子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します

子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します

last updateHuling Na-update : 2026-05-14
By:  悠・A・ロッサIn-update ngayon lang
Language: Japanese
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御門家に嫁いだ高瀬真尋は、義母と義祖母から「子どもはまだか」と責められ、夫・朔弥から突然離婚を告げられる。さらに会社には、朔弥の初恋と噂される令嬢まで現れ、真尋の居場所を奪い始めた。家でも会社でも都合よく使われるのは、もう終わり。有能妻・真尋の逆転劇が始まる。

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Kabanata 1

第1話 子どもの名前は、もう決められていた

 ――子どもは、まだなの。

 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。

 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。

「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」

 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。

 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。

 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。

「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」

 喉の奥が細くなる。飲み込んだ味噌汁の温度だけが、やけに熱かった。

 ええ、知っています。私は道具です。会社でも、家でも。用途が違うだけで。

 何度もそう言おうとしたのに、結局口に出せなかった。

 年長者との上下関係を気にしてしまうのかもしれない。

 あるいはただ彼に自分をかばってほしいと期待しているだけ。

「高齢出産は、どうしても虚弱のリスクがありますからね」

 義母は気遣うように微笑んだ。

「男の子なら朔臣、女の子なら美琴。あまり虚弱では、名前に負けてしまうでしょう?」

 一瞬、意味がわからなかった。

 まだ性別もわからない。そもそも、名前の話など一度もしていない。

「……その名前」

「この家の子の名前よ」

 義母は穏やかに紅茶を口に運ぶ。

「もう決めてあるの」

 その瞬間、隣で朔弥さんがカップを置く音が、かすかに硬く響いた。思わずそちらを見ると、彼は伏し目がちのまま黙っている。けれど、その横顔だけが、ひどく冷えて見えた。まるで何かを押し殺すように。

 その沈黙すら、私を守るものではなかった。

 会社に着くころには、肩がもう硬かった。

 私は経営管理と再建実務を握る上級マネージャーで、表向きの肩書き以上に、この会社の継ぎ目を縫う側の人間だ。人が嫌がる穴埋めほど、たいてい私の机に落ちてくる。

 九時前だというのに、デスクには三つの付箋と四件のメッセージが積まれていた。役員会資料の差し替え、来週の銀行説明の数字確認、ホテル部門の予算再計算、ブライダル案件の火消し。どれも急ぎで、どれも本来は別の誰かの仕事だ。

「高瀬さん、こっちも見てもらえます?」

「悪い、これ今日中」

「真尋さんなら早いから」

 感謝ではない。信頼に似た、もっと雑なものだ。水道の蛇口をひねるみたいに、当然の顔で私を使う。

 午前中だけで二つ会議を回し、昼前には役員の言い争いを止め、午後には数字の穴を埋めた。社内政治まで含めて帳尻を合わせるのが私の仕事らしい。決算書に載らない部分ほど、どうしていつも人の体温を削っていくのだろう。

 助かりましたの一言もないまま会議室を出る背中を見送って、私はやっと息を吐いた。胃のあたりが空っぽなのに重い。

 心から好きな仕事が、いつの間にかこうなってしまった。

 社長夫人になっても部下から尊重されず、かえって仕事をこなすだけの存在になった。

 ――その根本にはやはり社長――朔弥さんの態度がある。

 もういい。仕事は、ここまでだ。

 会社を辞めよう。家庭に入ろう。そうすれば少なくとも、役に立つ場所を一つに絞れる。全部を満たして、それでも足りないと言われるよりはましだ。

 そう決めた夜、私はいつもより少しだけ早く帰宅した。朔弥さんに話そうと思ったのだ。仕事を辞めること。子どものことを、ちゃんと考えたいこと。これ以上何も取りこぼしたくなかった。こうすれば、もしかしたら私たちの関係も、もう一歩進めるかもしれない。

 冷蔵庫にあった食材で、簡単なおかずを二品だけ作った。前に一度、朔弥さんが「君の料理はうまい」と言ったことがある。忙しくて、そういうことをする余裕なんてほとんどなかったのに、あのとき少しうれしかったから、その一言だけは案外きれいに覚えていた。

 今日の朔弥さんはなんだか機嫌がよさそうで、何かを待っているみたいだった。

 もしかして、彼も私と同じことを考えているのだろうか。

 今夜こそ、私たちは……。

「朔弥さん、大事な話があるの……」

 言いかけたそのとき、彼のスマホが鳴った。

 遠慮する間もなく、彼はすぐに電話に出た。

「……わかった。今行く」

 彼は立ち上がるのが早かった。私を見る。何か言いかけて、言わない。

「悪い。急ぎだ。話は後で」

 彼が待っていたのは、電話だったんだ。

 仕事の急用?

