その後ろ姿を見送りながら、俺は不思議な気持ちでいっぱいだった。
三年前の笑顔に救われた? 俺の笑顔を守りたい?
そんなことをいう人がいるなんて。しかも、俺のことを探し続けていたなんて。
ベンチに一人残されて、俺は改めて川面を見つめた。さっきまでの静寂が戻ってきたはずなのに、なぜか心の中は静かではなかった。
蓮という人の真剣な眼差しが頭から離れない。あんな風に見つめられたのは、いつ以来だろう。
美奈が俺を見る時の目は、いつからか義務的になっていた。愛情というより、習慣で見ているような。でも、蓮の瞳には……いったい何があったんだろう。
「君の笑顔を守りたい」
その言葉が胸の奥で響いている。
守りたいって、何からだろう? 俺は今、何かに脅かされているのだろうか。
確かに、離婚してから心は荒んでいる。笑うことも少なくなった。でも、それは自然なことだと思っていた。失ったものが大きければ、大きいほど、悲しむのは当然だ。
でも、蓮はそれを見抜いていたのだろうか。俺が笑えなくなっていることを。
スマートフォンを取り出して時刻を確認する。午後四時を回っていた。蓮と話していた時間は、思っていたよりも長かったようだ。明日からまた仕事だ。いつものように会社に行って、いつものように編集作業をして、いつものように一人で帰る。
でも、明日の午後三時になったら、またここに来たくなる気がする。
なぜだろう。
俺は立ち上がって、蓮が去った方向を振り返った。もう姿は見えない。でも、確かにここにいた。俺に
「君を見つけられて幸せだ」といった人が。
家に帰る道すがら、俺は考え続けていた。
今日という日は、何か特別だったのかもしれない。離婚してから初めて、誰かと心が通じ合うような会話をした気がする。
蓮が本当に三年前から俺を探していたのだとしたら、それはとても奇跡的なことだ。でも、なぜそこまでしてくれるのだろう。たった一度見かけただけの人を、三年も探し続けるなんて。
もしかして、俺が思っているより、あの時の笑顔は特別だったのだろうか。
鏡に映る自分の顔を思い浮かべる。特別美しいわけでもない、普通の三十代男性の顔だ。そんな俺の笑顔に、誰かが救われたのだろうか?
信じられないような話だった。でも、蓮の目は嘘をついているようには見えなかった。
マンションに着いて、エレベーターに乗りながら、俺は今日の出来事を整理しようとした。でも、どうしても整理しきれなかった。あまりにも突然で、あまりにも予想外だったからだ。
部屋に入ると、いつもの静寂が迎えてくれた。でも、今日はその静寂がどこか違って感じられた。
蓮の声が頭の中で蘇る。
「君といると、心が軽やかになる気がするんだ」
俺も、彼といると何か違う感覚があった。重かった胸の奥が、少しだけ軽くなったような気がした。
冷蔵庫からビールを取り出して、ソファに座る。テレビをつけたが、内容は頭に入ってこない。
明日、もし蓮がまたあの公園にいたら、俺はどうするのだろう。
話してみたい気もする。でも、怖い気もする。
誰かと新しい関係を築くこと自体が、怖いのかもしれない。
そして、もしかしたら――。
俺は首を振った。まだそんなことを考えるには早すぎる。
でも、胸の奥で小さな何かが動き始めているのを、否定することはできなかった。
翌日の午後三時。俺はなぜか、あの公園に向かう自分がいた。
「それで、美奈さんから藤崎さんが離婚されたと聞いて……」「美奈から聞いた?」 意外だった。離婚後、美奈とは事務的な連絡しか取っていない。「はい。先週、偶然駅前でお会いして。美奈さん、藤崎さんのことをとても心配されていました」「心配?」 美奈が俺のことを心配している。それは本当に意外だった。離婚の時は、もうお互いに何の感情も残っていないと思っていたから。お互いに疲れ切って、ただ別れることしか考えていなかった気がする。「『悠真は一人でいると考え込んでしまうタイプだから』って。『きっと自分を責めて、また笑わなくなってしまう』っていわれて」 美奈は俺のことを、そんなふうに見ていたのか。結婚していた頃は分からなかった視点だった。確かに俺は一人になると、どうしても物事を悪い方向に考えてしまう癖がある。「美奈さんは『悠真にはもっと笑っていてほしい』ともいわれていました。『結婚生活の終わり頃には、彼の本当の笑顔が見られなくなって、それが一番辛かった』と」 その言葉が胸に刺さった。美奈も辛かったのだ。俺は自分の辛さばかりに囚われて、美奈の気持ちを理解しようとしていなかった。「それで、おせっかいだとは思ったのですが、どうしてもお会いしたくて」 蓮は俺の方を向いた。その瞳には昨日と同じ真剣さと、新たに加わった温かさがあった。「藤崎さんが今辛い時期にいるなら、今度は俺が……何かお手伝いできることがあるかもしれないと思って」「お手伝い?」「はい。一人でいるのが辛い時に、話し相手になったり。買い物に付き合ったり。映画を見にいったり」 蓮の頬がほんのり赤くなる。その照れた様子が、クールだった第一印象とのギャップを際立たせている。「そんな些細なことですが……。もしかしたら、少しでも藤崎さんの助けになれるかもしれない。あの時の笑顔を取り戻すお手伝いができるかもしれない」 その不器用な申し出に、俺の心が温かくなった。見返りを求めている様子はまった
