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第3話

Auteur: ジャスミン
結婚式の前夜、龍臣が本邸に戻ってきたのは深夜を過ぎてからだった。

私は寝室の床に座り込み、両親の結婚写真を柔らかい布で包んでいるところだった。その時、再びあの何かが焦げたような匂いがした。薬に手を伸ばすより早く、右手が激しく痙攣し始めた。

水の入ったグラスが指から滑り落ちて砕けた。立ち上がろうとしたが足に力が入らず、ベッドの角に体を激しくぶつけた。

再び視界のピントが合った時、龍臣がドアを蹴り開け、私のそばに片膝をつき込んでいた。

「結衣、俺を見ろ」

彼は私の首の裏に手を回し、しっかりと支えた。ここ数ヶ月、私に対して一切の感情を見せなかった彼の声が、隠しきれない焦燥感で荒々しく震えていた。

どうやら発作で舌の横を噛んでしまったらしい。口の端に生暖かい血の味が広がり、割れたガラスの破片に混じって、抗てんかん薬の錠剤が散らばっていた。幸いにも、処方箋のラベルは床側を向いている。もし彼がこのボトルを裏返せば、私の嘘はすべて終わってしまう。

私は咄嗟に薬のボトルを奪い取り、ベッドの下の医療用ケースに押し込んだ。

「……ただの偏頭痛よ。急に立ち上がったから」

龍臣の表情が、一瞬にして冷たく凍りついた。

「……俺の結婚式の前夜を選んで、わざわざ目の前で倒れてみせたのか?」

感情を押し殺したような低い声が、かえって残酷に響いた。こんなに弱り切った姿を見てもなお、彼はこれを結婚を阻止するための必死の演技だと思い込みたかったのだ。

「ええ、そうよ」

私は震える手で唇の血を拭い取った。

「ザクロのジュースをこぼして、グラスを割っちゃったの。ラグを汚してごめんなさい」

彼の顎の筋肉がギリッとこわばり、ほとんど空っぽになった部屋をぐるりと見渡した。かつて家族写真が飾られていた殺風景な壁で、彼の視線が止まった。

「荷物はどうした?」

「寄付したわ」

「なぜだ?」

「明日結婚するんでしょう?これからは奥様がこの家を仕切るのよ。私の部屋を残しておくなんて、薄気味悪いでしょ」

彼は勢いよく立ち上がった。

「俺の家から何を捨てるか、誰が勝手に決めていいと言った?」

彼の怒りはまったく理不尽だった。私に自分の人生を歩めと突き放し、「一線を越えるな」と何度も釘を刺したのは、ほかならぬ彼自身ではないか。

「わかったわ。もう勝手なことはしない」

私は最後のフォトフレームをスーツケースにしまった。

「あなたと詩音が幸せになることを祈ってる。九条グループが二度と、私みたいな『弱点』を抱え込まないこともね」

彼の暗い瞳の奥で、嵐のような感情が渦巻いた。

「……それが、俺への最後の言葉か?」

「いいえ。『今までありがとうございました』、よ」

そのよそよそしい一言は、どんな非難の言葉よりも深く彼を打ちのめしたようだった。

私は彼を避けるように歩き、バスルームへと逃げ込んだ。

ドアが閉まる瞬間、彼が私の名前を呼んだような気がした。しかし、それはあまりにも微弱な声で、脳の錯覚なのか現実なのか、私には判別できなかった。

夜明け頃には、黒いハイヤーの車列がロータリーを埋め尽くしていた。財界の重鎮、有力政治家、銀行の頭取たちが次々と金属探知機を通り抜け、上空では報道ヘリが旋回し、九条グループと西園寺財閥の権力を結びつける世紀の結婚式を捉えようと待ち構えていた。

私はグレーのカシミアのコートを羽織り、足元に医療用ケースを置いた。

黒のタキシードに身を包んだ龍臣が、部屋の前に姿を現した。

襟元からカフスボタンに至るまで一切の隙はなかったが、目の下には深い隈があり、彼が一睡もしていないことを物語っていた。

彼の視線が私のコートから手荷物へと移り、その眉が険しく寄せられた。

「そんな格好で式場に行くつもりか?」

「私は——」

階下から側近の源治の声が響いた。

「社長、西園寺家のお車が到着しました」

龍臣は動かなかった。彼の視線は、私のケースに貼られた見慣れない病院のシールに釘付けになっていた。

一瞬、すべてを悟られるのではないかと背筋が凍った。私は慌ててコートの裾でシールを隠した。

「着替えてこい」と彼は短く命じた。

「お前は俺の車に乗るんだ」

私が頷き、彼が踵を返して背を向けた瞬間、私は声には出さず、唇だけでそう紡いだ。

さようなら、龍臣。

車列が邸宅を出発して10分後、私は密かに手配しておいた黒のセダンに乗り込んだ。

空港へと向かう高速道路の大型ビジョンには、結婚式の生中継が映し出されていた。

カメラが式場の天井を映し出した瞬間、私は息を呑んだ。

ガラス張りのドームの下には、無数のアネモネが吊るされていたのだ。祭壇の中央のリングピローには、蜂蜜色のオーバルカットのダイヤモンドが静かに輝いている。

まさに私が彼に語った、理想の結婚式そのものだった。細部に至るまで何一つ違わない。

ただ、そこに立つ花嫁が私ではないという残酷な事実を除いて。

私は画面から目を逸らし、電源を切ろうとしたその時、瑛太からのメッセージが3件立て続けに届いた。

【龍臣に権利書を渡した】

【君の医療同意書を見たんだ。もう、これ以上嘘はつけなかった】

【結衣、彼は君の計画をすべて知ったよ】

その直後、画面が龍臣からの着信で埋め尽くされた。私は躊躇わず着信を拒否し、搭乗ゲートへ向かった。

そして、彼からの音声メッセージが届いた。

「結衣、行くな!俺は……結婚していない」

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