雅之は里香の足をぐっと掴んで、軽く撫でた。呼吸が荒くなった。里香は一瞬体がこわばったが、すぐに力が抜けた。雅之はそれ以上は何もしてこなかった。実際、里香は本当に疲れていた。今さら雅之を追い出すなんて無理だし、彼もそう簡単には出て行かないだろう。騒ぎになったら、近所の人たちに迷惑をかけるだけだ。もう仕方ない。このまま寝よう。数日間、山本からの連絡はなかった。雅之も忙しくなって、啓のことを聞こうとすると、話の途中で電話を切られてしまった。この話題には触れたくないのが明らかだった。そんな時、聡から電話がかかってきた。「もしもし、聡さん?」と里香が出ると、聡はにこやかな声で答えた。「里香さん、今日時間ある?一緒にご飯でもどう?」里香は少し考えてから、「うん、いいよ」と返事をした。聡は笑って、「じゃあ、後で場所を送るね」と言った。「分かった」聡が予約したのは火鍋の店だった。店に着くと、聡はすでに入り口で待っていて、リラックスした雰囲気を漂わせながら笑顔で迎えてくれた。「早かったね」と聡が言うと、里香は「ちょうど近くにいたの。この店の火鍋、おいしいよ」と答えた。聡は目をぱちぱちさせて、「それは楽しみだね」二人はそのまま店内に入り、直接2階の個室へ。店員がタブレットを持ってきて、聡はそれを里香に差し出した。「よく来るんでしょ?だったら、注文お願いね」里香は「苦手なものはある?」と聞くと、聡は「私は何でも大丈夫」と返した。里香は頷いて注文を始め、注文を終えるとタブレットを店員に渡し、ドアが静かに閉められた。聡はじっと里香を見つめて、突然言った。「あんまり寝てないんじゃない?ちょっと疲れてるように見えるけど」里香は微笑んで首を振り、「大丈夫。ただ、ちょっと悪夢を見ただけ」聡は納得したように頷き、それからまた尋ねた。「前に話したこと、考えてくれた?すぐに冬木を離れたくないみたいだけど、それならうちに来ない?もし出て行きたくなったら、その時に教えてくれればいいから、給料とかで引き止めるつもりはないし」聡は再び誠意を込めて誘い、優しい笑顔で里香を見つめた。里香は少し黙ってから、「もう少し考えさせて」と言った。聡は笑顔を浮かべて、「もちろん。考えがまとまったら、いつでも連絡してね。私のスタジオ
里香はその言葉を聞いて、顔色が一気に曇り、思わず尋ねた。「おじさん、今どこにいるの?」「もう安江町に帰る準備してるよ。家がずっと放ったらかしでさ、ちょっと様子見に帰らなきゃならないんだ」山本が答えた。里香は目を閉じて、一言。「私、送ります」だが、山本は手を振って断った。「いやいや、大丈夫だよ。荷物もそんなにないし、君に迷惑かけたくないんだ」里香は引かなかった。「おじさん、今まで啓に会えなかったのは私のせいです。帰るなら、せめて送らせてください」最後には、山本も折れて承諾した。里香は電話を切ると、個室に戻って聡に向かって言った。「聡さん、ちょっと用事ができたので、先に失礼します」聡は立ち上がり、「急用?送っていこうか?」「いえ、大丈夫。すぐそこに車があるので、自分で帰るよ」里香は微笑んで、礼儀正しく断った。聡は頷き、「そうか、気をつけてね」とだけ言った。「ありがとう」火鍋店を出た里香は、すぐにタクシーに乗り込み、借りたばかりの部屋へと向かった。エレベーターを降りると、山本はすでにドアの前で待っていた。「おじさん」里香が近づくと、山本は荷物を全てまとめ、出発の準備が整っていた。「里香、この数日間本当に世話になったよ。今度安江町に来たら、バーベキューでもご馳走してやるよ」と山本は笑顔で言った。里香は口を引き結び、静かに尋ねた。「誰かが来て、おじさんに何か言ったんですか?」山本は一瞬驚き、慌てて手を振った。「いや、そんなことない......ないよ」その様子を見た里香は、すぐに状況を察した。雅之の条件を、山本は断れなかったのだろう。雅之がどんな提案をしたのかは分からないが、それが山本に息子を見捨てさせるほどのものとは。里香の心は複雑で、何を言えばいいのか分からなかった。山本は彼女の沈黙を見て、「里香、特に何もなければ、俺はもう冬木には来ないだろう。バーベキューが恋しくなったら、いつでも安江町に来いよ。俺はずっとそこにいるから」と言った。里香は問い返した。「おじさん、もし啓が無事に戻ってきたのに、両親に捨てられたと知ったら、どう思いますか?」山本の体がビクリと震え、目が赤くなった。「あいつが自分で招いたことだ!」突然、山本は感情を爆発させ、「あいつは主家の物を盗んで、それを売って借金返済
