暦の上ではとっくに秋とは言え、まだまだ残暑厳しい八月下旬。
私、
深見恵麻は、三ヵ月前から婚約者と同棲中の四つ年上の姉に呼び出され、東京の一等地に建つデパートの屋上にやってきた。ここは、夏季限定でビアガーデンを営業している。
店員に「待ち合わせです」と告げると、すぐに案内してもらえた。
午後七時ですでに盛り上がっている先客たちのテーブルの間を縫うように進むと、奥まったテーブルに、艶々の黒髪ロングストレートヘアの女性を見つけた。
姉の
礼奈だ。妹の私は猫っ毛で、肩甲骨に毛先がかかる長さのゆるふわの髪を、茶色くカラーリングしている。
髪質の違いと同様、人見知りが強くて内向的な私とは性格も真逆で、姉は溌剌とした美人。
両親の期待を一身に背負って育った完璧な姉。
同じ親を持って生まれた姉妹でも、私とはあまりにも違う。
昔から目標にするのもおこがましい、憧れの存在だ。
「お姉ちゃん、お待たせ。急に呼び出すなんて、どうし……」
背後から近付く格好で呼びかける途中で、私は声をのんで固まった。
姉の対面に、男性が一人座っていた。
男性が姉より先に反応して、視線を上げる。
「お、来たか」
目が合った瞬間、私の胸がドキンと大きく跳ね上がった。
ヒラヒラと手を振って合図する彼につられたように、姉も私を振り返った。
「あ、恵麻。お疲れ様。ごめんね、仕事帰りに」
その場で足を竦ませて立ち尽くす私に、『おいでおいで』と手招きする。
私はその仕草で我に返り、胸元の服を握りしめた。
一歩ずつ慎重に近付き、テーブルの傍らまで行ったものの、席に着いていいものか躊躇ってしまう。
姉は、私が男性を警戒していると思ったのか、
「恵麻、これ、
剣崎瞬。覚えてない?」
ケロッとした顔で紹介してくれるけれど。
「久しぶり、恵麻」
「どっ……どうして、お姉ちゃんっ」
軽い調子で挨拶してくる彼を無視して、私は姉の隣の椅子に勢いよく腰を下ろした。
「ん?」
「ん?じゃないよ。なんでこの人と一緒にいるの?」
彼が私たちに注ぐ視線を気にして、姉に身を寄せながら小声で問い質す。
「そもそも、お姉ちゃんが覚えておく価値もないって言ったのに。覚えてる?ってなによ」
「そうだっけ?」
「忘れたの!? お姉ちゃん、言ったじゃない。『あの男に、有限の記憶領域を割く必要ないわよ。あんなやりチ……』」
十年ほど前、姉が言ったままを口にしようとして、その当時高校生だった私にはドギツすぎたワードを、辛うじてのみ込んだ。
真夏の金曜日、アフターファイブ。
星空の下のビアガーデンは、私と同じ仕事帰りのサラリーマンやOLのグループ客で、満席状態。週末を迎える開放感も手伝って、どの席も盛り上がっていて騒々しい。
他の席の会話なんか、耳に入りはしないだろうけど。
「酷いな、礼奈。そんな言い方してたの」
斜め前の彼には、のみ込んだ部分までしっかりはっきり聞こえたようだ。
「なにも恵麻に、そんな下品な言葉教えなくていいのに」
端整な小顔を引き攣らせて、姉を睨む。
「だって真実だもの。あ、すみません。生一つ追加で」
姉は軽く受け流し、通りがかったウェイターを呼び止め、勝手に私に生ビールを注文してから、
「私というものがありながら、他の女に目を眩ませたのは確かでしょ」
腕組みをして、真っ向から彼を見据える。
「…………」
彼は反論せず、口を噤んでひょいと肩を竦めた。
私は堪らない居心地悪さに身を縮め、平然と際どいやり取りをする二人を上目遣いで窺う。
剣崎瞬……姉の大学時代の元カレだ。
その当時、私たち家族は父の仕事の都合でロンドンで生活していて、彼は姉と同じ大学に留学中だった。
私と違い、華やかな見た目で社交的、それ故恋愛経験も豊富な姉が、『私が出会った中では史上最高のイケメン』と言い切ったほどのイケメン。
色素が薄く、茶色く癖のない髪はサラッとしていて、百八十センチ近い長身でスリムな体型。
