわ」 迷っていても仕方ないし、動かなければ再び未来は処刑台よ。 私は書き慣れた魔法陣を、書物で改めて確かめながら慎重に、持参した紙へ書き写した。 「……私は呼ばう、彼の者の名はベリテ……私の差し出すあらゆるものに応え、いざ姿を現さん事を……」 文言を口にして、仕上げに一滴の血を魔法陣の中心に落とすべき時、──あろう事か私の目に、窓から入ってきた羽虫が飛び込んだ。 「痛っ……」 嫌だ、痛いし気持ち悪いし、この異物感は虫が張り付いているのよね?怖い。もっと恐ろしい存在を召喚しようとしているくせに、言えた立場ではないけれど。 でも虫が目に入るなんて怖いわよ。涙で洗い流せないかしら。目をこするのは絶対駄目よね。 ──と、虫と一緒に大粒の涙がこぼれて──魔法陣の中心に落ちてしまった。 「えっ……?!何、……」 魔法陣から光がわき起こる。こんな現象、前世の中では一度も見た事がない。 ──血ではないの?涙で召喚出来るものなの? そもそも、こんな目がくらみそうな光の渦、悪魔らしくないわ。 あまりの眩しさに目を閉じてしまい、光が落ち着いてきた頃、ようやく私は魔法陣の真上に浮かぶ存在を視認出来た。 それは、確かに前世の最期に語りかけてきたものだった。 どこまでも美しく、澄み渡るような姿。そして神々しい──白い羽……? 「……あの、あなた様は……私に語りかけて下さった……お方、ですよね?」 恐る恐る問うと、相手はにこりと笑ってみせてくれた。 「呼んでくれたね。改めて、僕はベリテ。時空を司る天使だよ」 「……天使……?」 悪魔召喚の魔法陣から、何で天使が呼ばれて来るの……。 「あれ?何やら不思議そうにしてるね」 「……あ、あの、申し訳ありません。私は書物にあった悪魔を召喚したつもりでしたの……ここ、この悪魔ですわ」 いけない、天の御使いに失礼を働いたわ。こちらも気が動転しているのよ。慌てて書物を見せて指さすと、ベリテは微かに唸ったわ。 「インクがかすれているから間違えたのかな、この悪魔はベリタっていう悪魔だ。それに君は神から異能を授けられた身だからね、涙は一番効果的な天使の呼び方だけど……異能を解放出来るようになるまでは、血でも悪魔は来ない」 「異能……?今の私には悪魔を召喚する事が出来ないのですか?」 「うん、君の世界では聖女と呼ばれるね。十七歳になれば異能が覚醒する。君は十七歳になれた事が一度もなかっただろう?覚醒させたくない人物がいたらかね」 聖女といえば、国が傾いた時に出現する救世主みたいな存在よ。 確か、前に現れたのは百年以上昔で、枯れた大地は豊かな土壌にし、濁った川は清流へ変えて、流行病の蔓延る淀んだ空気は清らかなものにしたと書物で読んだ記憶があるわ。 私がその聖女になる、ですって?降ってわいた情報に頭が整理出来ない。だけど天使様が仰るのだし、嘘ではない……はず。 というか、待って。覚醒させたくない人物、ですって?そんな国が傾こうが我欲を優先しそうな人、私を罠にはめ続けた一人しか思いつかない。 「ダリアが……?確か、彼女は悪魔と契約していたと前世で言っていたわ」 「ご明察。その悪魔がベリタだよ。数ある悪魔の中でも悪辣で、残酷な手段や陰謀を得意として好む」 そんな悪魔を召喚しようとしたなんて、復讐にはふさわしいでしょうけど……逆に悪魔から裏切りに遭ったり、契約を拒否されて手酷い仕打ちを受ける事もありえたかもしれない。 青ざめた私に、ベリテは何を思ったのか突拍子もない事を言い出したわ。 「それにね、今は悪魔達で地獄に慰安旅行へ行っているから、悪魔は呼び出しに応じないよ」 「旅行?地獄?」 「悪魔達の労働環境は、近年改善されていてね。今ごろ、血の池温泉にゆっくり浸かったり、針山の上を歩いて足裏のツボを刺激して健康促進に励んでるんじゃないかな?悪趣味だけどね」 「血の池や針山のどこが健康的なんですの……恐ろしいわ」 労働環境の改善とか、悪魔は使役される立場と考えた事がなかったわ。人ならざるものとは、何て人間と感覚が違っているのかしら。 そんな話を聞かされたおかげで、呆れて恐怖も遠のいてしまった。 ……もしかすると、彼は私が感じていた恐怖をやわらげようと慰安旅行だなんて話題を持ち出してくれたのかもしれない。 「慰安旅行しているのは本当だし、君には天使なら呼べても悪魔は呼べないのも本当だ。だから、僕が遣わされたんだよ。謀略されて十六歳の終わりに必ず命を落としてしまう君の為に。でも、少しは悪魔や天使への心のゆとりも生まれただろ?」 「え、ええ……ありがとうございます。あの、ベリテ様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」 「駄目だよ、君は僕と契約する身だし。一蓮托生の同士になるんだ、ベリテって呼んでもらわなきゃ。僕も君をガネーシャと呼ぶから」 「でも、天使様に畏れ多いですわ」 「それを言うなら君は未来の聖女様だろう?」 まだまだ、未来の聖女と言われても突然の事で実感も自覚も全くないけれど。 でも、目の前の天使……ベリテ様が断言しているし、実際にダリアからは執拗なまでに前世の数々で十七歳の誕生日を迎える事を阻まれてきたわ。 ダリアは毎回、ベリタという悪魔から教わっていたのかしら。 だとすれば悪辣だというベリタの力で周りを味方にするのも、悪魔を呼べない私を陥れて処刑台へ送る事も、さぞや容易かったに違いない……そう思うと、今度はふつふつと怒りがこみ上げてきた。 私はベリテ様を真っ直ぐに見つめて、懇願した。 「ベリテ様。──いえ、ベリテ。私に力を貸して下さらないかしら。私は犬死にするのなんて、もう御免こうむるわ。そして叶うなら、ダリアにやられてきた分をお返ししたいの。どうか、お願い」 すると、ベリテは邪気のない笑みで頷いてくれた。 「喜んで力を貸そう。──さ、契約を結ぼう。早くしないとガネーシャの父親に、約束の時間を守れない娘だと思われる事になるからね」 「あっ……、もうそんなに時間が経っていたの?契約とは、どうやって交わせばいいのかしら?」 今、お父様から悪い印象をいだかれてしまうのは不都合すぎるわ。慌てた私に、ベリテは自らの羽を指さした。 「この両羽に一度ずつ口づけを。すると僕の羽の付け根に契約の印が刻まれる。僕は君の左胸……心臓の真上に額を寄せて誓う」 天使に口づける事も、相手が天使とはいえ胸もとに額を触れさせる事も、本音では恥じらいがある。 けれど、そんな戸惑いごときに時間を使うようでは、おそらくダリアにまた出し抜かれるに違いない。ダリアが召喚する悪魔がいかに手強い敵かを聞かされたもの。 「分かったわ。失礼するわね」 私は背を向けたベリテにそっと寄り添い、見た目以上に柔らかい羽に口づけた。すると羽の付け根が一瞬輝いて、後に十字架の形の微かな光が残った。 「ガネーシャ、次は僕からだ。こちらを向いて」 「……ええ」 恥ずかしさと緊張に身を強ばらせながら、近づいてくる美しい顔に堪えきれず目を固く閉じる。左胸が一瞬熱くなって、ほのかな温もりが余韻のように残された。 「ここに、印の十字架が刻まれているけど、普通の人には見えないから安心して。天使でも悪魔でも、契約者の印を可視化するには難しい条件があるんだ」 「え?ええ……」 可視化する……例えばダリアが悪魔と契約したら、それを可視化して衆目に知らしめる事も可能なのかしら。 そんな疑問を巡らせていると、「とりあえず」とベリテが私の肩を軽く掴んで、くるりと体を扉に向けさせた。 「今は父親との時間を守る事だよ。誤ちは繰り返さないね?ダリアの真実を前世で知った君には、過去になかった知識がある。それを利用して周りを取り込むんだ」 「……分かったわ」 冷静に対処してゆく事。周りをよく見る事。──ダリアに利用されずに、ダリアを利用する事。 「ガネーシャなら出来る。僕がいる。訊きたい事はたくさんあるだろうけど、後で答えるから、まずは目の前の事を一つずつ正そう」 「ありがとう、ベリテ。これからお世話になるわね。頑張って必ず勝つわ」 書物を戻し、扉に向かい、執務室へ行く為に閉ざされた空間から出てゆく。 「ガネーシャ、これからは僕がいるよ。ガネーシャは絶対に歪んだ運命を正せる。