雅之は最初からかおるには一切目もくれず、リビングを何度か行き来して人の気配がないのを確認すると、そのまま寝室へ向かった。「ちょっと、止まりなさいよ!」かおるは慌てて駆け寄り、両腕を広げて彼の前に立ちはだかった。「何するつもりなの?」雅之は血走った目でかおるを睨みつけた。「どけ」彼の全身からは冷たい空気と、言葉にできないほどの威圧感が漂っていた。かおるは思わず身を引きそうになったが、それでも踏みとどまって言い返した。「どかないわよ。いきなり何なの、勝手に押し入ってきて!」雅之は苛立ちを隠せなかった。かおるがここまでして止めようとするってことは、里香がこの中にいるのは間違いない。だったら、なんで会わせてくれない?里香は知らないのか、自分がどれだけ必死に探していたかを。狂いそうになるくらい、ずっと探し続けていたのに。限界寸前だった雅之は、かおるを押しのけようと手を伸ばした――そのとき。背後のドアが、そっと開いた。パジャマ姿の里香が部屋の中に立っていた。片手をドアに添え、もう片方の手は力なく垂れている。細くしなやかな体がどこか儚げで、顔色はひどく青白かった。雅之の目は、彼女の顔に釘付けになった。まるで一瞬たりとも見逃すまいとするように、じっと見つめた。喉が上下し、かすれた声がようやく絞り出された。「……痩せたな」里香はドアノブを握る手に力を込めながら、静かに答えた。「疲れてるの。先に帰ってくれる?」その言葉に、雅之は息を呑んだ。彼女の冷たさが、鋭く胸に突き刺さった。「……わかった。ゆっくり休んで。明日また来る」そう言い残して背を向けた。何度も名残惜しそうに振り返りながら、ゆっくりと部屋を出ていった。ドアが閉まり、彼の気配が完全に消えると、かおるは「ふんっ」と鼻を鳴らし、振り返って彼女を見た。「里香ちゃん、あんなの無視しちゃいなよ!」里香は小さく頷いた。「疲れたから、先に寝るわ。付き添ってくれなくても大丈夫。一人でも平気」それに対し、かおるは即座にきっぱりと言った。「だめ。一緒にいる。じゃないと私が眠れないから」里香は仕方なくうなずいた。再びベッドに横たわったが、目を閉じても、眠気はまったく訪れなかった。さっきの彼の様子――早足で、目は真っ赤で、どこか混
朝の街はまだ車もまばらで、里香はしばらく歩いたあと、タクシーを拾った。「空港までお願いします」そう淡々と告げながら、窓の外に目をやる。視線の奥には、どこか生気のない静けさが宿っていた。同じ頃。徹は、遠ざかる里香の背中を見つめながら、雅之に電話をかけた。「小松さん、出て行きました。向かったのは……たぶん空港かと」渋滞に巻き込まれることもなく、里香が空港に到着したのは、まだ午前七時前だった。一番早い便のチケットを買い、そのまま保安検査場へ向かった。「里香!」ちょうどそのとき、背後から聞き覚えのある声が響いた。一瞬だけ動きが止まり、目を閉じてから、何事もなかったかのように振り返った。少し離れた場所に、雅之が立っていた。整った顔立ちには、冷ややかな表情が浮かんでいる。「どこへ行くつもりなんだ?」ゆっくりと彼が近づいてきた。「ずっと、お前のこと探してたんだ。やっと帰ってきたと思ったら……またすぐにいなくなるのか?もう僕なんて、いらないのか?」雅之は、じっと里香の目を見つめながら言葉を重ねた。里香は静かに答えた。「私たち、もう離婚したのよ。そういう誤解を招くような言い方はやめて」「でも、昨日の夜、僕に会いに来ただろ?間違いなく、会いに来てくれた。そうだろ?会いたかったんじゃないのか?」その言葉に、里香のまつ毛がかすかに震えた。気づいていたんだ。里香は深く息を吸い込み、静かに口を開いた。「私が会いに行ったってわかってるなら、私がこの街を出ていく理由も、きっとわかるはず。でもね、そもそも離婚したら出ていくつもりだったのよ」「あの女は、ゆかりだ。僕の飲み物に何か混ぜて、お前そっくりの格好をして、僕をあの個室に誘い込んできた。でも、途中で気づいた。何もしてない。本当に、何もしてないんだ。里香、あのとき、どうして中に入ってきてくれなかった?もし来てくれたら……僕、きっとすごく嬉しかった」雅之は、言葉を一つひとつ噛みしめるように、まっすぐに彼女を見つめながら言った。戸惑いが、里香の顔に滲む。そんな彼女の手を、雅之がそっと握った。「本当に、何もしてない。何もなかったんだ。お願いだ、僕のこと、捨てないで」その瞬間、心の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出すように、里香のまつ毛が震え、こらえていた涙が頬を
