離婚したばかりの藤崎悠真は、もう二度と恋をしないと決めていた。 孤独な日々を埋めるのは仕事と味気ない日常だけ。そんな彼の前に突然現れたのは、クールで義理堅い青年・橘蓮。初対面のはずなのに「君を見つけられて幸せだ」と真っ直ぐに告げる彼に、悠真は戸惑うばかり。けれど、蓮が自分の笑顔を見るたびに照れ、真剣に向き合ってくる姿に、揺れ動く心を抑えられなくなっていく。 ──男同士の恋に未来はあるのか? 失った愛の先に待っていたのは、“初めてのときめき”だった。
View More「もう二度と、誰かを愛することはない」
俺-シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。
2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。
ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。
美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。
形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。
「もう一度やり直さないか」
最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。
「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」
その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。
結婚する前は、それで十分だと思っていた。穏やかで、平和で、お互いを尊重し合える関係。けれど、実際に一緒に暮らしてみると、何かが決定的に足りなかった。
心が躍ることがなかった。
朝起きて彼女の顔を見ても、帰宅して「おかえりなさい」と言われても、胸がときめくことは一度もなかった。むしろ、次第に息苦しさを感じるようになっていった。
幸せな夫を演じることに疲れたのだ。
スマートフォンの着信音が静寂を破る。画面には「佐伯」の文字。
「お疲れさまです、藤崎さん。手続き、終わりましたか?」
出版社の後輩の声が、やけに明るく聞こえる。
「ああ、終わった」
「飲みに行きませんか。一人でいると、あまり良いことを考えませんよ」
「大丈夫だ。今日は休みたい」
「……そうですか。でも、一人で抱え込まないでくださいね」電話を切ると、また重い静寂が戻ってくる。
冷蔵庫を開けると、コンビニ弁当とビールが数本。それだけだ。料理は美奈が担当していた。俺が遅く帰っても、いつも温かい夕食が用意されていた。
今は、それすらない。
弁当をレンジで温めながら、ふと考える。
これから、どうやって生きていけばいいのだろう。
三十二歳。決して若くはない。周りの友人たちは家庭を築き、子供の写真をSNSに投稿し、それぞれ充実した日々を送っている。しかし、俺は——また一人に戻った。
味気ない白米を口に運びながら、俺は心に誓った。
もう恋愛なんてしない。
結婚も、恋人も、もう必要ない。
人を好きになることの虚しさを、俺は嫌というほど味わった。心が通い合わない関係を続ける辛さも知った。
だったら、最初から一人でいればいい。誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、静かに生きていく。
外では雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く雨音が、胸の奥に染みわたる。
これから先の人生、俺は一人で歩いていく。
そう決めたはずなのに——どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
弁当を半分残し、俺は早々にベッドに潜り込んだ。広すぎるダブルベッドの端で体を丸め、目を閉じる。
その夜、俺は不思議な夢を見た。
どこかで誰かが、俺の名前を優しく呼ぶ夢を。
でも、声の主の顔は見えなかった。
翌朝、目が覚めると外は嘘のような快晴だった。
雨上がりの空気は透明で、窓から差し込む陽光が床を金色に染めている。けれど、俺の心は、相変わらず曇り空のままだった。
