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海野雫
海野雫
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Novels by 海野雫

離婚から始まる恋

離婚から始まる恋

離婚したばかりの藤崎悠真は、もう二度と恋をしないと決めていた。 孤独な日々を埋めるのは仕事と味気ない日常だけ。そんな彼の前に突然現れたのは、クールで義理堅い青年・橘蓮。初対面のはずなのに「君を見つけられて幸せだ」と真っ直ぐに告げる彼に、悠真は戸惑うばかり。けれど、蓮が自分の笑顔を見るたびに照れ、真剣に向き合ってくる姿に、揺れ動く心を抑えられなくなっていく。 ──男同士の恋に未来はあるのか?  失った愛の先に待っていたのは、“初めてのときめき”だった。
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Chapter: 番外編 あの日の笑顔を探して
第一節:公園の出会い 夜勤明けの空は、いつも俺の心と同じ色をしている。 灰色に染まった雲が重く垂れ込めて、今にも雨が降り出しそうな夕方だった。警備会社の制服を着たまま、俺は川沿いの公園のベンチに腰を下ろした。体の芯まで染み込んだ疲労が、ずしりと肩にのしかかっていた。 橘蓮、28歳。警備員として働き始めて三年目。 毎日、同じ現場を巡回し、同じ内容の報告書を書き、上司からも似たような小言を聞く日々が続いた。気がつくと、心にぽっかりと穴が開いていた。「今日も一日お疲れ様でした」 同僚たちは帰り際にそう声をかけてくれるけれど、俺にはその温かさがどこか遠くに感じられる。家に帰れば、一人きりの部屋でコンビニ弁当を黙々と食べるだけ。テレビをつけても、ニュースの音が虚しく響くだけだった。「何のために生きてるんだろうな」 独り言が口から漏れた。公園には俺以外誰もいない——いや、正確にはいないと思っていた。「ははは、それは確かに面白いね」 突然聞こえた笑い声に、俺は顔を上げた。 声の方向を見ると、五十メートルほど離れたベンチに一人の男性が座っていた。手に本を持ち、携帯電話を耳に当てていた。きっと誰かと通話しているのだろう。 でも、俺の視線を釘付けにしたのは、その人の表情だった。 心の底から楽しそうに笑っているその顔が、夕暮れの薄明かりの中でとても優しく見えた。年は俺より少し上に見える。スーツ姿で、きっと会社員なのだろう。少し乱れた髪と緩んだネクタイが、一日働いた疲れを感じさせる。しかし、その笑顔は疲れをまったく感じさせず、むしろ輝いているようだった。「そうそう、その通り! 君の発想はいつも斬新だよ」 また笑い声が聞こえた。相手に向ける言葉なのに、なぜか俺の胸に響いてくる。その人の笑い方には作り物っぽさがまったくなく、子供のような純粋さと、大人の包容力の両方を感じさせた。 俺は気づけばその人をじっと見つめていた。 この人は誰と話しているんだろう。恋人だろうか、それとも友人だろうか。どんな話をすれば、こんなに楽しそうに笑えるんだろう。 胸の奥にじんわりと温かさが広がった。それは今までに味わったことのない感覚だった。他人の笑顔を見ているだけなのに、なぜか自分の心まで軽くなっていく。まるで凍りついていた感情が、少しずつ溶けていくような——そんな不思議な気持
Last Updated: 2025-09-30
Chapter: 12-4
 夕方、仕事を終えて家に帰ると、蓮がすでに来て待っていてくれた。玄関の前に立つ彼の姿を見ただけで、俺の心は喜びで満たされた。「お帰りなさい」 蓮の『お帰りなさい』という言葉が、俺の心に深くしみた。「ただいま」 そう返したとき、本当に家に帰ってきたのだと実感した。もう、一人きりの部屋ではなく、愛する人が待つ場所に帰ってきたのだ。 俺たちは玄関でキスを交わした。一日の疲れが、一瞬で吹き飛んでしまった。 愛する人の唇の感触。それだけで、俺の疲れはすっかり消えた。「今日はどうでしたか?」 蓮の気遣いの言葉に、俺は今日一日のことを話した。仕事の内容、佐伯との会話、心の中で蓮のことを考えていたこと。何ということのない日常の報告だが、蓮は真剣に聞いてくれた。「俺の話も聞いてください」 今度は蓮が今日の出来事を話してくれた。警備の仕事の話、同僚との会話、俺からのメッセージがどんなに嬉しかったか。 俺たちは、こうやってお互いの一日を分かち合うのだ。これこそが、本当のパートナーなのだと実感した。 夕食の支度をしながら、俺たちは自然に会話を続けた。キッチンで料理の準備をする蓮の後ろ姿を見ていると、この情景がこれから続いていくのかと思うと、胸が熱くなった。 食事の後は、一緒にテレビを見ながらくつろいだ。蓮の肩に寄りかかって、彼の体温を感じていると、今日という日が完璧だったと思えた。「こんな日常が続けばいいですね」 俺の呟きに、蓮の手が俺の髪を優しく撫でた。「きっと続きますよ。俺たちが望む限り」「望みます。ずっと」 俺は蓮を見上げた。彼の瞳には、同じ想いが宿っていた。「俺もです。ずっと、藤崎さんと一緒にいたい」 俺たちは再び唇を重ねた。今日という一日を締めくくる、愛情のキス。 ベッドで抱き合いながら、俺は今日一日を振り返った。朝起きてから夜眠るまで、すべての瞬間が愛情に満ちていた。 これが、愛し合うカップルの日常なのだ。これが、本当の幸せな
Last Updated: 2025-09-29
Chapter: 12-3
