All Chapters of 限りある明日に、君を選ぶ: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

人生最後の春になるかもしれないその時期、私は長谷川瑛太(はせがわ えいた)と頻繁に会うようになっていた。彼こそが、龍臣が私のためにあてがった相手だったからだ。それを受け入れさえすれば、せめて私が彼にとっての「正すべき過ち」ではなくなったことの証明になるかもしれない、と。その夜、龍臣は数週間ぶりに邸宅へ帰ってきた。書斎の暖炉の前に立ち、黒いシャツの袖を肘まで捲り上げた彼は、火のついていない葉巻を指先で弄んでいた。私に対して徹底して冷淡になったこの半年間でさえ、私の前では決して煙を吐かないというその習慣だけは変わっていなかった。「長谷川との交際はどうだ?」私を見ようともせず、龍臣が口を開いた。「何回会った?」「4回よ」「プロポーズはされたか?」私は思わず笑いそうになった。瑛太は私の秘密を守ってくれている友人に過ぎず、求婚者などではない。彼とは手すら繋いだことがないのだから。それでも、龍臣の声はひどく淡々としていて、まるで大型プロジェクトの最終確認でもしているかのようだった。「……もうすぐ、されるかもね」葉巻を弄んでいた龍臣の指が、ピタリと止まった。数ヶ月ぶりのまともな会話をここで終わらせたくなくて、私はかつて思い描いていた結婚式の情景を語り始めた。「もし式を挙げるなら、ガラス張りの天井から冬のアネモネをたくさん吊るしてほしいな。ダイヤも純白じゃなくて、蜂蜜色のオーバルカットがいい。式の後は、派手な演出なんていらない。古いブルーのオープンカーに乗って、海沿いをずっと走っていくの」細部を語れば語るほど、彼の表情はみるみる険しくなっていった。「……もういい。お前が自立した人生を歩む気になったのなら、それで十分だ」彼は葉巻をケースに投げ入れた。まるで、全身の力を振り絞らなければ、次の一言を口にできないとでもいうように。「ご両親はお前を俺に託した。俺は後見人だったんだ、結衣。その事実が消えることはない。この家には、いつでもお前の部屋を残しておくからな」私はドアの傍らに積まれた2つのダンボール箱に目をやった。服や本、両親が遺してくれた写真の数々は、すでに海外の脳神経腫瘍センターがある国へと発送済みだった。ここを発つことが誰にも気づかれないよう、部屋にはカモフラージュとして私物を少し残してあるだけだ。「部
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第2話

翌朝、私は寝室のラグの上で目を覚ました。どうやってそこへ倒れ込んだのか、まったく記憶になかった。スマホには3つのアラームが表示されていた。【抗てんかん薬を飲む】【瑛太と会う】【龍臣には絶対に秘密にする】最後のアラームは私が自分で設定したものだったが、その意味を脳が理解するまでに1分近くもかかってしまった。午前10時。東棟の裏手では、造園業者がクチナシの温室を解体していた。私が18歳になった日、龍臣が重要な役員会議をすっぽかしてまで、夜明け前に急遽作らせたものだ。今、最後の鉢植えがトラックに積み込まれ、それと入れ替わるように、詩音のための赤いバラが詰まった木箱が次々と宴会場へと運び込まれていく。何かを壊しているわけじゃない。ただ、もう私の居場所ではなくなった空間を、静かに引き払っているだけ。午後、私はある静かなレストランで瑛太と落ち合った。由緒ある政治家一族の出身である彼は、龍臣の目には私を託すのに完璧な相手として映っていた。身辺がクリーンで、安全で、九条家の泥沼のような覇権争いから私を遠ざけてくれる存在として。瑛太は私の顔を見るなり、読んでいたメニューをパタリと置いた。「先週より顔色が悪いよ。医者は何て?」私は最新のMRI画像をテーブル越しに滑らせた。モノクロの画像の中で、左の側頭葉に広がる影は、まるで紙に滲んだインクのようだった。「進行が早いの。白石先生によれば、手術で言語機能や長期記憶に障害が残るかもしれないって。