「もしもし?」聡が電話に出ると、有美の声が聞こえてきた。「聡ちゃん、声がまだ寝起きっぽいよ?遊びに行かない?」部屋を出て、きれいに片付いたキッチンを見た聡は、さらに気分が良くなって、「どこ行くの?」と聞いた。「兄の友達がワイナリーやっててさ、没入型のぶどう狩りが体験できるんだけど、行ってみる?」聡は思わず吹き出した。「ぶどう狩りなのに没入型ってどういうこと?摘んだぶどうでそのままワイン作れるとか?」「やろうと思えば、たぶんできるんじゃない?」と有美が返した。「いいわよ」どうせ暇だし。聡はそう思い、とりあえず行くことにした。「じゃあ決まりね。明日の朝出発するから、集合場所のアドレス送っておくね」「わかった」そう返事すると、有美は「てへっ」と、なんだか意味深に笑った。スピーカーモードに切り替えた聡は、食事をとりながら言った。「言いたいことあるなら、こそこそしないではっきり言いなさいよ」すると有美が咳払いをひとつして、切り出した。「昨日、お兄ちゃんとけっこう長い時間一緒にいたでしょ?どうだった?」「いい人だったよ」有美の声には、抑えきれないワクワクがにじんでいた。「ほんとに?ほんとにそう思った?」「彼とちゃんと接した女性なら、みんなそう思うんじゃないかしら」「うーん……あの頃お兄ちゃんに夢中だったあの子を除いて、だけどね」「ぷっ……!」思わず吹き出した聡は、急いでティッシュで口元をぬぐった。「ねえ、もっとお兄ちゃんのこと知りたいって思わない?」「そこまで考えてないわ。一回会っただけだし」「じゃあ、明日で二回目だよ!お兄ちゃん、本当に素敵な人なんだから、ぜひ試してみて!」聡はからかうように言った。「試してダメだったら返品できる?」「えっと……もちろん!」「じゃあ、ちょっと考えてみてもいいかもね」「よしっ!それで決まり!」翌朝、聡が車で約束の場所に到着すると、すでに2台の車が先に着いていた。サングラスをかけた有美が車から降りてきて、「やっと来た!さあ、出発しよ!」聡は窓を開けて言った。「9時集合じゃなかった?今ちょうど9時なんだけど」みんな何時に来てるのよ……有美は窓にもたれかかって、こっそり愚痴った。「お兄ちゃんが朝から早起きしちゃって
ただ、聡が気づいていなかったのは、星野が以前よりも冷たい目を向けるようになっていたことだった。聡が目を覚ましたとき、すでに昼を過ぎていた。なんとか体を起こすと、全身が筋肉痛のように重だるく、ひどく疲れている。昨夜のことが頭に浮かび、しばらくベッドの上でぼんやりとしていた。スマホを探そうとしてふと目をやると、ベッドサイドに置かれた薬の瓶と水に気づいた。それは、避妊薬だった。しばらく薬瓶を見つめたあと、聡は無言で錠剤を飲み、そのまま部屋を出た。すると、キッチンで星野が料理をしているのが目に入った。「どうしてまだここにいるの?」驚いたように声をかけると、星野は一瞥だけくれて、そう淡々と答えた。「あなたが食事を済ませたら、帰るつもりです」聡はキッチンの入口にもたれかかり、せわしなく動く彼の姿を見つめながら言った。「昨夜のことなんだけど……」だが、口をつぐんだ。星野もその話題を続ける気はないようだった。まるで昨夜のことがただの気まぐれで、責任を問うような話じゃない、とでも言うように。星野の気持ちはまったく読めなかった。自分のことを嫌ってるんじゃなかったの?それなら、なんで何度も関係を持とうとするの?聡は、こういうふうに色々考えなきゃいけない状況があまり好きじゃない。だから、率直に聞くことにした。「星野くん、君はいったい何を考えてるの?」ちょうど最後の料理を盛りつけていた星野は、言葉を受け止めて、逆に問い返した。「あなたは?」皿を持って振り返ると、彼は一瞬だけ聡を見て、そのまま彼女の横を通り抜けてテーブルに料理を置いた。聡は眉を少し吊り上げながら言った。「昨夜、先に仕掛けてきたのは君だけど?」「でも、あなたは拒否しませんでした」「……」それは、たしかに否定できない。彼のキス、声、そして手際。全部、自分の好みにぴったりだった。聡はゆっくりと近づきながら言った。「じゃあ、今の私たちっていわゆる……セフレってやつ?」その一言で、星野の眉がピクリと動いた。不快そうな表情だったが、否定はしなかった。聡は彼の顎を冷たい指先で軽く持ち上げた。星野はさらに眉を寄せて、彼女の笑みをたたえた目をまっすぐに見た。「ってことは、私が望むときにいつでも呼べるってこと?」星野は彼女の手からスッと
