#奇跡の猫がバズったので、婚約破棄してきた彼は捨てて幸せになります

#奇跡の猫がバズったので、婚約破棄してきた彼は捨てて幸せになります

last updateDernière mise à jour : 2025-09-23
Par:  灰猫さんきちComplété
Langue: Japanese
goodnovel12goodnovel
Notes insuffisantes
29Chapitres
2.0KVues
Lire
Ajouter dans ma bibliothèque

Share:  

Report
Overview
Catalog
Scanner le code pour lire sur l'application

ペットトリマーである佐藤みのりは、婚約者で人気インフルエンサーの桐谷拓也と同棲している。 拓也のペットで「撮影小道具」の犬のマロンの世話の他、家事や雑務を一手に引き受けて、拓也をサポートしていた。 ある嵐の日、みのりはずぶ濡れで震えている子猫を拾う。 ところが拓也は「そんな薄汚い猫なんか、俺にふさわしくない。出ていけ!」とみのりを追い出した。 彼は若い女と浮気していて、みのりを邪魔に思っていたのだ。 婚約を破棄され、家を追い出されたみのりは、拾った子猫の世話を続ける。 手入れされた猫はとても美しく、奇跡の猫としてSNSで大バズリ。世界的な動物写真家・篠宮蓮の目に止まり、写真集が出ることになって――?

Voir plus

Chapitre 1

01

 都心を見下ろす、タワーマンションの最上階。

 そこが今の私の家だった。

 ……ううん、家っていうより職場かな。

 白とガラスで統一されたリビングは、モデルルームみたいに無機質で、人の暮らす温かみみたいなものはどこにもない。

「ん……よし、きれいになったね」

 その生活感のない空間の片隅で、私は膝の上に乗せた愛しい存在に声をかけた。

 腕の中にいるのは、婚約者である拓也の愛犬、トイプードルのマロン。

 スリッカーブラシを優しく動かすたびに、白色のふわふわな毛が、空気をふくんでまぁるくなっていく。

 マロンはうっとりしたように目を細めて、私の手に頭をこてんと預けてきた。

(今日もマロンは天使だなぁ……)

 この子の世話をしている時間だけが、今の私の唯一の癒やしだ。

 人気トリマーだった頃の腕を、こんな形で発揮することになるとは思わなかったけど。

「はい、マロン。今日のごはんは特別だよ」

 ブラッシングを終えた私は、マロンのために用意したドックフードに、茹でたササミと細かく刻んだ野菜を彩りよく乗せてあげる。

 マロンは嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振って、小さな口で夢中になって食べ始めた。

(本当は、もっとトリマーの仕事、したいんだけどな)

 昔からの常連さんからの予約も、ほとんど断ってしまっている。

「俺のサポートとマロンの世話に集中してほしい」

 ――それが、婚約者である彼の望みだから。

「おはよ。みのり」

リビングのドアが開いて、あくびをしながら拓也が出てきた。

今年で27歳になる彼は、人気インフルエンサー。今日も髪は完璧にセットされていて、ハイブランドの部屋着姿ですら、雑誌の切り抜きみたいだ。

「……あ、マロン、いい感じじゃん。今日の動画、映えそう」

「おはよう、拓也。マロン、今日は特に毛艶がいいのよ」

 私はにっこり笑って返す。

(はいはい、マロンへの挨拶はそれだけね)

 心のなかで、そっと毒づく。

(おはようのついでに『今日の撮影道具』のコンディション確認、ご苦労様です)

 拓也はマロンを撫でようともせず、スマホをチェックし始めた。

 私との会話も、視線は画面に落としたままだ。

「あ、今日のランチだけどさ。俺のイメージに合う、オーガニック系のデリ、予約しといて。あとでストーリーに上げるから」

「うん、もう手配してあるよ」

(知ってますー。どうせ食べるのはこってりした出前のカツ丼のくせに。ほんと、SNSのためだけに生きてる男……)

 いつからだろう。

 彼との会話が、こんな業務連絡みたいになったのは。

(なんでこうなっちゃったかな。昔は拓也も優しくて、一緒にいると楽しかったのに……)

