ペットトリマーである佐藤みのりは、婚約者で人気インフルエンサーの桐谷拓也と同棲している。 拓也のペットで「撮影小道具」の犬のマロンの世話の他、家事や雑務を一手に引き受けて、拓也をサポートしていた。 ある嵐の日、みのりはずぶ濡れで震えている子猫を拾う。 ところが拓也は「そんな薄汚い猫なんか、俺にふさわしくない。出ていけ!」とみのりを追い出した。 彼は若い女と浮気していて、みのりを邪魔に思っていたのだ。 婚約を破棄され、家を追い出されたみのりは、拾った子猫の世話を続ける。 手入れされた猫はとても美しく、奇跡の猫としてSNSで大バズリ。世界的な動物写真家・篠宮蓮の目に止まり、写真集が出ることになって――?
もっと見る「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」 嵐の音だけが響く部屋に、拓也の冷たい声が落ちた。 フロアランプの灯りが彼の顔に深い影を作り、その表情は読めない。「た、ただいま……拓也。すごい嵐で、大変だったから」 平静を装って答える私の声は、自分でも情けないほど震えていた。 腕の中の子猫を隠すように、コートをぎゅっと抱きしめる。「……ふぅん。で、腕に隠してるソレ、何?」 ――ミャ…… 私の祈りもむなしく、コートの中からか細い鳴き声が漏れた。 その瞬間、拓也の顔があからさまな嫌悪感で歪む。「は? 猫? 捨て猫を拾ってきたのか。お前、正気かぁ? ゴミでも拾ってきたのかよ」(バレた。最悪のタイミングで!) 心臓が氷水に浸されたみたいに冷たくなった。(でも、この子を見捨てるなんて、もうできない) 何とか拓也を説得して、猫の世話をしないと。小さな体は冷え切っている。今すぐに温めなければ。 私が説得の言葉を考えていると、リビングの奥から知らないはずなのに聞き覚えのある、甘ったるい声がした。「拓也さーん、どうしたのー?」 現れたのは、人気インフルエンサーの坂田クルミだった。 完璧なメイクに、あざとく体のラインを強調する服。ずぶ濡れで立つ私とは、あまりにも対照的な姿だった。(坂田クルミ!?) 頭が真っ白になる。(なんで。どうして、この人が、この部屋にいるの……?) クルミは私を値踏みするように上から下まで眺めると、腕の中の子猫に気づいて、大げさに顔をしかめた。「うわ、何それ、ドブネズミみたい! 汚い! 拓也さんの綺麗な部屋が、バイ菌だらけになっちゃう!」 クルミは媚びるように拓也の腕にしがみついた。拓也に向ける顔は、あくまで可愛らしい。けど私に対しては、同一人物か疑いたくなるほどに見下した表情をしてくる。 拓也はそんな彼女を庇うように、私を睨みつけた。「大丈夫だよ、クルミちゃん。こいつが拾ってきたゴミは、俺が今すぐ処分させるから」(ゴミ……) この子も、私も、あなたにとってはもう、ただのゴミなんだ。 投げつけられた言葉が、心に突き刺さった。 クルミは勝ち誇ったように、私を見下して拓也に囁く。「ねぇ、拓也さん。トップインフルエンサーのあなたが、こんな薄汚い女と婚約してるなんて、イメージダウンだよ? ブランド価値、だだ下がりじゃ
ゴウゴウと空が唸りを上げている。 分厚い窓ガラスを、横殴りの雨がバチバチと叩いていた。「すごい雨……」 テレビのニュース速報が「不要不急の外出は控えてください」と、もう何度も繰り返している。 足元ではマロンが私の足に体を寄せて、不安そうに小さく震えていた。「大丈夫だよ、マロン」 そのふわふわの頭を撫でてあげていると、ソファでスマホをいじっていた拓也が、心底つまらなそうに声を上げた。「あー、最悪。俺が毎晩飲んでる、あの高級スパークリングウォーター、切らしたんだった」「え? でも、この嵐だよ? 明日にしたら?」「はぁ? 今夜のナイトルーティン動画で使うんだよ。俺の『丁寧な暮らし』の象徴なんだから、ないと締まらないだろ。ほら、行ってきて」(ウソでしょ……?) 私の問いかけは、いとも簡単に一蹴される。