 でも、どうも仕事という感じでもない……。

 その夜、社員用のグループチャットに流れてきた雑談が目に入った。

〈見た?〉

〈マジで帰国したって〉

〈一条澄麗さん〉

〈社長、自分で空港まで迎えに行ったらしい〉

 一条澄麗すみれ

 あの女が......帰ってきた。

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第1話 子どもの名前は、もう決められていた
 ――子どもは、まだなの。  御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。  問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」  義母の冴子は穏やかに微笑んだ。  露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。  隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」  喉の奥が細くなる。飲み込んだ味噌汁の温度だけが、やけに熱かった。  ええ、知っています。私は道具です。会社でも、家でも。用途が違うだけで。  何度もそう言おうとしたのに、結局口に出せなかった。  年長者との上下関係を気にしてしまうのかもしれない。  あるいはただ彼に自分をかばってほしいと期待しているだけ。 「高齢出産は、どうしても虚弱のリスクがありますからね」  義母は気遣うように微笑んだ。 「男の子なら朔臣、女の子なら美琴。あまり虚弱では、名前に負けてしまうでしょう?」  一瞬、意味がわからなかった。  まだ性別もわからない。そもそも、名前の話など一度もしていない。 「……その名前」 「この家の子の名前よ」  義母は穏やかに紅茶を口に運ぶ。 「もう決めてあるの」  その瞬間、隣で朔弥さんがカップを置く音が、かすかに硬く響いた。思わずそちらを見ると、彼は伏し目がちのまま黙っている。けれど、その横顔だけが、ひどく冷えて見えた。まるで何かを押し殺すように。  その沈黙すら、私を守るものではなかった。  会社に着くころには、肩がもう硬かった。  私は経営管理と再建実務を握る上級マネージャーで、表向きの肩書き以上に、この会社の継ぎ目を縫う側の人間だ。人が嫌がる穴埋めほど、たいてい私の机に落ちてくる。  九時前だというのに、デスクには三つの付箋と四件のメッセージが積まれていた。役員会資料の差し替え、来週の銀行説明の数字確認、ホテル部門の予算再計算、ブライダル案件の火消し。どれも急ぎで、どれも本来は別の誰かの仕事だ。 「高瀬さん、こっちも見てもらえます?」 「悪い
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第2話 離婚の朝、知らない香りがした
 朔也さんは一晩中帰ってこなかった。  私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。  翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。  数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。  エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」  一条澄麗。  帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門ビジネススクール帰りだという女。社長自ら空港へ迎えに行った相手。会社にとっては華やかなニュースで、私にとっては、ひどく耳に障る話題だった。  しかも彼女は、朔弥さんを初恋の人だと公言している。  周囲もそれを昔話では済ませていなかった。若くて、家柄がよくて、きれいに成長して帰ってきた彼女を、社長がようやく再会した運命の女みたいに見ているらしい、と社内でもささやかれていた。  そして何より厄介なのは、朔弥さん自身も、その空気を少しも否定しないことだった。  昼過ぎ、廊下で若い社員たちが話しているのが耳に入った。 「高瀬さんって、辞めるのかな」 「社長夫人なんだし、むしろそっちのほうが自然じゃない?」 「一条さんが入るなら、対外まわりもきれいになるよね」 「社長が一条さんを会社に入れたのって、高瀬さんのポジションを引き継がせるつもりなのかな」  自然、という言葉は残酷だ。たいてい、誰かを押しのける側が使う。  夕方まで仕事を片づけて、私は誰にも何も言わずに帰った。説明するほどのことではない。今日はもう、言葉を使う元気がなかった。  家は静かだった。静かすぎて、昨日の続きみたいで気味が悪い。  二階の奥の廊下を歩くたび、いつも閉じたままの一室が視界の端に入る。誰も触れない部屋。使用人たちも、その前だけ妙に足音を殺す。こういう家では、知らされないことほど重い。  何時だったのかはわからない。眠りの浅い底で、扉の開く音がした。  朔弥さんだ、とわかったのは気配でだ。私は目を開けなかった。開けたら、何かを期待してしまいそうだったから。期待が裏切られたときの失望は、