僕に出来る事は何でも力になるからね」 背後から囁かれた言葉は、とても頼もしかった。 訊きたい事は山ほどある。でも、今はお父様を味方につける事が優先よ。困った娘だと思われてはならない。 戦いはもう、始まっている。「──もう!血の魅了は対策される!宝石の魅了は制限つき!瞳の魅了はマストレットがぼんくらで役に立たない!これじゃ公爵家に入った意味がないのよ!私は悪魔まで召喚したのに!」ダリアはベリタ相手に部屋で喚いていた。ベリタもダリアにはうんざりした様子だわ。私達は白い世界で楽しく見下ろしていた。──ベリタも、穢れた血で召喚なんてしたのが悪いと言いそうだけれど……。「己の弱点や欠陥を口にはしたくないだろうね。悪魔にとって人間は力なき存在でないと、矜恃が許さない」──なるほどね……あら、ベリタが何か考えたようだわ。「仕方ないな。──新月の夜に、相手が肌身離さず身に着けているものを入手出来れば……遅効性の魅了の力を仕込めるんだが、……お前に入手する事が可能とは思えないんだよな」「何よその言い草!私だってガネーシャの好きにばかりさせないんだから!──そうよ、あのしみったれた水晶のブローチ、あの女はいつも着けているじゃない、あれを盗むわよ!」「……まあ、健闘を祈っておこう」──あらあら、ベリタも言うわね。ダリアとの契約なんて、もう切りたいのかしら。「まあ、あれだけダリアが愚かなら、どんな下級悪魔だとしても相手にしたくないよ」──契約とは勝手に切れない厄介なものなのね。それにしても、ダリアが私のブローチを狙うことにしたなんて。対策を考えないといけないようね。私は思案してベリテに答え合わせを持ちかけた。──ロケットペンダントみたいに、小さな袋が付いたネックレスに入れれば、常に隙を見せずに済むと思うのだけど。「入浴のときも?」──ええ、袋は濡れるけれど。それなら二つ、いえ複数用意しておけばいいのよ。ベリテからの採点は悪くなかったらしい。返ってきた笑顔から伝わってきたわ。そうして、私は常に身に着けていることにしたの。ダリアったら、おかしいものよ。盗めないとなると、正攻法で話しかけてくるようになった。「お姉様、そのブ
結局、夜会では王太子殿下と一度のダンスすら踊る事はなかった。その事自体は気にしないわ、私も捨てられた令嬢として腫れもの扱いされるのは面白くないけれど……それ以上に、王太子殿下が後ろ指をさされる事の方が重要だもの。──それにしてもダリアは悪魔の力をかなり使わせたようね、王太子殿下の目を見た?胡乱に濁っていたじゃない。「あれは、もうどうしようもないね。もし万が一ダリアが魅了を解いても、好意が消えるだけで人としては廃人になるよ」──そうなれば、王太子殿下も王位を継いで国王になる事も難しくならない?……愉快な事。「国政なんて仕事はこなせないね。ガネーシャ、もちろん目論みがあるよね?」──まあ、ね。言わなくてもお見通しでしょう?「まあ、ね。──でも、念の為……第三王子にも、水晶を身に着けているように勧めた方がいいかもしれない」──私が頂いた、あの水晶?だけど、ダリアは王太子殿下に魅了をかけているから……それも制約があるでしょう?「ダリアは役に立たない駒と、恋仲でいようとすると思う?」──ああ……あのダリアだものね。正直、今のダリアには王太子殿下以外の王族と会える力がないけれど……その王太子殿下を最後に利用すれば、あるいはというところかしら。──だけど、お父様は今のダリアに、第三王子の瞳の色をした宝石を買い与えるかしら?王家を侮辱しているかのような醜聞を生んでるのよ。「そこは、マストレットを利用するだろうから」──同じ瞳の色の者に使える力ね。「そう。ブラックダイヤモンドが無理でも、スピネルくらいなら手に入る」──マストレットがお父様にブローチでもねだれば、それはダリアの手に渡ると言うことね。「ご名答。男物のブローチを少女が着けるのは、普通なら似合わないしおかしいけど。ダリアなら構わず着けてのけるだろうし」──王太子殿下は魅了されているとはいえ、不自然に感じない?それに、宝石の魅了は一年に一度、一人きりよ。
