LOGIN【離婚コンテスト受賞作】 三十一歳の高瀬真尋は、名家・御門家に嫁いで三年。夫・朔弥を支え、会社でも働いてきたが、家では義母と義祖母から「子どもはまだか」と責められ続けていた。 家の期待に応えるため仕事を辞めようとした矢先、朔弥から突然離婚を告げられる。さらに会社には、彼の初恋相手と噂される令嬢が現れ、真尋の居場所を奪っていく。 もう誰かの都合で自分を明け渡さない。そう決めた真尋の前に現れたのは、大学時代の同級生であり取引先の責任者・城戸圭介。城戸に認められ変わっていく真尋を、離婚を告げたはずの朔弥は追いかけ始める。 家にも夫にも会社にも都合よく使われてきた妻が、自分の名前と居場所を取り戻していく、大人の再生ラブストーリー。
View Moreその答えを待つ数秒が、やけに長かった。 女医は検査結果へ視線を落とした。 「検査の結果ですが」 膝の上で、予約票の端を握る。 悪いほうの想像が先に浮かんだ。 薬が合わなかったのか。 何か、見過ごせない数値が出たのか。 しばらく治療を休みましょうと、言われるのか。 隣で、朔弥さんの手に力が入った。 「妊娠されています」 何を言われたのか、すぐにはわからなかった。 妊娠。 何度も責められる材料にされた言葉。 まだかと追い立てられ、期待することさえためらうようになった言葉。 それが今、女医の落ち着いた声で告げられている。 「……本当ですか」 聞き返した声は、自分のものではないみたいだった。 「はい。ただ、まだごく初期です。これから慎重に経過を見ていきましょう」 私は膝の上の予約票を見た。 さっきまでただの紙だったものに、急に意味が生まれている。 お腹に手を当てた。 昨日までと何も変わらない。痛くもないし、重くもない。ここに何かがいると言われても、まだ信じられない。 「真尋」 隣から名前を呼ばれた。 朔弥さんは私を見ていた。 いつもなら迷いなく言葉を選ぶ人が、何も言えずにいる。 「朔弥さん」 「ああ」 「赤ちゃん、いるそうです」 わかりきったことを言うと、彼は一度だけ目を伏せた。 それから、私の手を握った。 「真尋との子だ」 その一言で、目の前が滲んだ。 御門の跡継ぎでも、家の血をつなぐ子でもない。 彼が最初に呼んだのは、真尋との子だった。 「はい」 私は手を握り返した。 「私たちの子です」 言った途端、声が崩れた。 「……よかった」 半分泣きながら笑うと、朔弥さんが椅子を寄せた。 肩に腕が回り、そのまま胸へ引き寄せられる。 「朔弥さん、先生が」 「今は無理だ」 何が無理なのか聞く前に、抱く腕が強くなった。 「ああ。よかった」 耳元で聞こえた声も、少し掠れていた。 「真尋との子が、ここにいる」 私は彼の上着をつかんだ。 涙が止まらない。でも、離れたくなかった。 「すみません」 「謝らなくて大丈夫ですよ」 女医は微笑んで、箱からティッシュを取って差し出してくれた。 朔弥さんは私を抱いたまま、それを受
「今回も、違いました」 扉を開けてそう言うと、朔弥さんはすぐには動かなかった。 私の手にあるティッシュを見て、それから私の顔を見た。 次の瞬間、腕を引かれ、額が彼の胸に当たった。 「次も、行きます」 「ああ」 *** 翌週、クリニックで次の周期の予定を確認した。 女医は、焦らせなかった。 ただ、私の基礎体温表と検査結果を見て、少しだけペンを止めた。 「次の判定日は、少し早めに来てください」 「何かありますか」 「まだ、何かと言うほどではありません。確認したいことがあるだけです」 それ以上は、女医は言わなかった。 でも、帰り道、朔弥さんはずっと黙っていた。 私も、何も聞けなかった。 次の判定日までの一週間は、カレンダーの数字がやけに大きく見えた。 朝、体温計をくわえる。 電子音が鳴る。 数字を見る。 それだけのことなのに、毎朝、判決を待つような気分になる。 女医が言った「確認したいこと」は、妊娠という言葉ではなかった。 基礎体温の高い時期が、いつもより少し長く続いていること。排卵日の見立てが、前回より少しずれたこと。薬の影響もあるから、自己判断で一喜一憂するより、早めに来て確認しましょう、という話だった。 それだけ。 それだけなのに、私はその一言を何度も思い出した。 期待しすぎない。 でも、期待しないふりもできない。 そういう日が、こんなに疲れるものだとは知らなかった。 その間にも、知らない番号からのメッセージは途切れなかった。 『今月も通院ですか』 『御門の跡継ぎは、気長に待ってくださるといいですね』 毎日ではない。 けれど、忘れかけた頃に届く。 私たちの通院そのものではなく、こちらが気にする言葉を選んで投げてくる感じが、かえって気味悪かった。 朔弥さんは、すでに外部の調査会社を入れていた。 番号の契約元、送信に使われた端末、病院周辺で同じ時間帯にいた車や人。 拾えるものは拾っているらしい。 ただ、相手も雑ではなかった。 「一条さんですか」 私が聞くと、朔弥さんはすぐには答えなかった。 「近い場所にいる人間の影はある」 「一条さん本人ではない、ということですか」 「まだ断定できない」 その言い方が、余計に嫌だった。