 インフルエンサーになる前、小さなアパートで一緒に笑い合った日々が、遠い昔のことみたいだ。

 再生数とか『いいね』の数が、拓也を変えてしまったのだろうか。

「みんな、おはよう! 今日は愛犬のマロンと一緒に、最高の朝の過ごし方を紹介するね!」

 リビングの一角にセッティングされた撮影スペースで、拓也の明るい声が響く。

 私はカメラを回しながら、彼の「理想の俺」劇場を静かに見守っていた。

 拓也はぎこちない手つきでマロンを抱き上げる。

 カメラの前では完璧な愛犬家を演じているけど、マロンの体が少し強張っているのが、私には分かった。

(マロン、固まってる。がんばれ! OK出たらすぐ、高級おやつあげるからね!)

 心の中でマロンにだけエールを送る。

 撮影が終わり、拓也は満足そうに息をついた。

 カメラが止まった途端、彼はマロンを乱暴に床に下ろすと、すぐにスマホでコメントのチェックを始める。マロンが足にじゃれついても、邪魔そうに振り払うだけだ。

 その態度の豹変ぶりに、私の心はすっかり冷めていった。

「んー、今日も完璧な動画撮れたわ。コメントもいい感じだし」

 ソファにふんぞり返った拓也が、私を見上げて言う。

 その顔には、一点の曇りもない、無邪気な笑顔が浮かんでいた。

「やっぱみのりのおかげだわ。家事も撮影の手伝いも、マロンの世話も完璧。みのりがいるから、俺の生活が完璧に見える」

 ――きゅう、と。

 心臓が、冷たくなるのを感じた。

 彼は感謝なんてしていない。

 ただ自分の生活を彩る便利なパーツの性能を、評価しているだけ。

 私はにっこりと、完璧な笑顔を作って返事をする。

「そう? 拓也が輝いて見えるなら、私も嬉しいな」

(……知ってたけど)

 心の奥で、もう一人の私が呟く。

(私やマロンは、あなたの『完璧な生活』を演出するための、ただのアクセサリーなんだね)

「じゃ、ジム行ってくるわ」

 拓也が軽やかに出ていったあと、私は一人で撮影機材を片付け始めた。

 広すぎるリビングに、マロンと二人きり。しん、とした静寂がやけに心に染みた。

 気分転換にテレビをつける。

 すると画面には、気泡予報士の深刻そうな表情が映し出された。思わず手を止める。

『――観測史上最大級の大型台風が、今夜半、関東地方に最も接近する見込みです。暴風や大雨に厳重な警戒が必要です――』

 窓の外に目をやれば、タワーマンションの高層階から見える空は、不気味なほどの厚い灰色に覆われていた。

 風が強まってきたのか、窓がカタカタと小さく音を立てる。

(なんだろう、この胸騒ぎ……)