洗面台で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見つめる。目の下には薄いクマができていた。昨夜はあまり眠れなかった。
いつものスーツに袖を通し、いつもの電車に乗る。変わったのは、もう帰りを待ってくれる人がいないということだけだった。
出版社に着くと、佐伯が心配そうな顔で迎えてくれた。
「おはようございます。顔色、あまり良くないですね」
「大丈夫だ。仕事に集中する」
それが今の俺にとって、唯一の救いだった。編集の仕事は好きだし、やりがいもある。作家たちの情熱あふれる文章を読んでいると、自分の空っぽな心を忘れることができる。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。今日も新しい原稿が届いているはずだ。
そう、これでいい。
仕事があれば、俺は生きていける。
愛なんて、もう必要ない。
——この時の俺は、まだ知らなかった。運命が、すぐそこまで迫っていることを。
第一節:公園の出会い 夜勤明けの空は、いつも俺の心と同じ色をしている。 灰色に染まった雲が重く垂れ込めて、今にも雨が降り出しそうな夕方だった。警備会社の制服を着たまま、俺は川沿いの公園のベンチに腰を下ろした。体の芯まで染み込んだ疲労が、ずしりと肩にのしかかっていた。 橘蓮、28歳。警備員として働き始めて三年目。 毎日、同じ現場を巡回し、同じ内容の報告書を書き、上司からも似たような小言を聞く日々が続いた。気がつくと、心にぽっかりと穴が開いていた。「今日も一日お疲れ様でした」 同僚たちは帰り際にそう声をかけてくれるけれど、俺にはその温かさがどこか遠くに感じられる。家に帰れば、一人きりの部屋でコンビニ弁当を黙々と食べるだけ。テレビをつけても、ニュースの音が虚しく響くだけだった。「何のために生きてるんだろうな」 独り言が口から漏れた。公園には俺以外誰もいない——いや、正確にはいないと思っていた。「ははは、それは確かに面白いね」 突然聞こえた笑い声に、俺は顔を上げた。 声の方向を見ると、五十メートルほど離れたベンチに一人の男性が座っていた。手に本を持ち、携帯電話を耳に当てていた。きっと誰かと通話しているのだろう。 でも、俺の視線を釘付けにしたのは、その人の表情だった。 心の底から楽しそうに笑っているその顔が、夕暮れの薄明かりの中でとても優しく見えた。年は俺より少し上に見える。スーツ姿で、きっと会社員なのだろう。少し乱れた髪と緩んだネクタイが、一日働いた疲れを感じさせる。しかし、その笑顔は疲れをまったく感じさせず、むしろ輝いているようだった。「そうそう、その通り! 君の発想はいつも斬新だよ」 また笑い声が聞こえた。相手に向ける言葉なのに、なぜか俺の胸に響いてくる。その人の笑い方には作り物っぽさがまったくなく、子供のような純粋さと、大人の包容力の両方を感じさせた。 俺は気づけばその人をじっと見つめていた。 この人は誰と話しているんだろう。恋人だろうか、それとも友人だろうか。どんな話をすれば、こんなに楽しそうに笑えるんだろう。 胸の奥にじんわりと温かさが広がった。それは今までに味わったことのない感覚だった。他人の笑顔を見ているだけなのに、なぜか自分の心まで軽くなっていく。まるで凍りついていた感情が、少しずつ溶けていくような——そんな不思議な気持
夕方、仕事を終えて家に帰ると、蓮がすでに来て待っていてくれた。玄関の前に立つ彼の姿を見ただけで、俺の心は喜びで満たされた。「お帰りなさい」 蓮の『お帰りなさい』という言葉が、俺の心に深くしみた。「ただいま」 そう返したとき、本当に家に帰ってきたのだと実感した。もう、一人きりの部屋ではなく、愛する人が待つ場所に帰ってきたのだ。 俺たちは玄関でキスを交わした。一日の疲れが、一瞬で吹き飛んでしまった。 愛する人の唇の感触。それだけで、俺の疲れはすっかり消えた。「今日はどうでしたか?」 蓮の気遣いの言葉に、俺は今日一日のことを話した。仕事の内容、佐伯との会話、心の中で蓮のことを考えていたこと。何ということのない日常の報告だが、蓮は真剣に聞いてくれた。「俺の話も聞いてください」 今度は蓮が今日の出来事を話してくれた。警備の仕事の話、同僚との会話、俺からのメッセージがどんなに嬉しかったか。 俺たちは、こうやってお互いの一日を分かち合うのだ。これこそが、本当のパートナーなのだと実感した。 