Mag-log in夫と親友に騙され、医師になる夢も、幸せな家庭を作る希望も奪われた朝倉倫子。 右手の神経修復手術を目前に、夫・桐生智也に助けを求めたが返事はなかった。 その頃、智也は倫子の親友だった白木美琴と新たな人生を歩むことを公にしていたのだ。 倫子は、決心した。 自分の人生を取り戻す、と。 離婚後、復学して医師となった倫子は海外で「再生の魔術師」と呼ばれる外科医となる。 そして数年後――日本へ帰国した倫子の前に現れたのは、元夫と、すべてを奪った女だった。 「別れたら、もう他人です。奪われた人生は、この手で取り戻しました」 復縁を迫られても、もう遅い。 倫子には、彼女のすべてを知り、それでも手を離さなかった人がいるのだ――
view more「成功率は、五割にも満たないのです」
担当の形成外科医に告げられた言葉が、何度も頭の中を巡っていた。
明日、神経修復手術を受ける。
うまくいけば、再び細かい作業もできるようになるかもしれない。
けれど失敗すれば――。
「……」
倫子はぎゅっと目を閉じた。不安で心臓が嫌な音を立てている。
倫子はスマートフォンを手に取った。
夫の名前を押し、通話ボタンをタップする。
呼び出し音が鳴る。
だが、智也が電話に出ることはなかった。
予想していたけれど、手術前日くらい甘えても許されるのではないかと思ったのだ。
倫子は通話を切り、メッセージ画面を開いた。
【明日、手術です。時間に間に合うように来てください】
送信。
しばらくして、既読がついた。
けれど、返信はない。
「……そう」
倫子は小さく息を吐いた。
万が一、手術中に予定外の処置が必要になった場合に備え、病院からは家族に待機してほしいと言われている。
実家の母に来てもらおうとしたら、智也は「俺がいるんだから」と難色を示した。
「でも、あなたは忙しいでしょう?」
「俺が社長なんだ。スケジュールくらい好きに決められる」
不機嫌そうに言う智也に、嬉しいというより複雑な気持ちになった。
それならば、なぜ他のお願い事のときは「忙しい」と話も聞いてくれないのか――
そんなことを思い出していると、病室のドアがノックされた。
「失礼します。桐生倫子さん、明日の手術について、最終確認をさせてくださいね」
看護師が書類を持って入ってくる。
説明を受け、倫子は必要な欄に目を通した。
そして、最後のページで手を止める。
緊急時の連絡先。
家族代表者。
そこには、桐生智也と署名してある。入院前に、署名してくれたのだ。
これがなければ、母に頼んで田舎から出て来てもらったのだが。
母を家に泊めるのが嫌で断ったのか――そんな、嫌な考えが頭をよぎった。
まさか、そこまで人でなしではないだろう。
……そう、思いたかった。
***
手術前夜である。
なんとなく不安になり、眠れない。
倫子は眠ることを諦め、病室を出た。
ナースステーションの近くの、見舞客用のスペースで一人の看護師が休憩している。
その人はスマートフォンを見ながら、楽しそうに声を上げた。
「花火が上がった!」
画面には、夜空いっぱいに広がる大輪の花。音声は切っているようだ。
「あら、眠れませんか?」
看護師が倫子に気づき、画面を少し傾けた。
「退院して元気になったら、こんな楽しみもありますよ」
「そうですね」
倫子は微笑んだ。
「ヘリコプターで花火を上から見るんですって」
画面に映った人物を見て、笑顔が凍りつく。
ヘリコプターの機内。
窓の外には、夜空を彩る花火。
そして、その前に寄り添う男女。
サングラスで顔を隠した男性。その隣に、
「……智也?」
美琴はカメラに向かって手を振っている。
『今日は、特別な夜になりそうです』
画面の下にそうテロップが流れた。
コメント欄には、すぐに祝福の言葉が並んでいく。
夫が、美琴の肩を抱いた。
『これからは、白木美琴と人生を歩んでいきます』
そんな言葉が画面に流れる。
倫子は、すっと血の気が引いた。
さらに、その隣には目元を隠す仮面を着けた小さな男の子がいた。
倫子が、自分の子として育ててきた子ども。