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第3話 それ以上、口を開いたら
 昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。  御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。  私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」  彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」  低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。  彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。  再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。  なのに今は、朝の食卓で離婚を告げた相手として向かいに座っている。 「離婚しても、敵になるわけじゃない」  出勤前の玄関で、朔弥さんは低い声で言った。 「家族ではいられる」  喉の奥がひりついた。便利な言葉だと思う。切り捨てたあとで、関係だけきれいに残したがる人間はだいたい勝手だ。  会社に着くと、空気は昨日よりさらにぬるく悪かった。社内の空気は数字より厄介だ。決算書には載らないくせに、たいていのものを腐らせる。  十時の全社会議は、本社会議室と各拠点をつないだハイブリッド開催だった。 「おかしいな、社長が遅れるなんて珍しいね」 「何か用事で足止めされてるのかも」  会場自体は静まり返っているのに、空気だけが妙にざわついている。参加している人間も、画面越しの人間も、みんな手元のスマホばかり見ていた。  私も状況を確認しようとメッセージを開いた、そのときだった。朔弥さんは一条澄麗と一緒に入口に現れた。 〈美男美女で、お似合いすぎない?〉 〈しかも一緒に来たよ。もしかしてもう……〉 〈やめとけって、社長夫人に見られるかもしれないぞ〉  十時の全体会議で、一条澄麗は正式に紹介された。  淡いベージュのスーツ、やわらかい笑顔、きれいすぎて刺の見えない声。若くて、家柄がよくて、この場に立つことへ一ミリも迷いのない女だった。私が背筋で保っているものを、この人は最初から骨の形で持っている。 「一条澄麗です。用事で遅くなり申し訳ございません。まだまだ学ぶことばかりですので、皆さまどうぞご指導くださいませ」  感じがいい
last updateHuling Na-update : 2026-03-29
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第4話 もう、都合のいい妻ではいられない
「真尋。今はやめろ」  掴まれた手首が痛い。  腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。  叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。  彼の顔を見た。  そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。  胸の奥を、鈍いものが刺した。  そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」  澄麗は困ったように目を伏せる。  完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」  噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。  朔弥さんの手が離れる。  そこだけが、熱を持って痛んだ。 ***  翌朝、出社してすぐ社長室に呼ばれた時点で、ろくでもない話だとはわかっていた。  朔弥さんは窓際に立ったまま、振り向かずに言った。 「昨日の件だが、一条に謝ってほしい」  喉の奥が冷えた。期待していないつもりでも、失望は律儀に来るらしい。 「理由を伺っても」 「社内の和を乱した。今は余計な火種を作りたくない」  なるほど。私は火種の側らしい。人間関係を整理するたびに、たいてい不要なほうへ入れられる。  謝るのは得意だ。悪くない時に頭を下げるのも、案外うまい。  でも今日は、さすがにうんざりしていた。 「お断りします」 「真尋」 「離婚するなら、都合のいい妻も辞めます」  言ってから、指先がじんとした。怖くないわけではない。ただ、ここで折れたら、たぶん仕事まで軽くなる。 「私は仕事のために謝ることはできます。でも、自分を削ってまで場の見栄えを整える気はありません」「お前、いつからそんなやつになったんだよ」    短い沈黙のあと、彼は机の上の書類を指で押さえた。 「離婚届、今週中に署名してくれ」  こういう時だけ判断が早いのだから、経営者としては優秀だ。本当に腹立たしい。 ***  夜、ホテル最上階のラウンジで歓迎会が開かれた。歓迎会というより、次の奥様候補の顔見せだ。  一条澄麗はその中心にいた。白に近い淡色のワンピース、上品な笑顔、誰に向けても少しだけ好意を足した視線。こういう場で愛される方法を、彼女はたぶん呼吸みたいに知っている。 「真尋さん」  近づいてきた澄麗が、細いグラスを持ったまま首を傾げた。 「真尋さん、昨