それでも、やっぱり違和感を覚えていた。里香はしばらく沈黙し、山本を見て問いかけた。「もし、いつか啓が無実だと分かったら、今日の決断を後悔しますか?」山本は何も言わなかった。部屋の雰囲気は少し重くなっていた。里香は淡々と深いため息をつき、「おじさん、駅までお送りしましょう......」と言った。山本は黙って立ち上がり、荷物を持って外に向かって歩き出した。彼の態度は既に明確だった。もう啓のことに関わるつもりはない。里香は、自分がどう感じているのか説明できなかった。まさか、自分の子供が過ちを犯したからといって、それは赦されないほどの罪だと言えるのだろうか?里香には理解できなかった。その瞬間、親子の絆さえも揺れ動いているように感じた。山本を送り出した後、里香のスマホが鳴り、画面を見ると雅之からの電話だった。里香は軽く唇を噛んで電話に出た。「もしもし?」雅之の低くて魅力的な声が愉快な響きを帯びて耳に入った。「里香、夜ご飯を一緒にどうだい。二宮家においで」彼の口調は自信に満ちていて、里香が断らないだろうと確信しているようだった。里香も当然、断らなかった。なぜなら、自分は負けたからだ。負けた以上、約束を守らなければならない。里香はもう離婚のことを口にせず、雅之の妻であり続けることに決めた。里香は駅の外に立ち、空を見上げた。いつの間にか天気はどんよりとしてきていて、それはまさに里香の今の気持ちを映し出しているようだった。「うん」里香は軽く返事をし、すぐに電話を切った。タクシーを呼ばず、里香はそのまま目的もなく道を歩き続けた。里香は少し目を伏せ、複雑な思いに耽っていた。全てがこうして終わったのだろうか?啓の件は本当にそれで終わったのだろうか?なぜ雅之は里香が啓に会いに行くことを許さなかったのだろう?一番里香を困惑させたのは、血だらけの啓の写真が、なぜ山本のスマホに入っていたのかということだった。啓を許さないつもりなら、二宮家がそんな情報をわざわざ山本に知らせる必要はないはずだ。こんなに騒ぎ立てたのは何のためだろう?しかし、山本はこの件を追及するつもりはないようだった。結局、里香はただの外部の人間に過ぎず、山本の決断に対して何も言うことはできなかった。里香はため息をつき、すぐに車に乗り込んで
里香は一瞬体がこわばり、逃げようとしたが、雅之の手はまるで鉄のように固く、全く身動きが取れなかった。雅之のキスは次第に深く、激しくなり、まるで里香を丸ごと飲み込もうとしているかのようだった。耐えられなくなった里香は、雅之の腰を軽くつねったが、硬い筋肉にしか触れなかった。「もう我慢できないのか?」雅之は里香を放し、低く笑った。彼の親指が里香の唇を撫で、鋭い視線は暗く深く、何を考えているのか全く読めなかった。「お腹空いた。ご飯が食べたい」里香は荒い息をつきながら言った。「いいよ」雅之は笑い、「ちょっと待ってて」と言って、二階へ上がっていった。10分ほどして、ラフなルームウェア姿で戻ってきた。その威厳と冷たさが少し和らぎ、少しリラックスした感じになっていた。二人がテーブルにつくと、そこには里香の好きな料理が並んでいた。里香が来ることを予測して、彼の指示で用意されたものだった。それを見た里香は、特に表情を変えることはなかった。「僕の元に戻ってきてくれてありがとう。僕の妻としてね」雅之が言うと、里香のまつげが微かに震えたが、何も言わなかった。その冷静な態度に雅之は目を細め、彼女の顎を掴んで言った。「賭けに負けたら従うって分かってるよな?」里香は彼を見据えて、「分かってるからここに来たんでしょ」と静かに答えた。雅之は少し力を込めて彼女の顎を掴み、「でも、その冷たい態度は何だ?悔しいのか?それとも、まだ離婚したいと思ってるのか?」と問い詰めた。里香は唇を引き結び、彼の手を振り払って「ご飯を食べましょう」とだけ言った。しかし雅之は「先に話をつけよう」と譲らない。「言い終わったら、ご飯が食べられなくなるかもね」里香は冷静に返した。雅之の表情が一気に冷え込む。「賭けはお前が受け入れたんだ。条件もお前が出した。それなのに負けてこの態度か?お前、本気で僕がどうしてもお前じゃなきゃいけないと思ってるのか?」雅之の周りに冷たい空気が漂い始めた。彼女を呼び戻したのは、こんな不機嫌な顔を見るためじゃない。昔の里香はどうだった?いつも笑顔で、自分に対して温かい視線を向け、まるで雅之が彼女の全てのように。だが、今は?その目には冷たさしかない。まるで、もう自分を愛していないかのように。ふん!一度愛した人を、そんな簡単に嫌
