LOGIN桐生直也が目を覚ましたとき、白い天井が見えた。「直也くん。目が覚めたのね」 美琴の声がする。 腕が固定され、身体のあちこちが痛い。「検査では脳に異常は見られなかったけど、気分が悪くなったらすぐに言ってね」 まるで心配しているかのように、優しい声をかけてくる。 病院だから、人目を気にしているのか。そんな、ひねくれた考えが浮かんだ。「……美琴ママが本当のママなら、どうして倫子ママが産んだ子どもって言われてたの?」「それは……いろいろ、事情があるのよ。そういうことは、元気になって退院したら話せばいいでしょ」「嘘つき! そんなの信用できるか」 直也は薄い掛け布団を跳ね上げ、美琴を蹴った。 子どものちょっとした癇癪のつもりだった。 少し暴れたかっただけだ。 けれど、直也の足は美琴の腹を蹴っていた。 美琴はよろめいて点滴スタンドにぶつかり、そのまま床に倒れ込んだ。「きゃっ」 その美琴の身体の上に、ぐらぐら揺れていた点滴スタンドが倒れかかる。 直後、スタンドが美琴の上から転がり落ち、床に衝突してけたたましい金属音を立てた。 直也の腕から点滴の針が抜けて、血が腕を伝う。「や……そんなつもりじゃ……」 直也はベッドから床を眺める。「うう、い、痛い」 美琴はお腹を抱え、起き上がれずに呻いている。 騒がしい音を聞きつけて、看護師が様子を見に来た。「桐生さんの奥さん? どうしました?」 美琴は答えることができない。「ごめんなさい。僕がスタンドを倒してしまって……」 直也は咄嗟に嘘をついた。自分が暴れて母を蹴ったなどと、言えないではないか。 看護師たちが慌てて、ストレッチャーを持って来た。 直也は身体が痛くて、ベッドの上から降りることができない。「あの、ママはどうしたんですか?」「ちょっと検査が必要なの。直也くんはここで休んでいてね。お父さんが戻ってきたら、ナースステーションに声をかけるように伝えてくれる?」 看護師は早口でそう言うと、ストレッチャーを押しながら、病室を出て行った。 直也は罪悪感で青ざめた。「蹴ったのは、まずかったかな。でも、大丈夫だよね」 そんなことを呟いていると、智也が戻って来た。 智也は倫子と電話をした後で、表情が暗かった。 元妻に助けを求めたのに、軽くあし
桐生智也は救急車とパトカーを呼んだ。 相手方は、赤信号で飛び出すのが悪いと責めてくる。 美琴が何事かと様子を見に来た。 直也が事故に遭ったと知り、美琴はオロオロするだけだった。 その姿を見て、本当に医師としての経験がないのだと思い知った。 朝倉倫子と結婚している間に、直也が怪我をしたことがある。彼女は医学生時代の知識しかなかっただろうが、テキパキと様子を観察し、問診をして安心するように声をかけていた。 実に頼もしかった。 救急車には美琴が同乗した。 警察官とやり取りをしてから、智也は路肩に止めたままの車で搬送先の病院へ向かった。 運転しながら、いろいろなことを考えてしまう。 美琴は医師免許を剥奪されるのだろうか。 首席卒業にこだわって、倫子の人生を滅茶苦茶にするなんて、どういう神経をしているんだ。 ああ、倫子に詫びなければ。 ……自分は、罪を犯していない。美琴の策略に協力してしまったが、男女関係のもめ事と言い張れる内容だ。 智也は、美琴のどこを好きだったのか疑問に思ってしまった。 キラキラと輝いて、一緒に並ぶと羨望の眼差しを受けた。いつも堂々としているのに、自分の前では涙ぐみ、頼ってくるのが堪らなかった。 純粋な娘どころか、あんなに腹黒くあざとい女だったとは―― 裏切られた。「……はは」 智也は自嘲した。 息子の直也も、先ほど「裏切られた」と腹を立てていたことを思い出したのだ。 智也は、直也が運ばれた病院に到着した。 受付で教えてもらい、手術を受ける患者たちの家族控え室へ向かった。 美琴は震えて、目元をハンカチで押さえている。「大丈夫か」 美琴の肩を抱くと、智也の胸に顔を寄せてきた。 この仕草に庇護欲が湧くと思っていたな、と他人事のように思った。 美琴によると、直也は様々検査をしてから手術室に運ばれるという。「あなたがいないから、同意書のサイン、私がしたのよ」 責めるような口調が、勘に障った。「君が書いても問題ないだろう」「そ、そうだけど……」 美琴がさりげなくお腹を庇うように手を当てる。 妊婦だったことを思いだし、智也は美琴を椅子に座らせた。 手術中のランプがついたまま昼の時間が過ぎ、智也と美琴は交替で食事をすることにした。 その時間に、智也は倫子にメ
