「綾人、妹に対してその言い方はないでしょ?」ちょうど廊下を通りかかった直美がそのやり取りを耳にし、瞬時に表情を曇らせた。「流歌はお兄ちゃんが帰ってきて嬉しくて、甘えてるだけじゃないの。それをそんな冷たい言葉で返すなんて、兄としてどうなの?」直美は流歌を背後にかばうようにしながら、綾人を責め立てた。綾人は皮肉げに笑い、「血の繋がった妹でもないし、俺はもう結婚してる。そんな単純な理屈も理解できないのか?」と冷たく言い放った。直美は今度はかおるを睨みつけた。「それにしても、妹にああいう口の利き方をするなんてどうかしてるわ。久しぶりに帰ってきたんだし、和やかに過ごせばいいのに。まるで敵みたいに扱って……結婚前はそんなじゃなかったでしょ?」どうやらすべて、かおるのせいにしているらしい。いやいや、家に入ってから一言も口きいてませんけど?なんでまた私のせいになるのよ?心底呆れながら、かおるは肩をすくめた。綾人は冷笑を浮かべ、「ああ、たしかに、もっと『和やかに』しないといけないな」と皮肉混じりに呟いた。直美はその皮肉を聞こえなかったふりをして、「もう、いいから中に入りなさい」と言い、流歌の手を引いて食堂へ向かった。綾人はかおるの方を見た。かおるは「やれやれ」といった風に小さく肩をすくめ、完全に呆れた様子だった。綾人はかおるの手をそっと握り、「すぐ気を晴らさせるから」と目で合図し、そのまま一緒に食堂へ向かった。皆が席に着くと、使用人たちが食事を運びはじめた。綾人は執事の方に視線を送り、無言のまま片手を挙げると、執事がすぐに近づいてきた。「若様、何かご用でしょうか」彼は五十近い年齢で、月宮家に三十年近く仕えている古参だった。綾人は微かに笑みを浮かべながらその顔を見つめ、「田中さんもずいぶん老けたな。俺が何を望んでいるのか、もう分からないのか?」と柔らかい口調ながらも冷たく言い放った。執事は一瞬たじろぎ、深く頭を下げた。「恐れ入ります。何なりとお申しつけください」「スープが飲みたい」その一言に、執事はすぐさまスープをよそい、丁寧に彼のもとへと運んだ。だが、綾人が受け取ろうとしたその瞬間、スープの器が彼の手から滑り落ち、中身が全身にかかった。綾人は勢いよく立ち上がり、目を吊り上げた。「……何をし
「その通りだね」綾人はかおるの隣に腰を下ろし、優しく腕を回した。その声色は穏やかだったが、目の奥には冷たい光がちらついていた。かおるは彼の胸元に頬を寄せながら、ふと考える。こんな状況、まるで夢みたい。自分はごく普通の人間のはずなのに、なぜこんなことに巻き込まれているのか。……ちぇっ。ちょうどそのとき、テーブルの上に置かれていたスマートフォンが震えた。手を伸ばすより早く、腕の長い綾人がさっと取って画面を覗き込んだ。「出るか?」見知らぬ番号を見つめながら綾人が訊くと、かおるは首を横に振った。「知らない番号は出ない。詐欺で金でも騙し取られたらたまらないし」その答えに綾人は小さく笑い、着信を切った。だが、その電話はすぐに再び鳴った。一度、二度……しつこさに苛立ちと警戒心が募る。「ちょうだい、誰か確かめる」かおるが手を伸ばすと、綾人は無言で端末を渡し、静かに書斎へ向かっていった。「もしもし?」かおるは低めのトーンで電話に出た。「かおる、お母さんよ」優しげな女性の声が耳に届いた。「どうしてずっと電話に出てくれないの?一度、ちゃんと話し合えないかしら?」かおるはソファにもたれ、目を細めた。「何度も言ったでしょ。あなたと話すことなんて、何もないの」「かおる……私たちは、この世で一番近い関係なのよ?一度だけでいい、会ってくれない?昔の誤解を解きたいの。お母さんね、あなたに会いたいのよ」かおるは口元を歪め、「必要ないわ」と一言で切り捨て、通話を切った。すぐさまその番号をブロックし、重いため息をついて寝室へ向かった。気分を切り替えるため、シャワーでも浴びよう。書斎。綾人は雅之と電話を繋ぎ、今後の計画について打ち合わせていた。会話を終え、部屋を出ると、かおるの姿がリビングに見当たらなかった。寝室を覗くと、彼女はベッドの上でうつ伏せに眠っていた。そっと近づいた綾人は、布団を静かにかけてやる。かおるは一見穏やかに眠っているように見えたが、内面では大きなストレスを抱えているはずだった。日々の警戒、精神的な緊張。その全てが、きっと心身を蝕んでいる。綾人は彼女の額にそっと唇を寄せた。……この件、すぐに終わらせてみせる。---かおるは退職してからというもの、ほとんど外出せず、自宅にこ