直也は満面の笑みで、手にした札を掲げていた。
【みことまま だいすき!】
「……っ」
息が止まった。
「大丈夫ですか?」
看護師の声が、遠く聞こえる。
***
白木美琴。
大学で出会った親友だ。
田舎から上京し、倫子には知り合いがいなかった。サークルに入る余裕がない中で、同級生は貴重な存在だった。
六年前。医学部の五年生が終わり、最終学年が目前に迫っていた。
美琴に、忙しくなる前に最後に遊ぼうと誘われた夜。
酒を飲み、急に意識を失った。
そして目を覚ましたとき――隣には、智也がいた。
それが、すべての始まりだった。
「友達の恋人を奪った女」
美琴は泣きながら、自分は裏切られたのだと周囲に訴えた。
一番味方になってくれそうな美琴を傷つけてしまい、倫子は途方に暮れる。
結局、倫子は医学部を休学した。
妊娠したからだ。
そして美琴は、倫子がいなくなった医学部で「天才」と呼ばれるようになった。
もしかしたら倫子が手にしていたかもしれない栄誉を、美琴が手に入れた。
今思えば、何かがおかしかった。
入籍してすぐに倫子は流産した。その数か月後に、智也は一人の赤ん坊を連れてきた。
「俺たちの子として育てよう」
そのときの倫子は、何も疑わなかった。
いや。
疑いたくなかったのだ。
夢を諦め、母を泣かせたのだ。その分、新しい家族と幸せにならなければと――
***
翌日。
麻酔が効いてくるまで、智也は現れなかった。
そして、手術が終わり、倫子が目を覚ましたとき、病室には誰もいなかった。
「……智也?」
声を出してみたが、返事はない。
右手はまだ、感覚がなかった。
枕元のスマートフォンを左手で取る。
個人的なメッセージは一件もない。
一瞬、自分が何のためにここに存在しているのか、わからなくなった。
美琴のSNSを開く。
そこには、数え切れないほどの通知が届いていた。
美琴と智也を祝福する投稿。
二人はお似合いだ。
そこに直也が自然と馴染んでいる。
顔立ちが、智也と美琴を混ぜ合わせたようだった。
もしかして、直也の生みの親は……美琴?
画面を見つめながら、倫子はしばらく動けなかった。
涙が出る。
けれど、それを拭う右手は動かない。
「……そう」
かすれた声で呟いた。
「私は……必要なかったんだ」
夫にも。
親友にも。
そして、息子にとっても。
「だったら……」
倫子はスマートフォンを膝の上に置き、左手で予定表に文字を打ち込んだ。
右手で打つより時間がかかる。
【離婚】
少し考えたあと、続ける。
【リハビリ】
そして――
倫子は、ゆっくりと最後の言葉を入力した。
【復学】
画面を見つめる。
六年前に諦めた、医師になるという夢。
「まだ……終わってない」
もし右手が元に戻らなくても、医師にはなれる。
夫も、家族も、親友もいらない。
「私の人生は……私のものだから」
今度こそ。
誰にも奪わせない。
倫子は、固定されて動かない右手をそっと見つめた。
そして、左手で予定表を閉じる。
――奪われた人生を、この手で取り戻す。
飛行機の中で、イーサンが時計を見ながら朝倉倫子に尋ねた。「六時間ほど時差がありますが、大丈夫ですか?」「一日が長くなる感じよね。寝る時間で調節するわ。ともかく、無事に会議が終わってよかったわ」 倫子は、ほっと息を吐いた。 パリでの国際学会は、予想以上に実りの多いものになった。中井教授の発表は注目を集め、倫子自身も海外の研究者たちから声をかけられた。今後の共同研究につながる話もあり、忙しくなりそうだ。 倫子たちには、大きな仕事を終えたという安堵感があった。 *** 一方、日本に帰国した智也のスーツケースには、厄介なものが残されていた。 突き返されたジュエリー。 智也は乱暴にベッドの上に投げた。 会社の秘書にでもやるか。 いや、駄目だ。渡した相手がそれを身につけているのを見たら、あのときの屈辱を思い出してしまう。 それなら、母親のご機嫌取りにでも使うか。 少し前に乳がんと診断されて、パニックになっていた。そろそろ落ち着いて、自分の入院準備を始めている頃だろう。