里香のまつげが微かに震えた。「どういう意味?」雅之は彼女の顔をそっと撫でると、そのまま振り返りもせず立ち去った。「雅之!どういう意味なの?ちゃんと説明してよ!」里香は思わず立ち上がり叫んだ。だが、雅之はすでに階段を上がっていて、まるで話すつもりはなさそうだった。彼の意図がまったく分からず、里香の胸の奥がずしんと沈んだ。雅之は一体何を考えてるの?もう離婚の話はしてないのに、彼はまだ何を望んでいるの?里香は箸をぎゅっと握りしめ、力が入りすぎて指先が微かに震えていた。しばらくして、やっと気持ちを落ち着かせると、また箸を持って食べ始めた。食べることだけはしなきゃ。誰も自分を大事にしてくれないなら、自分で自分を大事にしないと。ご飯を一杯食べ終えた里香は、立ち上がって外に出ようとしたが、執事がそっと声をかけてきた。「奥様、旦那様のご指示で、今日からこちらにお住まいくださいとのことです」里香は一瞬唇を引き締めた。確かに、雅之の妻である以上、彼のそばに住むのは当然だ。「荷物を取りに行きます」と彼女は淡々と答えた。執事は軽く頷き、それ以上何も言わなかった。里香はかおるの家に戻り、荷物をまとめた後、家の掃除を始めた。特にソファーは新調し、古いものは処分した。すべてが終わった頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。再び雅之の邸宅に戻ると、執事が手配した使用人たちが手際よく荷物を運び入れてくれた。荷物は数箱しかなく、すぐに2階の寝室に運ばれた。寝室は冷たい色調で統一され、シーツや掛け布団はダークグレー。どこか圧迫感があった。里香は視線を少し落とし、バスルームに入りシャワーを浴びた。ベッドに横になっても、ここに住むことになった現実がまだ信じられなかった。まさかこんなに簡単にこの家に住むことになるとは思わなかった。雅之が以前言った言葉を思い出すと、胸に不安が広がった。でも、すぐにその言葉の意味を知ることになるなんて、まだ思いもしなかった。翌朝、スマホの着信音で目が覚めた。「もしもし、里香ちゃん、まだ寝てるの?ニュース見てないの?雅之、最低な男だよ!女優とホテルに泊まってたんだって!」かおるの声に、里香は一気に目が覚めた。「え?何のこと?」「今日のホットトピックの一位見てみな!」かおるは怒りを抑えきれ
里香がふっと言った。「かおる、もう彼のこと好きじゃないの」かおるはさらに雅之を批判しようとしたが、その言葉を聞いて動きを止めた。「えっ、里香ちゃん?」里香は少し笑いながら肩をすくめた。「もう好きじゃないから、彼が何してようが、誰と一緒にいようが、私には関係ないのよ」かおるは慎重に声を落として言った。「本当に?本当にもう雅之のこと好きじゃないの?」かおるは、初めて雅之を見たときの里香の目を思い出していた。あの時、彼女の目は愛情で輝いていた。それが、雅之が記憶を取り戻してからは、もう二度とその輝きは戻らなかった。里香は軽く頷いて、「とりあえず、起きて準備するね」と言った。かおるも「うん」と応えたが、どこか乾いた声だった。電話を切った。しばらくベッドに横たわっていた里香は、突然スマホを手に取って祐介に電話をかけた。「もしもし、里香?」すぐに繋がり、祐介の穏やかな笑い声が聞こえた。里香は尋ねた。「祐介兄ちゃん、信頼できる探偵知らない?」祐介は雅之のホテル騒動を知っていたので、里香の問いに少し眉を上げた。「知ってるよ。すぐに連絡させる」里香は「ありがとう」と感謝した。祐介は軽く笑って、「気にすんな。里香が頼ってくれるのが嬉しいよ」と言った。里香は微笑んで、「いつ帰ってくるの?」と聞いた。「まだ分かんないな。今は忙しくてさ。でも、ほとんど大丈夫だから心配しないで」「そっか、それなら良かった」軽く会話を交わし、里香は電話を切った。起き上がり身支度をして、階下に降りた。ちょうど執事がキッチンから出てきて、「奥様、朝食の準備ができました」と告げた。「うん」淡々とうなずき、食堂に向かい、食事を始めた。そのとき、外から何か物音が聞こえてきた。使用人が挨拶している。「旦那様、お帰りなさいませ」「うん」雅之は冷たく返事をし、そのまま食堂に入ってきた。里香がゆっくりとお粥をすすっている姿を見て、彼の目つきが鋭く暗くなった。無造作に椅子を引いて座り、彼女をじっと睨んだ。「何か言うことは?」里香は無視しようとしたが、彼の冷たい視線が背筋を凍らせた。雅之は低く冷たい声で言った。「僕に何か言いたいことがあるんじゃないか?」里香は少し首をかしげ、無表情で「別にないわよ」と応えた。雅
雅之は冷たい声で言った。「彼女が僕を愛さない?じゃあ誰を愛するんだ?」月宮:「......」なんて自信だ。でも、これ以上兄弟の自尊心を傷つけるわけにはいかない。もし自分まで巻き込まれたら困るしな。そこで月宮はこう言った。「お前の言う通りだ。里香が愛したのはお前だけだ。でも、気をつけろよ。愛するかどうかは彼女が決めるんだ。お前じゃない」雅之の顔色はさらに悪くなり、月宮の迷走トークを聞くのをやめて、電話を無言で切った。ふん!里香が自分を愛さないなんてありえない。あの思い出が常に里香が自分を愛していたことを証明しているじゃないか!里香は朝食を終えて家を出た。服を着替えて階段を下りてくると、ダイニングには里香の姿はなかった。