徹はかおるの前まで歩み寄ると、小さな瓶を取り出し、彼女に差し出した。かおるは思わず一歩引いた。「……何、それ?」「体の症状を和らげるものです」徹の静かな声に、かおるの目がぱっと輝いた。「そんな良いものがあるのね?」瓶を受け取ると、かおるは強く香りを嗅いだ。ほのかなミントの香りが鼻腔をくすぐり、不思議と体が軽くなり、頭のぼんやりした感覚も消えていった。「これ、どこで手に入れたの?」興味津々で徹を見つめながら尋ねたが、徹は何も答えず、彼女の手から瓶を取り返した。「えっ……くれないの?」ぽかんとするかおるに、徹は無言のまま。本当に、変わらない。相変わらずの無口男だ。時々この無愛想さに我慢がならず、里香に別の人をつけてもらおうかと本気で思ったこともある。……でも、まあ、いいか。余計なことを喋らない分、手間は省ける。涼しい風が頬をなで、不快だった身体の感覚は完全に消え去っていた。車に乗り込んだかおるは、そのまま都心へ戻った。道中、聡に電話をかけ、事の顛末を話すと、「助けが必要?」と訊かれたが、かおるは即座に断った。黒幕が誰なのか、考えるまでもない。自宅に戻ると、すでに綾人が帰宅していて、かおるの姿を見るなり駆け寄り、強く抱きしめた。骨がきしむほどの力強さだった。かおるは彼の肩を軽く叩き、「平気よ、見ての通り元気だし。落ち着いて」と笑って言った。綾人は抱擁の力を緩めながら、「……犯人は?」と低く訊いた。「トランクの中よ」かおるは肩越しに答えた。綾人が手を振ると、控えていたボディガードがすぐに車のトランクを開け、男を引きずり出した。「まずは地下室へ」氷のような声で命じた綾人は、そのまま徹に視線を向けた。「雅之に仕えていたあんたなら、尋問の手順くらい熟知してるだろう。何か情報を引き出せるか、試してみてくれ」「承知しました」徹は静かにうなずき、男を引き連れてその場を離れていった。それを見送りながら、かおるは綾人に言った。「ねえ、あの人、二重基準だと思わない?私に対してと、あなたに対してじゃ、態度が全然違う」綾人は当然のように言った。「当たり前だ。もしあいつがお前に馴れ馴れしかったら、俺はもう使わない」「……」まあ、確かに。それも一理あるか。ソファに腰を下
聡と二言三言交わしたあと、かおるはスマホをしまい、ふと前方を見やった。バックミラーに映った運転手の顔。それは見知らぬ顔だった。かおるの目が一瞬だけ鋭く光る。だが表情は変えず、再びスマホに視線を落とし、徹にメッセージを送っていた。【了解】返ってきたのは、簡潔な一言だけ。かおるは気持ちを抑えながら、窓の外に目をやり、さりげなく話しかけた。「ねえ、この道……レストランへ行く道じゃないわよね?」運転手は一瞬ミラーを見てから答えた。「はい、奥様。前方の道路が工事中でして、迂回しております」「あら、そう……それにしても……香水、つけてるの?」「ええ。彼女がこの香りを気に入ってまして、ずっとこれを使ってるんです」「へえ……素敵ね」かおるは軽く頷いた。だが時間が経つにつれて、体から徐々に力が抜けていくのが分かった。意識がぼんやりしはじめ、手足の感覚も鈍くなっていく。無意識のうちに窓を開けようと手を伸ばしたが、ロックがかかっていて、開かない。「……ちょっと暑いわ。窓、開けて」かおるの声はすでにかすれていた。運転手はちらりと彼女を見て、落ち着いた声で返した。「奥様、もうすぐ角を曲がりますので」「……窓を開けろって言ってんのよ。余計なこと言わないで。綾人と話すときも、そんな言い訳ばっかりしてるわけ?」ピシャリと鋭く返すと、運転手は黙り込み、アクセルを踏み込んだ。車体が揺れ、シートベルトがなければかおるの体は前席にぶつかっていたはずだ。「何してんのよ……!」かおるはようやく異常に気づいたように睨みつけたが、体に力が入らず、怒鳴る声すらまともに出せなかった。運転手は無言のままスピードを上げ続けた。車は市街地を抜け、人通りのない郊外へと向かっていく。「止まりなさい!……でないと、警察呼ぶわよ!」かおるは脅したが、運転手はまるで聞こえていないかのように、無反応だった。「……あなた、誰?綾人の運転手じゃないわね?どこに連れて行くつもり?お金が欲しいなら、いくらでも払うわ」突然、急ブレーキがかかり、かおるの体が激しく前後に揺れた。意識がさらに遠のく。チッ……もっと静かに運転できないの?苛立ちを飲み込みながら前を見やると、バイクが一台、道をふさいでいた。ヘルメットの男がバイクから降り、ゆ