「美琴ママ? 僕を産んだのは倫子ママじゃないの?」 桐生美琴は、直也の問いかけに答えることができなかった。「その話は、後にしよう」 智也が深刻な顔で言う。「なんだよ。嘘ついてたのか?」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 美琴はヒステリックに叫んだ。 前方に赤信号が見え、智也は車を止めた。 ガチャリ。バタン。 直也は車から飛び出した。信号で止まっている車の隙間を縫い、歩道を目指して走っていく。「おい、何を……!」「智也。チャイルドロックしてないの?」 美琴が助手席から怒鳴る。「もう、そんな子どもじゃないだろう」 信号が青に変わる。周囲の車が動き出し、智也も前進せざるを得ない。「路肩に止める」 智也はそう言って、少し走行してから車を止めた。「……行ってくる」 美琴がシートベルトを外さないで座っているのを見て、智也は車を降りた。 美琴は人のために動くタイプじゃない。母性本能も、結婚してからは感じない。 倫子は、実子ではないことを知りながら、直也に手をかけていた。本当の母親のように。 だから、直也も生意気なことを言いながら、どこかで本当の母親だと信じていたのだろう。 あのまま、倫子と結婚生活を続けていたらよかったんじゃないか? 初めて、そんな考えが浮かんだ。 倫子を嘘つきだと思い込んで、冷たく接していた。 それが誤解だとわかった今、心から彼女に優しくできそうな気がする。 直也が植え込みのところにしゃがんでいるのが見えた。 智也は大股で近づく。 靴音に直也は顔を上げ、睨みつけてきた。「大人なんか、嘘ばっかりだ!」 直也の目は赤くなり、涙が溢れている。 本当に、なんで美琴の嘘に簡単に騙されてしまったのだろう。虐げられるヒロインを救うヒーローになったような気がしていた。 他の奴らにはできないことだと誇らしく思った。 美琴が妊娠したときに、医師になる夢を諦められないと泣かれた。 すべてが狂いだしたのは、そこから……。 一瞬、直也を疎ましく思った自分に気づき、智也はすぐにその感情を打ち消した。 この子だって、振り回された犠牲者なのだ。「直也。まず、家に帰ってから、話そう」 手を差し伸べたが、直也はその手を弾いた。「パパの嘘つき!」「事情があ
桐生智也は、隣に座っている妻の美琴の二の腕を掴んだ。「優秀なお前を、朝倉倫子が妬んで卑怯な真似をするって言っていたじゃないか」 美琴は顔を逸らす。「私は……理事長の娘として、首席で卒業しなきゃいけなかったのよ」「なんのために?」「白木一族の繁栄のためよ」 白木総一郎は、娘夫婦のやり取りを黙って聞いていた。「じゃあ、倫子が教授たちを籠絡して、いい成績をつけさせたって話も嘘なのか?」「あんな芋臭い子にできるわけないじゃない」 美琴は開き直り、智也の手を振り払った。「お前の手柄を横取りしたって言っていたのに……違うのか? 倫子は自力で首席を取れそうだったのか?」「……そうよ。目障りだった」「何てことだ」 智也は前髪をくしゃっとかきあげた。「倫子に直也を押しつけて、お前は学生生活を送っていたんだな。良心は痛まなかったのか?」「なによ。どんな世界だってトップ争いで、足を引っ張り合うことはあるでしょ? 警戒しない方が悪いのよ」 美琴は顔を赤くして叫んだ。「美琴。落ち着きなさい」 総一郎が口を挟んだ。「お前が頑なに朝倉医師に連絡を取ろうとしない理由が、理解できた。首席候補の学生を引きずり下ろすと聞いていたが、彼女だったんだな」「そうよ」「そして、智也君。君は美琴の言葉を信じて、朝倉倫子を陥れるのを手伝った。そのまま彼女と結婚して、美琴が中退したり、未婚の母になったりする未来を防いだというわけだ」「……そういうことに、なりますかね」智也は不承不承といった様子で、肯定した。いいように利用されて、気分がいいわけがない。「つまり、共犯者だな」「な……!」 総一郎は鋭い眼光で、智也の反論を封じた。「美琴は少し早いが出産を理由に休職し、そのまま退職しなさい」「お父様! それでは、今までの努力が水の泡です」「もともと医師になるだけの実力がないんだ。化けの皮が剥がれる前に退け」 美琴は悔し涙を流した。医師免許がなければ、ただの美女だ。価値が激減する。 智也は今まで何度も美琴の涙を拭いてきた。だが、今の美琴を慰めたいという気持ちは湧いてこなかった。「元官僚や行政に詳しい顧問弁護士に相談する。大学側にどれくらい証拠が残っているか確かめたいが、やぶ蛇に