 食事の後、俺たちはソファでテレビを見ながらくつろいだ。蓮の膝を枕にして横になっていると、彼の手が俺の髪を撫でてくれる。その手つきは優しくて、愛情に満ちていた。「こんなに穏やかな時間を過ごすのは、いったいいつ以来でしょうか」 俺の呟きに、蓮の手が一瞬止まった。「美奈さんとのご結婚生活は……大変だったんですね」 蓮の気遣いのある言葉に、俺は胸が痛んだ。「彼女が悪い人だったわけではありません。ただ……愛し合っていなかっただけです」 今振り返ると、美奈との結婚は間違いだったのかもしれない。でも、あの経験があったからこそ、今の蓮との愛の素晴らしさを実感できる。 すべての出来事に意味があったのだと思いたい。「でも、今は違います。心から愛し合える人と出会えました」 俺は身体を起こして、蓮を見つめた。「蓮さん、ありがとう。俺の人生を変えてくれて」 蓮の瞳が潤んだ。「俺の方こそ、ありがとうございます。藤崎さんがいなかったら、俺は一生一人のままだったでしょう」 俺たちは深くキスを交わした。愛情と感謝の気持ちを込めて、心を込めて。 夜が更けても、俺たちは離れたくなかった。ベッドで抱き合いながら、互いの体温を感じ、心臓の鼓動を聞いていた。言葉はいらなかった。ただ、お互いがそこにいることの幸せを噛み締めていた。「明日からは、また仕事ですね」 蓮の言葉に、俺は少し寂しくなった。でも同時に、希望も湧いてきた。「でも、帰る場所ができました」「帰る場所?」「蓮さんのところです。一人の部屋に帰るのではなく、愛する人の元に帰るんです」 蓮の腕が俺をぎゅっと抱きしめた。「俺も同じです。藤崎さんがいてくれるから、毎日が楽しみになります」 蓮の言葉が俺の心に深くしみた。これからの人生が、こんなにも希望に満ちて見える。 愛する人がいる人生。支え合い、愛し合いながら歩んでいく人生。「蓮さん」「はい」
Last Updated: 2025-09-29
Chapter: 12-2
「藤崎さん」「何ですか?」「昨夜のことを後悔していませんか?」 蓮の声には、ほのかな不安がにじんでいた。自然と、俺は彼の顔を見つめてしまった。「どうしてそんなことを?」「男性同士で愛し合うということに、戸惑いを感じているのではないかと思って」 蓮の心配そうな表情を見て、胸が締めつけられる思いだった。彼は、こんなにも自分のことを気遣い、思ってくれているのだと実感した。 「後悔なんて、微塵もありません」 俺は蓮の手を両手で包み込んだ。その手は大きくて、少し冷たくて、でもとても温かかった。「確かに、男性とお付き合いするのは初めてですし、戸惑いもあります。でも……」 俺は蓮の瞳を真っすぐ見つめた。「それ以上に、あなたと一緒にいると心が満たされるんです。こんなに愛されていると実感できるのは、生まれて初めてです」 俺の言葉に、蓮の表情が安堵でふっと和らいだ。「俺も同じです。藤崎さんといると、今まで知らなかった幸せを感じます」 俺たちは自然に唇を重ねた。朝の優しいキス。昨夜の激しいものとは違う、愛情を確かめ合うような穏やかなキス。唇を離すと、蓮が俺の髪を撫でた。「これからのことを、一緒に考えていきましょう」「はい」 現実的な問題はたくさんある。職場の人たちにどう説明するか、住む場所をどうするか、お互いの家族にどう話すか。でも、それらの問題も、蓮と一緒なら乗り越えていける気がした。「まずは……お互いの仕事のことを考えなくてはいけませんね」「そうですね。でも、急ぐ必要はありません。ゆっくりと、一つずつ解決していけばいい」 蓮の落ち着いた声に、俺の不安がすっと和らいだ。この人は、いつも俺の気持ちをわかってくれる。そして、一緒に最善の方法を考えてくれる。 こんなに頼もしいパートナーがいるなんて、俺は本当に幸せ者だ。「蓮さんと出会えて、本当によかった」 俺の心からの言葉に、蓮の表情が愛おしそうに和ら
Last Updated: 2025-09-28
Chapter: 第十二章 新しい人生へ
 目を覚ましたとき、最初に感じたのは蓮の体温だった。 俺の身体に密着する彼の腕、規則正しい寝息、そして肌から立ち上る男性的な香り――それらすべてが現実であることを実感させてくれる。昨夜、俺たちは本当に愛し合った。心も身体も、完全に一つになった。 蓮の寝顔を見つめていると、胸の奥が甘く痛んだ。普段のクールな表情からは想像できないほど穏やかで無防備な顔。長いまつげが頬に影を落とし、少し開いた唇からは浅い寝息が漏れている。 こんな表情を見ることができるのは、きっと俺だけ。 その特別感が、俺の心を深く満たしていく。 そっと手を伸ばして、蓮の頬に触れた。ひげがうっすらと生えていて、男性らしい手触りが指先に伝わる。その感触は美奈の柔らかい肌とはまったく異なるけれど、この違いがかえって愛おしく感じられた。 これが俺の選んだ人。俺を選んでくれた人。 蓮がゆっくりと目を開けた。最初はぼんやりしていた瞳が、俺を認めると一気に愛情深い光を湛えた。まるで世界で一番大切なものを見つけたような表情。その眼差しに見つめられると、俺の心臓が甘く跳ねた。「おはようございます、藤崎さん」「おはよう……蓮さん」 初めて下の名前で呼んでみた。その響きが、俺の口の中で蜂蜜のように甘く転がった。昨夜を境に、俺たちの関係は確実に変わったのだ。もう他人行儀な距離感は必要ない。「蓮さん……」 もう一度呼んでみると、まるで最初からそう呼びなれていたみたいに、自然と口から名前がこぼれた。「その呼び方……いいですね」 蓮の表情が嬉しそうに緩んだ。そして、俺の額に軽くキスをした。唇の柔らかい感触が額に残り、愛されているという実感が全身に広がっていく。「昨夜は……ありがとうございました」 蓮の声には、深い感謝の気持ちが込められていた。「俺の方こそ……こんなに幸せにしてくれて」 本当にそう思えた。昨夜の出来事は、俺の人生を大きく変えてくれた。愛とは何か、本当に愛されることがどういうことなのか――そのすべてを感じさせてくれた、大切な体験だっ
