けれど、彼が立つバルコニーは、まるで光と闇の境界線のようだ。男のすらりとしたシルエットが、薄暗い光の中に溶けている。彼が、心の底から真剣に問うていたことなど、誰一人知る由もなかった。-雫が会社に着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。L&Mデザインスタジオはフレックスタイム制を導入しているものの、年末が近づき、ボーナス査定の時期が迫ってくると、そうも言っていられない。社内は自然と慌ただしくなり、誰もが目に見えて必死になっていた。自分のデスクに着き、数日前から調子の悪いPCに目をやる。修理を依頼しているがまだ業者は来ておらず、雫は仕方なく鞄からタブレット端末を取り出した。コートを脱ぐ間もなく、すぐに定例会議が始まる。いつもの決まりきった流れで会議が終わり解散となったところで、上司の詩帆に呼び止められた。個人的な依頼で、礼服をデザインしてほしいという話だった。納期は、半月後。詩帆が提示した報酬は妥当な金額で、雫は頷いた。「わかったわ。詳しい要件は後で送っておく」会議室を出て、自分のデスクに戻り腰を下ろした、その二分後。スマートフォンが鳴った。藤堂行南からで、オフィスに顔を出すように、とのことだった。オフィスには、クライアントのブランド責任者が来ていた。来シーズンの新作デザインのコンセプトを固めるための打ち合わせだ。相手は中年男性で、雫の顔を見るなり、ぱっと目を輝かせた。打ち合わせが一段落すると、彼は雫に個人的なLINEを交換したいと言い出した。雫は一瞬、躊躇した。ブランドの担当者とデザイナーが直接連絡先を交換するのは、決して珍しいことではない。しかし雫は、この和久井(わくい)という男にどこか嫌悪感を覚えていた。人を見る目が、ねっとりと肌を嘗めるようなのだ。その時、すっと行南が立ち上がり、三人のグループチャットを作ることを提案した。何かあればそこでやり取りしましょう、と。雫は、感謝を込めて彼を一瞥した。雫にとって、行南は他の経営者とは一線を画す存在だった。彼の指示は常に明確で、部下を守ることを厭わず、無意味な忖度をさせるようなこともしない。それに、悪習とも言える職場での飲み会を強制するようなことも一切なかった。L&Mはまだ小さなスタジオだが、共同経営者である藤堂行南の名は大きい。上流階級
「まあ、なんてことを言うの。自分の弟に対して、そんな縁起でもない仮定をするものじゃありません」静華が何かを言いかける前に、悠美が言葉を続けた。「わかっているわよ。准さんの従弟、藤堂さんとこの行南くんでしょう。あそこのお祖父様は、たしかS大学の名誉教授だったはず。そんなお家柄が、そんなこと……到底、受け入れられるはずがないわ」結局、母の本心は探れなかった。静華は不安だけが募っていくのを感じながら、母を支えて外の小さな庭園へと歩き出す。二人でゆっくりと散歩をするためだ。母は、一見すると穏やかで、どこか少女のような無邪気さを持つ老婦人に見える。しかし、若い頃は父である洋治と共に、熾烈なビジネスの世界を渡り歩いてきた。その経験に裏打ちされた眼力は、並大抵のものではない。静華は、最後の望みを託して、もう一度食い下がった。「あくまで、もしもの話ですけど……」「もしも、だとしても許されません。そんなこと、私の前だけになさい。もしお父様が聞いたら……卒倒してしまいますよ。血圧が天まで昇ってしまうわ」-律は自宅のマンションに帰り着いた。ソファに寝そべっていたネモが、のそりと顔を上げ、億劫そうに主人を一瞥すると、またすぐに元の体勢に戻る。すっかり老犬になったものだ。昔のような、全身で喜びを表現するような熱烈な歓迎はない。ゴールデンレトリバーは本来、人懐っこい犬種のはずだ。ましてやネモは、ゴールデンとサモエドのミックスなのだから。まだ子犬だった頃は、律に散々厄介事を持ち込んだ。