Masuk【離婚コンテスト受賞作】 三十一歳の高瀬真尋は、名家・御門家に嫁いで三年。夫・朔弥を支え、会社でも働いてきたが、家では義母と義祖母から「子どもはまだか」と責められ続けていた。 家の期待に応えるため仕事を辞めようとした矢先、朔弥から突然離婚を告げられる。さらに会社には、彼の初恋相手と噂される令嬢が現れ、真尋の居場所を奪っていく。 もう誰かの都合で自分を明け渡さない。そう決めた真尋の前に現れたのは、大学時代の同級生であり取引先の責任者・城戸圭介。城戸に認められ変わっていく真尋を、離婚を告げたはずの朔弥は追いかけ始める。 家にも夫にも会社にも都合よく使われてきた妻が、自分の名前と居場所を取り戻していく、大人の再生ラブストーリー。
Lihat lebih banyak――子どもは、まだなの。
御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くなる。飲み込んだ味噌汁の温度だけが、やけに熱かった。 ええ、知っています。私は道具です。会社でも、家でも。用途が違うだけで。 何度もそう言おうとしたのに、結局口に出せなかった。 年長者との上下関係を気にしてしまうのかもしれない。 あるいはただ彼に自分をかばってほしいと期待しているだけ。 「高齢出産は、どうしても虚弱のリスクがありますからね」 義母は気遣うように微笑んだ。 「男の子なら朔臣、女の子なら美琴。あまり虚弱では、名前に負けてしまうでしょう?」 一瞬、意味がわからなかった。 まだ性別もわからない。そもそも、名前の話など一度もしていない。 「……その名前」 「この家の子の名前よ」 義母は穏やかに紅茶を口に運ぶ。 「もう決めてあるの」 その瞬間、隣で朔弥さんがカップを置く音が、かすかに硬く響いた。思わずそちらを見ると、彼は伏し目がちのまま黙っている。けれど、その横顔だけが、ひどく冷えて見えた。まるで何かを押し殺すように。 その沈黙すら、私を守るものではなかった。 会社に着くころには、肩がもう硬かった。 私は経営管理と再建実務を握る上級マネージャーで、表向きの肩書き以上に、この会社の継ぎ目を縫う側の人間だ。人が嫌がる穴埋めほど、たいてい私の机に落ちてくる。 九時前だというのに、デスクには三つの付箋と四件のメッセージが積まれていた。役員会資料の差し替え、来週の銀行説明の数字確認、ホテル部門の予算再計算、ブライダル案件の火消し。どれも急ぎで、どれも本来は別の誰かの仕事だ。 「高瀬さん、こっちも見てもらえます?」 「悪い、これ今日中」 「真尋さんなら早いから」 感謝ではない。信頼に似た、もっと雑なものだ。水道の蛇口をひねるみたいに、当然の顔で私を使う。 午前中だけで二つ会議を回し、昼前には役員の言い争いを止め、午後には数字の穴を埋めた。社内政治まで含めて帳尻を合わせるのが私の仕事らしい。決算書に載らない部分ほど、どうしていつも人の体温を削っていくのだろう。 助かりましたの一言もないまま会議室を出る背中を見送って、私はやっと息を吐いた。胃のあたりが空っぽなのに重い。 心から好きな仕事が、いつの間にかこうなってしまった。 社長夫人になっても部下から尊重されず、かえって仕事をこなすだけの存在になった。 ――その根本にはやはり社長――朔弥さんの態度がある。 もういい。仕事は、ここまでだ。 会社を辞めよう。家庭に入ろう。そうすれば少なくとも、役に立つ場所を一つに絞れる。全部を満たして、それでも足りないと言われるよりはましだ。 そう決めた夜、私はいつもより少しだけ早く帰宅した。朔弥さんに話そうと思ったのだ。仕事を辞めること。子どものことを、ちゃんと考えたいこと。これ以上何も取りこぼしたくなかった。こうすれば、もしかしたら私たちの関係も、もう一歩進めるかもしれない。冷蔵庫にあった食材で、簡単なおかずを二品だけ作った。前に一度、朔弥さんが「君の料理はうまい」と言ったことがある。忙しくて、そういうことをする余裕なんてほとんどなかったのに、あのとき少しうれしかったから、その一言だけは案外きれいに覚えていた。