Last Updated: 2025-09-28
Chapter: 11-4
「愛しています」 蓮が俺の髪を撫でながら囁いた。その声は、深い愛情に満ちていた。「俺も……愛しています」 俺は蓮の胸に顔を埋めた。彼の心臓の音が、まるで子守唄のように俺を包み込んでくれる。力強くて、優しい鼓動。その音を聞いていると、俺は本当に愛されているのだという実感が湧いてきた。 これこそが本当の愛なのだと、改めて実感した。身体だけでなく、心と心、魂と魂がしっかり繋がっているという深い安心感と幸福感。美奈との結婚生活では、決して手にできなかった充実感を今は感じている。以前の自分は、本当の愛が何なのかも知らず、ただ形だけの関係を続けていただけだった。でも今は違う。蓮の腕の中で、「愛されている」と心から実感することができた。「藤崎さん」 蓮が俺の名前を呼んだ。俺は顔を上げて、彼を見つめた。「ありがとうございます」「何をですか?」「俺を……受け入れてくれて」 蓮の瞳に、深い感謝の気持ちが宿っていた。「俺の方こそ……こんなに幸せにしてくれて、ありがとう」 俺たちは再び唇を重ねた。今度は激しいものではなく、愛情を確かめ合うような、優しいキス。唇を離すと、蓮が俺の額に軽くキスをした。「これからも、ずっと一緒にいてください」「はい……ずっと」 蓮の腕の中で、俺は心から安らいでいた。もう一人ぼっちではない。愛し愛される人がいる。この人と一緒なら、どんな困難も乗り越えていける。そんな確信が、俺の心を満たしていた。 窓の外では、夕日が美しいオレンジ色に街を染めていた。一日が終わろうとしていた。でも、俺たちにとっては終わりではなく、始まりだった。新しい人生の第一歩。「橘さん」「はい」「俺……今まで本当の愛を知らなかったんだと思います」 蓮の手が、俺の頬を優しく撫でた。「俺もです。藤崎さんに出会うまでは」「離婚したとき、もう二度と愛なんて要らないと思っていました。でも……」「でも?」「あなたに出会って、愛
Last Updated: 2025-09-27
永遠を待つ者

永遠を待つ者

千年の眠りから目覚めた吸血鬼の王は、再びこの世に現れた“かつての魂”の気配を感じ取る。 かつて、ただ一人愛した人間の青年。その命は短く、決して永遠を共にできない存在だった。だが彼は、奪うことも、縛ることも選ばなかった。ただ、愛される日を静かに待つことを選んだ。 千年という時を超えて、二つの魂はふたたび出会う。だが、転生した青年は何も覚えていない。見知らぬ吸血鬼に出会い、理由もなく心を乱される。夢の中で繰り返される情景に、覚えのない懐かしさが胸を締めつける。
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Chapter: 永遠を待つ者
 闇(くら)い。 瞼をゆっくりと持ち上げると、真っ暗闇の中にいることを認識した。しばらくは自分がどこにいるのか、何をしていたのか思い出せずにいた。記憶の靄が晴れるまで、私は静かに時の流れを待った。 そうだった。血石で装飾された棺の中で、愛する人の魂が再びこの世に現れるのを待っていたのだった。 果たしてあれから何年が経ったのだろうか。時間の感覚は曖昧になっていた。 重い棺の蓋を両手で押し上げると、新鮮な空気が胸いっぱいに満ちた。久しぶりに感じる生の感覚に、私の心は僅かながら躍動した。「お目覚めですか、陛下」 カツカツと靴音を響かせながら、執事のエリックが玉座の間に足を向けてくる。以前とは違い、髪を短く切り揃え、見たことのない服装で私の前に現れた。「あれからどれほど時が過ぎたのだ?」 私は左手の人差し指に嵌められた血石の指輪を指先で撫でながら、エリックの装いをまじまじと見つめた。それから自分の服装に目を向けると、時代錯誤も甚だしい有様だった。 銀の刺繍が施された生地のブラウスに黒いパンツ、そして漆黒のローブを纏った姿は、明らかに吸血鬼であることを示していた。自分でも苦笑してしまいそうになる。 それに比べてエリックは、真っ白なシャツに黒いネクタイ、黒いジャケットと黒いパンツという現代的な装いだった。「陛下がお眠りになられてから、およそ三百年ほどでございましょう」 エリックは涼しい顔でそう答えた。三百年という途方もない時間を、まるで昨日のことのように語る。「陛下がお目覚めになられたということは、あの方がお戻りになられたのですね?」 私は棺の縁に手をかけて外へ出た。血石があしらわれた棺は宝飾品で一面に飾られており、一見すると巨大な宝石箱のようだった。 ローブを翻し、足音を響かせながら玉座へと向かう。どっしりと腰を落ち着け、足を組んだ。「そうであろうな。この胸の感覚は間違いない」 その時、窓から月明かりが差し込んできた。私の青白い肌をさらに白く際立たせる光。月光のように白い瞳に、久しぶりに力が宿るのを感じた。 胸に手を当てると、奥深くで脈打つ懐かしい魂の気配を感じ取ることができた。千年前に愛した、あの美しい青年の魂が――。 この世界のどこかで、再びその魂が息づいている。私は左手人差し指の指輪をそっと撫で、瞼を伏せた。指輪に埋め込まれた血
Last Updated: 2025-07-17
響きあうカデンツァ

響きあうカデンツァ