雅之は里香にスマホを返し、彼女が電源を入れてメッセージを確認する様子をそっと見守っていた。ちょうどそのとき、かおるから電話がかかってきた。「もしもし、かおる?」「里香! どういうつもり!? 一人で行くなんて! 最初に一緒に行こうって約束してたでしょ!? なんで黙って出て行ったの? 私のこと、本当に友達だと思ってるの?」かおるの怒鳴り声がスマホ越しに響き渡り、どれほど怒っているかが痛いほど伝わってくる。里香はスマホを少し耳から離し、かおるが一通りまくしたてるのを待ってから、慌てて優しく謝った。「ごめんね、確かに行くつもりだったんだけど、結局行けなかったの。今、外で朝ごはん食べてるんだけど……一緒にどう?」「場所送って!」再び怒りの声が飛んできて、電話は一方的に切られた。里香は鼻をこすりながら、困ったように苦笑いを浮かべた。雅之は優しい眼差しを向けながら、頬にかかった彼女の髪をそっと耳にかけて言った。「君がこっそり出ようとしてたって聞いて、なんか……妙に納得しちゃったんだけど、なんでだろうね」里香はじっと彼を見つめて言った。「たぶん、平等に扱ってるって思ってるからでしょ。でもさ、逆に考えてみて? あなたが特別じゃないから、平等に扱ってるのかもしれないよ?」雅之は言葉を失って完全に黙り込んだ。ほどなくして、かおるが到着した。勢いよく店に入ってきて、里香と雅之が並んで座っているのを見るなり、顔をしかめた。「これ……どういう状況?」里香は説明した。「全部誤解なの。ゆかりが仕組んだことだったけど、結局うまくいかなかったの」かおるは状況を理解した様子だったが、雅之への視線は冷たいままだ。「こいつが他の女と一線を越えそうになったからって、何も言わずに街を出ようとして、それで説明されたからってすぐ許して考え直したってわけ? あなた自身の意思は? 最低限の線引きとか、ないの?」かおるはじっと里香を見つめ、怒りを通り越してあきれたような顔をしていた。里香はかおるの手をそっと握り、穏やかに微笑んで言った。「かおる……いろいろあって、本当に疲れちゃったの。だから、自分にもう一度チャンスをあげたいって思ったの。もしかしたら、本当に変われるかもしれないって……ね?」「ふんっ」かおるは鼻で笑ったものの、
「もしもし、どうすればいいのよ?全部失敗したじゃない!雅之に指まで折られたのよ!あなたの計画、全然使いものにならなかったわ!」怒りを押し殺して話してはいたが、ゆかりの声は明らかに震えていた。少しの沈黙のあと、相手は冷たく言った。「自分の無能を人のせいにしないでくれる?」「……なにそれ!」ベッドから飛び上がりそうな勢いで声を荒げたゆかりだったが、それでもこの人物に頼るしかないと思い直し、なんとか感情を押さえて訊ねた。「じゃあ、これからどうするつもり?」「ここまで使えないなら、もう協力する意味もないね。あとは勝手にやれば?」それだけ言い残して、相手は一方的に電話を切った。「ちょ、ちょっと!もしもし!?」ゆかりは青ざめた顔で慌ててかけ直したが、すでに電源が切られていた。ひどい。本当に、ひどすぎる!そのとき、不意に背後から声がした。「誰と電話してた?」ドアの方から聞こえてきたのは景司の声だった。「に、兄さん……なんで戻ってきたの?」驚いたゆかりは、思わずスマホを床に落とし、動揺を隠しきれないまま景司を見上げた。景司はゆっくりと部屋に入ってきた。ドアの外で、彼女の会話をすべて聞いていたのだ。雅之に指を折られたという事実も、そこで知った。「お前、雅之を陥れようとしたのか?」ベッドの脇に立ち、不機嫌そうな目で彼女を見下ろしながら、床に落ちたスマホを拾い上げる。そして画面に表示された番号を確認した。記憶力に優れた彼は、その番号をすぐに覚えた。「この相手、誰だ?雅之を罠にかけろって言ったのか?お前が何度もしつこく俺に、雅之と里香を離婚させろって言ってきたのも、この人物の指示か?」畳みかけるように問い詰められ、ゆかりの顔から血の気が引いていった。「そんなこともういいじゃない。ねぇ、錦山に帰ろ?冬木にはもういたくないの。全然楽しくないし……」甘えるような声で、いつもの手を使ってごまかそうとする。けれど、もうそんなやり方は通用しなかった。「雅之を怒らせたから、逃げるように帰りたいんだろ?……ゆかり、本当に自分勝手すぎるよ」景司は失望を隠さず、彼女をまっすぐに見つめた。ちょうどそのとき、彼のスマホが鳴った。画面には「父さん」の文字が表示された。「父さん?」電話を取った景司の声は
