振り返ると、そこには賢司が静かに立っていた。長い指で桜井家から届いた招待状をつまみ上げ、整った顔立ちは相変わらず無表情だった。「舞子さんの誕生日パーティーの招待状。桜井家から届いたものよ」里香がそう説明すると、賢司は黙って招待状を机に戻し、何も言わずにその場を離れた。その背中を見送りながら、里香は首をかしげた。「どうやら賢司兄さん、桜井家のことに少し興味があるみたいね」「そういえば――」かおるが顎に指を当てながら思い出したように口を開いた。「確信はないけど、気になることがあったの。賢司さんに関係があるかどうかはわからないけど……」「何のこと?」里香が好奇心に目を輝かせて身を乗り出すと、かおるはマンション前で舞子に会った時のことを語った。「あの時、彼女……避妊薬を買って、飲んでたみたい。まさかとは思うけど、まだ賢司さんと……」そこから先は口を濁したが、意味は明白だった。しばしの沈黙ののち、里香は少し考え込んだ表情で言った。「可能性はあるかも。でも、二人が恋人同士には見えない。少なくとも、表には出してない」「賢司さんが、そんな年下の子を軽く扱うような人じゃないって思いたいけど……」かおるの声には不安がにじんでいた。「どうかしらね」里香は軽く首を振った。「私、戻ってきたばかりで、兄さんたちのこと、まだちゃんとわかってないの」かおるの表情には、はっきりとした憂いが浮かんでいた。「いずれ、ちゃんと話し合わなきゃいけないかもね」「でもどうやって?」「『舞子をいじめちゃダメ』って言おうかな」かおるは自信なさげに呟くと、里香は小さく笑って肩をすくめた。「みんなもう大人よ。節度はあるはず。それに、深入りする必要はないわ。それより、あなた自身の心の整理はもうついたの?」かおるは何も言えずに黙り込んだ。確かに、それがいちばん難しい問題だった。姉妹とはいえ、今の舞子との関係は、まだ親しいとは言えない。けれど、すべてを拒むほど遠い存在でもなかった。まあ、いい。今は、流れに任せてみよう。夜が訪れた。海辺に停泊する巨大なクルーズ船が、煌びやかな光をまとって浮かび上がる。十三階建ての船体は、まるで宮殿のように豪奢だった。着飾った上流階級の人々が次々と乗り込み、笑顔でグラスを傾けな
舞子はスマホを脇に置いたまま、幸美が延々と話し続けるのをただ黙って聞いていた。通話がようやく切れた瞬間、食べていたものの味が途端に砂のように感じられた。箸を置き、ゆっくりと立ち上がると、寝室へ向かい、着替えて外出の準備を始めた。そして、スマホを手に取ると、ある人物に電話をかけた。「宮本さん、こんにちは」舞子は前置きもなく、本題に入った。「例のお話、考えました。やってみる価値はあると思います」受話器の向こうで、紀彦は穏やかに笑い、「僕もそう思います」と応じた。「ところで、桜井さん。夕食はもうお済みですか?」「まだです」「それでは、ご一緒しませんか。最近見つけた素敵なお店があります」「ええ、いいわ」舞子は短く答えた。車を走らせ、紀彦の指定したレストランへ向かう。着くと、彼はすでに席についていた。「早いですね」舞子は彼の向かいに座り、微笑みを向けた。紀彦はにこやかに答える。「これが僕たちの初デートでしょう?早めに来るのは当然です」舞子は少し眉を上げ、グラスに水を注ぎながら言った。「一週間後、私の誕生日に、桜井家がクルーズ船でパーティーを開くの。そのとき、私の『恋人』として出席してくれない?」紀彦はグラスを持ったまま、意味ありげな笑みを浮かべた。「ふふ……ずいぶんせっかちですね」「あなたが言ったんでしょう?これは『協力関係』だって。協力してくれるなら、私もあなたに協力するわ」舞子はまっすぐ彼を見つめて返した。紀彦はその目をじっと見返したあと、微かに笑って言った。「わかりました。問題ありません」舞子は手を差し出した。「じゃあ、協力よろしく」「ええ、こちらこそ」紀彦はその手をしっかりと握り返した。ディナーが終わっても、舞子の心が軽くなることはなかった。それでも、たとえ小さな一歩でも、親に逆らったという事実だけが、今の彼女をほんの少しだけ支えていた。それから数日。舞子は桜井家に戻り、幸美に連れられて誕生日パーティーのドレスを選び、招待状のデザインを決めた。すべての準備が整い、ついにその日がやってきた。朝、目を覚ました舞子は、スマホを手に取り、かおるにメッセージを送った。【姉さん、お誕生日おめでとう】だが、返事はなかった。舞子はしば