孤独を抱える作曲科の学生・篠原響は、高校時代のトラウマから「同性しか愛せない自分は気持ち悪い」と思い込み、ひとり静かに作曲だけを続けていた。
 そんな響の前に現れたのが、声楽科に通う明るく情熱的なシンガー・藤堂晴真。
晴真は偶然耳にした響の曲に心を奪われ、「この歌を、俺に歌わせてくれ」と迫る。
人懐っこく、真っ直ぐにぶつかってくる晴真に、響は戸惑いと恐怖を覚える。
けれど同時に、誰にも触れさせなかった心を揺さぶられていく。 やがて二人は共に音楽を作り始めるが、周囲の目は厳しかった。
「普通じゃない」と陰口を叩かれ、プロデューサー・鷲尾誠司からは「売れる歌を作れ」と圧力をかけられる。

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Chapter: 5-3
 響の部屋に着くと、二人はすぐに抱き合った。 扉を閉めるやいなや、藤堂が響を壁に押し付け、激しくキスをする。さっきとは違う、熱を帯びたキス。欲望が滲むキス。 響は、藤堂の髪に手を絡めた。柔らかい髪が、指の間を滑る。 藤堂の手が、響のシャツのボタンに触れる。 ゆっくりと、一つずつボタンを外していく。その手つきは、丁寧だった。急がず、響の反応を確かめるように。 響は、息が荒くなり、心臓の鼓動がどんどん早まっていく。全身が熱くなっていた。藤堂も、自分のシャツを脱ぎ始めた。ゆっくりとボタンを外し、シャツを肩から滑り落とすと、筋肉質な体が露わになる。二人の肌が触れ合い、その温もりと柔らかさが、響に伝わってきた。藤堂の体温と心臓の鼓動を、響ははっきりと感じた。 その瞬間――響の体が、固まった。 突然、高校の時の記憶がフラッシュバックする。 告白した時の、あの教室。「気持ち悪い」 その言葉を浴びせられた時の、あの表情。「ホモとか、ありえない」「お前、マジで終わってる」 笑い声。嘲笑。軽蔑の眼差し。 机の中のメモ。 『きもい』 『死ね』 『普通じゃない』 あの言葉が、頭の中で何度も反響する。繰り返す記憶――机の中のメモ、廊下での笑い声、教室での孤独。すべてが一度に蘇ってきた。呼吸ができず、胸が苦しい。体が震える。藤堂は、そんな響の変化にすぐ気づいた。「……響?」 藤堂の声が、心配そうだ。遠くから聞こえるようだった。 響は、震えていた。体が、いうことを聞かない。頭では分かっている。藤堂は違う。藤堂は、自分を受け入れてくれている。 でも、体が――心が、拒絶している。「ごめん……俺……」と、響の声がかすれる。涙が溢れそうになる。こんな自分が情けない。「無理、だ……」 そういうのが
Last Updated: 2025-10-16
Chapter: 5-2
 発表会が終わり、出演者たちの打ち上げがあった。 響は参加するつもりはなかったが、藤堂に強引に連れてこられた。学内のカフェテリアを貸し切って、軽食とドリンクが用意されている。テーブルには、サンドイッチやケーキ、ジュースやコーヒーが並ぶ。華やかな雰囲気。笑い声と談笑の声が響く。 響は隅で黙っていたが、次々と学生たちが話しかけてきた。「あの曲、すごく良かったです」 女子学生が目を輝かせていう。その目は、赤く腫れていた。泣いたのだろう。「本当に感動しました。私も泣いちゃって」「作曲したんですか? もっと聴きたいです」 男子学生が興味深そうに尋ねる。「どういう経緯で、あの曲が生まれたんですか?」「藤堂さんと、また共演してください」 ピアノ科の学生が、笑顔で頼む。「次の発表会も、ぜひお願いします」 響は戸惑いながらも、小さく頷いた。自分が肯定され、認められているという実感が、少しずつ湧いてくる。胸の奥が、じんわりと温かい。 こんな経験は、初めてだった。 高校の時は、避けられた。笑われた。机の中にメモを入れられた。 だが今は――こんなにも、多くの人が自分の音楽を認めてくれている。 美咲も、打ち上げに来ていた。響の元に近づいてきて、微笑んだ。「やっぱり、素晴らしかったわ」 美咲が響の手をそっと握った。「私も泣いちゃった。あの曲、本当に美しい」「……ありがとう」 響は小さく答えた。「私、やっぱりあの曲を弾いてみたい」 美咲は真剣な目でいった。「今度、楽譜を見せてもらってもいい?」 響は少し迷ったが、頷いた。もう、怖くなかった。美咲なら、自分の曲を大切に扱ってくれる。そう信じられた。 藤堂は、少し離れた場所で仲間たちと談笑していた。北川怜や他のバンドメンバーたちに囲まれている。時々、響の方を見ては、微笑みかけてくる。その笑顔は、誇らしげだった
Last Updated: 2025-10-15
Chapter: 第五章 最初の共演
 発表会当日の朝、響は何度も吐き気を催した。 鏡の中の自分は青白く、目の下には隈ができている。昨夜はほとんど眠れなかった。ベッドに横になっても、心臓の音がうるさくて眠れない。寝返りを打つたびに、不安が押し寄せてくる。天井を見つめ、時計の針が進むのを数え、また天井を見つめる――その繰り返しだった。 今日、藤堂が自分の曲を歌う。 大学の講堂で、二百人以上の観客の前で発表会が行われる。また、笑われるのではないか、気持ち悪いといわれるのではないかと不安になる。高校の時のように、噂が広まり避けられたり、机の中にメモが入れられたり、廊下で指を差されたりするのではと考えてしまう。 響は洗面台に顔を埋めた。冷たい水で顔を洗う。水滴が頬を伝い、シンクに落ちる音が響く。鏡の中の自分に、言い聞かせる。 ――大丈夫。藤堂を信じろ。 だが、心臓は激しく脈打ち続ける。手も、微かに震えている。 朝食は喉を通らなかった。コーヒーを一口飲もうとしたが、吐き気が込み上げてきて、諦めた。