 これから訪れる嵐が、私の『完璧』に見えた日常を、根こそぎひっくり返してしまうことなんて。

 この時の私は、まだ知る由もなかった。

Déplier
Chapitre suivant
Télécharger

Latest chapter

Plus de chapitres
Pas de commentaire
29
01
 都心を見下ろす、タワーマンションの最上階。 そこが今の私の家だった。 ……ううん、家っていうより職場かな。 白とガラスで統一されたリビングは、モデルルームみたいに無機質で、人の暮らす温かみみたいなものはどこにもない。「ん……よし、きれいになったね」 その生活感のない空間の片隅で、私は膝の上に乗せた愛しい存在に声をかけた。 腕の中にいるのは、婚約者である拓也の愛犬、トイプードルのマロン。 スリッカーブラシを優しく動かすたびに、白色のふわふわな毛が、空気をふくんでまぁるくなっていく。 マロンはうっとりしたように目を細めて、私の手に頭をこてんと預けてきた。(今日もマロンは天使だなぁ……) この子の世話をしている時間だけが、今の私の唯一の癒やしだ。 人気トリマーだった頃の腕を、こんな形で発揮することになるとは思わなかったけど。「はい、マロン。今日のごはんは特別だよ」 ブラッシングを終えた私は、マロンのために用意したドックフードに、茹でたササミと細かく刻んだ野菜を彩りよく乗せてあげる。 マロンは嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振って、小さな口で夢中になって食べ始めた。(本当は、もっとトリマーの仕事、したいんだけどな) 昔からの常連さんからの予約も、ほとんど断ってしまっている。「俺のサポートとマロンの世話に集中してほしい」 ――それが、婚約者である彼の望みだから。「おはよ。みのり」リビングのドアが開いて、あくびをしながら拓也が出てきた。今年で27歳になる彼は、人気インフルエンサー。今日も髪は完璧にセットされていて、ハイブランドの部屋着姿ですら、雑誌の切り抜きみたいだ。「……あ、マロン、いい感じじゃん。今日の動画、映えそう」「おはよう、拓也。マロン、今日は特に毛艶がいいのよ」 私はにっこり笑って返す。(はいはい、マロンへの挨拶はそれだけね) 心のなかで、そっと毒づく。(おはようのついでに『今日の撮影道具』のコンディション確認、ご苦労様です) 拓也はマロンを撫でようともせず、スマホをチェックし始めた。 私との会話も、視線は画面に落としたままだ。「あ、今日のランチだけどさ。俺のイメージに合う、オーガニック系のデリ、予約しといて。あとでストーリーに上げるから」「うん、もう手配してあるよ」(知ってますー。どうせ食べるのはこって
last updateDernière mise à jour : 2025-09-01
Read More
02
 ゴウゴウと空が唸りを上げている。 分厚い窓ガラスを、横殴りの雨がバチバチと叩いていた。「すごい雨……」 テレビのニュース速報が「不要不急の外出は控えてください」と、もう何度も繰り返している。 足元ではマロンが私の足に体を寄せて、不安そうに小さく震えていた。「大丈夫だよ、マロン」 そのふわふわの頭を撫でてあげていると、ソファでスマホをいじっていた拓也が、心底つまらなそうに声を上げた。「あー、最悪。俺が毎晩飲んでる、あの高級スパークリングウォーター、切らしたんだった」「え? でも、この嵐だよ? 明日にしたら?」「はぁ? 今夜のナイトルーティン動画で使うんだよ。俺の『丁寧な暮らし』の象徴なんだから、ないと締まらないだろ。ほら、行ってきて」(ウソでしょ……?) 私の問いかけは、いとも簡単に一蹴される。(この暴風雨の中、買い物に行けって言うの?)「でも、本当に危ないって……」 食い下がってみるけど、拓也は舌打ちをして私を睨んだ。「俺のフォロワーは、俺の『一貫性』を求めてるわけ。それがブランド価値だから。タクシーでも捕まえて、さっさと買ってきてよ」(ブランド、ブランドって……あんたのブランドのために、私は命を張れと?) 心のなかで悪態をつく。 でも、ここで断って彼を怒らせる方が、もっと面倒なことになる。 私はぐっと言葉を飲み込んで、立ち上がった。「……分かった。行ってくる」 マロンが「クゥン」と心配そうに鳴いた。私を心配してくれるのは、この子だけだ。「大丈夫だよ。