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第5話 次の嫁がいる食卓
 ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。  義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。  胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。  澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」  澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」  私は一拍遅れて会釈した。  もう次の嫁まで、夜の席についているのか。  冴子が紅茶を置きながら、穏やかな声で言った。 「昨夜は大変だったわね。澄麗さん、心配していたのよ」 「わたくしは本当に大したことではございませんの」  澄麗は控えめに首を振る。長い睫毛が伏せられる、その仕草まで上品だった。 「真尋さんのようにお仕事をきちんと積み上げてこられた方って、本当に立派だと思いますわ」  やわらかな声が、きれいに耳へ入ってくる。 「でも、そのぶんご自身のことは後回しになさってきたのでしょう? 女には、どうしても選ばないといけない時期がありますものね。お仕事を優先なさる方ほど、そのあたりのことは難しくなると伺いますし……」  穏やかな声だった。だからこそ、意味だけがきれいに届く。  ――仕事を選んでいるうちに、出産適齢期を過ぎた女。  そう言いたいのだ。 「ありがとうございます」  私も笑った。 「ええ。ですから私は、若さ以外の価値を作るほうを選んできましたので」  澄麗の表情が、ほんのわずかに止まる。  けれど冴子は何もなかったみたいに続けた。 「署名も、あまり長引かせないほうがいいわね。こういうことは、整っているうちに済ませるのが一番だから」  冴子が穏やかに言うと、澄麗もやわらかく頷いた。 「真尋さんほど聡明な方なら、きっとおわかりになりますわ。感情で長引かせるより、きれいに整えるほうが、皆さまのためですもの」  皆さま。  便利な言葉だ。誰か一人を黙らせたい時だけ、急に人数が増える。 「……ずいぶん親切なんですね」  私が言うと、澄麗は困ったように目を伏せた。
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第6話 悪意でなければいいらしい
 反抗には、たいてい請求書がつく。  翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。  昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。  感情的な奥様。  離婚を受け入れられずに拗れている女。  口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。  午前十時、海外提携案件の定例が始まった。  先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。  会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。  配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「この資料、誰が差し替えました」  営業の課長が気まずそうに視線を逸らす。 「一条さんが、先方に印象のいい形へ整えると」  なるほど。数字を磨くことと、数字を消すことの区別がつかない人間が、たまにいる。  澄麗は会議卓の向こうで、ほんの少し眉を下げた。 「ごめんなさい。わたくし、見せ方の問題かと……。米国のビジネススクールでは、数字はストーリーで伝えるものだと教わりましたので」  はいはい、私はたかが国内の税理士ですから。  だけど監査法人も税務署も、「米国では」で押し切れるほど甘くない。  見せ方。きれいな言葉だ。粉飾も誤魔化しも、少し上品に言えばだいたい無害に聞こえる。 「問題です。このまま出せば、あとで説明が破綻します。今ならまだ直せるので、直します」  澄麗は責められた顔をしなかった。ただ、少し傷ついた顔をした。厄介な人は、だいたいその顔が上手い。 「ですが、もう先方との接続時間が」 「だからです」  私は修正箇所を洗い出し、差分表と補足説明を組んだ。 「外向けには私から連絡します。社内承認は後で通してください。今は、修正しないほうがよほど危険です」  会議室を出て、取引先側の担当へ連絡を入れる。数字の基準を揃え直すので三十分待ってほしいと伝えた。  電話の向こうが、少し黙った。 『高瀬さんがそう言うなら待ちます。あなたの仕事ぶりは信用しているので』  それだけで、少しほっとした。  昼過ぎには修正版をまとめ、オンライン会議もどうにか乗り切った。取引自体は繋いだ。  ――なのに、午後には私が加害者になっていた。 ***  社長室に