今日の朔弥さんはなんだか機嫌がよさそうで、何かを待っているみたいだった。 もしかして、彼も私と同じことを考えているのだろうか。 今夜こそ、私たちは……。 「朔弥さん、大事な話があるの……」 言いかけたそのとき、彼のスマホが鳴った。 遠慮する間もなく、彼はすぐに電話に出た。 「……わかった。今行く」 彼は立ち上がるのが早かった。私を見る。何か言いかけて、言わない。 「悪い。急ぎだ。話は後で」 彼が待っていたのは、電話だったんだ。 仕事の急用? でも、どうも仕事という感じでもない……。 その夜、社員用のグループチャットに流れてきた雑談が目に入った。 〈見た?〉 〈マジで帰国したって〉 〈一条澄麗さん〉 〈社長、自分で空港まで迎えに行ったらしい〉 一条その先を、朔弥さんは駐車場では言わなかった。 クリニックを出た帰り道、近くの公園の前を通った。 ベビーカーを押す若い母親と、三歳くらいの男の子が、植え込みのそばでしゃがみこんでいる。男の子が小さな葉を拾って、母親に見せた。 母親は笑って、それを大事なものみたいに受け取った。 ただそれだけの光景なのに、私は足を止めてしまった。 ほしい。 跡継ぎではなく。御門のためでもなく。 あんなふうに、誰かが拾った小さな葉を、意味のあるものとして受け取る時間がほしい。 そう思った直後に、香澄さんの顔が浮かんだ。久我さんと、そんな時間を持つはずだった人。それを、御門の言葉で奪われた人。 子ども、という言葉を聞くたびに、まず浮かぶのは幸せな未来ではなく、カレンダーにつけた印になっていた。 望んでいるのは、私のはずなのに。 家へ帰ると、その気持ちの上から、義務みたいなものがかぶさってくる。 この日。その前の日。その次の日。 朔弥さんと向き合う時間に、予定という名前がついてしまう。 *** その夜のことだった。 寝室の明かりを落とす前、朔弥さんが隣に座った。 肩に触れられた瞬間、私はその手を払ってしまった。 ぱし、と乾いた音がした。 自分でやったくせに、すぐに後悔した。 朔弥さんは、払われた手を戻さないまま、じっと私を見ていた。 「すみません」 「謝らなくていい」 彼は少しだけ距離を取った。責めるでもなく、傷ついた顔を見せつけるでもなく、ただ私が息を戻す場所を空けるみたいに。 「今日はやめよう。無理しなくていい」 「無理ではありません」 「無理という顔をしている」 私が仕事で平気な顔をする時も、御門で笑ってやり過ごす時も、この人は気づくのが遅かった。 なのに、こういう時だけ、妙に鋭い。 「じゃあ、朔弥さんは」 「俺?」 「義務みたいだと思いませんか」 言ってから、少し後悔した。 でも、朔弥さんは笑わなかった。 彼は隣から腰を上げ、ベッドの前へ回った。それから私の膝の間に入らないぎりぎりの距離で、床に片膝をつく。 見下ろしていたはずの顔が、同じ高さになった。 「思うときもある」 「それでいいんですか」 「子どもが欲しいから触れる日と、君に触れたいから触れる日が、
通院を始めてからの数か月、私たちの生活には、カレンダーを見る時間が増えた。 あの夜の写真も、停電のことも、はっきりした答えは出ないままだった。 配電盤の主電源を落とした人間。 代替車の内側から、私を待っていた誰か。 そして、写真の中でカメラを見ていた城戸さん。 施設側からは、調査中という返事が何度か届いた。送迎会社の記録も、出入りした業者の名簿も確認された。朔弥さんは外部の調査も入れた。 それでも、名前は出なかった。 澄麗の影は、何度もちらついた。 けれど、影を証拠のように扱うことはできなかった。 わからないまま、日付だけが進んでいった。 *** 朝、起きて体温を記録する。 クリニックで卵胞の大きさを見てもらう。 排卵検査薬の線を確認する。 女医は、毎回、必要なことだけを淡々と教えてくれた。 「妊娠しやすい時期は、排卵日の当日だけではありません。排卵の前から数日間を含めて考えます」 診察室の机に置かれたカレンダーへ、女医が細いペンで印をつける。 「このあたりで、無理のない範囲で一日おきくらいを目安にしてください。毎日でないと駄目、という話ではありません。逆に、義務になりすぎると続きません」 その言い方に、私は少しだけ救われた。 御門の屋敷で聞かされた言葉は、いつも命令だった。 いつまでに。 そろそろ。 まだなの。 けれど、この診察室で聞く言葉は違う。 体の仕組みを知るための言葉で、私を責めるための言葉ではなかった。 「高瀬さんは三十一歳です。医学的には、今日明日で急に何かを決めなければならない年齢ではありません。ただ、気持ちの上で焦りが出るのは自然です」 女医はそう言った。 「数字と気持ちは、別に扱いましょう」 数字と気持ち。 その二つを分けていいのだと、初めて言われた気がした。 検査結果の説明も、同じだった。 私の排卵は大きく乱れているわけではない。ただ、周期によって少し読みづらい月がある。朔弥さんの検査にも、決定的な異常というほどではないけれど、数値に波があった。 「どちらか一方が悪い、という話ではありません」 女医はそう言った。 「少しずつ重なる要素がある、という見方をしましょう。だからこそ、お二人で確認していく意味があります」 悪