お留守番していてね」 マロンの頭を撫でてから、私はレインコートを羽織って玄関のドアを開けた。◇ 外は想像を絶する嵐だった。 傘はマンションのエントランスを出た瞬間に、ひっくり返って骨が折れた。 洪水のように水が流れる道は、タクシーなんて一台も走っていない。 ずぶ濡れになりながら、私は近所の高級スーパーまで歩いた。店が閉まっていたら最悪だな、と思っていたけれど、幸いなことに開いていた。 拓也に言われた、一本数千円もするスパークリングウォーターを買って、重い買い物袋を抱えて帰路につく。 少しでも風を避けようと、ブランドショップが並ぶ裏通りに入った、その時だった。 ――ミャ…… 風の音に混じって、か細い鳴き声が聞こえた。(今の……猫?) まさかね、と思い
last updateDernière mise à jour : 2025-09-01
Read More
03:裏切り
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」 嵐の音だけが響く部屋に、拓也の冷たい声が落ちた。 フロアランプの灯りが彼の顔に深い影を作り、その表情は読めない。「た、ただいま……拓也。すごい嵐で、大変だったから」 平静を装って答える私の声は、自分でも情けないほど震えていた。 腕の中の子猫を隠すように、コートをぎゅっと抱きしめる。「……ふぅん。で、腕に隠してるソレ、何?」 ――ミャ…… 私の祈りもむなしく、コートの中からか細い鳴き声が漏れた。 その瞬間、拓也の顔があからさまな嫌悪感で歪む。「は? 猫? 捨て猫を拾ってきたのか。お前、正気かぁ? ゴミでも拾ってきたのかよ」(バレた。最悪のタイミングで!) 心臓が氷水に浸されたみたいに冷たくなった。(でも、この子を見捨てるなんて、もうできない) 何とか拓也を説得して、猫の世話をしないと。小さな体は冷え切っている。今すぐに温めなければ。 私が説得の言葉を考えていると、リビングの奥から知らないはずなのに聞き覚えのある、甘ったるい声がした。「拓也さーん、どうしたのー?」 現れたのは、人気インフルエンサーの坂田クルミだった。 完璧なメイクに、あざとく体のラインを強調する服。ずぶ濡れで立つ私とは、あまりにも対照的な姿だった。(坂田クルミ!?) 頭が真っ白になる。(なんで。どうして、この人が、この部屋にいるの……?) クルミは私を値踏みするように上から下まで眺めると、腕の中の子猫に気づいて、大げさに顔をしかめた。「うわ、何それ、ドブネズミみたい! 汚い! 拓也さんの綺麗な部屋が、バイ菌だらけになっちゃう!」 クルミは媚びるように拓也の腕にしがみついた。拓也に向ける顔は、あくまで可愛らしい。けど私に対しては、同一人物か疑いたくなるほどに見下した表情をしてくる。 拓也はそんな彼女を庇うように、私を睨みつけた。「大丈夫だよ、クルミちゃん。こいつが拾ってきたゴミは、俺が今すぐ処分させるから」(ゴミ……) この子も、私も、あなたにとってはもう、ただのゴミなんだ。 投げつけられた言葉が、心に突き刺さった。 クルミは勝ち誇ったように、私を見下して拓也に囁く。「ねぇ、拓也さん。トップインフルエンサーのあなたが、こんな薄汚い女と婚約してるなんて、イメージダウンだよ? ブランド価値、だだ下がりじゃ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-01
Read More
04
 深夜のペットサロンは、しんと静まり返っていた。 ここは私の職場のサロン。 最近は拓也のために仕事をセーブして、以前ほど働いていなかったけど、まだ籍は置かせてもらっている。 オーナーに電話して事情を話したら、「落ち着くまで泊まっていいよ」と優しく言ってくれた。その温かい言葉が、凍えた心にじわりと染みる。 ペットサロンだから、猫のための設備も一通り揃っている。猫用のミルクにキャリーケースなど。 オーナーは備品を使っていいと言ってくれた。とてもありがたかった。「大丈夫だよ。もう怖くないからね」 子猫用のミルクを用意して、指先に乗せた。鼻先に近づけてやれば、子猫はためらいながらも、小さな舌でぺろりと舐めてくれた。 猫用のバスタブにお湯を張って、子猫の汚れを洗い落としていく。猫は本来はお風呂が嫌いなのに、この子はされるがままだ。きっと抵抗するだけの体力がもう残っていないのだろう。 明日の朝一番で獣医さんに連れて行って、手当してもらわなければ。