FAZER LOGIN御門家に嫁いだ高瀬真尋は、義母と義祖母から「子どもはまだか」と責められ、夫・朔弥から突然離婚を告げられる。さらに会社には、朔弥の初恋と噂される令嬢まで現れ、真尋の居場所を奪い始めた。家でも会社でも都合よく使われるのは、もう終わり。有能妻・真尋の逆転劇が始まる。
Ver mais――子どもは、まだなの。
御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くなる。飲み込んだ味噌汁の温度だけが、やけに熱かった。 ええ、知っています。私は道具です。会社でも、家でも。用途が違うだけで。 何度もそう言おうとしたのに、結局口に出せなかった。 年長者との上下関係を気にしてしまうのかもしれない。 あるいはただ彼に自分をかばってほしいと期待しているだけ。 「高齢出産は、どうしても虚弱のリスクがありますからね」 義母は気遣うように微笑んだ。 「男の子なら朔臣、女の子なら美琴。あまり虚弱では、名前に負けてしまうでしょう?」 一瞬、意味がわからなかった。 まだ性別もわからない。そもそも、名前の話など一度もしていない。 「……その名前」 「この家の子の名前よ」 義母は穏やかに紅茶を口に運ぶ。 「もう決めてあるの」 その瞬間、隣で朔弥さんがカップを置く音が、かすかに硬く響いた。思わずそちらを見ると、彼は伏し目がちのまま黙っている。けれど、その横顔だけが、ひどく冷えて見えた。まるで何かを押し殺すように。 その沈黙すら、私を守るものではなかった。 会社に着くころには、肩がもう硬かった。 私は経営管理と再建実務を握る上級マネージャーで、表向きの肩書き以上に、この会社の継ぎ目を縫う側の人間だ。人が嫌がる穴埋めほど、たいてい私の机に落ちてくる。 九時前だというのに、デスクには三つの付箋と四件のメッセージが積まれていた。役員会資料の差し替え、来週の銀行説明の数字確認、ホテル部門の予算再計算、ブライダル案件の火消し。どれも急ぎで、どれも本来は別の誰かの仕事だ。 「高瀬さん、こっちも見てもらえます?」 「悪い、これ今日中」 「真尋さんなら早いから」 感謝ではない。信頼に似た、もっと雑なものだ。水道の蛇口をひねるみたいに、当然の顔で私を使う。 午前中だけで二つ会議を回し、昼前には役員の言い争いを止め、午後には数字の穴を埋めた。社内政治まで含めて帳尻を合わせるのが私の仕事らしい。決算書に載らない部分ほど、どうしていつも人の体温を削っていくのだろう。 助かりましたの一言もないまま会議室を出る背中を見送って、私はやっと息を吐いた。胃のあたりが空っぽなのに重い。 心から好きな仕事が、いつの間にかこうなってしまった。 社長夫人になっても部下から尊重されず、かえって仕事をこなすだけの存在になった。 ――その根本にはやはり社長――朔弥さんの態度がある。 もういい。仕事は、ここまでだ。 会社を辞めよう。家庭に入ろう。そうすれば少なくとも、役に立つ場所を一つに絞れる。全部を満たして、それでも足りないと言われるよりはましだ。 そう決めた夜、私はいつもより少しだけ早く帰宅した。朔弥さんに話そうと思ったのだ。仕事を辞めること。子どものことを、ちゃんと考えたいこと。これ以上何も取りこぼしたくなかった。こうすれば、もしかしたら私たちの関係も、もう一歩進めるかもしれない。冷蔵庫にあった食材で、簡単なおかずを二品だけ作った。前に一度、朔弥さんが「君の料理はうまい」と言ったことがある。忙しくて、そういうことをする余裕なんてほとんどなかったのに、あのとき少しうれしかったから、その一言だけは案外きれいに覚えていた。
今日の朔弥さんはなんだか機嫌がよさそうで、何かを待っているみたいだった。 もしかして、彼も私と同じことを考えているのだろうか。 今夜こそ、私たちは……。 「朔弥さん、大事な話があるの……」 言いかけたそのとき、彼のスマホが鳴った。 遠慮する間もなく、彼はすぐに電話に出た。 「……わかった。今行く」 彼は立ち上がるのが早かった。私を見る。何か言いかけて、言わない。 「悪い。急ぎだ。話は後で」 彼が待っていたのは、電話だったんだ。 仕事の急用? でも、どうも仕事という感じでもない……。 その夜、社員用のグループチャットに流れてきた雑談が目に入った。 〈見た?〉 