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第454話

Author: ちょうもも
伶の瞳には、わずかな笑みが潜んでいた。

悠良は根っから伝統的な気質を持っている。

ましてや昨夜が彼と初めての夜だった以上、彼のようにこうしたことをあけすけに口にできるはずもない。

だが伶は違った。

この男はいつだって図太い。

言えないことなど何一つない。

彼の前で負けないようにするには、自分もそれ以上に厚かましくならなきゃ。

そう悟った悠良は、わざと軽蔑するように唇を尖らせた。

「寒河江さんのキスなんて大したことない。普通です」

挑発のつもりだったのに、伶は少しも怒らない。

むしろ唇の端に、企みを隠したような笑みを浮かべる。

その顔を見て、悠良の胸に嫌な予感がよぎった。まるで罠にはまったかのような......

次の瞬間、伶は突然身を屈め、腰を抱き寄せて唇を奪った。

「キスが下手なら、練習あるのみ」

囁きとともに口づけは深まり、悠良の世界はぐるぐると回り出す。

いつもそうだった。

彼の唇に触れるたび、簡単に呑み込まれてしまう。

本当に、この人は今まで恋愛をしたことがないの?

ベッドでの手際の良さも、キスの技も、あまりに巧みすぎる。

理性では「だめだ」と告げても、抗えない。

結局、彼に溺れるしかないのだ。

コンコン。

オフィスの扉を叩く音が響き、悠良は一気に現実へ引き戻された。

まるで不意を突かれた不倫現場。

彼を押しのけるのに必死で――

そして気づいた。

自分のシャツのボタンがいつの間にか二つ三つ外れ、白い鎖骨があらわになっている。

慌てて留め直す。

一方で、伶のシャツは腰のあたりがくしゃくしゃに。

明らかに自分が掴んだ跡。

そんなことにすら気づいていなかった。

まさか自分がここまで堕ちるなんて。

扉が開き、漁野千景(りょうの ちかげ)が入ってきた。

一瞬で凍りつき、彼女は悠良と伶を指差して声を震わせた。

「なっ......!お兄ちゃん!この女、誰なの!?」

悠良にとって千景とは初対面だった。

だがその鋭い眼差しと立ち姿からして、この女がただの「兄のお見舞い」に来たわけではないのは明らかだった。

まるで浮気現場を押さえに来たような勢い。

なのに「お兄ちゃん」と呼ぶ。

近親者なら結婚はできないはずじゃ?

伶はゆっくりとネクタイを締め直し、不機嫌そうに彼女を一瞥した。

「何しに来た」

「お
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