(……本当に、追い出されちゃったんだ) 子猫をタオルで丁寧に拭き上げ、毛並みをブラッシングしていると、今さらながら実感が押し寄せてくる。 住む場所がなくなってしまった。これからどうしよう……。 ふと、タワマンに残してきたマロンのことが頭をよぎり、胸が締め付けられた。(マロン、大丈夫かな。拓也、ちゃんとお世話してあげてよクルミさんが、いじめたりしないといいけど……) 心配は尽きない。これからの先行きが不安で、思わず涙がじわりとにじんだ、その時。 ――ゴロゴロ…… 腕の中から小さくか弱い振動が伝わってきた。か弱いけれど、確かなもの。 子猫が喉を鳴らしている。 その小さな音に、私はハッとした。(ううん、泣いてる場合じゃない。私が、この子を守らなきゃ)◇ 翌朝、私はなけなしの貯金を下ろし、子猫を連れて動物病院へ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-02
Read More
05
 日当たりの良いアパートの、小さなバスルームで、私と子猫の新しい生活が始まった。 ちなみに子猫の名前はまだ決まっていない。そろそろ決めてあげないとと思うのだが、どうにもいいのが思い浮かばないのだ。「ねえ、あなた。名前は何にしようか?」 私は子猫に話しかける。「黒い毛並みだから、クロ? 安直すぎるかな。んーと、フランス語で黒の意味のノワールとか?」 子猫はちらりと私を見上げて、興味なさそうに前足を舐めた。お気に召さないようだ。「仕方ない、名前は後で考えよう。その前にお手入れをしようね」 獣医さんに診察してもらって、虫下しを飲ませてワクチンも打った。最初の夜はお風呂も入れてあげた。 でも、それだけじゃあ足りない。ノミなどの虫がいないか、目の細かいクシでよく梳かして確かめないといけないし、皮膚の荒れている場所をケアする必要がある。 私はこれから始まる、あの子の本格的なお手入れを前に、慎重に準備を整えていた。 お湯の温度は、熱すぎず、ぬるすぎず。 子猫の体に負担がないように、何度も手で確かめる。 案の定、お湯を見た子猫は「シャーッ!」と威嚇して、体を強張らせた。 最初の夜こそ大人しくお湯に入ったけれど、今は駄目。でもそれはこの子が元気になった証だから、嬉しかった。「やっぱり、怖いよね。大丈夫、無理やりは絶対しないから。トラウマになっちゃうもの」「うにゃぁ……」 私はトリマーとしての知識を総動員して、猫に無害なハーブを思い出した。 そうだ、カレンデュラ。皮膚を健やかにしてくれるし、カモミールはリラックス効果があるし。 猫ちゃんが口にしても安全なものは、常にストックしてあった。 乾燥ハーブを少量お湯に溶かして、まずはその蒸気で心を落ち着かせる作戦に出た。 温かいタオルで体を拭くことから始め、少しずつ、少しずつ。「大丈夫だよ」「気持ちいいね」と、絶えず優しい声をかける。 私の根気強いお世話に、子猫は少しずつ警戒を解いていった。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-03
Read More
06
 午後の柔らかい日差しが、アパートの床を温かく照らしている。 その光の中で、ルナは香箱座りをしていた。 最後のお手入れを終えた彼女の姿は、数日前の泥だらけの子猫とはもはや別の生き物だった。 艶やかな漆黒の毛並みは陽の光を吸い込んで、ベルベットのように滑らかな光沢を放っている。触ってみればぽかぽかと温かく、絹のようになめらか。 まっすぐ前を見つめるサファイアブルーの瞳は、子猫らしからぬ自信に満ちていた。 そして胸元で神秘的に光る、三日月のシルバーの毛並み。(拓也が見たら、なんて言うかな。『これなら動画映えする』とか? ううん、もうあの人の評価なんてどうでもいい。私が、この子の美しさを知っていれば、それで十分) 私は床に膝をつき、ルナと目線を合わせる。「ルナ。本当に綺麗になったね。世界一だよ、あなたは」 感嘆のため息と共に呟くと、ルナは「にゃん」と短く鳴き、私の指にそっと頭をこすりつけてくれた。 その信頼のこもった仕草に、胸がじんと温かくなる。 私はスマホを取り出し、カメラを起動した。 フォルダに保存してある「ビフォー」の写真――動物病院で撮った、怯えきった表情で泥に汚れた小さな塊だった頃のルナの姿――を表示する。 画面の中の姿と、目の前で優雅にくつろぐルナの姿。 そのあまりの変貌ぶりに、改めて胸が熱くなった。 