部屋の中を行ったり来たりする。時計を見る。まだ午前九時。発表会は午後二時から。あと五時間もある。 響は、藤堂からのメッセージを読み返した。昨夜届いたものだ。『明日、頑張る。お前の曲を、絶対に最高の形で届けるから』 その言葉を何度も読み返す。藤堂を信じよう。この人は、自分を裏切らない。そう自分に言い聞かせる。 だが、不安は消えなかった。 午前中、響はずっと部屋にいた。作曲をしようとしたが、集中できない。本を読もうとしたが、文字が頭に入ってこない。ただ、時間が過ぎるのを待つだけだった。 正午になり、響は簡単にパンを食べた。ほとんど味がしなかった。 午後一時、響は大学に着いた。 講堂に向かう足取りは重い。一歩一歩が、鉛のように重い。廊下を歩くたび、すれ違う学生たちの視線が刺さるような気がする。彼らは響のことを知らないはずなのに、まるで全員が自分を見ているような錯覚に陥る。 廊下の掲示板には、発表会のポスターが貼られている。出演者の名前が並ぶ中、「藤堂晴真」という名前と、
Last Updated: 2025-10-14
Chapter: 4-4
「なあ、響」 藤堂が急に立ち上がった。「今から、ちょっと付き合ってくれないか?」「……どこに?」「秘密」 藤堂はいたずらっぽく笑った。「いいから、来いよ」 響は戸惑ったが、藤堂の手に引かれて立ち上がった。 二人は大学を出て、駅に向かった。電車に乗り、三十分ほど揺られる。窓の外の景色が流れていく。響は、どこに連れていかれるのか分からなかった。 やがて、二人は小さな音楽ホールの前に着いた。「ここ、何?」「俺の恩師がいる場所」 藤堂は答えた。「お前に、会わせたいんだ」 響は驚いた。恩師――藤堂が尊敬する人。「でも、いきなり……」「大丈夫。話はつけてある」 藤堂は響の手を引いて、ホールの中に入った。 ロビーを抜け、小さなスタジオに入る。そこには、ひとりの老人が座っていた。 白髪の、穏やかな顔をした老人。その目は、優しく響を見つめた。「いらっしゃい」 老人は微笑んだ。「晴真から、君のことは聞いているよ。篠原響くん」 響は緊張して頷いた。「こちらは、俺の恩師の柴田先生」 と、藤堂が紹介した。「声楽を教えてくださってる」「よろしく」 柴田は手を差し出した。響は、恐る恐る握手をした。その手は、温かかった。「晴真から、君の曲を聴かせてもらったよ」 柴田は穏やかにいった。「『ひとりの夜に』――素晴らしい曲だった」「……ありがとうございます」 響は小さく答えた。「君は、自分の音楽に迷いがあるそうだね」 柴田は椅子に座り、響にも座るよう促した。「はい……」 響は正直に答えた。「俺の音楽は、暗くて、普通じゃなくて……本当に価値があるのか、分からなくて」「普通、か」
Last Updated: 2025-10-13
Chapter: 4-3
 その夜、響は部屋で鷲尾の言葉を反芻していた。 パソコンの前に座り、自分の曲を聴き直す。どれも、暗く、重く、孤独に満ちている。ヘッドホンから流れる旋律が、心に突き刺さる。 これを、明るく変える? 響は首を振った。それは、できない。自分の感情を偽ることは、できない。 だが、鷲尾の言葉も頭から離れない。「聴く人のことを考えるべきです」 その言葉が、繰り返し響く。 響は窓の外を見つめた。街の灯りが、遠くに見える。あの灯りの下で、どれだけの人が音楽を求めているのだろう。そして、自分の音楽は――その人たちに届くのだろうか。 その時、携帯電話が鳴った。藤堂からだった。『明日、時間ある? 話したいことがあるんだ』 響は少し迷ったあと、返信した。『……ある』『じゃあ、大学の中庭で。昼休みに』『分かった』 響は携帯を置いた。画面の光が消える。 藤堂は、何を話したいのだろうか。 もしかして、鷲尾のことだろうか。 響は、不安と期待が入り混じった気持ちで、夜を過ごした。眠れない夜。天井を見つめながら、考え続けた。 * 翌日の昼休み。 響は約束通り、大学の中庭に向かった。初夏の日差しが強く、木陰が心地よい。ベンチには、すでに藤堂が座っていた。「よう、来たな」 藤堂は笑顔で響を迎えた。だが、その笑顔は、いつもより少し硬いように見えた。「……それで、話って?」 響はベンチに座った。木陰の涼しさが、肌に心地よい。「ああ」 藤堂は真剣な顔になった。「鷲尾さんから、連絡あった?」「……ああ」 響は頷いた。藤堂も知っているのか。「何ていわれた?」 響は少し迷ったあと、鷲尾との会話を話した。音楽を変えろといわれたこと。大衆受けする曲を作るべきだといわれたこと。明るく、ポジティブに――そう調整しろと。
Last Updated: 2025-10-12
Chapter: 4-2
 その日の夕方、響は練習室に向かった。 久しぶりに、グランドピアノの前に座りたくなった。美咲の言葉が、響の心を動かしたのだ。音を奏でたい――そう思った。 三階の奥の練習室に入り、扉に鍵をかける。誰にも邪魔されない空間。ここだけが、響の聖域だった。窓から差し込む夕陽が、ピアノの黒い天板を照らしている。 響は鍵盤に指を置き、目を閉じた。 そして、そっと弾き始めた。 最初は静かなアルペジオ。それが次第に高揚し、和音が重なっていく。響の心の中にある、言葉にできない感情のすべてが、音となって溢れ出していく。 孤独、痛み、恐怖――そして、小さな希望。 藤堂に出会ってから芽生えた、温かな感情。 美咲の言葉に背中を押された、前に進もうとする気持ち。 響は夢中で弾き続けた。時間の感覚が消え、ただ音楽だけが存在する。指が鍵盤を滑り、音が空間を満たす。 曲が終わると、響は深く息を吐いた。