ダリアはさっそくベリタに目くらましをかけてもらい王太子殿下に会いに行ったわ。 お父様もすっかり騙されていて、「ガネーシャが王太子殿下と相互理解や親睦を深められるなら」と馬車を出させた。「これは、ガネーシャ様。王太子殿下でございましたら、今は自室にてお過ごしにございます」「そ、そう。──王太子殿下とお話しがしたいのですけれど、人払いをして下さるかしら?」「ここのところ、殿下は荒れておられまして、自室では物に当たっておいでですので……お気をつけ下さい」「私なら大丈夫ですわ」周りには完璧に私だと見えているようね。「──王太子殿下、私でございます」ダリアは不躾にドアを開けて、部屋に入っていった。当たり散らした物が散乱して、ひどい有り様だったのには面食らったようだったけれど、王太子殿下がダリアを見た瞬間、態度をがらりと変えた事で気を取り直したようね。「誰だ?──君か、なぜここに……いや、それよりも会いたかった……!」王太子殿下にだけは真実の姿で見える。他の者には私にしか見えないから、「あれだけ冷遇してきたガネーシャ様に……」と熱烈な歓待に驚きを隠せない。「私もお会いしたくございましたわ……その為に無理を押して参りました」「──お前達、何を呆けているんだ。早く退出して私達を二人きりにさせろ!」「は、はい。申し訳ございません。午後の執務まで、どうかごゆっくりなされて下さいますよう」「午後の執務はウィンリットに回せ。そのような事よりも、彼女が逢いに来てくれて共に過ごせる時間の方がよほど有意義だ」「ですが……」「二度言わせるな。──早く行け!」「……はい……失礼致します」魅了をかけられる前から賢明とは言えなかった王太子殿下だけれど……よりによって第三王子殿下に仕事を押しつけるとは愚行を極めてる。第三王子殿下もまた、王妃殿下がお生みになられた嫡子なのだから。──それは
ダリアはさっそく王太子殿下に泣きついたらしい。ダリアの誕生日パーティーから数日後、王太子殿下とお茶を頂く席で、私は立たされたまま散々罵倒された。「お前、せっかくのダリアの誕生日パーティーに、ダリアに対して悪意的な人間ばかりを招待して、彼女に恥をかかせたそうだな!何という悪女なんだ、ダリアは心から悲しみ、孤独で身の置き所もなかったと涙を流したんだぞ!」──私には贈り物だなんて考えた事もないくせに、ダリアに分不相応な贈り物をしたからでしょうが。私とダリアの立場の違いを弁えられないとは、全く悪魔の魅了も大したものね。「姉として祝うべき身が、妹を虐げる!それが高位貴族の令嬢として正しい行ないか?!恥を知るがいい!──破廉恥な令嬢だと心ない言葉を囁かれるダリアが、あまりにも憐れではないか!それも全てお前に謀略されたゆえの事、到底許されるものではない!」ダリアが破廉恥と言うなら、そう言われる原因はダリア本人が作ったものだもの、私は堕ちてゆくダリアを見ているだけで、手をくだしていないわ。「──もう腹黒い貴様とは少しの時も共にする気はない!今後は定められた日に登城しても、閉ざされた温室で一人過ごすがいい!ゆめゆめ私が捨て置く事を吹聴して同情を買おうなどと、恥知らずなまねはするな、いいか?!」「──かしこまりました。己を戒め、身を慎もうと存じます」──初顔合わせの時から私を嫌悪しているようだった上に、悪魔の魅了まで加わった今では、成り立つ会話なんて何もないわね。従順なふりをして、好きにさせておけばいい。王太子殿下は荒々しく立ち上がると、こちらを一瞥もせずに足音も荒く立ち去った。──国王陛下や王妃殿下の耳にも、いずれは入るでしょう。その時が見ものだこと。魅了されているとはいえ、婚約者のいる王太子殿下ならば、立場の重さが彼を許しはしないわ。いずれ、何らかの叱責なり責任を取らされるなりするはず。私は立ち尽くしていても仕方ないので、早々に屋敷へ戻った。それから週に一度、私は王宮の温室で一人のんびりとお茶を頂くようになった。──すると、これまではお茶のみで茶菓子なんて出た事もなかったのに、必ず私が好みそうな茶菓子が添えられるようになったのよ。「そこのあなた、これはどなたのご配慮なのかしら?」「それが……第三王子殿下が、せめて少しでも心が癒されるようにと気配り