綺麗になったし、何よりも健康で元気になった。私に心を許してくれた。 それが嬉しくて、夢中でシャッターを切る。 温かな陽光の中で、ルナの気高さ、瞳の力強さ、胸の三日月の輝きを、一枚一枚大切に写真に収めていく。◇ 撮影を終えて、私は一番よく撮れたビフォーアフターの比較写真を選んだ。 先日作ったばかりの、フォロワー0人のSNSアカウントを開く。 真っ白なタイムラインは、まるでこれからの私の人生のようだった。(こんな個人的な写真を、ネットに上げていいのかな) 一瞬、投稿をためらう。 拓也みたいに、誰かの評価を気にするのはもうやめよ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-04
Read More
07
 翌朝、部屋に差し込む日差しは、昨日までとは比べ物にならないほど明るく澄んでいた。 ベッドに横になったままルナの姿を探せば、すぐ隣で丸くなっている黒い毛玉が見える。幸せそうな寝姿に胸が温かくなった。 と、そういえば。(昨日のあれ。夢、だったのかな……) 枕元のスマホを手に取り、恐る恐る画面をタップする。 そして、私は自分の目を疑った。(え、え、え? 夢じゃなかった!) フォロワー数が、おかしいことになっている。 昨夜見たときは数千だったはずなのに、一晩で数万人規模にまで膨れ上がっていたのだ。 数千でも十分にすごいと思っていた。なのに数万って何!?(何が起きてるの!? 嬉しい、嬉しいけど、さすがにちょっと怖い!) 震える指でコメント欄を開く。 そこには私の想像をはるかに超える、温かい言葉の洪水が押し寄せていた。『感動して涙が出ました。こんな奇跡があるんですね』『写真から飼い主さんの愛情が伝わってきて、朝から温かい気持ちになりました』『うちにも保護猫がいます。ルナちゃんを見て、もっと愛情をかけてあげようと思いました。ありがとう』 不覚にもじわりと涙が滲んでしまった。 私は隣で丸くなっているルナに、スマホの画面を見せてやる。「ルナ、見て。たくさんの人が、あなたのこと素敵だって言ってるよ。あなたの頑張りが、誰かの心を動かしたんだよ」 ルナは分かっているのかいないのか、「にゃん」と小さく鳴いて、私の手に頭をすり寄せた。◇ 通知の中に黄色い公式マークのついたアカウントからのDMを見つけたのは、その直後だった。 差出人は、誰もが知る朝の情報番組。『「#奇跡のにゃんこ」の飼い主様。この度は大変な反響、誠におめでとうございます。ぜひ当番組で、ルナちゃんの奇跡の物語を取材させていただきたく……』 メッセージには丁寧な言葉と共に、破格の出演料まで提示されていた。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-05
Read More
08
 ルナとの穏やかな生活が始まって、数日が経った。 SNSのフォロワーはあれからも増え続けているけれど、私はもう数字を追いかけるのはやめた。数字に振り回されたって、いいことは一つもない。 通知をオフにして、目の前のルナとの時間を大切にする。それが今の私にとって一番の幸せだった。「はい、ルナ。今日のごはんはササミ入りだよ」「ウニャ!」 トリマーの知識を活かして作った、栄養満点の手作りごはん。 ルナは嬉しそうに喉を鳴らしながら、夢中で食べている。 この子はまだ子猫だから、成長にたっぷりと栄養が必要なのだ。(あのタワマンにいた頃より、ずっと、ずっと幸せ) 拓也のことも、だんだん思い出さなくなってきたな……。 そう思った矢先だった。 ドン、ドン、ドン! 玄関のドアが、まるで壊さんばかりの勢いで乱暴にノックされる。同時に何度もインターホンが鳴らされて、うるさいくらいに響き渡った。 その音にルナはびくりと体を震わせて、あっという間にソファの下に隠れてしまった。 私の心臓が、嫌な予感にどきりと跳ねる。 恐る恐るドアスコープを覗くと、そこにいたのは鬼の形相の拓也だった。 手には一本の汚れたリードが握られ、その先には――みすぼらしい姿のマロンがいた。(マロン!) マロンの姿を見たら、思わずドアを開けていた。「チッ。いるならさっさと出てこいよ」 拓也の不機嫌そうな声を無視して、疑問をぶつける。「なんで、ここが分かったの?」 拓也は勝ち誇ったように鼻で笑った。「はっ、簡単だよ。お前が働いてるペットサロン? あそこの店長、ちょっと問い詰めたらすぐ吐いたぜ。『元婚約者として心配で』って言ったら、案外コロッと騙されるんだな」(そんな、オーナーさんにまで迷惑を!) ひどい状況で婚約破棄されたとか、家を追い出されたとかは私の個人的な事情だ。そう思ってオーナーに詳しい話はしていなかった。 そ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-06