その先を、朔弥さんは駐車場では言わなかった。 クリニックを出た帰り道、近くの公園の前を通った。 ベビーカーを押す若い母親と、三歳くらいの男の子が、植え込みのそばでしゃがみこんでいる。男の子が小さな葉を拾って、母親に見せた。 母親は笑って、それを大事なものみたいに受け取った。 ただそれだけの光景なのに、私は足を止めてしまった。 ほしい。 跡継ぎではなく。御門のためでもなく。 あんなふうに、誰かが拾った小さな葉を、意味のあるものとして受け取る時間がほしい。 そう思った直後に、香澄さんの顔が浮かんだ。久我さんと、そんな時間を持つはずだった人。それを、御門の言葉で奪われた人。 子ども、という言葉を聞くたびに、まず浮かぶのは幸せな未来ではなく、カレンダーにつけた印になっていた。 望んでいるのは、私のはずなのに。 家へ帰ると、その気持ちの上から、義務みたいなものがかぶさってくる。 この日。その前の日。その次の日。 朔弥さんと向き合う時間に、予定という名前がついてしまう。 *** その夜のことだった。 寝室の明かりを落とす前、朔弥さんが隣に座った。 肩に触れられた瞬間、私はその手を払ってしまった。 ぱし、と乾いた音がした。 自分でやったくせに、すぐに後悔した。 朔弥さんは、払われた手を戻さないまま、じっと私を見ていた。 「すみません」 「謝らなくていい」 彼は少しだけ距離を取った。責めるでもなく、傷ついた顔を見せつけるでもなく、ただ私が息を戻す場所を空けるみたいに。 「今日はやめよう。無理しなくていい」 「無理ではありません」 「無理という顔をしている」 私が仕事で平気な顔をする時も、御門で笑ってやり過ごす時も、この人は気づくのが遅かった。 なのに、こういう時だけ、妙に鋭い。 「じゃあ、朔弥さんは」 「俺?」 「義務みたいだと思いませんか」 言ってから、少し後悔した。 でも、朔弥さんは笑わなかった。 彼は隣から腰を上げ、ベッドの前へ回った。それから私の膝の間に入らないぎりぎりの距離で、床に片膝をつく。 見下ろしていたはずの顔が、同じ高さになった。 「思うときもある」 「それでいいんですか」 「子どもが欲しいから触れる日と、君に触れたいから触れる日が、
通院を始めてからの数か月、私たちの生活には、カレンダーを見る時間が増えた。 あの夜の写真も、停電のことも、はっきりした答えは出ないままだった。 配電盤の主電源を落とした人間。 代替車の内側から、私を待っていた誰か。 そして、写真の中でカメラを見ていた城戸さん。 施設側からは、調査中という返事が何度か届いた。送迎会社の記録も、出入りした業者の名簿も確認された。朔弥さんは外部の調査も入れた。 それでも、名前は出なかった。 澄麗の影は、何度もちらついた。 けれど、影を証拠のように扱うことはできなかった。 わからないまま、日付だけが進んでいった。 *** 朝、起きて体温を記録する。 クリニックで卵胞の大きさを見てもらう。 排卵検査薬の線を確認する。 女医は、毎回、必要なことだけを淡々と教えてくれた。 「妊娠しやすい時期は、排卵日の当日だけではありません。排卵の前から数日間を含めて考えます」 診察室の机に置かれたカレンダーへ、女医が細いペンで印をつける。 「このあたりで、無理のない範囲で一日おきくらいを目安にしてください。毎日でないと駄目、という話ではありません。逆に、義務になりすぎると続きません」 その言い方に、私は少しだけ救われた。 御門の屋敷で聞かされた言葉は、いつも命令だった。 いつまでに。 そろそろ。 まだなの。 けれど、この診察室で聞く言葉は違う。 体の仕組みを知るための言葉で、私を責めるための言葉ではなかった。 「高瀬さんは三十一歳です。医学的には、今日明日で急に何かを決めなければならない年齢ではありません。ただ、気持ちの上で焦りが出るのは自然です」 女医はそう言った。 「数字と気持ちは、別に扱いましょう」 数字と気持ち。 その二つを分けていいのだと、初めて言われた気がした。 検査結果の説明も、同じだった。 私の排卵は大きく乱れているわけではない。ただ、周期によって少し読みづらい月がある。朔弥さんの検査にも、決定的な異常というほどではないけれど、数値に波があった。 「どちらか一方が悪い、という話ではありません」 女医はそう言った。 「少しずつ重なる要素がある、という見方をしましょう。だからこそ、お二人で確認していく意味があります」 悪
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな
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