エレベーターの中。
賢司は胸元の翡翠の勾玉付きネックレスを見つめ、その目には拭いきれない寂しさが滲んでいた。
予感はしていたものの、この結婚が本当に終わりを迎えた時、彼はやはり割り切れなかった。
幸せなんて、もっと単純なものだと思っていた。毎日の食事、平凡な日々、それで十分だと。
今になってやっと理解した。
平凡であることも、時には罪なのだったと。
三年間、甘い夢の中に浸っていたが、今こそ目を覚ます時だ。
「――チリリリン」
考え事をしている時、電話が突然鳴り出した。
通話ボタンを押すと、聞き慣れた声が耳に届いた。
「稲葉さん、私は江都商会の藤村悠斗(ふじむら ゆうと)です。本日はあなたと川奈部さんの結婚記念日だと伺いまして、ささやかながら贈り物をご用意いたしました。ご都合のよろしいお時間をいただけますでしょうか?
「藤村会長、お気遣いありがとうございます。でももう必要ありません」賢司は淡々と答えた。
「え?」藤村は少し驚いた。
彼は何か異変を察したようだった。
「藤村会長、他に何かご用ですか?」賢司は話題を変えた。
「あの……実はもう一つお願いがありまして」
悠斗は気まずそうに咳払いをした。「実は、私の友人が最近、原因不明の病にかかりまして、何人もの名医に診てもらっても治らないのです。稲葉さん、どうか力を貸していただけませんか」
「藤村会長、僕のやり方はご存じですよね」
「もちろんです!誠意なしにお願いなどできません。実はその友人の家に、あなたが探していた龍心草があるんです。もしお力添えいただけるなら、その薬草を報酬としてお渡しいたします」と藤村悠斗は言った。
「本当ですか?」賢司の表情が真剣になった。
「ええ、間違いありません!」と悠斗は答えた。
「分かりました。それならば僕が直接伺います」賢司は即座に応じた。
彼はお金や宝石にはぜんぜん興味がなかった。
だが、珍しい薬草となると話は別だった。
なぜなら、それは命を救うために必要なものだったからだ。
「ありがとうございます、稲葉さん。すぐに車を手配いたします!」藤村は安堵の笑みを浮かべていた。
江都御三家の一人として名を馳せ、誰もが一目置く商会の会長である藤村悠斗ですら、賢司の前にすると、言葉の端々に慎重さと謙虚さを滲ませていた。
「運がいい、また一つ珍しい薬草を見つけた。残りは五つ、時間的には、まだ間に合う」
賢司はぽつりと呟いた。
先ほどの陰鬱な気持ちが少し和らいだ。
「――ピンポーン」
その時、エレベーターの扉が開いた。
賢司は一歩踏み出し、会社の正面玄関を出た時、二つの見覚えのある人影が目に入った。
一人は舞彩の母親、赤間仁美(あかま ひとみ)。
もう一人は、舞彩の弟、川奈部明浩(かわなべ あきひろ)だった。
「お義母さん、明浩、どうしてここに?」賢司は先に声をかけた。
「あんたと舞彩、もう離婚したかしら?」仁美は開口一番、核心を突いてきた。
「はい」
賢司は無理に笑みを作りながら言った。「この件は舞彩に何の非もありません。全て僕の責任です。彼女を責めないでください」
彼は穏やかに別れたかった。だが仁美は話を聞くなり、鼻で笑った。「当然あんたの責任よ!うちの娘の性格をよく知っている。あんたが彼女を裏切ったから、離婚を申し出たに違いないわ!」
「え?」
賢司は一瞬驚き、反応が追いつかなかった。
これは……逆ギレ?
