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第11話

Auteur: 空木林
病室に入り、音瀬はベッドのそばに腰を下ろした。

伸一は笑顔で問いかけた。「音瀬ちゃん、準備はどうだ?荷物はまとめたのか?」

何の準備?まだ荷造りしなきゃいけないのか?

音瀬は一瞬固まり、何も答えられなかった。

伸一はすぐに異変に気づき、「なんだ、湊斗は君に話してなかったのか?あのバカめ!やっぱり適当に流したな!」

実は、伸一の古い友人がもうすぐ誕生日を迎えるのだが、本人は行けないため、湊斗と音瀬に代わりに行かせようとしていたのだ。

伸一の気持ちは善意からだった。この歳にもなれば、二人の間に問題があることくらい見抜ける。

だからこそ、どうにかして二人の距離を縮めようと考えたのだ。

「音瀬ちゃん、じいちゃんの話を聞いてくれ」

伸一は二人のことを心から案じていた。

「湊斗は人に指図されるのを嫌う性格だが、君らはもう夫婦なんだ。ちゃんと気持ちを育てて、うまくやっていかないといけないだろ?」

「はい」

音瀬には反論の余地がなく、ただ従うしかなかった。

「いい子だ」伸一は満足そうに笑い、「音瀬ちゃん、湊斗のことを頼んだぞ」

病室を出た音瀬は、眉をきつく寄せた。

実習停止の件があってから、彼女は湊斗と顔を合わせたくもなかった。

しかし、伸一の気持ちを無視することもできなかった。

幼い頃から、誰にも大切にされなかった彼女にとって、伸一の優しさはかけがえのないものだった。だからこそ、彼のために行くことを決めた。

実習はすでに停止されているから、休みを取る必要もない。

だが、誕生日のお祝いに行くのだから、何か贈り物を用意しないといけない。

高価なものを買う余裕はない。でも、せめて気持ちを込めた贈り物を。

ちょうど時間もあったので、音瀬は千乗寺へ向かった……

夜になり、音瀬は寮に戻って荷物をまとめ、湊斗に電話をかけたが、予想通り出なかった。

だが幸い、伸一が住所を教えてくれていた。

翌朝早く、音瀬はバスに乗り、名盤山へと向かった。

道中、雨が降り出し、どんどん激しくなっていった。

音瀬が目的地に着く頃には、土砂降りの雨になっていた。バスを降りると、音瀬は再び湊斗に電話をかけた。

車内でスマホを手に取った湊斗は、チラリと画面を見た。

フン。

たった一音、それだけで軽蔑と侮蔑がはっきりと伝わる。

そのまま画面を伏せ、完全に無視した。

……

名盤山のふもとでは、自家用車は通れず、ここで山の上から迎えに来た車に乗り換える必要があった。

ここ数日、名盤山は平山家が貸し切っており、用意された車の数も限られていた。

そのため、音瀬はふもとで待つしかなかった。

ベントレー・ミュルザンヌが止まり、湊斗が大塚を従えて車から降りた。

「桐生!」音瀬は急いで駆け寄った。

雨は細かく降りしきっていた。

大塚は黒い傘を差し、湊斗の後ろに立っていた。

湊斗は伏し目がちに、冷淡に言い放った。「どけ」

「おじいさんが、一緒に来るようにって」

彼の態度は想定内だった。今さら良好な関係を築こうなんて音瀬は思っていないし、気にするつもりもなかった。

視線が交わり、一瞬の沈黙が落ちた。

伸一は確かに湊斗に音瀬を連れて行くよう言った。しかし、彼はその場では了承しながらも、すぐに忘れ去っていた。

まさか、伸一が直接音瀬にも伝えていたとはな。

それでも来たか。だから何だ?

湊斗は薄く笑い、「お前に、その資格があるとでも?」

そう言い捨てると、音瀬に一瞥もくれず、大股で歩き去った。

見ての通り、彼は心底彼女を嫌っていた。

音瀬は何も感じなかった。この旅は、あくまで伸一のために来たものだ。

だから、黙って彼らの後ろについて行った。

「桐生様、到着しました。どうぞお乗りください」

平山家の運転手が恭しく案内する。湊斗は軽く頷き、大塚とともに車に乗り込んだ。

音瀬も乗ろうとした瞬間、湊斗はバタンと車のドアを閉めた。

運転手に命じる。「出せ」

「かしこまりました、桐生様」

車が勢いよく発進し、弾けた水しぶきが音瀬の体に降りかかった。

音瀬は反射的に後ずさるが、雨でぬかるんだ地面で足を滑らせ、尻もちをついた。

その様子に大塚が息をのんだ。「兄さん」

湊斗はルームミラー越しに視線を落とす。雨に打たれ、地面に座り込んだままの音瀬。全身びしょ濡れで、まるで捨てられた子猫のようだった。

だが、それが彼に何の関係がある?