雅之は執事を見て、冷たい声で「彼女はどこに行った?」と問いかけた。執事が「奥様は朝食を済ませてすぐに出かけられました」と答えると、雅之の美しい顔はさらに冷たくなった。ちょうどその時、彼のスマホが鳴った。画面を見ると、由紀子からの電話だった。雅之の目が冷たくなるが、それでも電話を取った。「もしもし、由紀子さん?」由紀子の優しい声が聞こえてきた。「雅之、もうすぐおばあ様のお誕生日だけど、お祝いの準備はどうするつもり?」雅之は答えた。「例年通りでいいです。今年もそのままやってください」由紀子は「それでいいわね。ただ、その時は里香を連れて戻ってきてね。おばあ様は彼女が一番好きなんだから」と言った。「分かりました」雅之は淡々と答え、すぐに電話を切った。おばあちゃんの誕生日はあと半月後。雅之はしばらく考え込んでから、スマホを置き、家を出た。里香は聡のオフィスに来て、ドアをノックした。ちょうど誰かと話していた聡は、振り返ると里香を見て、驚きながら笑顔を見せた。「里香!」里香は微笑んで言った。「決めたわ。広くて明るい大きなオフィスが欲しいの」聡は喜び、「ちゃんと取っておいたよ。さあ、案内するから見に行こう!」と言った。里香は頷き、聡に続いてオフィス内に入っていった。その道すがら、聡はここで働くときの給料や待遇について話してくれた。建築デザイナーとして働く彼女にとって、稼げるかどうかは全て自分の実力次第だということも。里香はそれを聞いて理解し、「よろしくお願いします」と即座に答えた
聡:「嫌ですよ......」すぐにスマホを置いて、顎を支えながら里香の仕事ぶりを見始めた。さすが美人、ほんとに綺麗だな!聡は舌打ちしながら首を横に振り、しばらくしてからまたスマホを手に取り、デリバリーを注文し始めた。里香はもともと昼ご飯に何を食べるか考えていたが、休憩時間になると、すぐにデリバリーが届いた。聡はオフィスから出てきて、にこにことしながら言った。「ご馳走するよ。新人は入社してから3日間、社長のおごりっていうのがうちのスタジオの伝統なんだ」里香は少し困惑しながら、「でも、将来もしスタジオが大きくなって上場したら、おごりだけでかなりの額になるんじゃない?」聡は肩をすくめ、「その時考えるさ。今はこういう伝統なんだよ!」「そうだよ、社長は特に親切なんだ」「この伝統はずっと続けてほしいね!」他に3人の同僚もここ数日間でこのスタジオで働き始めた。1人は里香と同じ建築デザイナーで、もう1人は業務連携担当、そしてもう1人は建築デザイン専攻で大学を卒業したばかりのインターン生だ。彼女はまだ何をするかはっきり決めていない。聡は彼女をしばらくスタジオに置いて、3ヶ月のインターン期間が終わったら、彼女自身でどのポジションに就きたいかを決めさせるつもりだった。聡はまるで素人のように、スタジオを遊びでやっているかのように軽々しく話した。里香は特に何も言わず、聡に軽くうなずいて、「ありがとう、社長」聡は腰をくねらせながら、「ゆっくり食べて、食べ終わったら少し休んでね。私は先に帰るから」「はい」みんなが声を揃えて応えた。里香はデリバリーの箱を開け、食べ始めた。その時、もう1人の建築デザイナーである横山羽奈がやってきた。彼女もデリバリーの箱を抱えながら、「ここでの仕事に慣れた?」と聞いてきた。里香は軽くうなずいて、「まあ、いい感じかな」羽奈は言った。「スタジオができたばかりだからか、全然案件が入ってこないんだよね。もう2日間も暇だよ」里香は彼女を一瞥し、「自分で案件を探すこともできるよ。スタジオの立ち上げ時はそんなもんだよ」羽奈はうなずきながら、「うん、探してみるよ。ところで、あなたはどう?何か考えはあるの?」少し間を置いてから羽奈は尋ねた。「どうしてDKを辞めたの?」里香は淡々とした表情
月宮の目を見つめながら、かおるはしばらく黙っていた。――月宮と縁を切る?無理に決まってる。月宮家は冬木じゃいろんな人脈が絡んでて、普通の集まりでも顔を合わせることなんてざらにある。だから、唯一の方法は距離を取ること。あとは冷たくするしかない。それに、こんなことで月宮と揉めたくもなかった。「じゃあ、それで決まりね。あの人からまた連絡きたら、すぐ教えて」かおるは、本気でこれ以上この話を引きずる気はなかった。月宮は口元に微かに笑みを浮かべ、「もちろん」と答えた。そして、かおるのそばに腰を下ろし、じっと見つめながら聞いた。「一緒に帰るか?」明日は大晦日。結婚してから初めての年越しで、年が明けたらすぐに式も控えている。かおるは「うん」と頷き、立ち上がりながら言った。「ちょっと、里香に声かけてくるね」月宮も頷いた。「一緒に降りようか」玄関に向かって歩きながら、かおるはふと思い出したように聞いた。「そういえばさ、雅之って今何してるか知ってる?