世界のトップモデル並みの恵まれたスタイルで、本場ロンドンっ子顔負けの王子様のような人だった。姉がよくうちの夕食に連れてきていて、私も彼とは知り合いだ。
当然ながら、姉が彼と別れると同時に縁は途絶えた。
だから、私が彼と会うのはかれこれ十年ぶり。
現在三十歳の彼は男っぽさを増し、精悍な印象になった。
真夏でノーネクタイでもしっかりスーツを着ているせいか、大人の男の色香が漂う。
見知っている男性なのに初めて会う人のようで、人見知りの私は落ち着かない。
まっすぐ見られず、こっそり窺っていたのに気付かれたのか、彼が私の方を向いた。
意図せず正面から目が合ってしまい、私は反射的に身体を強張らせた。
「恵麻、綺麗になったね」
どうしてだか眩しそうに目を細められ、お世辞だとわかっていてもドキッとする。
私は慌てて彼から顔を背けた。
「お姉ちゃん、なんの用?」
彼には返事をせず姉に詰め寄り、今日の呼び出しの説明を急かす。
姉は、「ああ、うん」と相槌を打ち、
「とりあえず、乾杯しない?」
私の分の生ビールが運ばれてきたのを見て、呑気な提案をした。
二人がグラスを手に取るのを見て、私も仕方なく彼らに倣う。
「では、久しぶりの再会を祝して、乾杯っ」
姉の音頭で、申し訳程度にグラスを掲げた。
なにが『祝して』なんだか――。
私は豪快にグラスを傾ける姉に半分呆れながら、チビチビとグラスに口をつけた。すると。
「恵麻が酒飲んでる。新鮮だな」
斜め前からしみじみとした声が聞こえて、ぴたりと手を止める。
私は警戒心を露わに、彼に視線を向けた。
「ああ、ほら。恵麻はクリスマスも、シャンパンをちょっと舐める程度だったろ?」
「……いつの話よ」
懐かしそうに昔話なんかする彼への反発心がムクムクと湧いて、悔し紛れにグラスを呷る。
「あの時は高校生だっただけで。私も冬には二十七歳。立派な大人……」
「そうだな。もう恵麻も立派な大人だ」
からかうでもなく、しんみりした顔をされ、不覚にも口ごもった。
「十年前は、恵麻と酒飲める日が来るなんて、思えなかったからさ」
目を細めて感慨深げに言われると、ちょっと調子が狂う。
黙って俯く私の横で、姉がグラスを置いて頬杖をついた。
「恵麻」
名を呼ばれ、ハッと我に返る。
「お姉ちゃん。いい加減……」
「瞬と、同棲してみない?」
逸れた話題を元に戻そうと切り出したところに直球で返され、私は目を点にした。
「……は?」
「瞬と同棲してみない?って言ったの」
たっぷり二拍分の間を置いて聞き返すと、姉が律儀に繰り返す。
「……は?」
「俺と婚約してくれない? 恵麻」
二度言われても同じ反応の私に、彼が割って入った。
あまりに意味不明で、異次元の言語を耳にした気分。
私は放心して、彼に機械的に視線を流した。
彼は長い足を組み上げ、私の返事を小首を傾げて待っている。
斜めの角度から探る瞳が居心地悪くて、私は縋る思いで姉に視線を逃がした。
なのに、姉も彼と同じように、私の反応を探っているだけで――。
「ちょ……ちょっと待って」
混乱の局地に追い詰められ、私は顔に手を当てた。
「二人ともなに言ってるの? いったいなにを企んでそんなこと……」
二人揃って私をからかってるとしか思えない。
こんな悪い冗談のために、会社帰りに呼び出してきたのかと思うと、姉に対して怒りすら込み上げてくる。
「悪ふざけなら、私帰る」
ダンとテーブルに手をつき、立ち上がろうとすると。
「恵麻」
姉が手を重ねて私を止めた。
「悪ふざけでも冗談でもないの。ちゃんと説明するから座って」
「え……?」
私を見上げる姉の瞳が思いのほか真剣だったから、虚を衝かれた。
中途半端に腰を浮かせた体勢で固まり、おずおずと目線だけ動かすと、私をジッと見ている彼と視線が交差した。
目が合うのを待っていたかのように、彼はニコッと優雅に微笑み……。
「俺が日本にいる間。俺のフィアンセになってくれませんか?」
あの頃と変わらない王子様のようなスマイルで告げられた言葉は、ますます私を不可解な気分にさせた。