「薬局に寄って」舞子がぽつりと告げた。「え?」かおるは一瞬ぽかんとした顔で振り向く。「体調でも悪いの?なんで薬局?」舞子は唇をきゅっと噛んだまま、何も言わない。それを見て、かおるはそれ以上深くは聞かず、静かに車を走らせた。やがて薬局に着くと、舞子は無言で車を降り、一箱の薬とミネラルウォーターを買ってすぐに戻ってきた。そして何も言わず、助手席に座るなりその場で錠剤を取り出し、水で飲み込んだ。かおるはふと薬の箱に目をやり、眉をひそめた。「避妊薬?なんで?」舞子は水を飲み干し、静かに言った。「今は……妊娠したくないから」かおる:「……」さっき舞子が出てきたのは、あのマンションだった。まさか自分に会いに来たわけじゃない。今は午前中。つまり、泊まっていたということ?でも舞子から、恋人がいるような雰囲気は感じられなかった。そのとき、かおるはふと思い出した。あのマンション――賢司もそこに住んでいる。まさか?視線を舞子に戻し、口を開きかけた。「あなた……」だがその言葉を遮るように、舞子が先に言った。「聞かないで。あなたの想像、たぶん当たってる。でも、全部が全部その通りってわけじゃないの」かおる:「?」ますます気になる。けれど、舞子がそれ以上話すつもりがないと察し、無理に詮索するのはやめた。「これから、どこ行くの?」「家に帰るわ」「それなら、ひとりで帰って。あっち方面には行かないから」「あっちじゃなくて……今、私はひとり暮らししてるの。小さなアパート。そっちに送って」一瞬、かおるの目に迷いがよぎったが、何も言わずに車を再発進させた。かおるにとって「桜井家」は、決して心地の良い存在ではなかった。それでも舞子とは、いままで一度も衝突したことがなかったからこそ、こうして話すことができている。目的地に着き、舞子が降りると、かおるはぽつりと告げた。「お大事に」そして、すぐに車を走らせた。舞子はその後ろ姿を見送った。唇がかすかにゆがみ、笑おうとしたが、その表情は長く続かず、すぐに消えてしまった。部屋に戻ると、ベッドに倒れ込むようにして、そのまま深い眠りに落ちた。再び目を覚ましたときには、もう外は薄暗くなっていた。暗い部屋にぼんやりと座り込み、ふと、世界に置き去りにさ
舞子は笑いながら言った。「さすが加奈子。気が回るわね。でも……私はまだ、そのことを真剣に考えてないの。気持ちが整理できたら、こっちから連絡する」加奈子が少し間を置いて尋ねた。「何をそんなに悩んでるの?話してくれれば、アドバイスくらいできるかもよ?」舞子はソファのそばにあったクッションを抱きしめながら、ぽつりと答えた。「いろいろと……考えることがあって」加奈子は短くため息をついて、静かに言った。「舞子、考えすぎなんじゃない?最初からこれは政略結婚でしょう?お互いに恋愛感情なんて求めてないし、礼儀さえあれば十分な関係よ。そんなのにいちいち感情を入れてたら、あなた自身が苦しむだけ。この世界で、本当に愛し合ってる夫婦なんて、どれくらいいると思う?」その言葉に、舞子はぼんやりとつぶやいた。「……そうよね。あなたの言う通りかも」加奈子はやわらかく笑いながらも、言葉に重みを持たせた。「焦らなくていいから。ただ、気持ちが整理できたら、宮本さんには一言連絡してあげて。彼もきっと、同じように考えてると思うから」「うん……」舞子がそう返事した、まさにその瞬間――突然、背後から影が差した。そして次の瞬間、男の熱を含んだ吐息が唇に触れ、深くキスを落としてくる。「……っ!」舞子は驚きのあまり息を呑み、目を見開いた。現れたのは、まさかの賢司だった。「なにか音がしなかった?」電話越しに、加奈子の不思議そうな声が聞こえてくる。舞子はハッと我に返り、賢司を勢いよく突き放した。「ごめん、ちょうど食事中だったの。後でまた連絡するね」慌ててそう言うと、電話を切った。怒りを抑えきれず、舞子は賢司を睨みつけた。「賢司さん、今の何?」賢司はまっすぐに立ち、まるで何事もなかったかのように言った。「食事の時間だ。呼びに来た」「呼ぶなら、普通に呼べばよかったでしょう?どうしていきなりキスなんて――」「僕たちの関係を誰にも知られたくないだろう?だから、こうした方が手っ取り早いと思ってな」賢司は落ち着き払った声で返した。舞子:「……」はあ!?ちょっと肩を叩くとか、声をかけるとか、他に方法あるでしょ!?この男、絶対わざとよ!舞子の澄んだ瞳に、怒りの色が浮かんだ。しかしすぐに感情を飲み込み