全然連絡ないし、音沙汰なしじゃん」月宮はどこか意味ありげな目でかおるを一瞥し、「さっき里香と話したけど、彼女、雅之には全然興味なさそうだったよ」と言った。かおるはその言葉に少し違和感を覚えた。でも、里香の最近の様子を思えば、あながち間違いとも言えず、それ以上は何も言わなかった。「じゃ、その話は置いとこっか」階段を降りたかおるは、里香に冬木へ帰ることを伝えた。「ほんと、あんたって根性ないんだから」里香は笑ってからかうと、それを聞いた月宮は眉をひそめた。「かおる、やっと機嫌取れたばっかなんだから、邪魔しないでくれる?小松さん」里香はそれを無視して、かおるに持たせる荷物を用意させた。かおるは遠慮なく、それらを全部受け取った。玄関まで来て、かおるは里香をぎゅっと抱きしめた。「じゃ、数日後に戻ってくるから。外寒いし、見送りはいいよ」「うん」里香は頷き、二人の背を見送った。ふと振り返ると、賢司が階段から降りてきた。黒のタートルネックニットがよく似合っていて、姿勢もしゃんとしていた。「お兄ちゃん」里香が声をかけると、賢司はそれに応えて尋ねた。「もう帰ったのか?」「うん」里香が頷いた。「誰が?」ちょうどそのとき、景司
かおるは思わず目を見開いた。賢司は立ち上がり、彼女のほうへ歩いてきながら尋ねた。「離婚するのか?」かおるは首を横に振った。「別にケンカしたわけでもないのに、なんで離婚しなきゃいけないのよ」賢司はすでにかおるの目の前に立っていて、その言葉を聞くなり、ふいに手を伸ばした。かおるはとっさに身構えて二歩後ろに下がり、背中がドアにぶつかった。そのまま彼を警戒するように睨みつけた。「なにするつもり?」賢司はじっとかおるの目を見つめ、その緊張感を察すると、さらに冷たい表情になってドアノブに手をかけ、そのままドアを開けて彼女を外へ押し出した。「人妻が俺の部屋にいるとか、どう考えてもアウトだろ」そう言い残して、さっさとドアを閉めた。「ちょ、ちょっと、あんた……!」かおるはその場で呆然と立ち尽くした。閉まったドアを見つめながら、何も言い返せなかった。こ、こんな人……どうしてこうなのよ。でも、まぁ、言ってることは正しい、かも。「かおる」そんなことを考える間もなく、月宮の声が聞こえてきた。振り返ると、彼が階下のリビングに立ち、上を見上げてかおるを見ていた。今さら隠れても無意味だし、逃げるタイミングも失っていた。かおるはそのまま階段を下りて、「なによ」と声をかけた。月宮は、どこか冷めた表情をしたかおるを見つめながら近づいてきて、手を取り、真剣な眼差しで言った。「話をしよう」かおるは手を振り払おうとしたが、月宮の力は強くて引き抜けなかった。「手を放して」にらみつけながらそう言うと、月宮はきっぱり言った。「無理だ。一生、放さない」その言葉は強引で、少し傲慢だった。そして、その瞳には、はっきりとした独占欲がにじんでいた。ずるい。こんなふうにされるの、なんか……嫌いじゃないかも。「何を話すのよ?」「どの部屋に泊まってる?」月宮が尋ねた。その言葉を聞いたかおるは、一気に目を見開いて彼をにらんだ。「はぁ!?どういう意味よ?まだ話す前から、もうそういうこと考えてんの?つまり、あたしに会いに来た理由って、それ!?」月宮はすかさず、かおるの口を手でふさいだ。目を閉じると、リビングにいた里香を見て「彼女の部屋はどこだ?」と尋ねた。里香はぽかんとしながらも、指で部屋の
一言で、その場に火薬の匂いが立ち込めたような緊張が走った。月宮はほんの少し眉を上げ、凛とした表情の里香を見つめながら、ぽつりと聞いた。「……俺、巻き込まれてる感じ?」「えっ?」里香は一瞬、その意味がつかめず、きょとんとした。けれど、月宮の笑みはすぐに消え、声にも冷えた色が混じりはじめる。「おかしいと思わなかったか?なんで雅之が急に錦山を離れて、しかもずっと連絡してこないのかって」その言葉に、里香の表情もさらに冷たくなった。「それは彼の問題よ。私には関係ないわ」「はっ」月宮は小さく冷笑した。「関係ない、ねぇ……よく言うよ。俺はずっと、あんたら二人が揉めたり、傷つけあったりしてるのを黙って見てきた。口出しは一切しなかった。でも、雅之には何度も言ってきたんだ。本心から目をそらすなって。後悔するようなことはするなって。アイツもちゃんと変わろうとしてた。それくらい、あんたもわかってたろ?でも……お前、もう雅之のこと、愛してないんだろ?」月宮の視線が鋭く突き刺さった。その言葉に、リビングは一瞬、重い沈黙に包まれた。里香は何も答えなかった。「……そうか。もう本当に気持ちはないんだな」それ以上は追及せず、月宮は話を続けた。「だったら、雅之のこれからがどうなろうと、お前には関係ない。俺もこれからは、雅之のことでお前を巻き込むようなことはしない。