帰宅すると、朔弥さんは玄関まで出てきていた。 スーツの上着は脱いでいたけれど、ネクタイはまだ緩めただけだった。待っている間、何度も外へ出ようとして、踏みとどまったような顔をしている。 「遅くなりました」 朔弥さんは答えなかった。 私の顔から肩へ、濡れたコートの袖へと目を走らせる。 「怪我は」 「ありません」 「本当に?」 「はい」 彼の手が上がった。 けれど、袖に触れる前に止まる。 「……心配した」 「わかっています」 「責めたいわけじゃない」 「それも、わかっています」 私は靴を脱ぎ、彼を見上げた。 「今日のことは、全部話します。城戸さんと二人になったことも」 朔弥さんの眉が動く。 「でも、それを理由に仕事を減らしたり、城戸ホテルズの案件から外したりしないでください。私に黙って決めないで」 「今、それを言うのか」 「今だからです」 朔弥さんは黙った。 「……考えた」 「やっぱり」 「君が帰ってくるまで、何度も考えた」 止まっていた手が、ゆっくり下りる。 「でも、しない。君に黙っては決めない」 「信じていますか」 「信じている」 迷いのない返事だった。 「城戸さんといたことも?」 朔弥さんの顔が変わった。 「それは、信じるのとは別だ」 「別?」 「声が近かった」 まだ覚えていたらしい。 「停電で、同じ部屋にいました」 「わかっている。君を疑っているんじゃない」 「では、何に怒っているんですか」 「君のそばに、あの男がいたことに。それに……」 まだあるのか。 この人は、何を言いだすつもりだろう。 「帰ってきた君に、触れていいのかもわからない自分に」 予想外に可愛いことを言われて、私は笑ってしまった。 「笑うな」 朔弥さんは、ようやくネクタイをほどいた。 私は濡れたコートを脱ぎ、玄関脇のハンガーにかけた。 「私は帰ってきました」 「ああ」 「出かける時に、キスもしました」 言った瞬間、朔弥さんの目が揺れた。 「それを今言うのか」 「効くかと思って」 「効く」 短く言われて、今度こそ少し笑ってしまった。 朔弥さんは笑わなかった。 でも、さっきまで固まっていた肩が、ようやく下りた。 近づいてきた彼の手が、私の頬の横
「配電盤の主電源が、手動で落とされていたそうです」 施設側の担当者は、私たちを受付横の小さな事務室へ通した。 「落雷では、なかったんですね」 「はい。別棟側の配電盤だけが落ちていました。漏電や過負荷ではなく、主幹のレバーが下げられていたそうです」 主幹のレバー。 雨でも雷でもない。誰かが従業員用通路の奥まで入り、扉を開けて、手を伸ばした。 そんなところまで。 思っただけで、背中が冷えた。 「外部の人間でも触れますか」 城戸さんが聞いた。 「通常は無理です。ただ、今日は搬入業者や清掃の出入りもありましたので……確認します」 担当者はそこで言葉を濁した。 城戸さんは何も言わなかった。 ただ、従業員用通路の奥を見ていた。暗くなった時間、誰がどこに立てたのかを考えているようにも、別の何かを飲み込んでいるようにも見えた。 「高瀬さん」 城戸さんは、そこでようやく私を見た。 「今は、決めつけないほうがいい」 「……はい」 「でも、偶然だとは思わないほうがいい」 配電盤のレバーを下げた誰かに、話の中身など必要なかったのかもしれない。 二人きりになった。 それだけで、スキャンダルになる。 でも、それだけなら停電だけで足りる。 背中には、押された感触がまだ残っていた。暗がりでよろめかせるために、誰かが私に触れた。 写真を撮るためだけではない。 私を転ばせて、怪我をさせるつもりだったのかもしれない。 ぞくり、とした。寒くもないのに、背筋が冷えた。 誰かが、私の体にまで手を伸ばした。 城戸さんが、感情のない顔で私を見ていた。 *** 代替車が到着したのは、日が暮れたあとだった。 郊外施設の玄関前で、施設側の担当者が傘を差してくれた。雨は少し弱まっていたけれど、庭の木々から落ちる雫が、足元の石畳を細かく濡らしている。 城戸さんは一歩離れた場所で、運転手の身分証と車両番号を確認していた。 そこへ、施設の担当者が近づいた。 「城戸様。先ほど、一条澄麗様からもお電話がありました。高瀬様はまだこちらにいらっしゃるか、と」 思わず二人を見る。 澄麗には、今日の訪問先も帰宅時刻も知らせていない。停電のことなど、知るはずがなかった。 「何と答えましたか」 「代替車をお待ちだと
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな
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