秀樹はソファに深く腰を下ろし、目を閉じたまま、何も言わなかった。賢司は沙知子の方をちらりと見た。継母である彼女は、瀬名家の中ではいつも遠慮がちで、小さな声で「それは……」と口を開いた。「黙れ!」その瞬間、秀樹が怒声を上げ、リビングの空気は一気に重く沈んだ。賢司はただ事ではないと直感し、それ以上は何も言わず、そっと隣のソファに腰を下ろして静かに待った。30分後、玄関から再び物音がして、景司とゆかりが前後して部屋に入ってきた。中に足を踏み入れた途端、景司は空気の異様さに気付き、「父さん、兄さん、何があったんだ?」と問いかけた。後ろにいたゆかりは、おどおどと様子を伺い、不安げな表情を浮かべていた。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。秀樹がようやくゆっくりと目を開け、「全員揃ったな。なら、これを見ろ」と低く言った。彼はテーブルの上の書類を指差した。最も近くにいた賢司がそれを手に取り、目を通していくうちに、その表情が次第に険しくなっていく。「……本当に、お前がやったことなのか?」読み終えた賢司は、鋭い視線でゆかりを見据えた。ゆかりは顔面蒼白になり、「え?な、何の話?兄さん、何言ってるのか全然わからない……」と声を震わせた。「これは……一体どういうことだ?」景司が近づき、書類を手に取って見た瞬間、顔つきが凍りついた。ゆかりを振り返り、怒りをにじませて睨みつけた。「放火、誘拐、薬物による冤罪工作……ゆかり、お前、冬木に残ってこんなことしてたのか!」その言葉に、ゆかりはすべてがバレたと悟った。だが、認めたら終わりだ。すべてを失う。「な、何のこと?何かの誤解じゃない?兄さん、いつも私のこと一番可愛がってくれてたじゃない……私がそんなことする人間に見える?」ゆかりは涙をポロポロこぼしながら、すがるように訴えた。景司は、苦しげに言った。「俺も、あの電話を聞いてなければ、もしかしたら信じてたかもしれない。でもな、雅之を陥れようとするお前を見て、もう……何を信じればいいのかわからなくなった」「土下座しろ!」その時、秀樹の怒声がリビングに響き渡った。ゆかりの膝がガクガクと震え、その場に崩れるように跪いた。涙に濡れた顔で秀樹を見上げる。「お父さん、信じて。本当に私じゃないの!誰かが私をハメようと
「わ、わたしは……」ゆかりは全身を震わせながら、声が出なかった。目の前にこれだけの証拠を突きつけられては、もう言い逃れなどできるはずもない。もはや瀬名家の娘ではなく、お嬢様でもない。こんな状況で、これからどうやって生きていけばいいの?「父さん、この鑑定書の出所がはっきりしていません。もう一度きちんと検査し直すべきです。誰かが細工した可能性もありますから」賢司が冷静な口調で提案した。秀樹はゆかりの顔を見つめたまま、ふいに視線を逸らして「任せる」とだけ答えた。「わかりました」元々、賢司は冷静で厳しい性格だ。景司のようにゆかりを甘やかすようなことはなかった。そんな彼が、ゆかりが偽物であると知り、さらには数々の悪行まで明らかになった今、彼女に対する態度は一層冷たくなるのも当然だった。こうして手配が済むと、ゆかりは監禁されることとなった。景司は放心したようにソファへ崩れ落ちた。「ゆかりが妹じゃないなら、本当の妹は一体どこに……」秀樹はじっと壁にかかった一枚の写真を見つめていた。着物をまとった気品ある女性が、満面の笑みを浮かべてカメラの前に立っている。「美琴……間違った子を連れてきてしまったよ。ゆかりは、僕たちの娘じゃなかった。どうか……本当の娘がどこにいるのか、教えてはくれないか」沙知子はその様子を見つめながら、強く拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込みそうなほど、力を込めて。嫁いできて十年。いまだに秀樹の心には入れず、息子たちからも距離を置かれている。本当に、報われない人生だわ……親子鑑定の再検査には時間がかかる。その間、瀬名家では本物のお嬢様探しが始まっていた。その動きはすぐに、雅之と里香の耳にも入った。「鑑定結果が出るまで三日かかるそうだ。錦山まで行くつもりか?」と雅之が尋ねると、里香は軽く頷いた。「うん、ちょっと見てこようかな」三日あれば、錦山をゆっくり見て回れる。その頃には、瀬名家がどう動くかも見えてくるだろう。錦山へは飛行機で数時間。着いたときには、ちょうど夕暮れどきだった。雅之は里香を連れて、名物料理をいろいろ食べ歩いた。以前は好んでいた焼きくさややドリアンなどには目もくれず、辛いものや甘いものばかりを選ぶ彼女の様子に、雅之は思わず笑いながらからかった。「どうした