翌日の午後三時。「なぜ俺は、あの公園に向かっているんだ?」 俺は自分の足を見下ろした。会社の帰り道、気がつくと川沿いの公園へ向かう遊歩道を歩いている。理性では「意味がない」と分かっているのに、どうしても足が公園へ向かってしまう。 昨日から、蓮のことが頭から離れない。デスクで資料を読んでいても、あの真剣な眼差しが脳裏に浮かぶ。コーヒーを飲んでいる時も、頬を赤らめて照れる表情が思い出される。そして何より--。「君を見つけられて幸せだ」 その言葉が、胸の奥でくすぶり続けている。まるで心臓の奥に小さな火種が灯ったように、じわじわと熱が広がっていく。 会社では同僚の佐伯が「藤崎さん、なんか顔色よくなったんじゃないですか?」と声をかけてきた。そんなに分かりやすく顔に出ているのだろうか。鏡を見ても自分ではよく分からないが、確かに昨日の夜はぐっすり眠れた。離婚してから久しぶりのことだった。 秋の風が頬を撫でていく。川面には数羽のカモが浮かび、のどかな午後の風景が広がっている。こんな平和な場所で、俺は何を期待しているのだろう。 本当に来るのだろうか。それとも、昨日のことは一時の気の迷いだったのだろうか。 ベンチに座って川面を眺めていると、規則正しい足音が近づいてくる。昨日と同じ時刻、同じリズム。その足音を聞いた瞬間、胸がふっと高鳴った。振り返ると、黒いコートに身を包んだ蓮の姿が目に入った。 今日の蓮は昨日よりも身なりが整っている。髪も整えられていて、コートの下には白いシャツが見える。まるでデートの準備をしてきたかのように見える。でも、もしかしたら単なる気遣いなのかもしれない。「来てくれたんですね」 蓮の声に、明らかな安堵が混じっている。昨日よりも緊張しているのか、コートのボタンを無意識にいじりながら近づいてくる。その仕草がなぜか可愛らしく見えて、思わず心の中で苦笑してしまった。男性を可愛らしいと感じるなんて、自分でも驚きだった。「はい。なんとなく、ですが」 俺は正直に答える。なぜここに来たのか、自分でもよく分からなかった。ただ、一人でいることに疲れていたの
その後ろ姿を見送りながら、俺は不思議な気持ちでいっぱいだった。 三年前の笑顔に救われた? 俺の笑顔を守りたい? そんなことをいう人がいるなんて。しかも、俺のことを探し続けていたなんて。 ベンチに一人残されて、俺は改めて川面を見つめた。さっきまでの静寂が戻ってきたはずなのに、なぜか心の中は静かではなかった。 蓮という人の真剣な眼差しが頭から離れない。あんな風に見つめられたのは、いつ以来だろう。 美奈が俺を見る時の目は、いつからか義務的になっていた。愛情というより、習慣で見ているような。でも、蓮の瞳には……いったい何があったんだろう。「君の笑顔を守りたい」 その言葉が胸の奥で響いている。 守りたいって、何からだろう? 俺は今、何かに脅かされているのだろうか。 確かに、離婚してから心は荒んでいる。笑うことも少なくなった。でも、それは自然なことだと思っていた。失ったものが大きければ、大きいほど、悲しむのは当然だ。 でも、蓮はそれを見抜いていたのだろうか。俺が笑えなくなっていることを。 スマートフォンを取り出して時刻を確認する。午後四時を回っていた。蓮と話していた時間は、思っていたよりも長かったようだ。 明日からまた仕事だ。いつものように会社に行って、いつものように編集作業をして、いつものように一人で帰る。 でも、明日の午後三時になったら、またここに来たくなる気がする。 なぜだろう。 俺は立ち上がって、蓮が去った方向を振り返った。もう姿は見えない。でも、確かにここにいた。俺に「君を見つけられて幸せだ」といった人が。 家に帰る道すがら、俺は考え続けていた。 今日という日は、何か特別だったのかもしれない。離婚してから初めて、誰かと心が通じ合うような会話をした気がする。 蓮が本当に三年前から俺を探していたのだとしたら、それはとても奇跡的なことだ。でも、なぜそこまでしてくれるのだろう。たった一度見かけただけの人を、三年も探し続けるなんて。