(この暴風雨の中、買い物に行けって言うの?)「でも、本当に危ないって……」 食い下がってみるけど、拓也は舌打ちをして私を睨んだ。「俺のフォロワーは、俺の『一貫性』を求めてるわけ。それがブランド価値だから。タクシーでも捕まえて、さっさと買ってきてよ」(ブランド、ブランドって……あんたのブランドのために、私は命を張れと?) 心のなかで悪態をつく。 でも、ここで断って彼を怒らせる方が、もっと面倒なことになる。 私はぐっと言葉を飲み込んで、立ち上がった。「……分かった。行ってくる」 マロンが「クゥン」と心配そうに鳴いた。私を心配してくれるのは、この子だけだ。「大丈夫だよ。お留守番していてね」 マロンの頭を撫でてから、私はレインコートを羽織って玄関のドアを開けた。◇ 外は想像を絶する嵐だった。 傘はマンションのエントランスを出た瞬間に、ひっくり返って骨が折れた。 洪水のように水が流れる道は、タクシーなんて一台も走っていない。 ずぶ濡れになりながら、私は近所の高級スーパーまで歩いた。店が閉まっていたら最悪だな、と思っていたけれど、幸いなことに開いていた。 拓也に言われた、一本数千円もするスパークリングウォーターを買って、重い買い物袋を抱えて帰路につく。 少しでも風を避けようと、ブランドショップが並ぶ裏通りに入った、その時だった。 ――ミャ…… 風の音に混じって、か細い鳴き声が聞こえた。(今の……猫?) まさかね、と思い
都心を見下ろす、タワーマンションの最上階。 そこが今の私の家だった。 ……ううん、家っていうより職場かな。 白とガラスで統一されたリビングは、モデルルームみたいに無機質で、人の暮らす温かみみたいなものはどこにもない。「ん……よし、きれいになったね」 その生活感のない空間の片隅で、私は膝の上に乗せた愛しい存在に声をかけた。 腕の中にいるのは、婚約者である拓也の愛犬、トイプードルのマロン。 スリッカーブラシを優しく動かすたびに、白色のふわふわな毛が、空気をふくんでまぁるくなっていく。 マロンはうっとりしたように目を細めて、私の手に頭をこてんと預けてきた。(今日もマロンは天使だなぁ……) この子の世話をしている時間だけが、今の私の唯一の癒やしだ。 人気トリマーだった頃の腕を、こんな形で発揮することになるとは思わなかったけど。「はい、マロン。今日のごはんは特別だよ」 ブラッシングを終えた私は、マロンのために用意したドックフードに、茹でたササミと細かく刻んだ野菜を彩りよく乗せてあげる。 マロンは嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振って、小さな口で夢中になって食べ始めた。(本当は、もっとトリマーの仕事、したいんだけどな) 昔からの常連さんからの予約も、ほとんど断ってしまっている。「俺のサポートとマロンの世話に集中してほしい」 ――それが、婚約者である彼の望みだから。「おはよ。みのり」リビングのドアが開いて、あくびをしながら拓也が出てきた。今年で27歳になる彼は、人気インフルエンサー。今日も髪は完璧にセットされていて、ハイブランドの部屋着姿ですら、雑誌の切り抜きみたいだ。「……あ、マロン、いい感じじゃん。今日の動画、映えそう」「おはよう、拓也。マロン、今日は特に毛艶がいいのよ」 私はにっこり笑って返す。(はいはい、マロンへの挨拶はそれだけね) 心のなかで、そっと毒づく。(おはようのついでに『今日の撮影道具』のコンディション確認、ご苦労様です) 拓也はマロンを撫でようともせず、スマホをチェックし始めた。 私との会話も、視線は画面に落としたままだ。「あ、今日のランチだけどさ。俺のイメージに合う、オーガニック系のデリ、予約しといて。あとでストーリーに上げるから」「うん、もう手配してあるよ」(知ってますー。どうせ食べるのはこって
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