「じゃあ、本当の妹は、いったいどこにいるんだ?」景司は魂が抜けたように、ぽつりと呟いた。賢司は冷静な表情で言った。「ゆかりは、あの時たしか安江のホームから来たよな。親子鑑定の結果もあって、妹ってことになったけど……今思えば、髪の毛を出してきたのは彼女自身だった。もしかしたら、あれは彼女のものじゃなかったのかもしれない」「ってことは……本物の妹は、まだ安江のホームにいる可能性があるってこと?」景司は兄をまっすぐ見つめた。「ああ、そういうことになるな」賢司は静かに頷いた。ただ、時は流れ、今の安江ホームは当時とはすっかり様変わりしていた。あの頃の子どもたちはみんな成長し、今や全国に散らばっている。探すのは簡単なことじゃなかった。そんな中、なぜか景司の脳裏にふと、里香の顔が浮かんだ。そのときだった。使用人が扉をノックして入ってきた。「賢司様、景司様。二宮雅之と名乗る方が旦那様にお目通りを願っております」雅之?あいつが、なんでここに?景司の表情が固まる。頭に浮かんだのは、ゆかりがしでかした一連のことだった。まさか、詰問しに来たのか?階段を降りてきた秀樹が、「通せ」と静かに命じた。「かしこまりました」5分後、二人の人物が現れた。雅之は背が高く、整った顔立ち。仕草のひとつひとつから気品が漂い、見ただけで只者ではないと分かる男だ。そして彼の隣に立つ女性――上品で美しく、化粧っ気はなくリップグロスだけ。それがかえって、澄んだ印象を際立たせていた。秀樹はその女性――里香の顔を見た瞬間、凍りついたように動きを止めた。似ている!あまりにも似すぎている!この娘、美琴に瓜二つじゃないか!思わず興奮して、里香の前に歩み寄ると、震える声で尋ねた。「あなたは……?」里香は口元に穏やかな笑みを浮かべ、「瀬名さん、初めまして。小松里香と申します」と丁寧に名乗った。「里香!?なんで君がここに?」景司の驚きが部屋に響いた。秀樹が鋭い目で息子を睨んだ。「どういうことだ。お前、彼女と面識があるのか?」「あ、ああ……」景司が答えたその瞬間、賢司が軽くため息をつき、突然弟の頭を掴んでぐいっと向きを変えた。「ちょ、なにすんだよ!」景司は不満そうに身を捩った。賢司は手を離しながら、
里香は彼の様子を見て少し戸惑いながらも、「それでは、親子鑑定をなさいますか?」と控えめに提案した。「いや、そんな必要はない。君こそが、私の娘だ。見てごらん……お母さんにそっくりじゃないか!」秀樹はすぐさま首を振ると、足早に一枚の写真の前へと歩み寄り、その中の女性を指さした。里香も近づき、じっと写真を見つめる。見覚えのない顔だったが、確かに自分とよく似ているとわかる。特に目元の優しく穏やかな雰囲気が、自分とそっくりだった。里香は軽く唇を噛み、秀樹の方に向き直ると、静かに口を開いた。「やはり一度、きちんと確認しておきましょう。あとで揉め事にならないようにするためにも」するとそのタイミングで、賢司が口を挟んだ。「父さん、やっておいたほうがいいよ。これで今後、誰にも何も言われなくなるんだから」景司は何も言わず、ただ複雑な表情のまま、じっと里香を見ていた。里香とまっすぐ向き合う勇気がなかったのだ。あれほど、何度も雅之との離婚を勧めたのは、自分だった。しかも、その理由は、ゆかりを守るためだった。どれほど愚かだったのか……今になって痛いほど思い知らされる。そんな景司をよそに、里香が賢司の方を見やると、賢司はにこりと笑って言った。「初めまして。賢司だ。俺のことは『お兄さん』って呼んでくれればいいよ」里香は少し戸惑いながらも、小さく唇を動かして「お兄さん」と呼んだ。その瞬間、いつもは厳しい表情の賢司の顔に、初めて柔らかな笑みが浮かんだ。「うん」不思議な感覚だった。ゆかりから十年以上「兄さん」と呼ばれてきたのに、心が動くことは一度もなかった。むしろ、どこかで疎ましく感じていた。けれど、今。里香に「兄さん」と呼ばれた瞬間、煩わしさなんて一切なく、むしろ心地よささえ感じた。これが、血のつながりってやつなんだろう。とはいえ、手続きはやはり必要だった。すでに瀬名家のみんなが里香を家族として受け入れていたとしても。鑑定結果が出るまでには3日かかるということで、里香はその間、瀬名家に滞在することになった。秀樹は里香をひときわ大事にし、細やかな気配りで接してきた。彼女の好みを一つひとつ聞き出して、特別に部屋まで用意したほどだ。賢司も、里香の好きそうな物をたくさん買い揃えて帰ってきた。景司は最後
里香が突然帰ると言い出したことで、瀬名家の人々は驚きを隠せなかった。賢司と秀樹が慌てて里香の部屋に駆けつけると、彼女はすでに荷物をまとめ終えており、二人とも不安げな表情を浮かべていた。「里香、一体どうしたんだ?なんでそんなに急いでるんだ?」秀樹が一歩前に出て問いかけると、里香は深く息を吸い込み、落ち着いた声で答えた。「雅之がケガをしたんです。どうしても会いに行かなきゃって思って……」「な……」秀樹は一瞬言葉を失った。つい最近まで、彼女は雅之のことをひどく嫌っていたはずだ。顔も見たくないって言っていたのに……どうして突然、気持ちが変わったんだ?秀樹をまっすぐ見つめながら、里香は目を潤ませて言った。「お父さん、ごめんなさい。一緒に年越しできなくて……でも、行かなきゃ。行かなかったら、きっと後悔する。きっと一生悔やむと思うの」その様子は、あまりにも切実だった。秀樹は「年越してからにしろ」と言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。