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【幕間】恋に堕ちる

Auteur: 酔夫人
last update Date de publication: 2025-11-21 19:00:20

「またな」と軽く片手を上げて、藤嶋さんが背を向けると黒いコートの裾が揺れた。

もう何度この姿を見送っただろう。

最初は、藤嶋さんが背を向けるとすぐにマンションの中に入った。ご飯が美味しかったとか、最近は夜が寒くなってきたとか、そんなことを思いながら。

三回目くらいから、マンションの入口から五十メートルくらい離れたところにある街灯まで藤嶋さんが歩く後ろ姿を見送るようになった。寒い中ここまで送ってくれたんだし、とほぼ感謝の気持ちだった。

それが、いまでは藤嶋さんが駅に向かう通りに曲がるまで、その背中が見えなくなるまで、こうしてマンションに入らず見送っている。

そして、いまは藤嶋さんの背中が見えなくなったとき寂しいと感る。

感じてしまっている。

最初に感じてしまった夜、“とうとう”って感じだったからどこか予感してはいたことではあったけど、あの夜は「嘘だー!!」と部屋で叫んでしまった。

あの夜、藤嶋さんを、あの藤嶋蒼を好きだと自覚した。

自覚してしまった。

衝撃的な、アクシデント。

そんなフラグがあったのかと、部屋の中をグルグルと冬眠前の熊のように歩き回った。

高校時代から知っている男性だが、当時は恋愛感情を抱いてなどいなかった。学校カースト上位だった藤嶋さんは恋愛対象として「ない」だったから。

それがどうして?

学校カーストどころか日本規模のカーストでも上位だと分かって、なぜ恋愛対象になる?

【恋は盲目であり、理性的に愛することは不可能です】

「なぜ」を考えすぎて、恋愛の定義がゲシュタルト崩壊して、初めてネットで「恋愛 意味」なんて恥ずかしい検索をした。

そして出てきたのがこのシェイクスピアの言葉で、さらに恋愛の情熱についてはあのソクラテスも「理性的な判断はできない」と匙を投げていた。

歴史に名を遺す大哲学者ですら避けられない恋の理不尽をモブ気質の私がどうにかできるわけないのだけれど、陽の目を見ない作家の卵でも誰でもいいからこの熱を消す方法を教えてほしい。

……ん?

藤嶋さん?

なんで……気づかなかったけれど、いつの間にか建物の影からひょっこりと藤嶋さんが顔を出していた。

どうして?

忘れ物でもした?

……ううん、店に忘れ物はなかった。

席を立ったとき、いつもの習慣で机の上や周りを確認している。何もなかった。

もしかして、女将さんがお釣りを間違えたとか?

そんなこと考えている間に藤嶋さんは、五十メートルくらい先にある最寄りの街灯の前まできていて―――。

「どうかしたか?」

それは私の台詞。

忘れ物をしましたか?

お会計に誤りでも?

そう言えばいいのに、そう言えないのは、藤嶋さんの意味ありげな表情のせい。冷たい手が背中に触れたような……なんだろう、この、『逃がさない』とでもいうような、恐怖心を覚える感じは……。

「賭けをしていたんだ」

……この男ひと、こんな風に笑うの?

シェイクスピアとソクラテスを想像させるバリトンの美声が「ほら見たことか」と笑う幻聴が聞こえる。声音は私の想像で妄想だけど。

「角を曲がって、三分そこで待って、そして君がまだマンションに入らずそこにいたら……」

……“いたら”?

「こうしようって決めていたんだ」

距離を詰められ、顎に藤嶋さんの手が触れて、そのまま顎をくいっとされて上を向かされ―――。

「んっ」

唇が唇でふさがれた衝撃に鼻から声が出た。唇が唇で……これ、キス、されてる?

キス!

咄嗟に腰を引いたけど、いつの間にか腰に腕が回されていて、逃げようとしたのを嗜めるかのように逆に引き寄せられる。

咄嗟に胸に手を当てて押し返したけれど効果はない。

腕の力が強いし、遠慮もない。

「んー」

まるでお仕置きだと言わんばかりに、強く唇が押し当てられるけど、キスするならその前に私の許可をとるべきなんじゃないの?

いや、その前にいろいろと、ほら、告白とか、あるべきなんじゃないの?

「んー! んんー!」

胸を叩いて、肩を叩いて、動ける範囲でジタバタする。

「雰囲気、台なし」

いや、違うでしょう?

唇を離しての第一声がそんな呆れた言葉なんて……。

「嫌だった?」

ジッと顔を見てくる藤嶋さん……顔がいい。

その素敵な顔が近づいてくる。

「待ってください!」

「……なんで?」

「なんでって……初めてのキス、なんですよ……」

素敵な顔がぴたっと止まり、至近距離で藤嶋さんの切れ長の目が大きくなるのが見えた。

「初めて?」

「それはそうですよ」

私たち、いま初めてキスしたよね?

あれ?

そんなに驚かれると自分の記憶に自信がなくなるのだけれど?

「ファーストキス?」

「あ、それは違います」

「……違うのか」

いやいやいや、そんな風に顔を顰しかめられても……顔がにやけそう。

「キスをする前、一言くらい欲しかったです」

「一言……“するぞ”?」

「……いえ、そうではなく」

「“しよう”?」

……藤嶋さんの過去の女性関係が垣間見えた気がする。

「好きです」

私がそう言うと、藤嶋さんは照れくさそうに笑った。

「俺も好きだ」

そう言ってまたキスしてきたのだけれど……やっぱり、さっきもいまも藤嶋さんが夕飯に食べていたサバの味噌煮の香りがした。

こういうところが好きだと、ジンッと胸が痺れた。

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