体が熱い。額に汗が滲んでいる。 その時、背後から拍手が聞こえた。 響は驚いて振り返った。扉の前に、見知らぬ男性が立っていた。 三十代後半くらいだろうか。黒いスーツを着て、鋭い目つきをしている。だが、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。整った顔立ちと、どこか余裕のある雰囲気。「……誰?」 響の声は警戒に満ちていた。鍵をかけたはずなのに、なぜこの人が入ってきたのだろう。「失礼」 男性は一歩前に出た。革靴が床を叩く音が響く。「扉が開いていたもので。素晴らしい演奏でした」 響は警戒した。扉は確かに鍵をかけたはずだ。それに、この男性は――見たことがない。「私は北川怜の知人でして」 男性は名刺を差し出した。その動作は、洗練されていた。「鷲尾誠司と申します」 響は名刺を受け取った。そこには「RMエンターテインメント プロデューサー 鷲尾誠司」と書かれていた。高級感のある紙質。金の箔押し文字。「プロデューサー……?」 
Last Updated: 2025-10-11
目を合わせたら、恋だった。

目を合わせたら、恋だった。

「目を合わせることすら怖かった僕に、世界一まっすぐな恋が向かってきた」 桐ヶ谷陽翔が「ガチの一目惚れ」でグイグイ攻めてくるのに対し、綾瀬叶翔は「過去のトラウマ」から人を信用できず、逃げる。
それでも陽翔は諦めず、叶翔にアプローチし続ける。そして少しずつ叶翔が心を開いていき……。
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Chapter: 第四十六話 未来に名前をつけるなら
 放課後、俺たちは公園へ向かった。手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら、ゆっくりと歩く。夕暮れの柔らかな光が二人の影を長く伸ばしていた。 ここは、俺たちが初めて気持ちを通わせた公園。ベンチに座り、手を繋いだまま、空を見上げる。言葉を交わさなくても、ただ二人で並んで座っているだけで心が温かくなる。「叶翔、今日はありがとう」 突然のお礼に、不思議そうに陽翔を見つめる。「何が? 俺、何かした?」 陽翔は俺の髪を指差し、くしゃっと笑った。 そうだ。陽翔のリクエストに応えて、前髪を上げたのだ。自分らしくない行動だけど、陽翔のためなら何でもしたいと思ってしまう。そんな気持ちが、今日の勇気につながった。 自分の行動が恥ずかしくなり、顔が熱くなる。「変、だった?」「ううん。すごく似合ってる」 陽翔は俺を抱きしめ、額にキスをした。陽翔の唇の温かさが、彼の愛情そのもののように感じられた。 俺はバッグから、そっと小さな箱を取り出した。「陽翔、お誕生日おめでとう。これ……」 プレゼントを手渡すと、陽翔の顔がぱっと明るくなった。「うそ? ありがとう! 開けていい?」 俺が頷くと、陽翔は恐る恐る箱を開け、目を見開いた。「……ピアス?」「俺と、半分こ」 俺は耳元を見せた。箱の中にあったピアスの片割れが、耳に光っている。「この宝石、陽翔の誕生日石のトパーズなんだ。陽翔の何かを身に付けていたくて……」 恥ずかしさで声が小さくなる。「本当は指輪とかも考えたんだけど……。それは重いかなって」「指輪でもよかったのに!」 陽翔は俺をぎゅっと抱きしめ、耳元で囁いた。「来年も、再来年も、その先も……ずっと一緒にいたいな」 頬を擦り付けながら、続ける。「そうなったら……もう、恋人っていうより、家族って感じ?」 小さく笑う陽翔の声は、低く、真剣味を帯びていた。「……まだ早いよ、そんなの。でも……その言葉、好き」 俺は陽翔の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめた。 俺は、目を合わせるのが怖かった。触れること、好きになること、全部が怖かった。でも、陽翔がそばにいてくれるなら、怖くても前に進める。未来に、名前をつけていける。「陽翔となら……全部信じられる。今も……これからも」 陽翔は太陽のような笑顔で俺を見つめた。その瞳に映る自分は、もう昔のように怯えてはいなかった
Last Updated: 2025-05-19
Chapter: 第四十五話 言わなくても、伝わるように
 夏の始まりを告げる強い日差しが注ぐ六月十二日。俺は鏡の前から動けずにいた。 ――前髪、上げるの、恥ずかしい……。 何度か手で前髪をかき上げてみるが、目元が露わになるのが怖い。高校のゲイバレ事件から、人と目を合わせるのが苦手で、自然と前髪で目を隠すようになっていた。それが今では癖になっていて、習慣的に目元を隠している。 でも今日は、陽翔の誕生日。 一度だけ、「前髪を上げた叶翔が見たい」と言われたことを思い出す。あの時は断ってしまったけれど、今日は特別な日。だから、思い切って前髪を上げてセットした。 キャンパス内を一限目の授業へ向かって歩く。目元を隠していないことで視界は広がったが、なぜか恥ずかしさと不安で足取りが早くなる。 教室に着くと、いつもの定位置である一番後ろの窓際に座り、頬杖をついた。窓の外を見ると、木々の緑は一層濃くなり、夏の到来を感じさせた。「かーなとっ!」 振り返ると、陽翔が駆け寄ってきた。彼の表情が一瞬で驚きに変わる。「え? 前髪、上げてくれたの? うれしい!」 ギュッと抱きついてキスをしようとする陽翔を、慌てて押し返す。「ここ、学校だってば!」「えー、いいじゃん。うれしいんだもん」 しゅんと眉を下げて残念そうにする陽翔を見て、小さくため息をついた。