代わりに賢司が口を開いた。「まず、こっちでも状況を調べてみるよ」もはや、二人にも彼女を引き止めることはできなかった。なにしろ、雅之は里香のお腹の子の父親なのだから。秀樹は小さく息を吐いて言った。「せっかく帰ってきてくれたし、みんなで久しぶりに団らんの年越しかと思ってたんだが……来年までお預けになりそうだな」「彼が無事なら、すぐ戻ってきます」里香がきっぱりとそう答えると、「うん、無理するなよ。子どもの父親でもあるし……」と、秀樹もそれ以上は何も言えなかった。景司はすぐにプライベートジェットの運航ルートを手配し、里香はスーツケースを持って飛行機へと乗り込んだ。景司も同乗していた。「一人で帰らせるのは心配だしな。俺も一緒に行くよ」「そうだ、それがいい」秀樹も頷いた。「何かあったら、景司に全部任せておけ」賢司も一言添えた。「里香のこと、頼んだぞ」ここまで言われて、里香もさすがに断れなかった。「できるだけ早く戻ります」家族の顔を見つめながら、涙ぐんでそう言った。飛行機は滑走路を離れ、夜の空へと飛び立っていった。冬木。二宮グループ傘下の病院内。集中治療室の明かりは、いつもどおり、こうこうと灯っていた。桜井はいつものように様子を見に
里香はまだ少し半信半疑だったが、景司の落ち着いた表情を見て、彼が否定しないことに気づいた。……本当なの?もしこれがかおるの耳に入ったら、喜びすぎて気絶するんじゃないか?そう思いながら、里香は鼻を軽くこすってから視線をそらした。夕方。秀樹が帰ってきた。明日は大晦日。瀬名家の人たちも次々と集まり始めていて、リビングはいつも以上ににぎやかだった。里香はかなり疲れていて、二階で少し眠ったあともそのままベッドで横になっていた。ときどき、階下から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。外では子どもたちが雪遊びをしているらしく、にぎやかな声が混じっていた。でも、里香の心はぽっかりと穴が空いたようで、どこか現実感がなかった。ふいに月宮に言われた言葉を思い出し、唇をきゅっと引き結んだ。スマホを手に取り、ロックを解除して、スクリーンセーバーの写真を見つめながら、お腹にそっと手を添えた。そのとき、スマホが震えた。かおるからのメッセージだった。【大変!!】【里香ちゃん、雅之が銃で撃たれて、ずっと昏睡状態なんだよ!】【ねえ、見た!?メッセージ見た!?】立て続けに三通。尋常じゃない内容に、里香は思わず体を起こした。顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきり分かった。文字は読めるのに、意味が頭に入ってこない。銃で撃たれた?長い間昏睡状態って、どういうこと?そんなはずない。雅之が撃たれただなんて……なんで……!?震える指で、かおるの番号をタップした。なんとか発信できたものの、声を出そうとしても、うまく出なかった。「……もしもし、かおる?さっきの……どういうことなの……?」なるべく冷静に話そうとしたけど、声の震えは止められなかった。電話の向こうのかおるも、明らかに動揺していた。「私も、さっき聞いたばっかりなの!あのね、瀬名家であなたの歓迎会が終わった後、雅之、何も言わずに帰ったでしょ?それで、その夜に冬木に戻って、いきなり撃たれたんだって!しかも心臓をかすめたって言うから、本当に危なかったらしくて……今も集中治療室にいて、まだ意識が戻ってないの!」「どうしてそんなことに……」里香の顔は信じられないというより、恐怖に染まっていた。かおるは焦りながら、なおも言葉を重ねた。「詳しいことは全然わか
月宮の目を見つめながら、かおるはしばらく黙っていた。――月宮と縁を切る?無理に決まってる。月宮家は冬木じゃいろんな人脈が絡んでて、普通の集まりでも顔を合わせることなんてざらにある。だから、唯一の方法は距離を取ること。あとは冷たくするしかない。それに、こんなことで月宮と揉めたくもなかった。「じゃあ、それで決まりね。あの人からまた連絡きたら、すぐ教えて」かおるは、本気でこれ以上この話を引きずる気はなかった。月宮は口元に微かに笑みを浮かべ、「もちろん」と答えた。そして、かおるのそばに腰を下ろし、じっと見つめながら聞いた。「一緒に帰るか?」明日は大晦日。結婚してから初めての年越しで、年が明けたらすぐに式も控えている。かおるは「うん」と頷き、立ち上がりながら言った。「ちょっと、里香に声かけてくるね」月宮も頷いた。「一緒に降りようか」玄関に向かって歩きながら、かおるはふと思い出したように聞いた。「そういえばさ、雅之って今何してるか知ってる?全然連絡ないし、音沙汰なしじゃん」月宮はどこか意味ありげな目でかおるを一瞥し、「さっき里香と話したけど、彼女、雅之には全然興味なさそうだったよ」と言った。