〈マジで帰国したって〉 〈一条澄麗さん〉 〈社長、自分で空港まで迎えに行ったらしい〉 一条病院を出たあと、私は会社へ戻った。 何もなかった顔でメールを返し、資料を直し、会議予定を調整した。 仕事をしている間だけは、呼吸の仕方を間違えずに済む。 けれど、画面の端に城戸さんから届いたホテルの名前が残っている。 今夜だけでも外で休む。 その選択肢は、消えなかった。 城戸さんからの最後のメッセージを、もう一度見る。 『予約名は高瀬さんで取ります。部屋は一名です』 少し間を置いて、もう一通。 『行くかどうかは、あなたが決めてください』 その一文を見て、私はしばらく動けなかった。 誰かに連れ出されるのではない。 誰かに捨てられるのでもない。 私が、選ぶ。 今夜、御門家に帰らないという選択を。 夕方、私は一度だけ御門家へ戻った。 帰るためではない。 出ていくためだった。 部屋に入ると、空気がいつもより重く感じた。 クローゼットを開け、鞄を床に置く。 着替えを一組。 充電器。 保険証。 仕事用のノートパソコン。 税理士関係の資料が入った薄いファイル。 それだけで十分なはずなのに、手は何度も止まった。 本当に出ていくのだと思うと、胸の奥が変に冷える。 逃げるのではない。 そう言い聞かせる。 女医に言われたからでもない。城戸さんに勧められたからでもない。義母に傷つけられたからだけでもない。 私が、今夜ここにいたくない。 それだけだ。 その時、スマートフォンが震えた。 ベッドの上に伏せていた画面が、淡く光る。 城戸圭介。 『ホテルの予約が取れました。フロントには話を通してあります』 表示された文字を見つめる。 これで、本当に行けてしまう。 そう思った瞬間、背後で小さく床が鳴った。 振り返る。 扉のところに、朔弥さんが立っていた。 いつからいたのか、わからない。 彼の視線が、ベッドの上のスマートフォンをかすめた気がした。 胸が、小さく跳ねる。 けれど、朔弥さんは何も言わなかった。 なら、見えていなかったのだろう。 画面は、すぐに暗くなった。 「……出ていくのか」 低い声だった。 「今夜は、戻りません」 朔弥さんは黙った。 何かを言いかけたように見えた。 けれど、言わなかった。
スマートフォンが震えた。 表示された名前は、朔弥さんではなかった。 城戸圭介。 『大丈夫ですか』 たったそれだけだった。 検査のことを知っているはずはない。 香澄さんのことも、義母が結果を知ろうとしていることも、今朝の食卓で何があったかも、城戸さんは知らない。 それでも、その短い言葉は、こちらの呼吸の乱れだけを正確に見ているみたいだった。 私はしばらく画面を見つめる。 『大丈夫です』 そう打って、送信する前に消した。 大丈夫。 そう書く時ほど、大丈夫ではないことを、城戸さんは知っている気がした。 少し迷って、打ち直す。 『少し疲れました。でも、大丈夫です』 送信すると、すぐに既読がついた。 『大丈夫と言う時ほど、無理をしている顔をする人ですよね』 胸の奥が、ふっと揺れた。 昔から知っているような言い方だった。 実際、城戸さんは知っているのだろう。 私が疲れている時ほど、声を平らにして、資料を完璧に揃えて、何もない顔をすることを。 『仕事の件で負担を増やしたくありません。必要なら、こちらは待てます』 仕事の言葉だった。 でも、仕事だけではないと、もうわかってしまう。 指が、画面の上で止まる。 女医の言葉が、まだ胸に残っていた。 まずは、高瀬さん自身が壊れない環境を考えてください。 壊れない環境。 その言葉を、私はまだうまく飲み込めずにいた。 『少し、環境を変えた方がいいと言われました』 送ってから、しまったと思った。 弱音みたいだった。 助けてほしいと言っているみたいだった。 すぐに既読がつく。 けれど返事は、思ったより落ち着いていた。 『でしたら、今夜だけでも外で休んだ方がいいかもしれません』 私は画面を見つめた。 『うちのグループで、静かに過ごせるホテルがあります。必要なら紹介します』 続けて、もう一通。 『もちろん、高瀬さんがお一人で過ごす部屋です。私が伺うことはありません』 そこまで言わなくても、と思った。 けれど、言ってくれたから安心できるのだとも思った。 城戸さんは、踏み込む。 でも、踏み込んだ場所に、自分の影を残さない。 逃げ道だけを置いて、私が選ぶ余地を残してくれる。 優しい人だと思った。
