離婚から始まる恋

離婚から始まる恋

last updateLast Updated : 2025-09-30
By:  海野雫Completed
Language: Japanese
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離婚したばかりの藤崎悠真は、もう二度と恋をしないと決めていた。 孤独な日々を埋めるのは仕事と味気ない日常だけ。そんな彼の前に突然現れたのは、クールで義理堅い青年・橘蓮。初対面のはずなのに「君を見つけられて幸せだ」と真っ直ぐに告げる彼に、悠真は戸惑うばかり。けれど、蓮が自分の笑顔を見るたびに照れ、真剣に向き合ってくる姿に、揺れ動く心を抑えられなくなっていく。 ──男同士の恋に未来はあるのか?  失った愛の先に待っていたのは、“初めてのときめき”だった。

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Chapter 1

第一章 離婚の後に

「もう二度と、誰かを愛することはない」

 俺-藤崎悠真ふじさきゆうま-は離婚届に最後の印を押しながら、心の奥底でそう誓った。三十二年間で初めて、本気で思った。

 市役所の蛍光灯が妙に白々しく感じられる。窓口の職員が機械的な笑顔を浮かべて書類を受け取ったその瞬間、三年間の結婚生活が音もなく終わった。

「お疲れさまでした」

 お疲れさま、か。確かに疲れた。心の底から、骨の髄まで疲れ切っている。

 外に出ると、十一月の風が容赦なく頬を刺した。空は鉛色に沈み、今にも泣き出しそうに見える。まるで俺の心を映しているようだった。

 電車の中で、ふと薬指を見下ろす。結婚指輪があった場所には、白い痕だけが残っている。三年間そこにあったものが消えると、こんなにも指が軽く感じるものなのか。

 ——美奈との最後の会話が、耳の奥で反響する。

「悠真さんって、いつも笑ってるけど、本当は何を考えてるのか分からない」

 間違ってなんかいなかった。俺は確かに笑っていた。でも、心から笑えていたのは一体いつが最後だっただろう。

 自宅マンションの玄関を開けると、靴箱には俺の革靴だけがぽつんと並んでいる。美奈のピンクのパンプスは、もうない。

「ただいま」

 誰もいない部屋に向かって呟いた声が、虚しく響いて消えた。

 リビングに足を向けると、ダイニングテーブルの上には、朝のコーヒーカップが置きっぱなしになっている。中に半分残った茶色い液体は、もうとっくに冷め切っていた。

 シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。

 2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。

 ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。

 美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。

 形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。

「もう一度やり直さないか」

 最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。

「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」

 その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。

 結婚する前は、それで十分だと思っていた。穏やかで、平和で、お互いを尊重し合える関係。けれど、実際に一緒に暮らしてみると、何かが決定的に足りなかった。

 心が躍ることがなかった。

 朝起きて彼女の顔を見ても、帰宅して「おかえりなさい」と言われても、胸がときめくことは一度もなかった。むしろ、次第に息苦しさを感じるようになっていった。

 幸せな夫を演じることに疲れたのだ。

 スマートフォンの着信音が静寂を破る。画面には「佐伯」の文字。

「お疲れさまです、藤崎さん。手続き、終わりましたか?」

 出版社の後輩の声が、やけに明るく聞こえる。

「ああ、終わった」

「飲みに行きませんか。一人でいると、あまり良いことを考えませんよ」

 佐伯俊さえきしゅん。二十七歳。俺より五つ年下なのに、妙に人生経験が豊富で、いつも的確なアドバイスをくれる。会社で俺の離婚を知っているのは、彼だけだ。

「大丈夫だ。今日は休みたい」

「……そうですか。でも、一人で抱え込まないでくださいね」

 電話を切ると、また重い静寂が戻ってくる。

 冷蔵庫を開けると、コンビニ弁当とビールが数本。それだけだ。料理は美奈が担当していた。俺が遅く帰っても、いつも温かい夕食が用意されていた。

 今は、それすらない。

 弁当をレンジで温めながら、ふと考える。

 これから、どうやって生きていけばいいのだろう。

 三十二歳。決して若くはない。周りの友人たちは家庭を築き、子供の写真をSNSに投稿し、それぞれ充実した日々を送っている。しかし、俺は——また一人に戻った。

 味気ない白米を口に運びながら、俺は心に誓った。

 もう恋愛なんてしない。

 結婚も、恋人も、もう必要ない。

 人を好きになることの虚しさを、俺は嫌というほど味わった。心が通い合わない関係を続ける辛さも知った。

 だったら、最初から一人でいればいい。誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、静かに生きていく。

