離婚後、無愛想な女社長が後悔した

「稲葉賢司（いなば けんじ）、これ川奈部社長からの離婚協定書だから。サインして」

麗都株式会社の社長室内。

スーツ姿の中村加奈（なかむら かな）秘書が、一枚のA4用紙を机の上に置いた。

その向かいには、質素な服装の端正な顔立ちをした男性が腰掛けている。

「離婚って……どういうことだよ？」賢司は眉をひそめた。

「賢司、まだ分からないの？君と社長の結婚はもう終わりよ。君と社長は今、別の世界の人間なの。君の存在は、社長にとって足枷に過ぎないのよ！」加奈は容赦のない口調で言い放った。

「足枷？」

賢司は眉をひそめ、「つまり、彼女は僕のことをそう見ているってことか？」と聞いた。

結婚した時、川奈部家は不況のどん底で、借金も山ほど抱えていた。

彼が川奈部家を救ったのだ。

だが今、すべてを手に入れた川奈部舞彩(かわなべ まいあ)は、あっさりと彼を切り捨てようとしている。

「そう思ってくれて構わないわ」

加奈は顎をしゃくって、デスクの上の雑誌を指さした。その豪華な表紙には、息を呑むほど美しい女性が写っている。

「賢司、この雑誌の見出し見なよ。たった三年で川奈部社長の資産は二百億円突破だって」

「奇跡を起こして、江都で一番ホットな美人社長になったのよ！」

「あの美貌と能力があれば、頂点に立って人々に崇められる運命なの！」

「それに比べて君は？何の取り柄もないただの凡人じゃない。彼女には釣り合わないのよ。少しは身の程を知りなさい！」

賢司が黙り込むのを見て、加奈は眉根を寄せてさらに続けた。

「悔しいのは分かるけど、現実はこうなの。確かに君は昔、社長を助けたかもしれない。でもこの三年間で、返すべきものは全部返してもらったわ。今は逆に、君が彼女に借りを作ってる側なのよ！！」

「結婚なんて、所詮取引だったってことか？」

賢司は深く息を吸い、感情を抑えながら言った。「離婚するなら、舞彩が直接僕のところに来て話をするべきだろう」

「社長はお忙しいの。こんなちっぽけなことで手を煩わせる必要ないでしょ」

「ちっぽけなこと？」

賢司は呆気にとられ、やがて苦笑いを浮かべた。「そうか……彼女にとっちゃ離婚なんて些細なことなんだな。顔も見せない、一言も交わさない。本当に手の届かない存在になっちまったもんだ！」

「賢司、もうこれ以上は無意味でしょ。さっさと済ませない？」

加奈は離婚協定書をグイッと前に押し出した。「サインさえすれば、車も家も君のもの。さらに一億六千万の補償金もついてくるのよ。君が一生かけても稼げない金額よ！」

「一億六千万か……確かに大したもんだ。でも要らない。離婚したいなら、彼女が直接僕の前に出てくることだ。それ以外なら絶対にサインしない」賢司は冷たく言った。

「賢司！調子に乗らないでよ！」

加奈はバンッと机を叩いて怒鳴った。「忠告してあげるけど、社長の今の権力と地位があれば、君との離婚なんて朝飯前なのよ！それでも昔のよしみで、君の面子を立てようとしてくれてるの。その好意を踏みにじるような真似はやめなさい！」