川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。 十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。 平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。 理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。 離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」 昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。 ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。 こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。「もう恋愛なんてしなくていい」 声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。 美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。「おかえりなさい」「お疲れさま」 交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。 結局、愛って何だったんだろう。 そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。 顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。 最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。「あの……」 低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。「はい
「もう二度と、誰かを愛することはない」 俺は離婚届に最後の印を押しながら、心の奥底でそう誓った。三十二年間で初めて、本気で思った。 市役所の蛍光灯が妙に白々しく感じられる。窓口の職員が機械的な笑顔を浮かべて書類を受け取ったその瞬間、三年間の結婚生活が音もなく終わった。 「お疲れさまでした」 お疲れさま、か。確かに疲れた。心の底から、骨の髄まで疲れ切っている。 外に出ると、十一月の風が容赦なく頬を刺した。空は鉛色に沈み、今にも泣き出しそうに見える。まるで俺の心を映しているようだった。 電車の中で、ふと薬指を見下ろす。結婚指輪があった場所には、白い痕だけが残っている。三年間そこにあったものが消えると、こんなにも指が軽く感じるものなのか。 ——美奈との最後の会話が、耳の奥で反響する。 「悠真さんって、いつも笑ってるけど、本当は何を考えてるのか分からない」 間違ってなんかいなかった。俺は確かに笑っていた。でも、心から笑えていたのは一体いつが最後だっただろう。 自宅マンションの玄関を開けると、靴箱には俺の革靴だけがぽつんと並んでいる。美奈のピンクのパンプスは、もうない。 「ただいま」 誰もいない部屋に向かって呟いた声が、虚しく響いて消えた。 リビングに足を向けると、ダイニングテーブルの上には、朝のコーヒーカップが置きっぱなしになっている。中に半分残った茶色い液体は、もうとっくに冷め切っていた。 シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。 2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。 ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。 美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。 形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。「もう一度やり直さないか」 最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」 その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。 結婚する前は、それで十分だと思っていた。穏やかで、