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第7話 私を評価したのは、夫ではなかった
 離婚届の入った封筒は、薄いくせに妙な存在感があった。  秘書室から上がってきたそれを、朔弥さんはすぐには開かなかったらしい。私はその場を見ていないけれど、翌朝の社長室の空気がおかしいことくらいは、廊下を歩くだけでわかった。  朝の会議に呼び戻されたのは、提携案件の先方責任者が急遽来社することになったからだった。  会議室に入ると、朔弥さんはいつも通りの顔をしていた。  ただ、一度だけ私を見て、すぐに目を逸らした。  それだけで、まだ離婚届を処理していないのだとわかった。 「失礼いたします」  先に入ってきたのは、先方企業の法務担当と事業推進の部長だった。その後ろから、最後に一人、背の高い男が入ってくる。  濃いグレーのスーツ。無駄のない歩き方。相手を見る時だけ妙に正確な目。  その顔を見た瞬間、息が止まった。 「城戸圭介です。今回の再編提携案件で、最終責任を預かっています」  社外責任者として紹介されたその男は、名刺を差し出しながら、ごく自然に私を見た。 「……久しぶり、高瀬さん」  大学時代、何度か二人で美術館へ行った。付き合ったことはない。何も始まらなかった。けれど、少しだけ特別だった。 「お久しぶりです」  私が言うと、城戸さんはほんの少しだけ笑った。 「相変わらず、きれいに笑う」  小さすぎる声だった。でも朔弥さんの視線が、一瞬だけこちらに動いたのはわかった。  会議が始まると、城戸さんは私情を一切持ち込まなかった。必要な数字、昨日の差し替え経緯、先方側の懸念、今後の条件修正。どれも端的で、曖昧さがない。 「昨日の資料差し替えについては、こちらも経緯確認済みです」  城戸さんは手元のタブレットを伏せた。 「結果から言えば、高瀬さんの判断がなければ、昨日の時点でこの案件は止まっていました」  柔らかな口調なのに、会議室の空気が凍る。 「誤った版のまま進めていれば、説明整合性が崩れ、こちらは条件見直しでは済ませませんでした」  城戸さんの声は淡々としていた。だからこそ、逃げ道がない。 「昨日つないだのは、高瀬さんの実務判断です。少なくとも私はそう評価しています」  胸の奥で、昨夜まで固く縮んでいた何かが、少しだけほどける。  私が正しかった。  澄麗が先に口を開いた。 「もちろん、真尋さんのお力は皆さま
last updateHuling Na-update : 2026-05-04
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第8話 離婚したい相手に、そういう顔をしないでください
 翌朝、手首に残った熱を、私は洗面台の冷たい水で流した。  流れるわけがないと知っているくせに、人はこういう無駄なことをする。  昨夜、扉際で掴まれた感触は、皮膚より奥に残っていた。  離婚したい相手に、あんな顔をするのは反則だと思う。  出社すると、机の上の景色が少し変わっていた。  露骨な歓迎ではない。ただ、昨日まで当然のように横流しされていた確認依頼が、今日は正式な依頼として積まれている。役員会向けの補足説明資料には、作成者として私の名前が入っていた。  ずいぶん遅い是正だと思う。でも、ないよりはましだ。  人の評価は天気みたいなものだ。数字より曖昧なのに、たいていの判断を狂わせる。  午前のうちに、昨日の会議を受けた条件調整の打ち合わせが入った。先方の窓口は城戸さん、こちらは私という形になる。  つまり、私はまだこの案件に必要とされている。  社長夫人だからではなく、高瀬真尋として。  その事実だけで、胸の奥の冷えが少し薄くなった。  会議室に入ると、城戸さんはすでに資料を開いていた。 「おはよう」 「おはようございます」  私が席に着くと、城戸さんは一度だけ私の手元を見た。昨夜の痕が見えたわけではないだろうに、ひどく落ち着かない。 「今日はちゃんと寝た?」 「ずいぶん家庭的な確認ですね」 「仕事に支障が出ると困るから」  さらりと言う。その距離感が、昔から変わらない。  踏み込みすぎないくせに、必要なことだけは見逃さない。だから少しだけ楽になる。  打ち合わせは淡々と進んだ。条件の再整理、再送資料の見せ方、先方役員への説明順。城戸さんは必要な判断だけを私に投げ、余計な同情は一切混ぜない。 「御門側の内部説明は、まだあなたが持つ?」 「ええ」 「なら、この一文は変えよう。言い訳に読める」 「そうですね。逃げた人の文章みたいです」  私が言うと、城戸さんはわずかに口元を緩めた。 「高瀬さん、昔からそういう言い方するよね。静かなのに、容赦がない」  胸の奥が軽くざわつく。  昔。大学の帰り道、展覧会の感想より先に、レポートの論理が甘いと私の文章を添削してきた男だ。あの頃から、褒めているのか喧嘩を売っているのか微妙な言い方がうまかった。  昼過ぎ、打ち合わせが終わって廊下に出たところで、朔弥さんと鉢合わせ
last updateHuling Na-update : 2026-05-05