桐生智也はトーストを皿に乗せ、珈琲をカップに入れた。 今頃、美琴と直也は、白木家で朝を迎えているはずだ。 昨日、美琴が医者ではないという話がSNSに載っていたから、その対策のために白木家に泊まったのだろう。 朝倉倫子と結婚していた頃は、手の込んだ朝食を食べていたことを思い出した。 身体に良いものとか、季節のものとか……。 口うるさい母も、朝食に関しては「味が濃い」くらいの文句しか言っていなかった。夕食などは田舎料理だと馬鹿にしていたけれど、食べずに箸を置くことはなかったのだ。 智也はあっという間に食事を終え、皿をカウンターに置いた。今日は家事代行の人が来る日だったか? 来なければ、明日やってもらえばいい。 智也はクローゼットに行き、今日のワイシャツを選ぶ。 倫子がいた頃は任せきりだったが、美琴と結婚してからは自分でクリーニングに出すことを覚えた。「あ、ごめん。クリーニングに出すの忘れてたかも。もう着るものがない? 途中で買っていけば?」 初めて美琴にそんな言葉を投げつけられた時は、呆気にとられてしまった。 だが、専業主婦だった倫子と、医師としても活躍する美琴を同じに考えてはいけない。「次からは気をつけてくれよ」 そう言っておいたが、気のない返事が返ってきたので怪しいと感じた。 もう何度も繰り返され、自分で気をつけるようになった。 何のために結婚しているんだ。そう思うこともある。 いや、今どきの男は、家事・育児を自分もやるべきこととして考えるもの。 自分でやればいい。 だが、ふと寂しくなる瞬間がある。妻から大切にされていない気がするのだ。 直也も、あんなに懐いていた美琴に、少し遠慮をするようになっている。まあ成長して、自分でやることを覚えたならいいことなのだが。 ネクタイを締めてリビングに戻る。 スマートフォンを見ると、義父の白木総一郎から留守電が入っていた。『今日はこちらに来てくれ。すぐに』 傲慢な、命令するような口調だ。 聞くだけでイライラする。「こっちだって、暇じゃないんだが」 そう言ったものの、午前中は社内の会議だ。 白木家で少しゆっくりしていたら、昼に家庭料理を出してもらえるかもしれない。白木家の家政婦は有能で、羨ましい。 そんな軽い気持ちで、智也は秘書に連絡
花火大会から人々がはけていく中で、朝倉倫子は立ち尽くしていた。「美琴は大学受験も医師免許も……手術まで替え玉……?」「現段階では真偽はわからない。この牧野真帆と名乗る人物が、デマを書き込んでいる可能性もあるからさ」 三枝哲郎は、スマートフォンをボディバッグにしまった。「そ、そうよね」「牧野というファミリーネームは、日本にたくさんいますか?」「珍しいというほどじゃないけど、多い苗字として名前が挙がることはないね」 倫子の母はイーサンにそう答えてから、みんなに帰ろうと促した。「ほら、みんな歩いて。家に帰ってお風呂に入らないと、花火の煙の匂いがついているよ」 まばらになってきた人混みを、ゆっくりと倫子の家に向かって歩いた。「イーサン」 哲郎がイーサン・タンに小声で話しかける。「倫子の手術のスケジュールは、公表していないんだろ?」「ええ。必要ありませんから」「『再生の魔術師』ってことで有名になったから、SNSで動きが推測できるようになってるらしい」「どういうことですか?」 イーサンが眉をひそめた。「さっきの友達からの情報だけど、患者が『魔術師に執刀してもらえる』とかSNSに書くことがあるだろ? どの病院に入院しているか、何日に手術かまで書く人もいる。それがわかれば、何日頃どこにいるか予想できてしまう」「では、ヌール・ファラが九州にいたのは……」「たぶん、同じように推測したんだろう。翻訳機能が向上したから、日本語が読めなくても可能かもしれない。だが、地理的な知識がどれくらいあるのか……日本人の協力者がいる可能性も考えておいた方がいいかもな」 *** 白木総一郎は、ウィスキーを片手に考えていた。 大学の入学試験は、牧野真帆に美琴の替え玉をやらせた。彼女は一つ年上で、学費が工面できないから進学を諦め、アルバイトをしていたのだ。 入学さえしてしまえば、美琴も真面目に勉強すると思った。 ところが味をしめてしまったらしい。真帆に眼鏡をかけさせ、教室の端に座らせて受講させていた。 定期試験や卒業試験は本人が受験したが、学長が身内だったので、試験結果を改ざんした。 五、六年次の実習は、真帆に整形手術を受けさせて行かせた。鼻を整えて、目を少し大きくした