それに……二度と目を覚まさない可能性だってあるわ」「龍臣は、知っているのか?」「知らないわ」「結衣、彼には知る権利が——」「ないわ。後見人としての権限は、私が18歳になった時に終わってる。私の治療方針を決める権利は彼にはないし、それに……彼の結婚式の日に、私の命まで背負わせて、これ以上迷惑をかけたくないの」私はバッグから深緑色のファイルを取り出した。中には、湾岸地区第七埠頭にある保税倉庫の権利書、神谷海運の恒久的な議決権委任状、そして父のプライベート金庫の鍵が入っていた。この第七埠頭は、両親の会社が遺した最後の資産であり、7年前のあの夜、九条グループが敵対勢力に狙われた本当の理由でもあった。両親は包囲網を突破して車を突っ込ませ、重傷を負った龍臣を救命艇に乗せて逃がした後、炎上す
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第3話

結婚式の前夜、龍臣が本邸に戻ってきたのは深夜を過ぎてからだった。私は寝室の床に座り込み、両親の結婚写真を柔らかい布で包んでいるところだった。その時、再びあの何かが焦げたような匂いがした。薬に手を伸ばすより早く、右手が激しく痙攣し始めた。水の入ったグラスが指から滑り落ちて砕けた。立ち上がろうとしたが足に力が入らず、ベッドの角に体を激しくぶつけた。再び視界のピントが合った時、龍臣がドアを蹴り開け、私のそばに片膝をつき込んでいた。「結衣、俺を見ろ」彼は私の首の裏に手を回し、しっかりと支えた。ここ数ヶ月、私に対して一切の感情を見せなかった彼の声が、隠しきれない焦燥感で荒々しく震えていた。どうやら発作で舌の横を噛んでしまったらしい。口の端に生暖かい血の味が広がり、割れたガラスの破片に混じって、抗てんかん薬の錠剤が散らばっていた。幸いにも、処方箋のラベルは床側を向いている。もし彼がこのボトルを裏返せば、私の嘘はすべて終わってしまう。私は咄嗟に薬のボトルを奪い取り、ベッドの下の医療用ケースに押し込んだ。「……ただの偏頭痛よ。急に立ち上がったから」龍臣の表情が、一瞬にして冷たく凍りついた。「……俺の結婚式の前夜を選んで、わざわざ目の前で倒れてみせたのか?」感情を押し殺したような低い声が、かえって残酷に響いた。こんなに弱り切った姿を見てもなお、彼はこれを結婚を阻止するための必死の演技だと思い込みたかったのだ。「ええ、そうよ」私は震える手で唇の血を拭い取った。「ザクロのジュースをこぼして、グラスを割っちゃったの。ラグを汚してごめんなさい」彼の顎の筋肉がギリッとこわばり、ほとんど空っぽになった部屋をぐるりと見渡した。かつて家族写真が飾られていた殺風景な壁で、彼の視線が止まった。「荷物はどうした?」「寄付したわ」「なぜだ?」「明日結婚するんでしょう?これからは奥様がこの家を仕切るのよ。私の部屋を残しておくなんて、薄気味悪いでしょ」彼は勢いよく立ち上がった。「俺の家から何を捨てるか、誰が勝手に決めていいと言った?」彼の怒りはまったく理不尽だった。私に自分の人生を歩めと突き放し、「一線を越えるな」と何度も釘を刺したのは、ほかならぬ彼自身ではないか。「わかったわ。もう勝手なことはしない」私は最後のフォ
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第4話

機内のドアが重々しい音を立てて閉ざされた。龍臣からの着信履歴は実に17回に及んでいた。最後の着信が鳴った時、乗務員に電源を切るよう促され、私は静かにスマホの電源を落とした。——仮に、私の病気を知って彼が式をキャンセルしたのだとしても、なおさら彼から離れなければならない。罪悪感は愛ではない。そして、恩義という鎖で相手の人生を永遠に縛り付けるべきでもないのだから。十数時間後、飛行機は目的地の空港に到着した。白石医師が手配してくれた医療コーディネーターが、ゲートを抜けた先で待っていた。迎えの車に乗り込んだ直後、海外用の携帯が鳴った。非通知設定。本国の番号だ。