 外では雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く雨音が、胸の奥に染みわたる。

 これから先の人生、俺は一人で歩いていく。

 そう決めたはずなのに——どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。

 弁当を半分残し、俺は早々にベッドに潜り込んだ。広すぎるダブルベッドの端で体を丸め、目を閉じる。

 その夜、俺は不思議な夢を見た。

 どこかで誰かが、俺の名前を優しく呼ぶ夢を。

 でも、声の主の顔は見えなかった。

 翌朝、目が覚めると外は嘘のような快晴だった。

 雨上がりの空気は透明で、窓から差し込む陽光が床を金色に染めている。けれど、俺の心は、相変わらず曇り空のままだった。

 洗面台で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見つめる。目の下には薄いクマができていた。昨夜はあまり眠れなかった。

 いつものスーツに袖を通し、いつもの電車に乗る。変わったのは、もう帰りを待ってくれる人がいないということだけだった。

 出版社に着くと、佐伯が心配そうな顔で迎えてくれた。

「おはようございます。顔色、あまり良くないですね」

「大丈夫だ。仕事に集中する」

 それが今の俺にとって、唯一の救いだった。編集の仕事は好きだし、やりがいもある。作家たちの情熱あふれる文章を読んでいると、自分の空っぽな心を忘れることができる。

 デスクに座り、パソコンを立ち上げる。今日も新しい原稿が届いているはずだ。

 そう、これでいい。

 仕事があれば、俺は生きていける。

 愛なんて、もう必要ない。

 ——この時の俺は、まだ知らなかった。運命が、すぐそこまで迫っていることを。

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第一章 離婚の後に
「もう二度と、誰かを愛することはない」  俺-藤崎悠真-は離婚届に最後の印を押しながら、心の奥底でそう誓った。三十二年間で初めて、本気で思った。  市役所の蛍光灯が妙に白々しく感じられる。窓口の職員が機械的な笑顔を浮かべて書類を受け取ったその瞬間、三年間の結婚生活が音もなく終わった。 「お疲れさまでした」  お疲れさま、か。確かに疲れた。心の底から、骨の髄まで疲れ切っている。  外に出ると、十一月の風が容赦なく頬を刺した。空は鉛色に沈み、今にも泣き出しそうに見える。まるで俺の心を映しているようだった。  電車の中で、ふと薬指を見下ろす。結婚指輪があった場所には、白い痕だけが残っている。三年間そこにあったものが消えると、こんなにも指が軽く感じるものなのか。  ——美奈との最後の会話が、耳の奥で反響する。 「悠真さんって、いつも笑ってるけど、本当は何を考えてるのか分からない」  間違ってなんかいなかった。俺は確かに笑っていた。でも、心から笑えていたのは一体いつが最後だっただろう。  自宅マンションの玄関を開けると、靴箱には俺の革靴だけがぽつんと並んでいる。美奈のピンクのパンプスは、もうない。 「ただいま」  誰もいない部屋に向かって呟いた声が、虚しく響いて消えた。  リビングに足を向けると、ダイニングテーブルの上には、朝のコーヒーカップが置きっぱなしになっている。中に半分残った茶色い液体は、もうとっくに冷め切っていた。 シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。 2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。 ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。 美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。 形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。「もう一度やり直さないか」 最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」 その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。 結婚する前は、それ
last updateLast Updated : 2025-09-05
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第二章 突然の訪問者