「お義母さん、この三年間で、僕が何をしてきたのか、あなたは、そばで見ていたはずです。胸に手を当てて言えます。舞彩に対して、僕は何一つ裏切っていません」賢司は言った。
「ふん!人の心なんて読めないわよ。何を隠してるかなんて、誰にもわかんない。とにかく、うちの娘が離婚を決めたってだけで、もう充分な証拠よ。あんたみたいな男、どうしてうちの娘に釣り合うって思えるの!」仁美は口元を歪め、鼻で笑った。
「お義母さん、その言い方は、いくらなんでもひどすぎます」賢司は少し眉をひそめた。
三年前、もし彼が手を差し伸べなければ、川奈部家は今日のように立ち直れてはいなかったはずだ。
「ひどい?だから何?私が言ってるのは全部、事実でしょ?」仁美は腕を組んだ。
「もういい、母さん!こいつと話すだけ無駄だ!」
そのとき、横にいた明浩が一歩前に出た。「賢司、お前が姉さんと離婚するのは勝手だが、あのお金は必ず返してもらうぞ!」
「金?何のことだ?」賢司は困惑した表情を浮かべた。
「しらばっくれるな!姉さんがお前に一億六千万の慰謝料を払ったこと、俺が知らないとでも思ってるのか?」明浩は冷たく言った。
「そうよ!あれは全部、うちの娘のお金なのよ。あんたが持って行く理由なんてないでしょ?さっさと返しなさいよ!」仁美は手を差し出して、当然のように要求してきた。
「その一億六千万円、一円たりとも受け取ってません」賢司は否定した。
「嘘をつくな!誰が一億六千万円なんて大金を、みすみす受け取らずにいるっていうんだよ?俺たちを馬鹿にしてるのか?」明浩は全く信じなかった。
「賢司、素直に金を出せば穏便に済むのよ。でないと、こっちも容赦しないからね!」仁美が、鋭い声で警告した。
「信じないなら、舞彩に電話して確かめればいい」賢司はもう、説明する気すらなかった。
「何よ、脅してるつもり?誰が頼んでも無駄よ!今日はすっからかんで出て行ってもらうから。一円たりとも持って帰らせないんだから!」仁美は意地悪そうに言い放った。
「母さん、もういい、こいつ、白を切る気だ。だったら、俺たちで調べようぜ!」
我慢の限界に達した明浩は、いきなり賢司のポケットに手を突っ込んで探り始めた。
仁美も負けじと真似をして、同じように探し回った。
「お義母さん、そこまでする必要があるんですか?」賢司は眉をひそめた。
離婚のサインをしたばかりで、川奈部家がこれほど咄嗟に責めてくるとは思わなかった。
本当に、少しの顔も立ててくれなかった。
「はっ、誰があんたのお義母さんよ?そんなふうに呼ばないで!どこの誰かもわからないあんたなんか、川奈部家にふさわしいわけがないわ!」仁美は露骨に顔をしかめた。
そう言いながらも、仁美の手は止まることはなかった。
しばらく探したが、二人は何も見つからなかった。
「おかしいな、本当に金、受け取ってねえのか?」明浩は不満げに眉をひそめた。
その時だった。彼の視線が、賢司の胸元にぶら下がるネックレスに止まり、すっとそれを引きちぎった。
「これって姉さんがつけてたアンティークの翡翠の勾玉付きネックレスじゃねぇか?何でお前が持ってんだよ。まさか盗んだのか?」明浩は疑わしげに言った。
「それはうちの家族の家宝だ、返せ!」賢司の表情は険しくなった。
金なんてどうでもよかった。だが、母の形見だけは、どうしても譲れなかった。
「家宝?つまり、それなりに価値があるってことか?」明浩の目がいやらしく光った。
「賢司!あんたはうちで三年間もタダ飯食ってたんだから、そのネックレスは利息代わりにもらっていくわよ。明浩、行くわよ!」
仁美は明浩に目くばせすると、そのまま立ち去ろうとした。
「待て!」
賢司は明浩の手首を掴み、低く唸るように言った。「ネックレスを返せ!」
「痛っ……痛い痛い!くそっ、手を離せってばよ!」
手首が折れそうな痛みに、明浩は悲鳴を上げた。
「か・え・せ!」
賢司は一語ずつ、力を込めて言い放った。
「ふざけんな!絶対に渡すもんか!」
振り払えないと悟った明浩は、ついに逆上し、ネックレスを思い切り床に叩きつけた。
――パリンッ。
バシッと声が出た。
甲高い音とともに、翡翠の勾玉付きネックレスは割れて砕け散った。
その光景を目にした瞬間、賢司はまるで雷に打たれたかのように凍りついた。顔が真っ青になった。
これは——母の形見だったのだ!
彼の人生で、ただ一つの心の支えでもあったのだ。
「この野郎!手ぇ出しやがって、ぶっ殺してやる!」
明浩は手首を振り回し、怒りを露わにして叫んだ。
――カチカチカチ。
賢司の両拳が、ゆっくりと握られていく。
その冷たい目は、既に血走り、真っ赤染まっていた。
「畜生が……!」
とうとう堪えきれなくなった賢司は、凄まじい勢いで明浩の顔を平手でぶち抜いた。
――バシィッ!
明浩の身体は空中で回転し、そのまま地面に叩きつけられる。
一瞬、目を回り、立ち上がることすらできなかった。
「しつけもできてねぇ無礼者が……なら、俺が代わりに教えてやる!」
賢司は明浩のわし髪を掴みにして、無理やり引き起こした。
そして再び手を振り上げ、何発もの平手打ちを浴びせた。
――バチン!バチン!バチン!バチン!
鋭い音が何度も響き渡り、明浩の顔はすぐに腫れ上がり、口から血が滲み出て、見るも無惨な姿になった。
「この、この!うちの息子に手を出すなんて……許さないわよ!やってやる!」
仁美は叫びながら、助けに入ろうと駆け寄った。
「どけ!」
振り向きざま、賢司が鋭く睨みつけた。
その目は血のように赤く染まり、まるで地獄の悪魔のよう。仁美はその視線に射抜かれたように、一歩も動けなくなった。