私は光る画面を見つめたまま、呼び出し音が途切れるのをただ待った。車が病院の地下駐車場に入った瞬間、木が焦げるような強烈な匂いが鼻を突いた。運転手の声が間延びし、ぐにゃぐにゃに歪んで聞こえてくる。鞄の中に薬があると言おうとしたが、どうしても言葉をうまく組み立てられなかった。視界が完全に暗転するその刹那、自動ドアをこじ開けて飛び込んできた黒いコートの男が、私の瞳に映った。冷たい地面に倒れ込む寸前で、力強い龍臣の腕が私をしっかりと抱きとめた。目を覚ますと、私の頭部には電極が貼られ、ベッドの周りは物々しいモニターで囲まれていた。窓辺には、龍臣が座っていた。タキシードのジャケットは脱ぎ捨てられ、白いシャツは着の身着のままで皺だらけになり、袖口には生々しい乾いた血の跡がこびりついていた。私が目を開けた瞬間、彼は立ち上がったが、それ以上こちらへ近づこうとはしなかった。「白石先生から、全身性のてんかん発作だったと聞いた。手術は明日の朝に前倒しになったそうだ」「どうしてここに……」「病院がお前に連絡を取れず、同意書の緊急連絡先に電話をした。長谷川が俺に電話を代わったんだ」私はそっと目を閉じた。もし生きて帰れたら、瑛太とはじっくり話し合わなければならない。龍臣は、ベッド脇のサイドテーブルに書類を置いた。第七埠頭の権利書だ。私が瑛太に託した時のままだった。「これは、受け取れない」「これは本来、九条グループの手に渡るべきものだったのよ」「お前のものだ。ご両親はお前を生かすために俺を助けたんだ。ご両親が命懸けで守り抜いたものを、彼らを死に追いやった闇の世界に返す権利
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第5話

午前4時、白石医師をはじめとする医療チームが手術の説明にやってきた。腫瘍は言語と記憶を司る神経回路に深く絡みついていた。機能を極力温存するため、腫瘍摘出の途中で私を覚醒させ、写真の名前を答えさせたり、見知った顔を認識できるか確認したりするという。もし出血が止められなかったり、脳の腫脹が激しくなれば、そのまま二度と目を覚まさない可能性もあった。「術後の緊急連絡先を記入してください」看護師がボードを差し出した。瑛太の名前を書こうとしたが、ペンが紙の上でぴたりと止まった。ドアの細いガラス窓越しに、廊下の硬いパイプ椅子に座る龍臣の姿が見えた。常に人を待たせる側だったはずの九条グループのトップが、仕事の連絡を一切絶ち、7時間もの間、ただひたすらそこで待ち続けているのだ。私は「白石直人」と書き込んだ。龍臣は提出された書類が病室から運び出されるのを見たはずだが、何も聞いてこなかった。手術室に運ばれる直前、彼は私の掌にある小さなものをそっと握らせた。指輪でも九条家の紋章でもなく、縁のすり減った、古い地下鉄の切符だった。「お前が18歳の時、SPの目を盗んで一人で地下鉄に乗ったことがあっただろう。家に帰ってきたお前は、これを俺のジャケットのポケットに押し込んで、『普通の人になる練習をしなきゃ』と言って笑ったんだ」私にはそんな記憶は、微塵も残っていなかった。「目が覚めて、俺のことをすべて忘れていたとしても構わない」と彼は言った。「ただ、かつてお前が『普通の生活』をどれほど望んでいたかということだけは、どうか思い出してくれ」静脈に冷たい麻酔が流し込まれていく中、扉の向こうで彼が、静かに祈りの言葉を呟いているのが聞こえた。手術は11時間にも及んだ。途中で覚醒させられた私に、白石医師が次々と写真を提示していく。りんご。橋。青い自転車。最初の二つは答えられたが、三つ目の言葉が唇からこぼれ落ちる前に、意識の彼方へと霞んで消え去ってしまった。次にモニターに映し出されたのは、龍臣の写真だった。彼の顔が、私にとって特別な意味を持つことだけは直感でわかった。胸の奥が締め付けられるように痛む。けれど、どうしても名前が出てこない。「この人は誰ですか?」白石医師が優しく尋ねる。「……私の……居場所」私は微かな声でそう呟いた。