聡はしばらく考え込んでいたが、ふと我に返ると、部屋は静まり返っていた。彼女は不思議そうに星野を見て、「ん?なんで続き話さないの?」と首をかしげた。星野は淡々と、「もう話し終わったので」と返した。「そっか」聡は軽く頷いてタブレットを彼に返し、「全部わかったわ。よくやったね。これからも頑張って」と声をかけた。無邪気な笑顔を浮かべながら。それから立ち上がって、「髪乾かすから。お疲れさま、じゃあね」と言い、後ろの引き出しからドライヤーを取り出して、さっさと髪を乾かし始めた。腕を上げるたび、白くて細い腰がちらりと見え、長い髪がふわっと垂れて、かすかに香りが漂った。星野は手元を動かしながらも、じっと彼女の後ろ姿を見つめていた。聡は彼がまだそこにいることを特に気にも留めていなかった。どうせ彼は自分のことなんて好きじゃないだろうし、彼女自身もそういう態度を取ってきたから、まさかこのまま居座るとは思っていなかった。ただ、無言で髪を乾かし続けていた。ところが、2分も経たないうちに、握っていたドライヤーを不意に彼がそっと握り取った。聡は驚いて手を止め、戸惑いながら振り返った。「何してんの?」星野は彼女のすぐ後ろに立って、伏し目がちにその視線を受けながら言った。「僕が乾かします」聡は小さく笑って、「こんな時間に、まだ帰らないの?」と軽くからかうように言った。星野は静かに答えた。「髪を乾かすくらい、そんなに時間かかりませんから」聡は肩の力を抜きながら、「じゃあ、お願い」と呟き、視線を逸らしつつ、素直に彼の前に立った。星野が再びドライヤーをつけると、優しい風が彼女の髪を撫でた。彼の長くて綺麗な指が髪の間を丁寧に通り抜けていく感覚が、心地よかった。聡は半分目を閉じて、どこか幸せそうな表情を浮かべていた。髪はすぐに乾き、星野はドライヤーのスイッチを切ると、少しかがんでそれをテーブルの上に置いた。聡が言った。「ありがと。それじゃ──」その言葉を言い切る前に、細い腰がふいに引き寄せられた。直後、星野が彼女の唇にそっと口づけた。「……ん?」突然のことに、聡は呆然とした。まさか彼が急にキスしてくるなんて、想像すらしていなかった。思考が追いつく間もなく、キスはどんどん深まり、熱を帯びて、唇だけでなく口の奥まで
星野は、聡の花が咲いたような笑顔を見ていると、今日の午後、彼女があの男と一緒に食事をしていたことを思い出した。それに、帰国したのに、挨拶のひとつもなかったことも。……いや、これ以上考えるのはやめよう。星野はそう自分に言い聞かせ、落ち着いた声で口を開いた。「最近のスタジオの状況をご報告に伺いました」「へえ、そうなの?」聡は少し驚いたように眉を上げた。まさか、そんな理由で来るとは思ってなかったらしい。とはいえ、ドアを開けて「じゃあ、中に入って話して」と促した。靴を履き替えた後、聡は「適当に座って待ってて、先にシャワー浴びてくるから」と言い残し、バスルームへ向かった。一日中外を歩き回って、いろんな匂いがついたままなのがどうにも気になるらしい。特に今日は竹本と円華に絡まれたこともあって、余計に気持ち悪かった。星野は無言のまま室内に入り、ざっと部屋の中を見渡した。部屋は綺麗に整っていて、誰かが来た形跡もない。彼女が誰かを連れてきた様子も見受けられなかった。星野はソファに腰を下ろした。外は徐々に暗くなり、30分ほど経った頃、聡が風呂から出てきた。シンプルなパジャマに着替え、髪はタオルで巻かれ、頬はほんのり赤く染まっていた。湯気で温まった浴室の名残だろう。星野は彼女を見つめた。その瞳には、知らず知らずのうちに熱が宿っていた。聡は冷蔵庫から飲み物を取り出しながら、彼に声をかけた。「飲む?」「はい、いただきます」聡はもう一本取り出して彼の前に置き、自分は斜め前の一人掛けソファに腰を下ろした。ごく自然に距離を取ったその仕草に、星野の目がかすかに揺れた。聡って、前はこんな感じじゃなかったのに。「どうぞ、始めて」聡はボトルキャップをひねりながら、なかなか話を始めようとしない星野に軽く促した。星野はその言葉に頷き、タブレットを取り出して彼女の前に置き、口頭での説明を始めた。聡はそれを見つめながら、彼の仕事ぶりに感心しているようだった。スタジオの運営は順調で、星野自身も多くの案件を獲得している。しかも、優秀なデザイナーの採用にも成功している。星野にスタジオへの出資と運営を任せたのは、やはり正解だった。聡は話を聞きながら、いつの間にか内容ではなく、彼の「声」に意識が向いていた。星野