 川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。 十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。 平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。 理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。 離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」 昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。 ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。 こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。「もう恋愛なんてしなくていい」 声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。 美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。「おかえりなさい」「お疲れさま」 交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。 結局、愛って何だったんだろう。 そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。 顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。 最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。「あの……」 低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。「はい
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 翌日の午後三時。「なぜ俺は、あの公園に向かっているんだ?」 俺は自分の足を見下ろした。会社の帰り道、気がつくと川沿いの公園へ向かう遊歩道を歩いている。理性では「意味がない」と分かっているのに、どうしても足が公園へ向かってしまう。 昨日から、蓮のことが頭から離れない。デスクで資料を読んでいても、あの真剣な眼差しが脳裏に浮かぶ。コーヒーを飲んでいる時も、頬を赤らめて照れる表情が思い出される。そして何より--。「君を見つけられて幸せだ」 その言葉が、胸の奥でくすぶり続けている。まるで心臓の奥に小さな火種が灯ったように、じわじわと熱が広がっていく。 会社では同僚の佐伯が「藤崎さん、なんか顔色よくなったんじゃないですか?」と声をかけてきた。そんなに分かりやすく顔に出ているのだろうか。鏡を見ても自分ではよく分からないが、確かに昨日の夜はぐっすり眠れた。離婚してから久しぶりのことだった。 秋の風が頬を撫でていく。川面には数羽のカモが浮かび、のどかな午後の風景が広がっている。こんな平和な場所で、俺は何を期待しているのだろう。 本当に来るのだろうか。それとも、昨日のことは一時の気の迷いだったのだろうか。 ベンチに座って川面を眺めていると、規則正しい足音が近づいてくる。昨日と同じ時刻、同じリズム。その足音を聞いた瞬間、胸がふっと高鳴った。振り返ると、黒いコートに身を包んだ蓮の姿が目に入った。 今日の蓮は昨日よりも身なりが整っている。髪も整えられていて、コートの下には白いシャツが見える。まるでデートの準備をしてきたかのように見える。でも、もしかしたら単なる気遣いなのかもしれない。「来てくれたんですね」 蓮の声に、明らかな安堵が混じっている。昨日よりも緊張しているのか、コートのボタンを無意識にいじりながら近づいてくる。その仕草がなぜか可愛らしく見えて、思わず心の中で苦笑してしまった。男性を可愛らしいと感じるなんて、自分でも驚きだった。「はい。なんとなく、ですが」 俺は正直に答える。なぜここに来たのか、自分でもよく分からなかった。ただ、一人でいることに疲れていたの
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「それで、美奈さんから藤崎さんが離婚されたと聞いて……」「美奈から聞いた?」 意外だった。離婚後、美奈とは事務的な連絡しか取っていない。「はい。先週、偶然駅前でお会いして。美奈さん、藤崎さんのことをとても心配されていました」「心配?」 美奈が俺のことを心配している。それは本当に意外だった。離婚の時は、もうお互いに何の感情も残っていないと思っていたから。お互いに疲れ切って、ただ別れることしか考えていなかった気がする。「『悠真は一人でいると考え込んでしまうタイプだから』って。『きっと自分を責めて、また笑わなくなってしまう』っていわれて」 美奈は俺のことを、そんなふうに見ていたのか。結婚していた頃は分からなかった視点だった。確かに俺は一人になると、どうしても物事を悪い方向に考えてしまう癖がある。「美奈さんは『悠真にはもっと笑っていてほしい』ともいわれていました。『結婚生活の終わり頃には、彼の本当の笑顔が見られなくなって、それが一番辛かった』と」 その言葉が胸に刺さった。美奈も辛かったのだ。俺は自分の辛さばかりに囚われて、美奈の気持ちを理解しようとしていなかった。「それで、おせっかいだとは思ったのですが、どうしてもお会いしたくて」 蓮は俺の方を向いた。その瞳には昨日と同じ真剣さと、新たに加わった温かさがあった。「藤崎さんが今辛い時期にいるなら、今度は俺が……何かお手伝いできることがあるかもしれないと思って」「お手伝い?」「はい。一人でいるのが辛い時に、話し相手になったり。買い物に付き合ったり。映画を見にいったり」 蓮の頬がほんのり赤くなる。その照れた様子が、クールだった第一印象とのギャップを際立たせている。「そんな些細なことですが……。もしかしたら、少しでも藤崎さんの助けになれるかもしれない。あの時の笑顔を取り戻すお手伝いができるかもしれない」 その不器用な申し出に、俺の心が温かくなった。見返りを求めている様子はまった