Read More
09
 拓也は電話を切ると、ゆっくりとこちらに振り返った。 さっきまでの甘ったるい声が嘘のように、彼の瞳から表情が消えている。 クルミに向けていた笑顔はどこにもない。 そこに浮かんでいたのは、邪魔なものを処分する前の氷のように冷たい光だった。「……!」 私は咄嗟に、自分の後ろにいるマロンをかばうように一歩下がる。(何をする気? マロンには指一本触れさせない!) 拓也は舞台役者のように芝居がかった、わざとらしい大きなため息をついた。 憐れむような目を私に向ける。「はぁー、めんどくさいな。クルミちゃんもああ言ってるし。……そうだ」 彼は何かを思いついた、というようにポンと手を叩いた。「お前さ、そんなにそいつが心配なんだろ? だったら引き取れば?」「……え?」 彼の言葉の真意が読めず、警戒しながら聞き返す。 拓也は私の反応を楽しむかのように、唇の端を吊り上げた。「だから、くれてやるって言ってんだよ、こいつを。もう動画映えしないし、俺には用済みだからさ」 そう言うと、持っていたリードを手から離した。革のリードが、ぱさりと乾いた音を立てて床に落ちる。 無造作でぞんざいな行為。 私は床に落ちたリードを拾い上げた。怒りで震える手で強く握りしめる。 拓也はそんな私の様子を見て、さらに苛立ちを募らせた。「なんだよ、その目は。感謝しろよな。お望み通りにしてやったんだから」 私は顔を上げて、まっすぐに彼を睨みつけた。「感謝しろですって? 用済みだからとマロンを物みたいに押し付けて。こんな残酷な形で再会するなんて、私が望んだとでも思っているの!?」 私が望んだのは、マロンが大事にされること。幸せに暮らすこと。 マロンとお別れは悲しかったけど、拓也たちが大事にしてくれるなら仕方ないと、最初は思っていた。 でもあの時訪れたマンションで、クルミはマロンにひ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-06
Read More
10
 拓也が去ったあとの部屋は、嵐が過ぎ去ったかのように静まり返っていた。 私はまだ、腕の中にマロンの震えを感じている。 まずはこの子の状態を確かめなくちゃ。 私は自分にそう言い聞かせ、無理やりトリマーとしての冷静さを呼び起こす。「マロン、ちょっと体見せてね」 優しく声をかけながら、マロンの体を丁寧に触診していく。 ふわふわだったはずの毛は、硬い毛玉だらけで指が通らない。 その毛の下に隠れた体は、あまりにも痩せていた。 ごつごつとした肋骨が、はっきりと手に感じられる。(なんて酷い……。これはただの怠慢じゃない。虐待よ) 怒りと悲しみで、奥歯をギリリと噛みしめる。 伸び放題の爪。乾燥してフケだらけの皮膚。 全てが、この子がどれだけ辛い時間を過ごしてきたかを物語っていた。(あんなに食いしん坊だった子が、こんなに痩せて……) 私は急いでキッチンに行って、マロンが好きだったササミを茹でて細かく裂く。 フードボウルに入れて目の前に差し出すが、マロンは怯えたように後ずさり、全く口をつけようとしなかった。「マロン、どうしたの? お腹、すいてない?」(もしかして、ご飯もまともに与えられてなかったんじゃ……。それか、食事のときに何か酷いことを?) 考えれば考えるほど、拓也とクルミへの怒りが込み上げてくる。◇ 次はお風呂だ。 体の汚れを落として、少しでもさっぱりさせてあげたい。「マロン、お風呂入ろうね」 私がそう声をかけた瞬間、マロンの体がビクッとこわばった。 以前は「お風呂」と聞くと、嬉しそうにしっぽを振ってバスルームまで走ってきたのに。 シャワーの音を聞いた途端、マロンは「キャン!」と悲鳴を上げてパニックになり、私の腕から逃れようと必死に暴れだした。(お風呂、大好きだったのに!) 私はすぐにシャワーを止めて、無理
last updateDernière mise à jour : 2025-09-07
Read More
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status