夕食の支度をしながら、俺たちは自然に会話を続けた。キッチンで料理の準備をする蓮の後ろ姿を見ていると、この情景がこれから続いていくのかと思うと、胸が熱くなった。 食事の後は、一緒にテレビを見ながらくつろいだ。蓮の肩に寄りかかって、彼の体温を感じていると、今日という日が完璧だったと思えた。「こんな日常が続けばいいですね」 俺の呟きに、蓮の手が俺の髪を優しく撫でた。「きっと続きますよ。俺たちが望む限り」「望みます。ずっと」 俺は蓮を見上げた。彼の瞳には、同じ想いが宿っていた。「俺もです。ずっと、藤崎さんと一緒にいたい」 俺たちは再び唇を重ねた。今日という一日を締めくくる、愛情のキス。 ベッドで抱き合いながら、俺は今日一日を振り返った。朝起きてから夜眠るまで、すべての瞬間が愛情に満ちていた。 これが、愛し合うカップルの日常なのだ。これが、本当の幸せな
食事の後、俺たちはソファでテレビを見ながらくつろいだ。蓮の膝を枕にして横になっていると、彼の手が俺の髪を撫でてくれる。その手つきは優しくて、愛情に満ちていた。「こんなに穏やかな時間を過ごすのは、いったいいつ以来でしょうか」 俺の呟きに、蓮の手が一瞬止まった。「美奈さんとのご結婚生活は……大変だったんですね」 蓮の気遣いのある言葉に、俺は胸が痛んだ。「彼女が悪い人だったわけではありません。ただ……愛し合っていなかっただけです」 今振り返ると、美奈との結婚は間違いだったのかもしれない。でも、あの経験があったからこそ、今の蓮との愛の素晴らしさを実感できる。 すべての出来事に意味があったのだと思いたい。「でも、今は違います。心から愛し合える人と出会えました」 俺は身体を起こして、蓮を見つめた。「蓮さん、ありがとう。俺の人生を変えてくれて」 蓮の瞳が潤んだ。「俺の方こそ、ありがとうございます。藤崎さんがいなかったら、俺は一生一人のままだったでしょう」 俺たちは深くキスを交わした。愛情と感謝の気持ちを込めて、心を込めて。 夜が更けても、俺たちは離れたくなかった。ベッドで抱き合いながら、互いの体温を感じ、心臓の鼓動を聞いていた。言葉はいらなかった。ただ、お互いがそこにいることの幸せを噛み締めていた。「明日からは、また仕事ですね」 蓮の言葉に、俺は少し寂しくなった。でも同時に、希望も湧いてきた。「でも、帰る場所ができました」「帰る場所?」「蓮さんのところです。一人の部屋に帰るのではなく、愛する人の元に帰るんです」 蓮の腕が俺をぎゅっと抱きしめた。「俺も同じです。藤崎さんがいてくれるから、毎日が楽しみになります」 蓮の言葉が俺の心に深くしみた。これからの人生が、こんなにも希望に満ちて見える。 愛する人がいる人生。支え合い、愛し合いながら歩んでいく人生。「蓮さん」「はい」
「藤崎さん」「何ですか?」「昨夜のことを後悔していませんか?」 蓮の声には、ほのかな不安がにじんでいた。自然と、俺は彼の顔を見つめてしまった。「どうしてそんなことを?」「男性同士で愛し合うということに、戸惑いを感じているのではないかと思って」 蓮の心配そうな表情を見て、胸が締めつけられる思いだった。彼は、こんなにも自分のことを気遣い、思ってくれているのだと実感した。 「後悔なんて、微塵もありません」 俺は蓮の手を両手で包み込んだ。その手は大きくて、少し冷たくて、でもとても温かかった。「確かに、男性とお付き合いするのは初めてですし、戸惑いもあります。でも……」 俺は蓮の瞳を真っすぐ見つめた。「それ以上に、あなたと一緒にいると心が満たされるんです。こんなに愛されていると実感できるのは、生まれて初めてです」 俺の言葉に、蓮の表情が安堵でふっと和らいだ。「俺も同じです。藤崎さんといると、今まで知らなかった幸せを感じます」 俺たちは自然に唇を重ねた。朝の優しいキス。昨夜の激しいものとは違う、愛情を確かめ合うような穏やかなキス。唇を離すと、蓮が俺の髪を撫でた。「これからのことを、一緒に考えていきましょう」「はい」 現実的な問題はたくさんある。職場の人たちにどう説明するか、住む場所をどうするか、お互いの家族にどう話すか。でも、それらの問題も、蓮と一緒なら乗り越えていける気がした。「まずは……お互いの仕事のことを考えなくてはいけませんね」「そうですね。でも、急ぐ必要はありません。ゆっくりと、一つずつ解決していけばいい」 蓮の落ち着いた声に、俺の不安がすっと和らいだ。この人は、いつも俺の気持ちをわかってくれる。そして、一緒に最善の方法を考えてくれる。 こんなに頼もしいパートナーがいるなんて、俺は本当に幸せ者だ。「蓮さんと出会えて、本当によかった」 俺の心からの言葉に、蓮の表情が愛おしそうに和ら