バンドマンで女の子に囲まれる陽翔が、こんな子どもっぽい表情をするなんて。そのギャップに、心がくすぐられる。 ――喜んでくれるのはうれしいけど……。 何度注意しても、陽翔のスキンシップに時と場所の区別はない。「これならいいでしょ?」と言いながら、肩を引き寄せられ、耳元で囁かれる。「叶翔、かっこいい」 その声に、耳まで真っ赤になってしまう。「もう、そんなこと言うなって!」 そんな言い合いをしていると、後ろから明るい声が降ってきた。「おやおや、お二人さん。ここ、学校なんですけどー」 振り向くと、芽衣がニヤニヤしながら立っていた。「まぁ、でも、お二人さんはすっかり学内公認カップルだし、許されるか」「そんな……」 恥ずかしくて俯く俺の肩を抱き寄せ、陽翔は堂々と宣言する。「俺、公開告白したからね!」「だねー。あたしの推しカプだから!」 芽衣も同意して、二人で楽しそうに笑い合う。 ――俺も、堂々と陽翔の横を歩かないとな。 陽翔と芽衣の姿を見て、自分を奮い立たせ
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Chapter: 第四十四話 となりが”普通”になるまで
 甘い香りが鼻をくすぐり、ゆっくりと目を開けた。朝日が淡いオレンジ色に部屋を染め、カーテンの隙間から差し込む光が天井に揺れている。いつもと変わらない朝――のはずだった。だが、小さなキッチンから聞こえる鍋や食器の音と、どこか懐かしい香りが、いつもとは違う朝を告げていた。 枕から頭を持ち上げると、キッチンに陽翔の背中が見えた。エプロンを身に纏い、フライパンを左右に揺らしながら何かを焼いている。「あ、起きた? おはよう、叶翔」 振り返った陽翔は、朝の光よりも眩しい笑顔で俺を見つめた。 ――よかった。陽翔、ちゃんといてくれた。 昨夜のことが現実だったのか、それとも叶わぬ夢だったのか、一瞬不安になっていた。でも、目の前の陽翔はしっかりと実在していて、俺のキッチンで朝食を作っている。 俺はベッドから飛び起き、陽翔の元へ駆け寄った。後ろから抱きつき、顔を彼の背中に埋める。「どうしたの?」 陽翔の声が優しく響く。俺は彼の背中に顔を押し付けたまま、小さな声で言った。「……ありがとう。うれしい」「何が?」「陽翔が、ここにいてくれて」 陽翔は俺の手を取り、くるりと体を回して正面から抱きしめてくれた。「俺はどこにも行かないよ」 そう言って、彼は俺の頭を優しく撫でた。その手の温もりが安心感を与え、昨晩の余韻と共に胸に広がっていく。「ほら、温かいうちに食べよう」 陽翔に促され、テーブルに座る。卓上には、ふわふわのオムレツと焼きたてのパン、野菜がたっぷり入ったスープが並んでいた。スープからは湯気が立ち上り、朝の冷たい空気を暖める。「冷蔵庫、勝手に開けてごめん。あるもので作ったんだけど」 陽翔は照れ臭そうに頬を掻きながら言った。俺のために一生懸命朝ごはんを作ってくれたんだ。そう思うと胸が熱くなり、自然と顔がほころんだ。「なんか、朝ごはんの匂いで目覚めるなんて、俺、完全に陽翔の彼女じゃん」「叶翔は彼女じゃなくて、俺の彼氏だから!」 陽翔はすぐにツッコミを入れてくれた。「早く食べよう」と促され、二人で「いただきます」と手を合わせる。こんな当たり前の日常が、こんなにも特別に感じるなんて。「陽翔、昨日ちゃんと寝れた? ベッド、狭くて……」 昨夜のことを思い出し、頬が熱くなる。「うん、最高だったよ」 陽翔も顔を赤らめながら答えた。「叶翔が隣にいてくれたか
Last Updated: 2025-05-19
Chapter: 第四十三話 恋人、なんだよね
 寝室に移ると、ベッドカバーの青が二人を包み込んだ。廊下の灯りが微かに差し込み、陽翔の横顔を柔らかく照らしている。 待ちきれないとばかりに陽翔が激しくキスを繰り返してきた。息を吐く暇がないほど深く激しいキス。俺は下腹部の奥がじんじんと痺れるのを感じた。 とん、とベッドに寝かされ、またキスを繰り返す。覆い被さってきた陽翔の下半身がすでに硬くなっているのが分かった。その感触に一瞬怯んだが、陽翔の熱い吐息が俺の不安を溶かしていく。「……叶翔、愛してる……」 俺の服を脱がせようとしてくれるのだが、指先が震えているのが分かった。その震えは緊張なのか、興奮なのか、それとも不安なのか。でも――。 ――俺と同じなんだ……。 どんなことをするのかは知識で知っているが、いざするとなると恐怖が先に立ち、体が震えてくる。陽翔だって同じだ。彼も初めて。彼も不安。その事実が、妙に安心感を与えてくれた。「……陽翔……」 俺から唇を重ねると、少し安心したようで指先の震えが止まった。俺の服を脱がし、自分の服も乱雑に脱いでいく。その時の彼の目は、まるで宝物を開けるときのような輝きを持っていた。 肌と肌が重なり合う。目を閉じていても、彼の体温だけで陽翔の存在が分かる。重なったところが熱く、触れるたびにビリビリと電気が走ったような感覚に陥る。 俺の肌を滑らせる陽翔の手は、ゴツゴツしていて硬い。ギターを弾くための指。その指が今、俺の身体という楽器を奏でていく。「痛くない?」 陽翔の声が、俺の耳元で震えた。その声には不安と期待が混ざり合っていた。「大丈夫……」 俺の声も同じように震えている。見つめあった瞳に映る自分は、きっと信じられないほど恥ずかしい表情をしているに違いない。でも、もう隠したいとは思わない。「……叶翔、好き。愛しくてたまらない」 上から俺を見下ろす陽翔は、額に汗が滲んでいる。その瞳の奥は揺れて熱い眼差しだ。陽翔の顔が近づいてきて唇を重ねてきた。深く、深く。俺の体を触れながらキスを繰り返していく。 一つ一つの触れ合いが、これまでの傷を癒していく。高校時代の痛みも、孤独も、全部が陽翔の愛で浄化されていくようだった。 ――愛されるって、愛するって、こんなに幸せなんだ……。 気がつくと、俺の頬に涙が伝っていた。陽翔が指先でそっとその涙をぬぐう。「怖かったら言っ