今日ここに来たのは、かおるを連れて帰るためだ。戻るかどうかは、本人とちゃんと話して決めたいと思ってる」「彼女、会いたくないって言ってたわ」「それでも構わない。ここで待たせてもらうさ。恋愛ってやつはな、結局、腹割って話さなきゃ始まらない。誰も何も言わなかったら、口なんてあっても意味ねぇからな」その言葉に、里香の胸がわずかに揺れた。腹を割って話す――……そうだ、自分も雅之に、ちゃんと聞くべきなのかもしれない。少なくとも、彼に説明の機会くらいは与えるべきだ。その頃、二階の部屋では、かおるは、浴室から出てきた大柄な男を目にして、思わず目を見開いた。広い肩幅に引き締まった腰、はっきりと浮き出た筋肉のライン。短髪をタオルで拭うたびに、その腕の筋肉がぐっと浮かび上がり、ただ立っているだけでも圧を感じる。濡れて乱れた髪。額の下からのぞくその瞳は、どこか冷たく、じっとこち
かおるは彼をじっと見つめながら言った。「お兄ちゃん、それってどういう意味?私みたいに元気で可愛くて綺麗な妹が増えるのが嫌なの?」そう言いながら両手で頬を押さえて、ぱちぱちと瞬きをした。景司は淡々と笑いながら答えた。「俺は別に構わないけど、ある人はそう思わないかもしれないな」「え?」かおるはきょとんとした顔をしてから、すぐに里香の方を見た。すると、里香は両手を広げて「私は何も言ってないよ」と無言でアピール。となれば、「ある人」っていうのは……賢司しかいない。かおるは少し不満げに唇を尖らせた。だめだ、やっぱりちゃんと賢司に直接聞かなきゃ。どうしてそんなに私のことが嫌なの?その頃、秀樹と賢司の話し合いは、もう2時間近く続いていた。ふたりがリビングから出てきた時、階段の下で腕を組んで立っていたかおるの姿が目に入った。「おじさん、もう遅いですから、お休みになってください」かおるが声をかけると、秀樹は軽くうなずいて、「うむ、お前たちも早く休め」と言い、自室へと戻っていった。かおるはすぐに賢司の方へ向き直った。「賢司さん、ちょっとお話いいですか?」賢司は片手で袖を整えながら、ゆっくりと階段を降りてきた。すらりとした長身に整った顔立ち。気品と冷たさを醸し出しながら、無表情のままかおるを見下ろした。「用件は?」かおるはずばり聞いた。「私のこと、何か不満でもあるの?」「別にない」賢司はそう言って、かおるの横をすっと通り過ぎ、バーカウンターで水を汲んだ。かおるはその後を追いかけ、身を乗り出すようにして尋ねた。「じゃあ、私のことどう思ってるの?」「特に何も思っていない」かおるは内心、答えに戸惑いながらも、真正面からは聞けなくて、自分の指を軽く噛んだ。「それって……」「言いたいことがあるなら、はっきり言え」賢司の言葉にかおるは真剣な眼差しを向けた。「おじさんが私を養女にしたいって話してるのに、なんであなたは反対するの?」賢司は水を一口飲み、喉仏を上下させてから静かに答えた。「瀬名家には、娘はひとりで充分だ」はっきりそう言われてしまうと、さすがに言い返せなかった。かおるは悔しそうに賢司を睨みつけた。「……やっぱり、私のこと嫌いなんでしょ?」そう言い捨てて、そのまま踵を返し行っ
「えっ!?」かおるは彼女の話を聞いて、目を見開いた。聡が雅之の手下だったなんて……「ちょっと待って」手を上げて考え込みながらつぶやく。「東雲凛、東雲新、東雲徹、東雲聡……なるほど、全部繋がってたのね!」里香:「……」かおるはじっと里香を見つめ、「こんなに共通点があったのに、全然疑わなかったの?本当に?」里香は素直に首を横に振った。「うん」「はあ……」かおるは深いため息をついた。何て言ったらいいんだろう。雅之は答えを目の前に差し出していたのに、彼女は気づかなかった。聡を信じてたから?それとも、そもそも雅之のことを意識してなかったのかな?たぶん、両方なんだろう。かおるはそっと彼女を見つめ、「じゃあ今、雅之に怒ってるの?」里香は答えた。「怒っちゃダメなの?」かおるは顎に手を当てて考え込んだ。「もちろん怒っていいと思うよ。でもね、聡がそばにいたから、万が一のときすぐに見つけてもらえたんだし、前の一件も、結局は雅之が聡を通して助けてくれたんでしょ?ちゃんと考えてみたら、正しいとも間違ってるとも言いきれない気がするんだよね」里香は無言になった。かおるはそんな彼女の様子をうかがいながら、静かに言った。「里香ちゃん、一番つらいのは、彼が何も言わずにいなくなったことなんじゃない?何の説明もなく」里香は唇をぎゅっと噛んだ。「別に気にしてない」そう言って、立ち上がり、階段を上がっていった。「あっ!」かおるは慌てて後を追い、里香の顔を覗き込みながら言った。「ねえ、月宮に話してみよう?」「やめて!」里香はかおるを睨みつけ、「聞かないで。月宮にも言わないで。今は彼に会いたくないし、何も聞きたくないの」「わかった、わかった、話さないし聞かない。他のこと話そう!」かおるは彼女の感情が不安定な様子に気づいて、急いでそう言った。妊娠中の里香は気分の起伏が激しく、さっきまで笑っていたかと思えば、次の瞬間には泣き出すこともあった。だから、まわりの誰もが彼女の気持ちを気遣っていた。夜。秀樹、賢司、そして景司が帰ってきて、かおるの姿を見つけると嬉しそうに声をかけた。かおるの明るく飾らない性格はみんなに好かれていて、家族も彼女のことを気に入っていた。賢司は彼女の薬指に光る指輪をちらりと見て、表情を