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第6話

病理検査の結果は、誰もが予想していた以上に残酷なものだった。外科医は目視できる腫瘍を可能な限り摘出したが、がんはすでに神経線維に沿って広がっていたのだ。医師から治験段階のワクチン療法を受けられるかどうかの判断を下される前に、私はまず6週間に及ぶ放射線治療と化学療法を乗り越えなければならなかった。龍臣は、表舞台に立つ予定をすべてキャンセルし、九条グループの日常業務を源治に一任した。彼は病院の向かいにあるごく普通のマンションを借り、毎朝7時になると朝食を持って病室に現れた。そして夜の9時になると、私のプライベートな空間に足を踏み入れようとはせず、静かに帰っていくのだった。彼の手料理は、ひどい有様だった。初日は、塩と砂糖を間違えて雑炊を甘ったるくして台無しにした。二日目は、切られていない玉ねぎが丸ごと一個、味噌汁の中に浮かんでいた。三日目の朝、ついに耐えきれなくなった私は、看護師に頼んで「一階に食堂がある」と彼に伝えてもらった。翌日、彼は真新しい料理本を手に現れた。その表紙には、黄色い付箋が貼られていた。【家事苦手な総帥だって、努力次第でまともなメシくらい作れるようになる】私は、吹き出しそうになるのを必死で唇を噛んでこらえた。しかし、抗がん剤治療にロマンチックな要素など欠片もなかった。髪は手ぐしを通すだけでごっそりと抜け落ちた。口内炎のせいで水を飲むことすら苦痛になり、日常の些細な言葉が突然、頭の中から消え失せることもあった。ある日の午後、私は中庭から病室へ戻る道順が分からなくなってしまった。私は雪の中にうずくまり、喉が擦り切れるほど泣きじゃくった。龍臣が血相を変えて駆けつけてきた。だが彼は私を無理に引っ張ったりせず、「怖がらなくていい」などという安っぽい慰めの言葉も口にしなかった。2メートルほど離れた雪の上にしゃがみ込むと、衛星地図を表示したスマホを、私たちの間の雪面にそっと置いた。「どっちへ行くか、お前が決めろ。俺はついていく」私は3回、間違った道を選んだ。彼は何も訂正することなく、私の間違った道のりを3回とも黙ってついてきた。4回目の挑戦で、ようやく入院棟のガラス扉が視界に入った。「あなた、本当は正しい道を知っていたんでしょ」「正しい道を知っているからといって、お前をそこへ無理やり引きずり込む権利が俺に
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第7話

カンファレンスで、医師から二つの選択肢が提示された。一つは、標準治療を継続すること。副作用は予測可能だが、再発の確率は絶望的なほど高かった。もう一つは、初期段階にある患者個別のワクチン治験に参加すること。これには新たな組織サンプルの採取が必要であり、重篤な免疫反応を引き起こすリスクを伴っていた。「治験を受けます」私は答えた。私の右側に座っていた龍臣は、口を挟まなかった。白石医師が彼の方を向いた。「ご家族として、何かご意見はありますか?」「彼女は俺の所有物ではない」龍臣は静かに言った。「彼女の意志がすべてだ。俺はただ、彼女がすべてのリスクを正しく理解できているかを確認するためにここにいるだけだ」彼が私に問いかけたのは、二人きりでエレベーターに乗り込んだ後のことだった。「……怖いか?」「ええ」「俺もだ」そこには、「俺が何とかしてやる」というような偽りの約束も、世界の頂点に君臨する存在としての傲慢さもなかった。彼のその嘘偽りのない言葉は、どんな確信に満ちた保証よりも私を安心させた。……治療が3週目に入った頃、源治から連絡が入った。西園寺家の内部で、破談になった結婚式を口実にクーデターを起こそうとする動きがあり、反対派の幹部たちが私の両親の不審死に関連する過去の裏口座情報を掘り返したらしい。龍臣は、最低でも48時間は御影の本家に戻る必要があった。電話を切った後、彼は自分の決定を一方的に告げることはしなかった。代わりにこう尋ねた。「俺に、ここに残ってほしいか?」