かおるはその言葉に少し違和感を覚えた。でも、里香の最近の様子を思えば、あながち間違いとも言えず、それ以上は何も言わなかった。「じゃ、その話は置いとこっか」階段を降りたかおるは、里香に冬木へ帰ることを伝えた。「ほんと、あんたって根性ないんだから」里香は笑ってからかうと、それを聞いた月宮は眉をひそめた。「かおる、やっと機嫌取れたばっかなんだから、邪魔しないでくれる?小松さん」里香はそれを無視して、かおるに持たせる荷物を用意させた。かおるは遠慮なく、それらを全部受け取った。玄関まで来て、かおるは里香をぎゅっと抱きしめた。「じゃ、数日後に戻ってくるから。外寒いし、見送りはいいよ」「うん」里香は頷き、二人の背を見送った。ふと振り返ると、賢司が階段から降りてきた。黒のタートルネックニットがよく似合っていて、姿勢もしゃんとしていた。「お兄ちゃん」里香が声をかけると、賢司はそれに応えて尋ねた。「もう帰ったのか?」「うん」里香が頷いた。「誰が?」ちょうどそのとき、景司
かおるは思わず目を見開いた。賢司は立ち上がり、彼女のほうへ歩いてきながら尋ねた。「離婚するのか?」かおるは首を横に振った。「別にケンカしたわけでもないのに、なんで離婚しなきゃいけないのよ」賢司はすでにかおるの目の前に立っていて、その言葉を聞くなり、ふいに手を伸ばした。かおるはとっさに身構えて二歩後ろに下がり、背中がドアにぶつかった。そのまま彼を警戒するように睨みつけた。「なにするつもり?」賢司はじっとかおるの目を見つめ、その緊張感を察すると、さらに冷たい表情になってドアノブに手をかけ、そのままドアを開けて彼女を外へ押し出した。「人妻が俺の部屋にいるとか、どう考えてもアウトだろ」そう言い残して、さっさとドアを閉めた。「ちょ、ちょっと、あんた……!」かおるはその場で呆然と立ち尽くした。閉まったドアを見つめながら、何も言い返せなかった。こ、こんな人……どうしてこうなのよ。でも、まぁ、言ってることは正しい、かも。「かおる」そんなことを考える間もなく、月宮の声が聞こえてきた。振り返ると、彼が階下のリビングに立ち、上を見上げてかおるを見ていた。今さら隠れても無意味だし、逃げるタイミングも失っていた。かおるはそのまま階段を下りて、「なによ」と声をかけた。月宮は、どこか冷めた表情をしたかおるを見つめながら近づいてきて、手を取り、真剣な眼差しで言った。「話をしよう」かおるは手を振り払おうとしたが、月宮の力は強くて引き抜けなかった。「手を放して」にらみつけながらそう言うと、月宮はきっぱり言った。「無理だ。一生、放さない」その言葉は強引で、少し傲慢だった。そして、その瞳には、はっきりとした独占欲がにじんでいた。ずるい。こんなふうにされるの、なんか……嫌いじゃないかも。「何を話すのよ?」「どの部屋に泊まってる?」月宮が尋ねた。その言葉を聞いたかおるは、一気に目を見開いて彼をにらんだ。「はぁ!?どういう意味よ?まだ話す前から、もうそういうこと考えてんの?つまり、あたしに会いに来た理由って、それ!?」月宮はすかさず、かおるの口を手でふさいだ。目を閉じると、リビングにいた里香を見て「彼女の部屋はどこだ?」と尋ねた。里香はぽかんとしながらも、指で部屋の
一言で、その場に火薬の匂いが立ち込めたような緊張が走った。月宮はほんの少し眉を上げ、凛とした表情の里香を見つめながら、ぽつりと聞いた。「……俺、巻き込まれてる感じ?」「えっ?」里香は一瞬、その意味がつかめず、きょとんとした。けれど、月宮の笑みはすぐに消え、声にも冷えた色が混じりはじめる。「おかしいと思わなかったか?なんで雅之が急に錦山を離れて、しかもずっと連絡してこないのかって」その言葉に、里香の表情もさらに冷たくなった。「それは彼の問題よ。私には関係ないわ」「はっ」月宮は小さく冷笑した。「関係ない、ねぇ……よく言うよ。俺はずっと、あんたら二人が揉めたり、傷つけあったりしてるのを黙って見てきた。口出しは一切しなかった。でも、雅之には何度も言ってきたんだ。本心から目をそらすなって。後悔するようなことはするなって。アイツもちゃんと変わろうとしてた。それくらい、あんたもわかってたろ?でも……お前、もう雅之のこと、愛してないんだろ?」月宮の視線が鋭く突き刺さった。その言葉に、リビングは一瞬、重い沈黙に包まれた。里香は何も答えなかった。「……そうか。もう本当に気持ちはないんだな」それ以上は追及せず、月宮は話を続けた。「だったら、雅之のこれからがどうなろうと、お前には関係ない。俺もこれからは、雅之のことでお前を巻き込むようなことはしない。今日ここに来たのは、かおるを連れて帰るためだ。戻るかどうかは、本人とちゃんと話して決めたいと思ってる」「彼女、会いたくないって言ってたわ」「それでも構わない。ここで待たせてもらうさ。恋愛ってやつはな、結局、腹割って話さなきゃ始まらない。誰も何も言わなかったら、口なんてあっても意味ねぇからな」その言葉に、里香の胸がわずかに揺れた。腹を割って話す――……そうだ、自分も雅之に、ちゃんと聞くべきなのかもしれない。少なくとも、彼に説明の機会くらいは与えるべきだ。その頃、二階の部屋では、かおるは、浴室から出てきた大柄な男を目にして、思わず目を見開いた。広い肩幅に引き締まった腰、はっきりと浮き出た筋肉のライン。短髪をタオルで拭うたびに、その腕の筋肉がぐっと浮かび上がり、ただ立っているだけでも圧を感じる。濡れて乱れた髪。額の下からのぞくその瞳は、どこか冷たく、じっとこち