彼らの様子を見つめていると、自然と里香の胸があたたかくなる。これが「家族」というものなのかもしれない――そう思える、その感覚がとても心地よかった。でも、夜中にふと目を覚ますたび、どうしても雅之のことを思い出してしまう。前触れもなく姿を消し、嘘をつき、それきりずっと何の音沙汰もない……一体、どういうつもりなんだろう?こっそりいなくなっておきながら、今は消息すら分からない。あのとき交わした約束って、全部嘘だったの?年末も近づいたある日、かおるがスーツケースを引っ張って突然やって来た。ドアを開けるなり、ソファにドカッと腰を下ろし、腕を組んで不機嫌そうな顔をしている。使用人からの知らせを受けて里香が階下に降りていくと、そんなかおるの姿が目に入った。「どうしたの? 何かあった?」すると開口一番――「月宮と離婚する!」と、かおるが声を荒げた。「え?」里香は驚いて彼女を見つめた。「どうしてそんなことに?」かおるは使用人が運んできたジュースを受け取って一気に飲み干すと、怒りを込めた口調で言った。「あいつ、初恋の相手がいたなんて一度も言わなかったのよ!その子が帰国してきてるっていうのに、まだ黙ってたの。たまたま食事してるところを見かけなかったら、完全に騙されてたわ!」「えっ?」里香はしばらく考えてから、「でも、それって本当に初恋の相手だったの?」と慎重に尋ねた。かおるは力強くうなずいた。「間違いないわ!」「じゃあ、その子とどういう経緯で食事することになったのか聞いた?ただの友達同士の集まりとか、そういうのじゃなくて?」「そういうパターン、もう知ってるって!」かおるはむっとして言った。「初恋の子がいきなり帰国して、元カレを取り返そうとするって話。私と月宮の周囲にちょくちょく顔を出して、あきらかに月宮のことまだ好きなんだと思う。月宮はただの友達だって思ってるかもしれないけど、男ってさ、そういうのに簡単に引っかかるんだから。それで、向こうはあの手この手で仕掛けてきて、私は我慢するしかなくて、結局月宮はその子をかばってばかり……まるでラブコメのドロドロ展開みたいになるのよ。で、最後にはバッドエンド!」かおるは両手を広げて、すべてお見通し、と言わんばかりの表情を浮かべた。それを見て、里香は思わず苦笑して
里香はそのまま退職のメールを聡に送った。すると、すぐに聡から直接電話がかかってきた。「里香、親のこと見つけたんでしょ?これからは錦山に残るつもりなの?」聡の口調は相変わらず軽く、まるで友達同士のようだった。里香は淡々と答えた。「うん、もう離れるつもりはない」家族がここにいる限り、離れるわけにはいかない。聡は少し残念そうに言った。「はぁ……あなたって本当に優秀だし、私もあなたのこと好きだった。ずっと私のところに残ってくれてたらよかったのに」里香は冷静に尋ねた。「それ、本心?それとも雅之からの任務?」「な、何……?」聡は一瞬言葉を失ったが、すぐに気づいたようで、慎重な口調になった。「もう知ってたの?」里香は声もなく、少し笑みを浮かべた。「それで、いつまで私に黙ってるつもりだったの?」聡は少し気まずそうに、「ごめん、本当に全部、あの人の指示だった。でもね、出発点は悪くないの。あの人、あなたを守りたかったんだ……」と言った。里香の声は冷たかった。「目的は監視であって、保護じゃない。そのことはもう全部分かってる。騒ぐつもりはないけど、お願いだから友達のふりして話しかけないで。まるでピエロみたいな気分になるから」聡はしばらく黙っていたが、やがて「分かった、もう連絡しない」と言った。電話を切った後、里香の心は非常に複雑だった。信頼していた友達が、実は自分を監視していたなんて。こんなこと、どうやって受け入れればいいのか。里香はバルコニーに座り、外の景色を見ながら、言い表せない寂しさを感じていた。大晦日まであと一週間。かおるの帰還により、瀬名家の家の中は華やかに飾られ、今年の正月はとても盛大に行う予定だった。さらに、いくつかの分家の親戚も呼んで、みんなで集まることになっていた。里香はすでに妊娠して二ヶ月近い。お腹はまだ平らだが、体調はあまりよくなかった。顔色は青白く、吐き気も強く、よく眠り、精神的にも元気がなかった。その様子はすぐに瀬名家の人たちに気づかれてしまった。秀樹は心配そうに彼女を見つめ、「里香ちゃん、体調悪いのか?」と尋ねた。彼女はクッションを抱えて一人用のソファに縮こまるように座っていた。虚ろな目でその言葉に返事をした。少ししてからようやく、「ああ……悪いんじゃなくて、妊娠して