佳苗はしばらくのあいだ席を立たず、静かにこれまでの出来事を頭の中で整理していた。そして、深く息をついてから弁護士に連絡を取り、財産分与に向けた準備を始めた。ちょうどそのとき、スマートフォンが震え、一通のメールが届いた。画面を開くと、そこには夫の不正を裏付ける決定的な証拠が、整理された状態で添付されていた。もはや、あれこれ調べる必要などなかった。佳苗は拳を握りしめた。この証拠さえあれば、あのクズ男を一文なしで追い出せる、今すぐにでも。一方、かおるは目の前の二つの問題を片づけ、胸のつかえが下りたような晴れやかな気分になっていた。車に乗り込み、スマホを取り出して聡にメッセージを送った。【聡さん、お昼、時間ある?一緒にご飯どう?】【あるよ。何食べる?】【美味しい寿司屋見つけたの。場所送るね】【OK】スマホをバッグにしまい、かおるはハンドルを握って寿司屋へと車を走らせた。しかし、出発から三十分ほど経ったころ、突如エンジンが停止した。車はまるで命を失ったかのように沈黙し、人里離れた寂しい場所に取り残された。周囲には人影も車も見当たらない。かおるは困惑しながらも車を降り、エンジンの様子を見ようとする。しかし、何を確認していいのかさえ分からない。無駄だった。機械のことなんて、さっぱりだもの。「かおるさん」不意に、背後から冷たい声が響いた。驚いて振り返ると、冷ややかな表情を浮かべた男が、少し離れた場所に立っていた。「どこから現れたの?」かおるは警戒心を抱きながらも、すぐにその男が徹であることに気づいた。徹は簡潔に言った。「車を見せて」説明を省き、彼はまっすぐ車へと向かい、エンジンのチェックを始めた。かおるは小さくうなずきつつ、好奇心を隠さず言葉を続けた。「まだ質問に答えてないよ。どこから現れたの?」「それは答えられない」「……」まあ、いいわ。随分とミステリアスね。チェックが終わると、徹は静かに立ち上がり、断言した。「エンストだ。しばらくは動かせないだろう」かおるは肩をすくめ、「じゃあ、あなたの車は?送ってくれる?」と尋ねた。「車は持っていない」「え?」かおるはさらに目を見開いた。「車がない?じゃあ、どうやって私を追って来たの?」「それも答えられない」「……」ほん
かおるはふわりと微笑み、「クビになったわ。あとは家に帰って、賠償金を待つだけよ」と、さらりと言い放った。企業が従業員を解雇する場合、賠償金が発生する。その事実を知っている者は、かおるの一言に言葉を失い、色を変えた。周囲の同僚たちはそれ以上何も言えなくなり、下手に関わって訴訟に巻き込まれることを恐れて、そそくさと距離を取った。だが、かおるは気にも留めず、淡々と荷物をまとめると、アシスタントを呼びつけて自分の持ち物をすべて運ばせた。その光景を、ちょうど昌弘が目にした。思わず眉をひそめた。まさか……この女、何かただ者ではないのか?不安が昌弘の胸をざわつかせた。もしかして、自分はとんでもない相手に手を出してしまったのではないか。財閥の令嬢か、あるいは社長夫人とか……そんな不安をよそに、かおるが社を出たタイミングで、二人の視線が交差した。かおるは軽く手を振り、「じゃあね」と言って、すっとエレベーターに乗り込んでいった。昌弘:「……」胸のざわめきは、ますます大きくなっていった。車に乗り込むなり、かおるはすぐに電話をかけた。「もしもし、佐藤佳苗(さとうかなえ)さんですか?かおると申します。ご主人のことで、お話ししたいことがあるのですが、お時間いただけますか?」短い通話を終えると、かおるはそのままカフェへと向かった。カフェの店内は落ち着いた雰囲気で、濃厚なコーヒーの香りが空間をやわらかく包んでいた。ハイヒールの音が近づいてきたのに気づき、かおるが顔を上げると、洗練された雰囲気の女性がゆっくりと歩いてくるのが見えた。「佳苗さん?」かおるは立ち上がることなく、静かに尋ねた。「はい」佐藤部長の妻・佳苗はうなずきながらも、かおるの顔を見るなり、その瞳に警戒の色を浮かべた。かおるはその様子に気づき、口元に笑みを浮かべた。「そんなに身構えないで。私は佐藤部長の愛人じゃないし、勝ち誇りに来たわけでもない。ただ、伝えたいことがあって……それだけよ」佳苗はそれでも構えを崩さず、「話って、何のこと?」と、なおも探るように言った。かおるはスマートフォンを取り出し、ある画像をスクリーンに表示して、テーブル越しに差し出した。「まずはこれをご覧になって。見ればすべてがわかるはずよ」そう言うと、かおるは手元のコーヒーをひ