警察署で、中年夫婦の身元が確認された。男性は竹本大介(たけもとだいすけ)、女性は円華(まどか)と名乗り、二人揃って「聡は自分たちの娘だ」と断言している。しかも、当時の出生証明書まで持参していた。警察が「なぜ今になって娘を探し始めたのか」と尋ねると、彼らは「子供が当時行方不明になっていて、最近ある親戚が冬木で聡を見かけた。娘にそっくりだと言うので、確認しに来た」と説明した。まったく、用意周到な筋書きだ。この件はすでに警察に報告された以上、簡単には済まされない。すぐに親子鑑定を手配し、まずは本当に親子関係があるか確認する必要がある。円華は聡を見つめ、嬉しさと申し訳なさが入り混じった表情で口を開いた。「本当にごめんなさい。あの頃は私が悪かったの。出産のあと、もう疲れ切ってて……まさか君がさらわれるなんて思いもしなかったの。今まで本当に苦労をかけてしまったわ」聡は冷たく言い放った。「まだ親子鑑定の結果も出てないのに、馴れ馴れしくしないで」たとえ結果が出ても、馴れ馴れしくするつもりなんてない。円華はその冷たい態度にたじろぎ、不安そうに表情を曇らせた。彼らは聡のことを何一つ知らない。ましてや、金を出してくれるかどうかなんてわかるはずもない。円華が不安げに竹本の方を見ると、竹本は自信満々の顔で円華に目配せし、「心配するな」と無言で示した。親子鑑定の結果が出るには時間がかかる。聡はその場で警察署を後にした。「希嗣、希嗣、待って!」円華がすぐに駆け寄ってきた。聡は振り返り、冷たい目で二人を見た。「……何の用?」円華は困ったような顔で言った。「私たち、来たばかりで行くところがないの。ここ数日、泊めてもらえないかしら?」「無理」聡は即答した。迷いもなかった。竹本が語気を強めて言った。「聡、お前が俺たちの娘なのは間違いないんだ。親を養う義務があるんだから、俺たちの面倒を見てもらわなきゃ困る!」聡は冷笑を浮かべた。「お前らに、そんな資格があるとでも?」そう言い放ち、聡はその場を立ち去った。少し離れた場所で、隼人がまだ聡を待っていた。彼女が近づいてくるのを見ると、すぐに車のドアを開けて乗せた。竹本は顔をしかめ、毒づいた。「役立たずめ。俺が生んだ娘なんだ、俺を養うために金を出すのは当然だろうが!」
聡は口元にうっすら笑みを浮かべ、星野に手を振った。まるで昔からの友人にでも挨拶しているかのようだった。けれど、星野は無表情のまま視線を逸らし、早織と一緒に立ち去った。そのときになって、聡はようやく彼女――早織の顔をちゃんと見ることができた。たしかに、文句なしに可愛かった。車に乗り込んだ隼人が口を開いた。「聡さんって、どのへんに住んでるの?」聡は住所を伝え、「ありがとう、隼人さん」とお礼を言った。隼人は穏やかに微笑んだ。「有美ちゃんの友達でしょ。そんなにかしこまらなくていいよ」聡は口元の笑みをほんの少しゆるめて、気だるげに言った。「有美は有美。兄貴は兄貴。いっしょくたにはできないよ」隼人は一瞬、言葉に詰まったようだった。そして改めて、じっと聡を見つめた。彼はずっと、聡のことをおとなしい人だと思っていた。だけど今、二人きりになってみると、何かが違って見えた。聡は、他人の目なんてまるで気にしていないように見える。自分のやりたいことだけをやる。自由奔放で、どこか掴みどころがなくて、誰にも縛られない――まるで、ひらひらと飛び回る蝶のようだった。車はまもなくマンションの入り口に到着した。聡が車を降り、「隼人さん、さようなら」と言うと、隼人は軽くうなずき、彼女が建物に入っていくのを見送った。そのときだった。一組の中年夫婦が走り寄り、左右から聡の腕をつかんだ。「希嗣だ!やっと見つけたよ!私が……私が君の母親なの!」中年の女性は必死の形相で聡の腕をつかみ、逃がすまいと力を込めていた。聡は眉をひそめ、しばらくもがいてみたが、振りほどけなかった。そして冷たい声で言い放つ。「離してください。お前たちのことなんて、全然知りません」それでも中年の女性は、さらに激しく泣き始めた。「希嗣、あなたは希嗣よ!うちの娘なのよ!信じられないなら、病院でDNA鑑定してもいいから!」隣にいた中年の男性も加勢するように言った。「そうだよ。俺が君の父親だぞ」その光景は、どこか滑稽にすら見えた。聡は吐き捨てるように言った。「離して。離さないなら、警察呼びますよ」だが中年の女性は怯むどころか言い返した。「呼べばいいじゃない!そうすれば私たちの身元もはっきりするでしょ。私たちは本当に、君の両親なんだから!