Last Updated: 2025-05-19
Chapter: 第四十二話 怖くない、君だから
 自宅マンションの鍵を開けて、陽翔を招き入れた。扉を開けた途端、ペンや絵の具の匂いが鼻をくすぐった。自分特有の空間に他人を入れることの緊張が、俺の背筋を伝う。「わあー! 叶翔の部屋だっ! うれしい!」 まるで遊園地に来たみたいにはしゃいでいる陽翔を見ると、勇気を出して誘って良かったと思った。外では常に人目があったけれど、ここは二人だけの世界。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。「ちょっと、散らかってるかも……」 イラストを描くための作業机の上には、描きかけのイラストや絵の具やペンが散乱していた。それが俺という人間のすべてを物語っているようで、妙に恥ずかしくなる。「これ、見ていい?」 机の上のスケッチブックを見つけた陽翔が聞いてきた。彼の目は好奇心で輝いていた。「うん、いいよ。アイデア書き溜めてるだけだから。飲み物入れてくるけど、コーヒーでいい?」 陽翔はスケッチブックを見ながら「うん」と小さく頷いた。その仕草には、何か特別なものを扱うような丁寧さがあった。 キッチンからコーヒーを持ってセンターテーブルに置いた。陽翔はスケッチブックを凝視している。ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。「コーヒー、淹れたよ」 俺が声をかけると、我に返ったようにゆっくりと顔を上げた。その瞳には、何か湿ったような色があった。「叶翔……」 陽翔が俺の手の上に手を重ねてきた。彼の手の温もりが俺の体を温かく包む。「俺のこと、いっぱい描いてくれたんだね」 陽翔は俺の髪を指ですいて言った。その指先が耳に触れて、ぞくりと体が震えた。「うん。陽翔のこと、好き、だから」 俺は自分から顔を近づけて、陽翔に口付けた。最初は啄むように、優しく、触れるだけのキス。自分から求めることが震えるほど怖かったのに、一度だけでは足りないと思ってしまう。 彼の呼吸が熱く、俺の唇を温める。その温度が、身体の奥まで沁みていくようだった。 そしてそれは徐々に深いものになっていった。俺が舌で陽翔の下唇をなぞると、彼の喉から小さな声が漏れる。陽翔は俺を受け入れ、すぐに口を薄く開けてくれた。俺は陽翔の口の中に舌を滑り込ませ、陽翔の舌を絡め取った。「……ん……叶翔……」 陽翔から艶っぽい声が漏れる。その声が俺の耳の奥から背骨を伝って、下腹部まで響くようだった。陽翔も負けじと舌を伸ばして俺の
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Chapter: 第四十一話 キスがしたいって、思った
 いくつもショップを見て回って、気づけば陽が傾いて夕暮れになっていた。オレンジ色の光が俺たちの影を長く作っている。空気がほんのり甘く感じられる。「今日、楽しかった。ありがとう」 俺は肩を寄せ合い、手を繋いで歩いている陽翔に言った。陽翔は満面の笑みで「うん」と頷いた。「叶翔が楽しんでくれて良かったよ。たまには外で過ごすのもいいでしょ?」 陽翔がカッコ良すぎて、通り過ぎる女性たちが振り返ってはキャーキャー騒いでいたのを思い出す。それでも陽翔は一度も俺の手を離さなかった。誇らしげに俺と歩いていた。「陽翔、モテモテだったよね」「え? 叶翔こそ」 陽翔は俺の前髪を指で掬った。顔が顕になって、体が思わずこわばってしまう。「ほら、髪上げたら、めちゃくちゃかっこいい」 そう言いながら、俺の額にチュッとキスを落としてきた。「もうっ! 陽翔、ここ、外っ!」「別にいいじゃーん! 叶翔のこと好きなんだもん」 へへっと笑いながら俺に抱きついてくる。 ――まったく、陽翔は……。 付き合い出して思い知ったのは、陽翔のスキンシップが多いことだ。外だろうがどこだろうが、隙さえあればキスをしようとしてきたり、抱きついて来たりする。手を握ってくるのは日常茶飯事だが、恋人繋ぎは今日が初めてだった。「ねぇ、叶翔。今度、おでこ出して髪の毛セットしてよ。絶対、かっこいいって!」「やだよ……」 俺はふいっと陽翔から顔を背けた。もう誰とも、目を合わさないように目を隠して下を向く必要はない。だが、もうすっかり目元を隠すのに慣れきっていて、前髪を上げる勇気が出ない。「もうすぐ、俺の誕生日だから、その日限定でもいいから!」 陽翔は俺を覗き込んで懇願してくる。必死すぎて思わずぷはっと笑ってしまった。「分かったよ。陽翔、誕生日いつ?」「六月十二日」「ホント、もうすぐじゃん!」 誕生日には何をプレゼントしたら喜ぶかな? こんなことを考える日が来るなんて高校時代には想像もできなかった。人を好きになる勇気、誰かを想う喜び――それを教えてくれたのは陽翔だった。「叶翔は? 誕生日いつ?」「俺? 十月三日」「そっか。誕生日、お祝いしないとね」「陽翔の誕生日の方が先だろ? プレゼント何がいいか考えといてよ」「俺は、叶翔と二人で過ごせたら、何もいらない」 確かにそうだな。俺も同じだ
Last Updated: 2025-05-19
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