⑤結婚

結婚は恋愛のゴールかもしれないが、人生のゴールではないことを結婚して思い知った。

「結婚したことを秘密にしてほしい」

入籍する日まであと数日というところで、蒼から私たちの結婚を秘密にしたいと言われた。それまでそんな素振りはなく、本当に突然だったから戸惑った。　

「遠回しに結婚をやめようと言っているの？」

「違う、ただ家の事情なんだ」

「家の、事情……」

家の事情と聞いて、困った。施設育ちだから「家」と言われて分からないのもあるし、藤嶋建設勤務ならば藤嶋の「家」の社会的な立場みたいのも多少は分かるし、その後継ぎである蒼と私のは、ドラマティックに言えば越えられない壁みたいな価値観の違いはあって……。

「その事情を、話せないの？」

「……ごめん、い·ま·は·言えない」

蒼の家に、何かあることは薄々と気づいていた。結婚の報告だって翠さんとお祖父様にしただけで、ご両親には会う必要はないの一点張り。親子の確執見たいのがあるのかと思って翠さんに聞いたけれど、翠さんも会う必要はないとやんわりと線を引かれた。

い·ま·は·言えない。

し·ば·ら·く·待っていてほしいもそうだけど、終わりがあることを約束する言葉だったから、不確かではあったけれど、そんな不確かさは証明できない愛も同じだから。

蒼と結婚するとき、信じると決めた。

だから、とことん信じてみようと思った。

「うん、分かった」

予定通り私たちは婚姻届を出して、私は藤嶋陽菜になったけれどそれは戸籍上の話で、職場では朝霧陽菜のまま。蒼か黒崎さんが何かしたのだろう、私たちの結婚は誰にも知られることはなかった。

そして、蒼は私との結婚を徹底的に隠した。

それは病的なほど、だった。

私たちの家となった青山のマンションは蒼のお祖父様から結婚祝いに贈られたものだけど、以前住んでいたマンションの契約更新のタイミングに合わせて私が先に住んでいたから、表向きはそのまま私の一人暮らしという形になり、蒼は結婚の事実を隠すため出社も帰宅もそれまで暮らしていた翠さんたちの白金のお屋敷を経由していた。

スマホも二台持ち、一台は私専用。私専用と聞いて、喜びよりも戸惑いが大きかったのは、私専用のスマホを持ち歩いていたのは黒崎さんだったから。いつでも連絡してほしいと言われたけれど、私からの連絡は黒崎さん経由で蒼に伝わるわけで、黒崎さんに内容を見られていると思うと他愛のないメッセージなど遅れるわけもなく、自然と私から蒼にメッセージを送ることは減った。

連絡ですらこれだから、一緒に出掛けることなどなかった。

青山のマンションから徒歩二分のコンビニでさえ、私一人で行くか、蒼に買ってきてもらうかのどちらかだった。

一度だけ、映画を見にいこうと誘ってみた。

平日のナイター。ちょっとしたデートのつもりだったけれど現地集合、そして現地解散。帰りにマンションまで送ってくれたのは黒崎さんだった。蒼とは映画を見ただけ。私は誰とデートをしたのかと虚しくない、それからは蒼と出かけようと思わなくなった。

私が『妻』では、何がいけなかったのだろう。

答えのない問いが、久しぶりに浮かぶ。

蒼の傍を、日本を離れてから考えることが減っていたのに……久し振りに飲んでいる日本のビールのせいだ。それか、飲み過ぎたに違いない。

　＊

　

こんな結婚生活に不満がなかったといえば嘘になるけれど、それでもこんな結婚生活を続けられていたのは他の女性の気配がなかったからだと、あとで気づいた。

寂しさはあったものの不信感はなく、淡々と日々は過ぎていって、本当に我ながら楽観的というか、妄信的というか……ただ蒼が上手く隠していただけで、他の女性はいた。

白川茉莉。

蒼と白川茉莉が並ぶ写真をネットニュースで見たとき、初めて蒼に対して不信感が芽生えた。だって白川茉莉はただ隣にいたわけではない。白川茉莉は蒼と高校時代からの婚約者であり、結婚目前の相手だった。

流石に黙っていられず――。

「どういうこと？」

「仕方がないんだ……陽菜も、分かるだろう？」

……いま考えても卑怯な説明の仕方。

白川家は金融界に通じている白川家と藤嶋家は何十年も前から蜜月関係にあり、藤嶋建設への仕事の三割は白川家とのつながりを信用に請け負っていることは平社員の私でも知っている。さらに、蒼の父親の藤嶋司と白川茉莉の母親の白川百合江は長年愛人関係。どちらも既婚者であるに関わらずのW不倫で、あまりにも隠さないから見るほうがそっと目をそらしてきた。

「俺と白川茉莉の婚約は、父たちが勝手に言っているだけだ」

それは、そうだと思う。

だって結婚目前はあり得ない、蒼は私と結婚していた。白川茉莉と結婚するなら私との離婚が先だが、蒼は離婚など仄めかしたことすらなかった。

だから、この噂に蒼の意思がないことは分かった。

でも、事実はどうであれ二人が並ぶ姿を見ることは面白くなかった。

だって、私にはそれが許されなかった。

ただ並んで歩くことすら私には許されなかった。

「周りが何を言っても気にしないでほしい」

蒼は私にそう言ったけれど、どうやれば気にしないでいられたのだろう。

気にしない振りをするのが精いっぱいで、蒼と結婚しているのは私だという思い、ただその事実だけが当時の私を支えていた。

蒼のためだから仕方がないって、苦々しかったけれど、「仕方がない」を受け入れた。

受け入れたけれど、苦々しかった。いや、苦々しいんだから受け入れてはいない。ただ受け入れた振りをしていただけ。

仕方がないと受け入れたのは振りで、私は全然受け入れていなくて、蒼にも、自分にも嘘を吐いていたた。私はいつも「どうして？」と思っていた。

どうして、蒼は白川茉莉と並んでいるのか。

どうして、白川茉莉が蒼の隣で笑っているのか。

「どうして？」という疑問はいつも「仕方がない」で終わるから、「どうして？」という思いは苦みに変わって私は飲み込めなかった。

表舞台に立って盛大にフラッシュを浴びたいわけではない。ただ、どんな理由であっても、蒼の隣を白川茉莉に、他の女性に奪われたことがつらかった。だから私は――。

「いつまで結婚を秘密にするの？」

私は「いつまで」を蒼に聞いた。このときからきっと、私は蒼のいう「いつか」を疑っていた。他に女性はいないという蒼の行動が「いつか」を信じさせてきたから、他の女性が本当はいたじゃないかという不信感が、蒼が嘘をついていたという事実が「いつか」が本当にくるのか疑った。

信じるに足るものが欲しかった。

「いつまで」を教えてほしかった。

でも――。

「もう少し我慢してくれ」

返ってきたのは、終わりの見えない時間。

あの「もう少し」は一体いつまでだったのだろう。私は、どこまで愚かにあの「もう少し」を信じられただろう。

今日のパーティーでの蒼の様子……白川茉莉を隣に許す蒼を思い出すと、あの「もう少し」は永遠に続いたんじゃないかなって思う。