見舞い代わりに贈ったら、喜ぶかもしれない。 そんなことを考えながら、智也はスーツケースから洗濯物などを取り出していく。 倫子がいた頃はスーツケースごと任せることができたのに、と舌打ちしたくなった。仕分けして、家の中で元の場所に戻すもの、職場に持っていくものと整理してくれた。 当時は、当たり前だと思って、感謝することもなかった。 こんなことは、美琴には頼めない。 秘書を愛人にしてしまえば……そんなことが頭に浮かんでしまう。智也は首を振って、その考えを頭から追い出した。 疲れていた智也はあまり深く考えずに、ジュエリーケースを寝室のサイドテーブルの引き出しに入れた。 そのあと美琴と直也にお土産を渡して一仕事終えた智也は、突き返されたジュエリーのことをすっかり忘れてしまった。 *** 数日後。 美琴は寝室のサイドテーブルを開けて、箱を見つけた。 先日のパリ土産と同じブランドだ。一瞬、自分がこんなところにしまったのだろうかと、記憶を辿る。 記憶にはないと、美琴は首をかしげた。 手に取ると、箱のサイズが小さい。自分がもらったブレスレットではないようだ。 そっと開けると、水色の石がついたイヤリングが出てきた。 青系統は倫子を思い出させる。それに、ピアスではなくイヤ
「これ、どうすればいい? 私、受け取りたくないわ」 倫子はプレゼントをまるで汚い物のようにテーブルに置いた。 かつて結婚していたときでさえ、アクセサリーなどもらったことがない。今さら贈ってくるなんて、どういう神経をしているのだろう。「ジュエリーショップに連絡します。購入されたのはミスター・キリュウですから、店から本人に返してもらいましょう」 イーサンはジュエリーケースを見て、そう言った。「受け取り拒否ということでホテルから店に返してもらうか、購入した店舗に引き取りに来てもらうか……。最終的には、店からミスター・キリュウに連絡してもらうことになるでしょう。明日、対応しますので、もう、これのことは忘れてください」 イーサンの提案に、倫子はほっと息を吐いた。「そうしてくれる? こんなもの、持っていたくないわ」 倫子はジュエリーケースから目をそらした。「承知しました」 イーサンはそう答えると、鞄の中にジュエリーケースを入れた。「あ、お化粧を落として、シャワーを浴びなきゃ」 倫子はすぐに戻ると言って、イーサンの部屋を出て行った。「そのまま自分の部屋で寝たらいいのに……」 イーサンは両手で顔を覆った。 *** 翌日。 桐生智也は、顔を真っ赤にしていた。 店から連絡を受けたのだ。倫子が受け取らなかったので、ジュエリーを引き取りに来て欲しいと。 こんな屈辱はない。 気の利いたサプライズのつもりだった。思いがけない贈り物に、倫子は涙を流して感激するだろうと思っていた。 それなのに、突き返してくるだと? 気に入らなくても、受け取るのが礼儀ではないのか。――そう考えて、智也は屈辱に震えた。 そもそも、結婚していた頃から倫子のことは気に食わなかった。 美琴に頼まれて、いたずらに参加しただけなのに、結婚させられた。 おどおどと自信なさげで、人を苛つかせるだけの存在だった。 そういえば、あいつに何か贈り物をしたことはあっただろうか。 あいつと結婚している間、美琴は愛人という立場だった。気の毒に思ったから、様々なものをプレゼントしてやった。 そのとき、倫子には? 何も思い出せない。 いや、何も買っていないはずがない。美琴のついでに、ランクを下げたものを贈ったのだろう。今は思い出せないだけだ。 妻に何一つ贈っていないなんて、甲斐