目を覚ましたとき、最初に感じたのは蓮の体温だった。 俺の身体に密着する彼の腕、規則正しい寝息、そして肌から立ち上る男性的な香り――それらすべてが現実であることを実感させてくれる。昨夜、俺たちは本当に愛し合った。心も身体も、完全に一つになった。 蓮の寝顔を見つめていると、胸の奥が甘く痛んだ。普段のクールな表情からは想像できないほど穏やかで無防備な顔。長いまつげが頬に影を落とし、少し開いた唇からは浅い寝息が漏れている。 こんな表情を見ることができるのは、きっと俺だけ。 その特別感が、俺の心を深く満たしていく。 そっと手を伸ばして、蓮の頬に触れた。ひげがうっすらと生えていて、男性らしい手触りが指先に伝わる。その感触は美奈の柔らかい肌とはまったく異なるけれど、この違いがかえって愛おしく感じられた。 これが俺の選んだ人。俺を選んでくれた人。 蓮がゆっくりと目を開けた。最初はぼんやりしていた瞳が、俺を認めると一気に愛情深い光を湛えた。まるで世界で一番大切なものを見つけたような表情。その眼差しに見つめられると、俺の心臓が甘く跳ねた。「おはようございます、藤崎さん」「おはよう……蓮さん」 初めて下の名前で呼んでみた。その響きが、俺の口の中で蜂蜜のように甘く転がった。昨夜を境に、俺たちの関係は確実に変わったのだ。もう他人行儀な距離感は必要ない。「蓮さん……」 もう一度呼んでみると、まるで最初からそう呼びなれていたみたいに、自然と口から名前がこぼれた。「その呼び方……いいですね」 蓮の表情が嬉しそうに緩んだ。そして、俺の額に軽くキスをした。唇の柔らかい感触が額に残り、愛されているという実感が全身に広がっていく。「昨夜は……ありがとうございました」 蓮の声には、深い感謝の気持ちが込められていた。「俺の方こそ……こんなに幸せにしてくれて」 本当にそう思えた。昨夜の出来事は、俺の人生を大きく変えてくれた。愛とは何か、本当に愛されることがどういうことなのか――そのすべてを感じさせてくれた、大切な体験だっ
「愛しています」 蓮が俺の髪を撫でながら囁いた。その声は、深い愛情に満ちていた。「俺も……愛しています」 俺は蓮の胸に顔を埋めた。彼の心臓の音が、まるで子守唄のように俺を包み込んでくれる。力強くて、優しい鼓動。その音を聞いていると、俺は本当に愛されているのだという実感が湧いてきた。 これこそが本当の愛なのだと、改めて実感した。身体だけでなく、心と心、魂と魂がしっかり繋がっているという深い安心感と幸福感。美奈との結婚生活では、決して手にできなかった充実感を今は感じている。以前の自分は、本当の愛が何なのかも知らず、ただ形だけの関係を続けていただけだった。でも今は違う。蓮の腕の中で、「愛されている」と心から実感することができた。「藤崎さん」 蓮が俺の名前を呼んだ。俺は顔を上げて、彼を見つめた。「ありがとうございます」「何をですか?」「俺を……受け入れてくれて」 蓮の瞳に、深い感謝の気持ちが宿っていた。「俺の方こそ……こんなに幸せにしてくれて、ありがとう」 俺たちは再び唇を重ねた。今度は激しいものではなく、愛情を確かめ合うような、優しいキス。唇を離すと、蓮が俺の額に軽くキスをした。「これからも、ずっと一緒にいてください」「はい……ずっと」 蓮の腕の中で、俺は心から安らいでいた。もう一人ぼっちではない。愛し愛される人がいる。この人と一緒なら、どんな困難も乗り越えていける。そんな確信が、俺の心を満たしていた。 窓の外では、夕日が美しいオレンジ色に街を染めていた。一日が終わろうとしていた。でも、俺たちにとっては終わりではなく、始まりだった。新しい人生の第一歩。「橘さん」「はい」「俺……今まで本当の愛を知らなかったんだと思います」 蓮の手が、俺の頬を優しく撫でた。「俺もです。藤崎さんに出会うまでは」「離婚したとき、もう二度と愛なんて要らないと思っていました。でも……」「でも?」「あなたに出会って、愛
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