「わかんない……」里香は戸惑いを隠せなかった。どうして祐介がそんなことをしたのか、自分にもさっぱりわからなかった。かおるが彼女を見つめて問いかける。「もう知っちゃった以上、これからどうするつもり?」里香はそっと目を閉じた。「私に何ができるの?祐介兄ちゃんには、今まで何度も助けられてきたのに。こんなことされて、気持ちまで知らされちゃって……でも、どうにもできないよ」かおるは静かに手を伸ばし、彼女の肩に触れる。ため息をついて、優しく語りかけた。「じゃあ、何もしないでいようよ。まるで最初から祐介のことなんて知らなかったみたいにさ」里香は何も言わなかった。ただ、その顔には深い苦しさがにじみ出ていて、顔色もひどく青ざめていた。そんな彼女の姿に、かおるの胸もぎゅっと締めつけられる。でも、何と言えばいいのか、わからなかった。「ていうかさ、本当に里香のことが好きだったんなら、ちゃんと告白して、正々堂々勝負すればよかったんだよ。それなのに、なんで蘭と結婚なんかしたの? 意味がわかんない」かおるは困ったような顔で首をかしげた。そのとき、里香の脳裏にふと月宮の言葉がよみがえった。祐介は喜多野家を完全に掌握するために、蘭と結婚した。「もういいよ、考えたって無駄だし。あなたの言う通り、最初から知らなかったことにしよう」かおるは黙ってうなずいた。冬木。雅之は長時間に及ぶ手術を終え、ようやく手術室から出てきた。だが、弾丸は心臓のすぐそばまで達しており、手術が無事に済んでも予断を許さない状況だった。しばらくはICUでの経過観察が必要だという。桜井が深刻な面持ちで月宮を見つめながら言った。「月宮さん、奥様にご連絡を?」月宮は病室の扉をじっと見据えたまま、硬い表情で答えた。「知らせてくれ。雅之が怪我をしたことは、彼女にも知ってもらわないといけない」桜井はうなずいてスマホを取り出し、里香へ電話をかけた。ちょうどその頃、里香のもとに一通のメッセージが届いていた。それは匿名のメールで、雅之の配下の名前と勢力範囲がずらりと記されていた。里香は戸惑った。誰が、何の目的でこんな情報を自分に送ってきたのか、見当もつかなかった。けれど、すぐに見覚えのある名前を見つけた。東雲聡。その下には、東雲凛、東雲新、東
「違うよ!里香ちゃん、それは君の考えすぎだって。俺は君を責めたりなんかしてないよ。それに、君は知らないかもしれないけど、前に何度か会ったとき、なんだか妙な気持ちになったんだ。理由もなく、無性に君に近づきたくなるような……そのときは不思議だなって思ってたけど、今になってよく考えてみると、それってきっと、血の繋がりからくる家族の絆だったんだと思う。ただ、当時はそこまで考えが至らなかっただけなんだよ」景司は真剣な口調でそう言いながら、まっすぐに里香を見つめた。その瞳はとても誠実で、嘘のないものだった。「君が妹だって分かったとき、本当に嬉しかったんだ。だから、そんなこと言わないでよ。これ以上は……聞いたら本当に悲しくなる」里香は彼を見て、ふっと微笑んだ。「だから、ちゃんと話しておきたかったの。そうすれば、無駄な誤解もなくなるでしょ?」「うん、君の言うとおりだね」景司は満足そうにうなずいてから、小さな綺麗な箱に目をやりながら言った。「さあ、開けてみて」「うん」里香は頷いて、箱を開けた。中には翡翠のブレスレットが入っていた。透き通るような美しい翡翠で、思わず目を奪われるほどだった。彼女の目が輝く。「このブレスレット……すっごく素敵。すごく気に入った!」景司は嬉しそうに微笑んだ。「気に入ってもらえてよかったよ」すると、少し表情を引き締めて、静かに言った。「実は……ずっと君に話してなかったことがあるんだ」景司は少し複雑な顔をして、じっと里香を見つめた。「ん?」ブレスレットを手の中で転がしながら、里香は不思議そうに彼の顔を見つめて聞いた。「なに?」「前に君が誘拐されたこと、あったよね。あの件……誰がやったか、知ってる?」景司の視線は真剣そのものだった。里香はゆっくり首を横に振った。「知らない」景司は小さくため息をつきながら、言った。「祐介だったんだ」「えっ? そんな、まさか!?」その言葉を聞いた瞬間、里香の顔色が一変した。反射的に否定の言葉が口をついて出た。まさか祐介が……?どうして、そんなことを……?でも、ふと思い出す。あの時、監禁されてから目が見えなかった。だから相手の顔はわからなかった。でも、もし知ってる相手だったなら、その時の違和感も説明がつく。今、景司