「買ってやろうか。どれがいいんだ?」 朝倉倫子は桐生智也の挑発には乗らず、店員の方へ向き直った。「結構です。関係のない人に買ってもらう必要はありません」「可愛くないな」 智也が顔をしかめる。「そろそろ、絡むのはやめていただけますか」 イーサン・タンが二人の間に入った。 店員たちや周囲の客も、智也の振る舞いに眉をひそめている。「ムシュー・キリュウ。どうか節度ある振る舞いをお願いいたします」 店員が静かな声で告げた。「ふん。面白みのない女だな。メールの返信くらいしろよ」 智也の言葉に、倫子は尋ねるようにイーサンを見上げた。 智也からのメールはイーサンに転送するようにしていて、倫子は読んでいないのだ。 イーサンは小声で答える。「返事を必要とする内容ではありませんでした」「そう。よかったわ」 倫子はそれ以上、智也を気にしないことにした。 三人の様子を見ていた店員が、倫子たちを別室へ案内した。最終的に決めるためには、落ち着いた場所がいいだろうということらしい。 智也は、美琴へのジュエリーを選び終えたら、もう一度話しかけるつもりだった。「おい、待てよ」 慌てて手を伸ばしたが、店員がすかさず立ちはだかった。「お客様」 制止された智也は、舌打ちをした。 *** ホテルで着替えて、倫子は買ったばかりのネックレスとイヤリングを着ける。「確かに、服もアクセサリーも引き立て合っているわね」 自分の部屋を出て、隣のイーサンの部屋をノックした。「ドクター・リン。素敵ですよ」「も、もう。イーサンったら。……ありがとう」 ストレートな褒め言葉に照れながら、会場へ向かった。 パーティーは立食形式で行われた。 学会の出席者たちは食事を摘まみながら、自由に会話を楽しんだ。「ドクター・アサクラ。先ほどのお話は興味深かったです。神経の再建後、表情が戻るまでにはかなり時間がかかりますよね」「ええ。神経をつなげば終わり、というわけではありませんから。筋肉がどこまで反応できるか、リハビリをどう進めるかも重要です。そこは山本准教授が担当されていますけど」 倫子は功績を独り占めすることなく、他者の働きを認める。それが誠実に映り、一緒に仕事をしたいと思わせた。「培養した皮膚組織と神経再建を組み合わせる研究
中井教授が、パリで開催される再生医療の国際学会に参加することになった。 手術を担当した医師として、朝倉倫子にも同行してほしいという。「勉強になりそうだし、行きたいわ」 倫子は、医療コーディネーターのイーサン・タンに相談した。「そう言うと思っていました。スケジュールを調整します」 イーサンは微笑んだ。 *** 国際学会には、世界各国から再生医療の研究者や臨床医が集まっていた。 会場では最新の研究成果が発表され、活発な質疑応答が続いている。 中井教授が壇上で研究内容を説明し、山本准教授と倫子は、専門的な質問への回答を担当した。「どきどきしましたね」 中井教授から次の発表者に代わり、倫子はほっとして手で胸を押さえた。「みんな真剣だからな。まあ、立場が逆なら根掘り葉掘り訊きたくなるよ」 山本准教授は軽く笑った。 全ての発表が終わると、各国の研究者たちが互いに意見を交わす時間となる。 発表者を中心に、いくつもの輪ができている。 倫子は中井教授の輪の中にいた。 倫子は執刀医として手術手技について質問を受け、山本准教授が術後の経過について補足する。 どんな質問にも落ち着いて答える倫子に、聴衆の関心が集まった。 話し合いの中で、自国の患者について倫子に相談したいという研究者もいた。 そばに控えていたイーサンがすっと近づき、国際医療グループを通じて相談や依頼を進める方法を説明していく。 医師になることを諦めなかったから、倫子はこの場にいるのだ。 手の神経を繋いでくれた五味医師とリハビリに付き合ってくれた三枝哲郎に、改めて感謝の気持ちが湧いてきた。 倫子は幸せを噛みしめた。 ***「さて。少し時間がありますから、ジュエリーショップに行きましょう」 学会の会場を出ると、イーサンが倫子を誘った。「どうして?」 倫子は首をかしげた。「デザイナーのジュンコから、できればもう少し映えるネックレスを合わせてほしいと言われています」「今のネックレスじゃ駄目なの?」 倫子は透き通った水色のアクアマリンのネックレスに手を当てた。癒やしの効果があり、旅のお守りになると言われている石だ。「駄目というわけではありません。ただ、せっかくの機会ですから、心惹かれるものが見つかるかもしれませんよ」 倫子は小さくため息をついた。「
Rebyu