食卓は、しんと静まり返った。 朔弥さんの言葉が、まだ空気の中に残っている。 離婚はしない。 真尋の体は、御門のものじゃない。 聞きたかった言葉だった。 少しだけ、うれしいと思ってしまった。 でも、もう遅い。 昨日までの沈黙も、離婚届を渡された日の痛みも、今さらなかったことにはできない。 義母が、ゆっくりと笑った。 「ずいぶん、真尋さんの味方をするのね」 怒鳴るより、ずっと冷たい声だった。 「あなた、香澄の時のことを覚えているから、そんなふうに言うの?」 その名前が出た瞬間、食卓の温度が変わった。 香澄さん。 妊娠して、何かが起こり、この家の表から消えた朔弥さんの姉。 澄麗だけが、不思議そうに目を瞬かせていた。 香澄さんの名前が落ちた時の沈黙だけは、まだ知らないのだ。 「香澄は弱かったのよ。子どもを失ってから、ずっとおかしくなった」 息が止まった。 子どもを失ってから。 あの淡い黄色の母子手帳ケースが、胸の奥で開いた気がした。 「違う」 朔弥さんが言った。 聞いたことがないくらい、低い声だった。 「姉さんが弱かったんじゃない」 「では、何が悪かったと言うの」 朔弥さんは一度だけ息を吸った。 「この家だ」 食卓から、音が消えた。 義母の顔から、完全に表情が消える。 昨夜、私の問いに答えられなかった人が、母親の前で、香澄さんを壊したのはこの家だと言った。 けれど、その言葉が出たからといって、この家が安全になるわけではない。 義母は静かにカップを持ち上げた。 「精密検査の結果は、いつ出るのかしら」 あまりに自然に、話題が戻った。 いや、戻ったのではない。 この人の中では、香澄さんのことも、私の検査結果も、同じ棚に置かれている。 御門家に必要かどうかを判断するための、資料として。 私は席を立った。 「結果は私が確認します。誰にも開示しません」 「御門の嫁でしょう」 「違います」 声は、すぐに出た。 「私の体です」 義母の目が細くなる。 「失礼します。病院に行く時間ですので」 「真尋」 朔弥さんが呼んだ。 「結果を、俺に話す必要はない。話したいと思った時だけでいい」 胸の奥が、また揺れた。 「……行ってきます
翌朝、食卓にはもう澄麗がいた。 仕事からは外されたはずなのに、御門家の朝食の席では、昨日よりずっと守られた顔をしていた。 白いブラウス。淡い色のスカート。伏せた睫毛。 傷ついた人の形を、きれいに作っている。 「真尋さん、おはようございます」 「おはようございます」 義母は澄麗の隣に座っていた。 まるで、客人ではなく、家族のように。 「昨夜は大変だったわね」 義母は穏やかに言った。 「澄麗さんは、御門のためを思ってくれただけでしょう。少しやり方が合わなかっただけで、あんなふうに責めることではないと思うの」 私は黙って席についた。 正面には朔弥さんがいる。 昨夜、私の席まで来て、答えられなかった人。 この家が正しいと思っているのか。 その問いは、まだ宙に残っている。 「米国帰りのブランド戦略と、国内の税理士さんの数字の見方では、そもそも視点が違うのよ」 義母は続けた。 「比べるものではないわ」 比べているのは、義母のほうだった。 「もちろん、真尋さんのことも、お父様のことも評価しているのよ。お父様には昔から、御門家のかかりつけの税理士として助けていただいたもの」 かかりつけ。 その言葉が、妙に耳に残った。 要するに、雇われと言いたいのだろう。 どれだけ数字を見ても、どれだけ会社を支えても、御門家の側には入れない人間。 父も、私も、そういう場所に置かれている。 「澄麗さんのような方の感覚も、少しは学んだほうがいいのではないかしら」 澄麗は小さく首を振った。 「お義母様、私が至らなかっただけです。真尋さんのように、堅実に数字を積み上げる方のお考えを、もっと尊重すべきでした」 謝罪の形をしている。 けれど、その言葉は私を、華やかな未来を理解できない人間だと暗に非難している。 「数字は、家に仕えるためにあるわけではありません」 自分でも驚くほど、声は静かだった。 「未来を誤らないためにあります」 食卓の空気が、薄く張る。 義母の眉が、わずかに動いた。 「言い方がきついわね」 「事実です」 その時、澄麗がそっと目を伏せた。 「私、真尋さんを責めたいわけではありません。ただ、朔弥さんがおつらそうで」 嫌な予感がした。 澄麗は、こちらを見る。