かおるは彼をじっと見つめながら言った。「お兄ちゃん、それってどういう意味?私みたいに元気で可愛くて綺麗な妹が増えるのが嫌なの?」そう言いながら両手で頬を押さえて、ぱちぱちと瞬きをした。景司は淡々と笑いながら答えた。「俺は別に構わないけど、ある人はそう思わないかもしれないな」「え?」かおるはきょとんとした顔をしてから、すぐに里香の方を見た。すると、里香は両手を広げて「私は何も言ってないよ」と無言でアピール。となれば、「ある人」っていうのは……賢司しかいない。かおるは少し不満げに唇を尖らせた。だめだ、やっぱりちゃんと賢司に直接聞かなきゃ。どうしてそんなに私のことが嫌なの?その頃、秀樹と賢司の話し合いは、もう2時間近く続いていた。ふたりがリビングから出てきた時、階段の下で腕を組んで立っていたかおるの姿が目に入った。「おじさん、もう遅いですから、お休みになってください」かおるが声をかけると、秀樹は軽くうなずいて、「うむ、お前たちも早く休め」と言い、自室へと戻っていった。かおるはすぐに賢司の方へ向き直った。「賢司さん、ちょっとお話いいですか?」賢司は片手で袖を整えながら、ゆっくりと階段を降りてきた。すらりとした長身に整った顔立ち。気品と冷たさを醸し出しながら、無表情のままかおるを見下ろした。「用件は?」かおるはずばり聞いた。「私のこと、何か不満でもあるの?」「別にない」賢司はそう言って、かおるの横をすっと通り過ぎ、バーカウンターで水を汲んだ。かおるはその後を追いかけ、身を乗り出すようにして尋ねた。「じゃあ、私のことどう思ってるの?」「特に何も思っていない」かおるは内心、答えに戸惑いながらも、真正面からは聞けなくて、自分の指を軽く噛んだ。「それって……」「言いたいことがあるなら、はっきり言え」賢司の言葉にかおるは真剣な眼差しを向けた。「おじさんが私を養女にしたいって話してるのに、なんであなたは反対するの?」賢司は水を一口飲み、喉仏を上下させてから静かに答えた。「瀬名家には、娘はひとりで充分だ」はっきりそう言われてしまうと、さすがに言い返せなかった。かおるは悔しそうに賢司を睨みつけた。「……やっぱり、私のこと嫌いなんでしょ?」そう言い捨てて、そのまま踵を返し行っ
「えっ!?」かおるは彼女の話を聞いて、目を見開いた。聡が雅之の手下だったなんて……「ちょっと待って」手を上げて考え込みながらつぶやく。「東雲凛、東雲新、東雲徹、東雲聡……なるほど、全部繋がってたのね!」里香:「……」かおるはじっと里香を見つめ、「こんなに共通点があったのに、全然疑わなかったの?本当に?」里香は素直に首を横に振った。「うん」「はあ……」かおるは深いため息をついた。何て言ったらいいんだろう。雅之は答えを目の前に差し出していたのに、彼女は気づかなかった。聡を信じてたから?それとも、そもそも雅之のことを意識してなかったのかな?たぶん、両方なんだろう。かおるはそっと彼女を見つめ、「じゃあ今、雅之に怒ってるの?」里香は答えた。「怒っちゃダメなの?」かおるは顎に手を当てて考え込んだ。「もちろん怒っていいと思うよ。でもね、聡がそばにいたから、万が一のときすぐに見つけてもらえたんだし、前の一件も、結局は雅之が聡を通して助けてくれたんでしょ?ちゃんと考えてみたら、正しいとも間違ってるとも言いきれない気がするんだよね」里香は無言になった。かおるはそんな彼女の様子をうかがいながら、静かに言った。「里香ちゃん、一番つらいのは、彼が何も言わずにいなくなったことなんじゃない?何の説明もなく」里香は唇をぎゅっと噛んだ。「別に気にしてない」そう言って、立ち上がり、階段を上がっていった。「あっ!」かおるは慌てて後を追い、里香の顔を覗き込みながら言った。「ねえ、月宮に話してみよう?」「やめて!」里香はかおるを睨みつけ、「聞かないで。月宮にも言わないで。今は彼に会いたくないし、何も聞きたくないの」「わかった、わかった、話さないし聞かない。他のこと話そう!」かおるは彼女の感情が不安定な様子に気づいて、急いでそう言った。妊娠中の里香は気分の起伏が激しく、さっきまで笑っていたかと思えば、次の瞬間には泣き出すこともあった。だから、まわりの誰もが彼女の気持ちを気遣っていた。夜。秀樹、賢司、そして景司が帰ってきて、かおるの姿を見つけると嬉しそうに声をかけた。かおるの明るく飾らない性格はみんなに好かれていて、家族も彼女のことを気に入っていた。賢司は彼女の薬指に光る指輪をちらりと見て、表情を