昔の龍臣なら、すべての手はずを整えた上で、その結果だけを私に突きつけていただろう。彼のパスポートとスマホはすでにテーブルの上に置かれていたが、彼はそれに手を伸ばそうとはしなかった。今この瞬間、どんな場所でも最大の権力を持つこの男が、私のたった一言のために、すべての不利益を被る覚悟を決めていたのだ。私が望めば、彼をこの部屋に留めておくことができた。その事実を知ったことで、私はより簡単に彼を手放すことができた。「行って。私を愛していると証明するために、あなたが自分の組織を火の海にする必要なんてないわ」彼はその夜、本国へと発った。彼がいない二日目のことだった。突然の高熱に襲われ、私はナースコールを押すのが精一杯だった。
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第8話

第一クールのワクチン療法を終えた後、MRI検査の結果は、腫瘍の進行が抑えられていることを示していた。完治したわけではない。私たちはただ、いつ返却を迫られるか分からない時間を、死神から前借りしたに過ぎなかった。私は退院し、龍臣のマンションで暮らすことになった。私たちは別々の寝室を使い、彼は「夜9時以降はノックしない」という自分のルールを頑なに守り続けていた。毎朝、彼はキッチンのホワイトボードにその日の予定を書き込んだ。薬の時間、リハビリ、散歩、そしてがんとは全く関係のないささやかな日常のイベント。月曜日、私たちは湖畔で白鳥に餌をやった。火曜日、彼はまともな雑炊の作り方を習得した。水曜日、彼は私を路面電車に乗せ、あえてルートの案内を私に任せた。私は見事に降りる駅を間違えてしまった。達筆すぎて読めない手書きのお品書きしかない、昔ながらの定食屋を見つけた。そこで龍臣は適当に文字を指さして注文し、うっかり食後の甘味を3つも頼んでしまった。彼は自分のミスを認めるくらいならと、その3つの甘味をすべて平らげた。店員は明らかに彼が経済ニュースを騒がせた人物だと気づいており、存在しないSPを警戒して、しきりにドアの方を気にしていた。龍臣はそれを完全に無視し、ネクタイを緩めると、お皿の最後の一口を私に奪われるがままにしていた。それは、私の24年間の人生の中で、最も「普通の日常」に近い一日だった。その夜、私は彼の書斎で鍵のかかった金属製の箱を見つけた。龍臣は何も説明せず、その鍵を私の目の前に置いた。中には、私の人生に関する7年分の記録が詰まっていた。後見人の決定通知書、学費の領収書、ボディガードからの報告書、初めて一人旅をした時の旅程表、そして、すべての始まりとなったあの「愛してる」というメッセージのプリントアウト。その一番上には、宛先のない手紙が置かれていた。日付は半年前のものだった。【お前を愛しているからこそ、俺はお前から離れなければならない。だが、もし俺が離れることで、お前が『自分には愛される資格がないのだ』と思い詰めるのであれば、俺が掲げてきた『守る』という大義名分は、お前を傷つけているのとなんら変わりはないのだ】彼は、半年前にはすべてを理解していたのだ。ただ、それを正す勇気が持てなかっただけだった。「どうして、こんな
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第9話

3ヶ月後、私は経過観察のMRI検査のために、龍臣と共に本国へ戻った。御影市の広大な敷地は様変わりしていた。東棟にあったクチナシの温室は再建されておらず、そこにはただ見晴らしの良い芝生が広がっていた。私の部屋も、ガラスケースに保存された少女の寝室のような気味の悪さは消えていた。壁にあった監視端末は取り外され、ドアには私しか暗証番号を知らない、ごく普通の電子ロックが取り付けられていた。出迎えてくれた家政婦の野村は、涙ぐみながら私を抱きしめたが、私の体を気遣うようにすぐにパッと離れた。源治は玄関の階段で、第七埠頭の新しい権利書を手に待っていた。龍臣は私の資産を返還しただけではなかった。両親が何年も前に手放すことを余儀なくされた、海運保険の権利までも取り戻していたのだ。