ダリアに公爵家から追い出されたメイド達には、用意した家で数日休ませてから紹介状を用意してあげて、高位貴族の屋敷で働けるように手配した。私が紹介したどの屋敷にも、社交界で発言力のある夫人あるいは令嬢がいる事は、言うまでもない事よ。まずは使用人達の間でダリアについて広まれば良い。そうすれば、いずれはお仕えする主の耳にも入るから。こうして、裏で手を引いていると、案の定ダリアの暴挙は陰で広まりを見せたわ。「お聞きになられて?ガネーシャ様の妹君は、使用人にひどい扱いをなされているとか……」「私も聞き及んでおりますわ。侍女につらく当たって、紹介状もなしに追い出してらっしゃるとか」「──どうやら、その哀れな侍女達に勤め先をお与えになられているのが、ガネーシャ様だとか」「まあ、何とお心の優しいこと。ご自分に仕える者でもございませんのに、慈悲深いのですね」「そうですわね、それに比べてダリア様は……言うのも憚られますけれど……王太子殿下と格別に親しくなされておいでだとか。王太子殿下にはガネーシャ様というご婚約者がおりますのに」「姉君のお相手を奪うとは、恐ろしい事ですわ」もう、こうなるとダリアは孤立無援よ。さらに態度を悪化させて、侍女に当たり散らす事でしか鬱憤を晴らせない。それが、自分の首を絞めてゆくとは思い至らないのね。私は内心で小気味が良いと嘲笑っていたけれど、ある日の晩餐で、ダリアが不仲になりつつあるお父様に甘えた声を出したわ。「……お父様、私も十五歳の誕生日を控えております。ささやかなお祝いのパーティーをと願っておりますの。そこでお友達が出来ましたら、どれだけ嬉しい事でしょう」正直、お父様は私の婚約者に手を出したダリアを、徐々に醜聞を撒き散らす家の恥と思い始めている。かといって、あからさまな冷遇をしても、それは醜聞になってしまう。それは頭痛のたねだけれど、ダリアに王太子殿下の寵愛がある以上、致し方ないようね。「そうか、お前にも友人は必要だろ
夜を迎えて、私とベリテは白い世界からダリアの部屋を見下ろしていた。「……なるほど。ベリタにはダリアの穢れが宿っているみたいだね」「穢れ?」「うん、血の契約に不都合があったんだろう。──疑問だったんだ、なぜベリタの顔に黒い染みがあるのか」「その黒い染みは、なぜベリタに出来たのかしら?ダリアの穢れで悪魔が影響を受けるだなんて、理解が追いつかないわ」「ああ、正確には、ダリアが召喚に穢れた血を使ったんだよ。でも、何に穢れたのかまでは分からないな」「……だけど、それによってベリタは、本来の力に枷がついているのよね?」「ご名答。ダリアの愚かさが僕らを優位に立たせてくれる」詳しい事は分からないまでも、ベリタの力が削がれている事と、結果として将来ベリタを倒すのに有利な状態なのだとは分かるわ。今はまだ、私が聖女として覚醒していないから時期の到来を待つしかないけれど……その間にも、やるべき事はあるもの。「……幸い、ダリアは私のせいで血を使った洗脳も出来ないし……私という婚約者がいる王太子殿下に手を出してくれた。腹違いとはいえ、姉である私の婚約者にね。ダリアを陥れるのに利用させてもらわないと」「そうだね、時を戻す前の君はダリアの策略にはまったけど、今は違う道を歩めてるよ。逆にダリアは悪手を打って──味方になる令嬢も作れない」「そうね」それに、ダリアの実兄であるマストレットは、もはや有益な手駒としての使い道もないのよ。頼れるのは王太子殿下のみでしょうけど……彼もまた愚かだもの。「──足場を固めて、とことん落としてやるわ。ダリアはもちろん、王太子殿下も」その為になら、私は時を待てるし耐えられる。心に決めて、元の世界に戻った私はベッドに横たわって目を閉じた。朝になれば、定められた王太子殿下との面会がある。週に一度、二人でお茶を頂く事は──私から放棄する訳にいかない。何しろ相手の立場は王太子だし、交流を深めて信頼関係