彼らの様子を見つめていると、自然と里香の胸があたたかくなる。これが「家族」というものなのかもしれない――そう思える、その感覚がとても心地よかった。でも、夜中にふと目を覚ますたび、どうしても雅之のことを思い出してしまう。前触れもなく姿を消し、嘘をつき、それきりずっと何の音沙汰もない……一体、どういうつもりなんだろう?こっそりいなくなっておきながら、今は消息すら分からない。あのとき交わした約束って、全部嘘だったの?年末も近づいたある日、かおるがスーツケースを引っ張って突然やって来た。ドアを開けるなり、ソファにドカッと腰を下ろし、腕を組んで不機嫌そうな顔をしている。使用人からの知らせを受けて里香が階下に降りていくと、そんなかおるの姿が目に入った。「どうしたの? 何かあった?」すると開口一番――「月宮と離婚する!」と、かおるが声を荒げた。「え?」里香は驚いて彼女を見つめた。「どうしてそんなことに?」かおるは使用人が運んできたジュースを受け取って一気に飲み干すと、怒りを込めた口調で言った。「あいつ、初恋の相手がいたなんて一度も言わなかったのよ!その子が帰国してきてるっていうのに、まだ黙ってたの。たまたま食事してるところを見かけなかったら、完全に騙されてたわ!」「えっ?」里香はしばらく考えてから、「でも、それって本当に初恋の相手だったの?」と慎重に尋ねた。かおるは力強くうなずいた。「間違いないわ!」「じゃあ、その子とどういう経緯で食事することになったのか聞いた?ただの友達同士の集まりとか、そういうのじゃなくて?」「そういうパターン、もう知ってるって!」かおるはむっとして言った。「初恋の子がいきなり帰国して、元カレを取り返そうとするって話。私と月宮の周囲にちょくちょく顔を出して、あきらかに月宮のことまだ好きなんだと思う。月宮はただの友達だって思ってるかもしれないけど、男ってさ、そういうのに簡単に引っかかるんだから。それで、向こうはあの手この手で仕掛けてきて、私は我慢するしかなくて、結局月宮はその子をかばってばかり……まるでラブコメのドロドロ展開みたいになるのよ。で、最後にはバッドエンド!」かおるは両手を広げて、すべてお見通し、と言わんばかりの表情を浮かべた。それを見て、里香は思わず苦笑して
里香はそのまま退職のメールを聡に送った。すると、すぐに聡から直接電話がかかってきた。「里香、親のこと見つけたんでしょ?これからは錦山に残るつもりなの?」聡の口調は相変わらず軽く、まるで友達同士のようだった。里香は淡々と答えた。「うん、もう離れるつもりはない」家族がここにいる限り、離れるわけにはいかない。聡は少し残念そうに言った。「はぁ……あなたって本当に優秀だし、私もあなたのこと好きだった。ずっと私のところに残ってくれてたらよかったのに」里香は冷静に尋ねた。「それ、本心?それとも雅之からの任務?」「な、何……?」聡は一瞬言葉を失ったが、すぐに気づいたようで、慎重な口調になった。「もう知ってたの?」里香は声もなく、少し笑みを浮かべた。「それで、いつまで私に黙ってるつもりだったの?」聡は少し気まずそうに、「ごめん、本当に全部、あの人の指示だった。でもね、出発点は悪くないの。あの人、あなたを守りたかったんだ……」と言った。里香の声は冷たかった。「目的は監視であって、保護じゃない。そのことはもう全部分かってる。騒ぐつもりはないけど、お願いだから友達のふりして話しかけないで。まるでピエロみたいな気分になるから」聡はしばらく黙っていたが、やがて「分かった、もう連絡しない」と言った。電話を切った後、里香の心は非常に複雑だった。信頼していた友達が、実は自分を監視していたなんて。こんなこと、どうやって受け入れればいいのか。里香はバルコニーに座り、外の景色を見ながら、言い表せない寂しさを感じていた。大晦日まであと一週間。かおるの帰還により、瀬名家の家の中は華やかに飾られ、今年の正月はとても盛大に行う予定だった。さらに、いくつかの分家の親戚も呼んで、みんなで集まることになっていた。里香はすでに妊娠して二ヶ月近い。お腹はまだ平らだが、体調はあまりよくなかった。顔色は青白く、吐き気も強く、よく眠り、精神的にも元気がなかった。その様子はすぐに瀬名家の人たちに気づかれてしまった。秀樹は心配そうに彼女を見つめ、「里香ちゃん、体調悪いのか?」と尋ねた。彼女はクッションを抱えて一人用のソファに縮こまるように座っていた。虚ろな目でその言葉に返事をした。少ししてからようやく、「ああ……悪いんじゃなくて、妊娠して