「社長は『本来お前の手にあるべきものを、元の場所に戻しただけだ』と仰っていました」源治は私に告げた。「彼はどこにいるの?」「地下の会議室です。本日は、ご両親の偽装事故に関する最終的な処分が下される日ですので」私は地下へは降りなかった。昔の私なら、龍臣がすべてを解決してくれるのを待ち、周りがうっかり漏らす断片的な情報から、真相を推測するしかなかっただろう。だが今回、私は自分の弁護士と面会した。第七埠頭を独立した専門チームの管理下に置き、暴力事件の被害者のための神経リハビリテーション基金を設立する手続きを行った。夕暮れ時、龍臣が家に戻ると、私はキッチンでリンゴをウサギの形に剥いていた。「処分は下ったの?」私は尋ねた。「ああ。あの事故を仕組んだ幹部たちは、一族の最高幹部会によってグループから永久追放された。証拠はすべて特捜部に引き渡した」財閥の闇の処分というものは決して綺麗事では済まない。だが龍臣は、私へのラブレター代わりに彼らを「社会的に抹殺」するような真似はしなかった。彼はあの忌まわしい過去の事件を、私たちの生活から完全に切り離すことを選んだのだ。「私も今日、第七埠頭の件を片付けたわ」私は管理委託の契約と、リハビリ基金の設立について説明した。彼はたった一つだけ質問した。「俺のサインは必要か?」「ううん」「……なら、いい」その短い言葉は、彼がこれまでに私に買い与えてくれたどんな高価な贈り物よりも、深い敬意に満ちていた。
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第10話

1年半後、私の検査結果は依然として安定していた。私の記憶が完全に元に戻ることはなかった。朝に見た映画の結末を忘れてしまうこともあったし、頭の中で木曜日が火曜日にすり替わってしまうこともあった。私はスマホのリマインダーに頼ることを恥じなくなり、些細な記憶が抜け落ちるたびに「自分が消えかけている」と絶望するのをやめた。6週間ごとの検査結果が、私たちの平穏な日常を左右するという現実に変わりはなかった。検査の日の朝、龍臣と私は一つのルールを決めた。待合室でこの先の不安を口にしないこと。私たちはくだらないテレビ番組について言い争い、病院の売店で買ったおにぎりやパンを品評し、まるで数時間後の検査結果になど、私たちの日常を支配する力はないのだと言わんばかりに、夕食のメニューについて真剣に話し合った。龍臣は、どうにか人に出せるレベルの朝食を3種類作れるようになった。そして、持ち前の「すべてを自分のコントロール下に置きたい」という衝動に駆られた時には、まずこう尋ねる術を身につけた。「アドバイスが欲しいか?それとも、ただ愚痴を聞いてほしいだけか?」詩音は、第七埠頭基金の顧問弁護士に就任した。瑛太が婚約した時、龍臣は25年物の高級スコッチを木箱ごと送りつけたが、未だに瑛太に嫉妬していることなど、彼は絶対に認めようとしなかった。私たちは、御影の本家では結婚式を挙げなかった。式場に選んだのは海沿いにある小さな植物園で、招待客は30人にも満たなかった。アネモネの花も、蜂蜜色のダイヤモンドも、頭上を旋回する警備のヘリコプターもなかった。私が手にしたのは、白い木蓮とローズマリーを束ねただけのブーケ。指輪は艶消しゴールドのシンプルなもので、その内側には短いメッセージが刻まれていた。——【明日、もし君が選んでくれるなら】私が祭壇にたどり着く前から、家政婦の野村はすでに泣き出していた。源治は海風のせいで目にゴミが入ったふりをしており、白石医師の隣に立つ詩音も微笑んでいた。瑛太は、「この新郎が俺に借りを作るのをどれほど嫌がっているか」を完全に理解しているような、得意げな笑みを龍臣に向けていた。誓いの言葉の前に、龍臣は参列者の前で私に一枚の書類を手渡した。それは婚約合意書でも資産目録でもなかった。両親が亡くなった後、彼が裁判所でサインした後
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