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第9話 今日は口説きません
 翌日の夜の食事は、昨夜の城戸さんからの社用メールで半ば強引に決まっていた。 「打ち合わせの続きです」  店の前でそう言われて、私は少しだけ笑ってしまった。 「その言い方で、誰が信じるんですか」 「少なくとも、何も食べずに帰そうとするよりはましでしょう」  案件の再送資料は無事に通って、先方の反応も悪くなかった。城戸さんの判断が早かったのもあるし、何より今日は、私の言葉が最初から疑われなかった。  たったそれだけのことなのに、肩から力が抜けていた。  通されたのは、駅前のホテルのダイニングだった。必要以上に暗くもなく、騒がしくもない。取引先との会食にも使えそうな、きちんとした店だ。 「……本当に打ち合わせなんですね」 「何だと思っていたんですか」 「少し警戒していました」  そう言うと、城戸さんは水の入ったグラスを私の前に置いた。 「それは正しいです」  一拍置いてから、彼はまっすぐ私を見た。 「……昔の気持ちを、全部なかったことにするつもりはない」  一瞬、息が止まった。  正面から言われるとは思っていなかった。大学時代、何度か一緒に美術館へ行って、レポートを添削されて、少しだけ特別だったあの曖昧な時間。名前をつけないまま終わったものを、こうして静かに拾い上げられると、胸の奥が妙にざわつく。  けれど城戸さんは、それ以上踏み込まずに続けた。 「でも今日は口説きません。仕事の話と、ゆっくりと食事をしてもらうためです」 「……ずるいですね」 「知っています」  そんなふうに返されてしまうと、もう何も言えなかった。  運ばれてきた料理は、どれもちゃんとしていた。温かいスープ、白身魚のポワレ、軽い前菜。最初こそ食欲がなかったのに、口に入れてしまえば思ったよりするすると食べられる。  ワインを勧められて、一杯だけ、と答えたのがいけなかったのだと思う。  酒に弱いわけじゃない。けれど今日は、ずっと張っていたものが少し切れていた。 「そんな顔もするんですね」  ふいに城戸さんが言った。 「どんな顔ですか」 「やっと息ができたみたいな顔。真尋さんがすると、そういうのも可愛い」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。  私はグラスを持ったまま、少しだけ視線を落とす。  そういう言葉に、うまく反応できない。  甘やか
last updateHuling Na-update : 2026-05-06
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第10話 評価してくれました。あなたと違って
 打たれた頬に手を当てることもせず、朔弥さんはただ私を見た。初めて叩かれた人の顔じゃなかった。もっと別の、信じていた何かが崩れた時の顔だった。 「……最低」  自分の声が震えている。怒りなのか、悔しさなのか、自分でもわからない。 「あなた、最低です」 「真尋」 「そう思うなら、最初から離婚なんて言わないで」  喉の奥が熱い。目の奥まで焼けるみたいだった。 「私がどんな気持ちで署名したと思ってるの」  朔弥さんの唇がわずかに動く。けれど何も出てこない。 「私は……あなたがそう望むなら、それでも最後くらいきれいに終わらせようとしたのに」  そこで声がひび割れた。 「それを、そんなふうに言うんですね」  城戸さんが一歩前に出る。 「今日はもう終わりにしましょう。高瀬さん、車を」 「触るな」  ほとんど反射みたいな声だった。  朔弥さん自身、その言葉の荒さに一瞬遅れて気づいたように目を細める。  けれど、もう十分だった。 「城戸さん、すみません。今日はもう帰ります」  自分でも驚くほど声は冷たかった。 「でも、一人で帰れます」  城戸さんは何か言いかけ、結局、短く頷いただけだった。 「着いたら連絡を」 「はい」  その場でタクシーを止めた。乗り込む直前、朔弥さんが手を伸ばしかける気配がしたけれど、見ないふりをした。  触れられたくなかった。 ***  家に戻るころには、酔いはほとんど醒めていた。残っていたのは、胃の奥の気持ち悪さと、耳の奥で何度も反響するあの一言だけだ。  どおりですんなり合意したわけだ。  靴を脱ぎながら、笑いそうになった。笑えるわけがないのに。  この人は最後まで、私の決断を私のものとして見ないのだ。  部屋に入って、そのままクローゼットを開ける。旅行用の小さなトランクを引きずり出し、手当たり次第に服を詰めた。  今夜のうちに出る。  ホテルでもいい。ウィークリーマンションでもいい。とにかくこの家の空気から離れたかった。  下着、仕事着、化粧品、充電器。詰め込んでいるうちに、指先だけ妙に冷えていく。  ノックもなしに扉が開いた。 「何をしている」  振り向かなかった。 「見ればわかるでしょう」 「真尋」 「今、話したくありません」  数歩入ってくる気配がする。 「出てい
last updateHuling Na-update : 2026-05-07
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