冷淡な表情のまま視線をそらし、短く命じた。「速度を上げろ」

音瀬はゆっくりと立ち上がり、走り去る車の後ろ姿を見つめながら、顔の雨を手で拭った。

車がなくても、足がある。歩いて山を登ればいい。

ただ、雨で足元は悪く、名盤山はそれなりに標高もある。結局、音瀬が山荘にたどり着くまで三十分もかかった。

山荘は古風な造りで、すべて平屋の屋敷風に設計されていた。

フロントで確認し、音瀬は湊斗が泊まっている棟を見つけた。

到着したとき、湊斗の姿はなかった。おそらく、客人を訪ねに行ったのだろう。

部屋のカードキーもないため、外廊で待つしかなかった。

音瀬は両手をこすり合わせた。寒い。でも、疲れ切っていた彼女は、扉にもたれかかるようにして、うとうとと眠ってしまった。

どれくらい時間が経ったのか、肩を叩かれ、目が覚めた。

「音瀬さん、起きてください」

「ん……」音瀬はゆっくりと目を開け、まず大塚の顔が見えた。

そのまま視線を後ろにずらすと、やはり湊斗がいた。

「帰ってきたのね」

音瀬は立ち上がったが、眉を寄せ、膝を押さえた。

「っ……痛っ」

痛い?何のために?彼の気を引こうってか?バカバカしい。

湊斗の表情は鬼神のように冷酷だった。そして、低く言い放つ。

「池田、お前のそういう手は俺には通じない。消えろ。俺の視界から消え失せろ」

そう言い終えると、ドアを押し開け、中へ入った。

音瀬は一瞬動けず、ドアが閉まる音を聞いた。そして、苦笑するように口角を上げた。

お腹を軽く押さえた。朝から何も食べていない。

だが、幸いにも準備はしていた。

音瀬はバッグからパンを取り出し、そのまま口に放り込んだ。

今の彼女に食べられるものはこれしかない。バイトを失い、生活費はギリギリ。一円すら無駄にできない。

パンが喉に詰まりそうになり、音瀬は必死に飲み込もうとしていたその時、一本のペットボトルがそっと目の前に差し出された。

「大塚さん」音瀬は微笑みながら受け取り、「ありがとう」

大塚は軽く微笑み、「気にしないで」

そして、何気なく付け加えた。「湊斗兄さんには、本当に仲のいい彼女がいますよ」

仲がいい?

音瀬は俯き、口元に微かな笑みを浮かべた。なら、彼は離婚できない。祥子たち母娘、さぞかし苛立っているだろう。

それならいい。

湊斗を怒らせてまで耐えてきた甲斐があった。

「あなた、賢い子でしょ?湊斗兄さんに時間を無駄にしない方がいいですよ」

大塚なりの優しさだった。

音瀬は感謝の気持ちを込めて言った。「ありがとう。でも、私、彼に何か期待してるわけじゃない。ただ、そうせざるを得ない理由があるの」

それ以上のことは、大塚に話せなかった。

「そうですか」大塚はそれ以上追及せず、「余計なことを言いましたな」

深夜になっても、風と雨は止まなかった。

音瀬は扉にもたれながら、うつらうつらしつつ、一晩を耐えた。

朝、大塚が来たとき、音瀬はまだ目を覚ましていなかった。ただ、眉間に皺を寄せ、浅い眠りの中にいた。

ここで一晩過ごしたのか?

女の子は体が弱いのに、風邪を引いていないか?

大塚は放っておけず、しゃがみ込み、一方の腕を彼女の脇の下に、もう一方の腕を膝の裏に回し、抱き上げようとした。

その瞬間、ドアが開いた。

湊斗の冷たい視線が、目の前の光景を捉える。自分の弟分が、妻を抱きかかえようとしているところだった。

空が裂けるように、雷鳴が轟いた。

だが、その雷鳴よりも恐ろしいのは、湊斗の表情だった。

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