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第5話

Author: 灯ちゃん
絵蓮は浅い眠りしかできず、すぐに目を覚ました。

男の襟元から匂うあの懐かしいコロンの香りが、彼の正体を告げた。

おじさん……?

どうして突然部屋に飛び込んできて、彼女にキスをするの?

体が震え、まだ状況を飲み込めないまま、衡稀が嗄れた声で、熱っぽい息を交えて囁いた。

「梓……」

その瞬間、彼女の体は氷のように硬直した。

そして漂う酒の匂いが、この状況をはっきりと告げていた。

衡稀は酔って、彼女を梓と取り違えたのだ。

その一瞬の隙を突かれ、彼の両手はだんだんと腰へと滑り降りてきた。

動揺した絵蓮は、腰に触れる手を押さえつけ、慌てて彼を突き放そうとした。

声には焦りが混じっていた。

「おじさん、違う、私は絵蓮だ!」

酔いが回っているのか、あるいは彼女の抵抗がかえって彼の支配欲を煽ったのか、キスはより激しくなり、柔らかな唇を深く含み、優しく噛み付いた。

絵蓮は息が詰まるほど苦しく、涙があふれてガーゼを濡らし、さらに傷口に沁みて激しい痛みを呼び起こした。

「おじさん、痛い……傷がすごく痛むのよ……」

彼女の叫びが効いたのか、衡稀はわずかに体を硬直させ、ようやく彼女の手を離した。

絵蓮はすぐに体を横に向けて逃げ、靴も履かずに慌ててリビングへ走った。

毛布にくるまり、夜明けまでどうにか眠りについた。

翌日の午後、目を開けると目の前に衡稀が、不気味な表情で座っていた。

昨夜の出来事が脳裏をよぎり、彼女は恐怖でソファの隅に縮こまった。

その様子を見た衡稀の瞳に、一瞬だけ冷たい光が走った。

「昨夜、お前が俺を自分の部屋に連れて行ったのか?」

質問に戸惑い、説明しようとした絵蓮に、彼は眉をひそめて続けた。

「二度とそんな真似をするな。さもなければ、出て行きなさい」

彼の揺るがぬ態度を前に、絵蓮は「おじさんが酔ってたんだ」という言葉を飲み込んだ。

以前、彼にこっそりキスをした過去があるから、今となっては、どんなに説明を尽くしても、彼が信じてくれるはずがない。

そう悟った彼女は、黙るしかなかった。

床に映った二人の影のうち、絵蓮は向かいの影が手を上げるのを見て、思わず顔を上げた。

衡稀の手は彼女の頭上でそっと止まり、撫でようとするようだった。

絵蓮は体が固まり、信じられない表情で瞳を見開いた。

幼い頃、家族のことで泣きじゃくり、どうしようもなく寂しいとき、衡稀はいつも優しく頭を撫でて慰めてくれた。

それは二人だけの暗黙の合図のようなものだった。

しかし、十七歳を過ぎてからは、ほとんど体の接触はなかった。

緊張で呼吸が止まりそうになった次の瞬間、衡稀は手を数センチ上げ、後ろの棚から赤ワインを取り出した。

どうやら、彼女の勘違いだったらしい。

絵蓮は苦笑した。

急いで売却したため、この前に出品した物や実家の古宅は、市場価格よりかなり安く売れてしまい、合計で十九億円余りだった。

目標額にはなお数千万円不足していた。

間もなく渡航する予定で、残された時間も少ない。

足りない分をすぐに用意するのは難しく、彼女は新人ながらも、数々の賞を受け、画家として知られていた。

そこで、個展を開いて作品を売ることにした。

一人で開催するのは難しく、衡稀に助けを求めた。

すると梓がそれを聞いて驚いた顔をし、にっこり笑いながら近づいてきた。

「私も個展の準備をしてるの。一緒にやらない?」

絵蓮は衡稀の顔を窺うと、彼が反対しなかったので承諾した。

五日後、二人の個展が同じ美術館で同時開催された。

梓は十年以上絵を学んでおり、大規模な個展は初めてだったため、衡稀は力を入れていた。

彼は数百平方メートルのメインホールを梓に割り当て、内装に細心の注意を払い、様々な宣伝を用意した。

その結果、初日の来場者数は美術館史上最高を記録し、社会的名士や著名な文化人が押し寄せた。

一方で、十数平方メートルの狭い部屋に百点近い作品をぎっしり詰め込まれた絵蓮の展示は不運だった。

人が動けないほどの混雑で、来場者はほとんどいなかった。

ましてや作品の販売なんて、夢のまた夢だった。

彼女は入口に立ち、遠くの賑やかな個展を見つめて、失望の色を隠せなかった。

数人の友人が慰めようとしたそのとき、部屋の中で突然叫び声が響いた。

「絵蓮、大変!」

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