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第四章 小さな救い
 あれから三日が過ぎた。 俺は相変わらず出版社での日常を過ごしていたが、心の片隅では橘蓮という男のことが気になっていた。あの公園での出来事—蓮の真剣な眼差し、「君の笑顔に救われた」という言葉、そして俺を見つめる時の照れた表情—それらが頭の中でぐるぐると回り続けている。 土曜日の夕方、蓮と食事をする約束をしている。連絡先も交換した。 なぜあんな約束をしてしまったのだろう。そして、なぜ俺はあの時、あんなにも自然に「お願いします」といってしまったのだろう。 仕事に集中しようとデスクに向かっているが、原稿を読んでいても文字が頭に入ってこない。コーヒーの味も分からない。窓の外を見れば、あの公園の方角ばかりに目が向いてしまう。 蓮の真剣な眼差し、俺の笑顔に救われたという言葉、そしてあの照れた表情。「藤崎さん、大丈夫ですか?」 後輩の佐伯俊が心配そうに声をかけてきた。彼は俺より五歳年下で、いつも明るい笑顔で職場の雰囲気を和ませてくれる貴重な存在だ。「ああ、すまない。ちょっと考え事をしていて」「最近、なんだか元気がないように見えます。離婚のこと、まだ気にされているんですか?」 佐伯の率直な言葉に、俺は苦笑いを浮かべる。離婚のことか。確かにそれもあるが、今は別のことで頭がいっぱいだった。「いや、もうそれは吹っ切れたよ。ただ……」 そこまでいいかけて、俺は口を閉じる。あの男のことを話すわけにはいかない。話したとしても、佐伯には理解できないだろう。俺自身、何が起きているのか分からないのだから。「とにかく、心配してくれてありがとう。大丈夫だから」 佐伯は納得していない様子だったが、それ以上は追及せずに自分の席に戻っていった。 その日の夕方、俺は編集会議で遅くなり、いつもより二時間遅れで会社を出た。秋の夜は訪れが早く、もうあたりは真っ暗だった。駅へ向かう途中、なんとなく足取りが重くなる。 家に帰っても一人きり。温め直すだけの夕食と、静まり返った部屋が待っているだけだ。
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 しばらくして、蓮が湯気の立つ雑炊を持ってきてくれた。「熱いので気をつけてください」「ありがとうございます」 一口すすってみると、優しい味が口の中に広がった。出汁がよく効いていて、体の芯から温まる。「久しぶりだな……誰かに作ってもらった料理を食べるのは」 思わずつぶやいた言葉に、蓮がちらりと俺を見た。「美奈さんは料理を?」「お互い忙しくて……いつもコンビニ弁当だった」 そんな会話をしながら、なぜか心が軽くなっていく。「美味しいです」 俺がそういうと、蓮の頬がほんのりと赤く染まった。「そういってもらえると……よかったです」 その時、俺は思わず笑顔になっていた。蓮の不器用な照れ方がなんだか可愛らしくて、思わず頬が緩んでしまった。 すると、蓮の顔がみるみるうちに真っ赤になった。いつものクールな表情が崩れ、慌てて視線を泳がせる。その姿が妙に可愛らしくて、俺はまた思わず笑顔になってしまった。「あ、あの……その」 普段のクールな彼からは想像もつかない動揺ぶりだった。視線をそらし、手をもじもじと動かしていた。「どうしたんですか?」「いえ……その……藤崎さんが笑うと……」「笑うと?」「とても……綺麗で」 小さくつぶやかれたその言葉に、今度は俺の方が赤面する番だった。「そんな……男なのに、綺麗だなんて言われるなんて」「でも、本当にそう思うんです。藤崎さんの笑顔を見ていると……」 蓮は途中で言葉を切り、慌てたように立ち上がった。「す、すみません。変なことを言ってしまって。もう大丈夫そうですし、そろそろ失礼します」
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第五章 笑顔の理由
「なぜ、こんなに胸が騒ぐんだろう」 土曜日の夕方、駅前のカフェに向かう足取りが、学生時代の初デート以来の緊張で重くなっていた。これは単なる食事の約束なのに。 体調はすっかりよくなっていたが、胸の奥で何かがざわめいている。こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。 いや、デートではない。これは単なる食事だ。俺は自分に言い聞かせながら歩いた。 カフェに着くと、蓮はすでに席に座って待っていた。制服ではなく、グレーのニットに黒のジャケットという落ち着いた私服姿だった。いつものクールな印象は変わらないが、どこか柔らかい雰囲気も感じられる。 エスプレッソの香りが漂う店内で、夕日がガラス窓を橙色に染めている。BGMのジャズが二人の間の微妙な空気を包み込んでいた。「お待たせしました」「いえ、俺も今来たところです」 俺が席に着くと、蓮は心配そうな顔でこちらを見つめた。「体調はいかがですか?」「おかげさまで、すっかりよくなりました。