「面子？」

賢司は思わず鼻で笑った。

離婚するのに顔も見せないくせに、何が面子だ。

それに、本当に昔のよしみを大切にしてるなら、こんな脅し文句は出てこないはずだ。

「もう話すことはない」

賢司はそう言うと立ち上がり、その場を去ろうとした。

「賢司！」

加奈が怒りを露わにした時。

黒いドレスを着て、スタイル抜群の美人がドアを開けて入って来た。

陶磁器のように滑らかな肌、完璧に整った顔立ち、そして息を呑むほど美しいプロポーション。

冷たい雰囲気を漂わせるその姿は、まるで絵画から抜け出た女神のようだった。

「やっと顔を見せたな」

賢司は目の前の美しい女性を見つめ、胸の奥で複雑な感情が渦巻いた。

結婚してから三年間、お互いに礼儀正しく距離を保って過ごしてきた。

それでも最終的には、こんな結末を迎えることになった。

自分が何を間違えたのかさえ、彼には分からなかった。

「遅れてごめん、少し用事があって」

舞彩は淡々とした表情のまま座った。

「社長は本当に忙しいね。離婚さえも代理に任せるとは」賢司は言った。

この話を聞いて、舞彩は眉をひそめたが、何も言わずこう続けた。

「じゃあ本題に入りましよう」

「余計なことは言わないわ。今回は私が悪いから、穏やかに終わらせましよう」

「離婚後、家も車もあなたにあげるわ。さらに一億六千万の慰謝料を渡す。どうかしら？」

そう言って、彼女は一枚のカードをそっと机に置いた。

「感情って、金で測れるものなのか？」賢司はふいに聞いた。

「足りないの？いいわ、あなたの望みを言って。できる限り応える」舞彩は淡々と答えた。

「僕の言いたいこと、あなたには伝わっていないんだな。では質問を変えよう。金と権力はそんなに大事なものなのか？」賢司は不思議そうに聞いた。

舞彩は落ち着いた足取りで窓際に向かい、眼下に広がる鋼鉄の街を見下ろしながら、きっぱりと言った。「少なくとも私にとっては、とても重要よ」

「でも、あなたが今稼いでいるお金は一生困らないほどあるじゃないか。そこまでする必要が？」

「賢司、これこそがあなたと私の違いなのよ。あなたは私が何を考えているのか、きっと一生分からない」舞彩はかすかに首を振った。

二人はこの結末を迎えたのは、立場や身分の違いだけではない。考え方そのものに、越えられない溝があった。

最も重要なのは、彼女は賢司に、もう希望を見出せなかったのだ。

「そうだな…僕にはあなたの気持ちなんて分からないよ」

賢司は苦笑いを浮かべた。「僕がやってきたのは、あなたがお腹を空かせた時に料理を作って、寒がってる時に上着を持って行って、具合が悪い時に病院まで背負って運ぶ、ただそれだけだったからな」」

「今更そんな話をしても意味がないわ」舞彩の目には一瞬だけ揺らぎが見えたが、すぐに、迷いのない光へと変わった。

「その通りだ」

賢司は頷き、少し間を置いて続けた。「最近、あなたが渡辺家の御曹司と親しくしてるって噂を聞いたんだが…彼のせいなのか？」

舞彩はしかけたが、少し考えてから頷いた。「そう思ってもいいわ」

「そうか、それならお幸せに」

賢司は静かに微笑むと、迷うことなく離婚協定書にサインした。

ためらいも、躊躇もなく、ただ心が冷え切っていた。

皮肉なことに、今日はちょうど二人の結婚記念日だった。

結婚と離婚を同じ日に迎えるなんて、なんとも馬鹿げた話だ。

「お金は必要ないが、あの翡翠の勾玉付きネックレスを返してもらう。母の形見で、稲葉家の嫁であることを示す証だからな」賢司は彼女の襟元を指さした。

「わかったわ」

舞彩は頷き、ネックレスを外して手渡した。

「これで、あなたとはもう赤の他人ね」

賢司はネックレスを首に掛けると、そのまま背を向けて歩き出した。

その瞬間、彼の目からは優しさが消え、代わりに冷たい光が宿っていた。

「加奈、私のやったことは正しかったのかしら」舞彩は複雑な表情で聞いた。

離婚を切り出したのは自分だったのに、いざこうなってみると、なぜか少しも嬉しくなかった。

「もちろんです！」

加奈は力強く頷いた。「社長は幸せを選ぶ権利があります。今の賢司なんて、社長の足手まといになるだけよ。社長は江都の頂点に立つべきお方なんですから！」

舞彩は何も答わず、ただその寂しげに去っていく後ろ姿を見つめていた。胸の奥で、名状しがたい痛みがじくじくと疼いた。

まるで何か大切なものが、静かに失われていくかのように……