舞子:「……」この男、本当に図々しい!一夜の情事。舞子はもう開き直って、思い切り楽しむことにした。賢司は驚いたように彼女を見つめた。その目尻はほんのりと赤く染まり、荒い息を漏らしながら、細い脚を彼の腰に絡めてくる――これまでとはまるで違う、熱を帯びた彼女の姿。今夜の舞子は、昨日までの舞子ではなかった。情熱は長く続き、前回よりもずっと激しかった。夜が明ける頃、ようやく舞子は眠りに落ちた。賢司は彼女を抱き起こし、丁寧に洗ってやると、無防備に眠るその寝顔を見つめた。深い黒の瞳が、さらに奥へと沈んでいく。翌日、舞子が目を覚ましたのは、すでに昼を過ぎていた。寝返りを打つと、するりと男の腕の中に転がり込んでしまう。ぽかんとした顔で目を開けると、そこにはベッドのヘッドボードにもたれかかりながら、タブレットを膝に乗せ、眼鏡姿で何かに目を通している賢司の姿があった。「会社、行かなかったの?」ぼんやりとした声。寝起きで少ししゃがれたその声には、どこか無防備な柔らかさがあった。賢司は眼鏡を外してタブレットを脇に置き、彼女の顔を見て言った。「腹、減ってるだろ?」舞子は黙ってうなずいた。賢司は立ち上がり、無言のまま部屋を出ていった。舞子はその背中を目で追いながら、ふと考える。この関係、なんだか変じゃない?まるで長年連れ添った夫婦のように、自然で、慣れすぎている。舞子は手で目元を覆った。……この感じ、まずいかも。起き上がって服を整え、リビングへ向かうと、キッチンでは賢司が何やら忙しそうにしていた。黒いエプロンを腰に巻き、シャツの袖を肘までまくり上げ、黙々と野菜を刻んでいる。包丁のリズムが心地よく響き、その動きは整然として無駄がない。舞子はキッチンの入口で思わず立ち止まった。瀬名家の御曹司が、料理までできるなんて……すると、賢司は一度も振り返らず、まるで彼女の視線を読んだかのように答える。「海外にいた頃、現地の料理が口に合わなくてな。仕方なく覚えたんだ」舞子:「……」なにそれ、洞察力が異常すぎる。この男、人の心を読める悪魔か何か?舞子は何も言わずに踵を返そうとしたが、ふと立ち止まり、口を開いた。「賢司さんって、すごいね」賢司はちらりと振り向き、にやりと口角を上げた。「ど
「余計なことはしなくていいじゃない。さっさと始めたらどうなの?」賢司は彼女の目に宿る光を読み取った。一瞬、何かを呑み込み、そして視線を逸らした。舞子はその様子を不審そうに見つめた。何を言いたいのか、まるでわからない。やがて、賢司は立ち上がり、無言のまま部屋を出ていった。舞子も黙って後を追い、二人は映画室をあとにした。リビングは明るく照らされ、彼の灰色のバスローブ姿が照明に映える。広い肩幅、長い足、その立ち姿だけで威圧感があった。賢司は酒棚に近づき、ガラス戸を開けてボトルを一本取り出した。グラスに注ぎ、一口、喉を潤した。舞子は彼を急かさなかった。彼には彼のタイミングがある。それがわかっていた。「君は何を考えてる?」唐突に投げかけられた言葉に、舞子はきょとんとして、「え?」と聞き返した。「何のこと……?」彼の言葉の意図が見えない。賢司はグラス片手にバーカウンターにもたれ、漆黒の瞳で彼女をじっと見つめた。「宮本紀彦との政略結婚、考えてるんだろ?」その名が出た瞬間、舞子の眉がぴくりと動いた。「私のこと、調べてるの?」「少しな」グラスの酒を一気に飲み干し、賢司は舞子のすぐ目の前にまで歩み寄る。そして低く問いかけた。「もし政略結婚するなら、なぜ、他の男なんだ?」舞子は一歩も引かず、その瞳を真っ直ぐに向けた。「あなたが気に入らないからよ」「ほう?」賢司の眉がわずかに上がった。「でもご両親は、俺のことを気に入ってるみたいだけど?」まるで、全てが掌の上だとでも言わんばかりの余裕。舞子はその傲慢さが我慢ならなかった。「親が満足してたって、私が嫌ならそれまでよ。それに、私の反抗期はちょっと遅れてやってきたの。今は、親の用意したもの全てが気に入らないのよ」反抗期、ね……呆れたように言いながらも、賢司の目には微かな理解が浮かんだ。なるほど、宮本紀彦との縁談も、親への反発の一環ってわけか。「くだらない。君の反発に意味なんてない」淡々と放たれたその声に、舞子の瞳が冷えた。「賢司さん。私たちの関係なんて、長続きしないわ。九回の恩返しが終わったら、もうあなたとは関わりたくない。あなたが本当に好きなのは、お姉さんでしょ?だったらその想いを、姉さんに向けてあげれば?」正直にぶちまけた。