あの時は本当にお世話になりました」「よかったです」 蓮は安堵の表情を浮かべる。その様子から、彼が本当に俺の体調を気遣ってくれていたことが伝わってきた。 メニューを見ながら何を注文するか考えていると、蓮が口を開いた。「藤崎さんは、普段どんなお食事をされているんですか?」「お恥ずかしい話ですが、普段はコンビニ弁当が多いです。料理はあまり得意ではないので」「そうなんですね。俺も一人暮らしなので、よく分かります」 そんな他愛のない会話をしながら、俺たちはパスタと紅茶を注文した。 料理が運ばれてくると、蓮は少しためらうような仕草を見せた。「藤崎さん、聞いても良いことかどうか分からないのですが……」「なんでしょう?」「離婚のこと、もしよろしければ聞かせていただけませんか? 無理にとはいいませんが」 俺は少し驚いた。あの日以来、誰も俺に離婚について詳しく聞こうとはしなかった。佐伯でさえ、表面的な
last updateLast Updated : 2025-09-11
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第六章 過去との比較
「もう二度と、誰かの笑顔に心を奪われることはない」 日曜日の朝、俺は目を覚ましつつ、三か月前に自分に誓った言葉を思い出していた。 なのに今、胸の奥で静かに燃え続ける炎は何だろう。 窓から差し込む日差しがまぶしく、カーテンの隙間から覗く空は抜けるような青さだった。こんなに爽やかな朝を迎えるのは、美奈と離婚してから初めてかもしれない。 昨日の蓮との会話が、頭の中で何度も繰り返し再生されている。「もっと笑っていてほしい」 その言葉を思い出すたびに、胸の奥が溶けるように温かくなる。そして同時に、これまでに感じたことのない、甘い緊張感が湧き上がってくる。 ベッドから起き上がり、洗面台に向かう。鏡に映った自分の顔を見ると、いつもより血色がよく見える。まるで内側から光が差しているかのようだった。 コーヒーを淹れながら、俺は自分の変化に戸惑っていた。 美奈と離婚してから、毎朝がただの時間の経過でしかなかった。起きて、シャワーを浴びて、適当に朝食を済ませ、会社に行く。感情のない機械のような日々だった。 でも、今朝は違った。蓮に会えるかもしれないという期待が、心をざわつかせている。 コーヒーの香りが部屋に広がる中、俺は美奈との生活を思い返してみた。 結婚当初は確かに幸せだった。少なくとも、そう思っていた。 でも今になって振り返ると、あの頃の俺たちの関係には決定的に何かが欠けていたような気がする。 美奈は俺の笑顔について、何かいったことがあっただろうか。 俺が料理を作った時、彼女は「ありがとう」といってくれた。俺が残業で遅くなった時、「お疲れさま」といってくれた。でも、俺の笑顔そのものを見て、心を動かされたことがあっただろうか。 思い出せない。 いや、もしかしたら美奈なりに俺を見てくれていたのかもしれない。でも、俺にはそれが伝わってこなかった。まるで分厚いガラス越しに会話をしているような、そんな距離感があった。 蓮の場合は違う。彼が俺を見つめる時の眼差しには、確かな温度がある。まるで俺という人間その
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 美奈は俺のことを「真面目すぎる」「面白みがない」といったことがあった。悪気があったわけではないが、俺はそれを聞いて、自分に魅力がないことを確信してしまった。 でも蓮は違う。俺のそういう部分を、魅力として受け止めてくれている。傷ついた俺の心に、優しい光を差し込んでくれている。「本当に……そう思ってくれるんですか?」「はい」 蓮の返事に迷いはなかった。その確信に満ちた声が、俺の凍った心を溶かしていく。 その時、川を渡る風が俺たちの間を通り抜けていった。蓮の髪が少し乱れ、俺は思わずそれを直してあげたい衝動に駆られた。 でも、手を伸ばすことはできなかった。まだ、その一線を越える勇気がない。 こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。 美奈との関係でも、確かに最初の頃はときめくことがあった。でも、それは今感じているものとは根本的に質が違う。 美奈との恋愛は、どこか頭で計算して作り上げたものだったように思う。「この人とならうまくやっていけそう」「価値観が合いそう」と理性的に考えた結果の関係だった。 でも蓮に対しては、理屈抜きで心が動かされる。彼の笑顔を見ると嬉しくなるし、彼が照れると愛おしくなる。そして、彼の前では嘘のない自分でいられる。 これが、蓮のいっていた「本当の愛」なのだろうか。「橘さん」「はい?」「昨日、本当の愛についてお話ししてくださいましたね」「はい」「あれは……経験に基づいた話だったんですか?」 蓮の表情が少し複雑になった。どこか切ないような、でも希望を秘めたような。「はい。でも、まだ想いを伝えられずにいるんです」 その言葉を聞いて、俺の胸に鋭い痛みが走った。 昨日から気になっていることがある。蓮が想いを寄せているという人が、本当に俺なのかどうか。 でも、それを確かめるのが怖い。もし違ったら、この温かい気持ちが一瞬で冷めてしまいそうで。この甘い夢から覚めてしまいそうで。
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