歯が生え変わる時期には、父である洋治がコレクションしていた古書をずたずたにかじって歯を研ぎ、あろうことかその書斎の至る所で粗相をするものだから、後始末が本当に大変だった。律がE国に渡って最初の二年間、この犬は実家で育てられていた。その後、兄の健人がE国に来る際、柏木家のプライベートジェットに乗せて、わざわざ連れてきてくれたのだ。今、そのネモは、律がそばに来ても瞼を少し持ち上げ、目をしばたたかせるだけだ。律は、食べかけで半分だけになった林檎をローテーブルに置いた。切り口は、すっかり酸化して茶色く変色している。ネモが、くんくんと鼻を寄せた。「食べるな」律が低く言う。ちっ、人間め。ケチなやつ。ネモはそう言いたげに林檎をぺろ
律の眉間が、ぴくりと痙攣した。彼は俯き、手の中の林檎を一口かじった。窓の外は漆黒の闇に包まれ、街灯と行き交う車のヘッドライトだけが、ぼんやりと滲んでいる。その光が、彼の顔を照らし出す。深く、そして冷たく。手の中の林檎は、その光を受けて、鮮やかな赤色を浮かび上がらせていた。杏は、一番大きくて、一番赤い林檎を彼にくれた。けれど、噛み締めるほどに、酸味だけが口の中に広がっていく。「母さんには言っといてくれ。来週も、再来週も空いてない。余計な心配はするな、って。母さんが紹介してきたどこぞの令嬢とやらに会うつもりはないから」静華は思った。今、緊急で対処すべきなのは、お見合いをするとかしないとか、そんな問題ではない。そうではなくて──自分の弟が。あの松崎市屈指の名家、柏木家の御曹司が。人の家庭に踏み込もうとしている、この一大事を。「律、あんたね、もしこのことがお父様やお母様の耳に入ったら、どれだけ大事になるか、わかってるの?」「知らないから問題ないだろ。それに、俺は何もしていない」男の声は、氷のように冷ややかだった。彼は手の中の林檎に視線を落とす。切り口は、空気に触れてじわりと茶色く変色し始めていた。「もしお父様やお母様が、あんたが人の家庭を壊そうとしてるなんて知ったら……お父様、あんたのこと勘当するわよ!」静華は思わず胸を押さえた。その言葉は、律の胸に鋭く突き刺さった。彼の眉間が、ぴくりと痙攣する。押し黙り、何も言い返せない。反論する言葉が、見つからなかった。「……縁起でもないこと言うなよ」これ以上話すのも億劫になり、律は一方的に通話を切った。静華はすぐさまかけ直そうとした。まだ話は終わっていない。だが、その時だった。背後から、母の悠美がぬっと姿を現した。「『人の家庭を壊す』ですって?」その声に、静華の心臓がどきりと跳ね上がった。弟の間違った考えをなんとか正し、思いとどまらせようとしていた矢先だった。振り返ると、そこに母が立っている。後ろめたいことがあると、静華はどうしてもうまく話せなくなる癖があった。「お、お母様……どうしてここに。……びっくりしたじゃないですか」「まだお返事いただいてないわよ。『人の家庭を壊す』って、一体誰のお話?」静華は、持
「うん」杏はぱちりと一度瞬きをした。「じゃあ、文也おじさんのことは?」「好きだよ」文也の母親はフミさんと懇意にしており、同じマンションの住人だ。フミさんが一人で家にいる時、シャワーが壊れたり、電球が切れたりすると、文也が時間を見つけては直しに来てくれていた。杏も、彼の顔は何度も見ている。だから、娘から同じような答えが返ってくるものだと、雫は思っていた。この年頃の子供は、大人ほど複雑な考え方はしないから。だが、違った。娘の顔に、一瞬、真剣に考え込むような色が浮かんだのだ。「文也おじさんも好き。でもね、柏木おじさんは、もっともっと好き」雫が黙り込んでいると、杏は続けた。「ママ、わたしのお誕生日の日、湊くんと柏木おじさんも呼んでいい?」杏の誕生日は、一週間後だ。雫は娘の髪を撫でながら、優しく諭す。「杏ちゃん。その日は土曜日だから、ひいおばあちゃまのお家に会いに行かないと」「……そっかぁ」杏は少しだけしょんぼりとした顔をしたが、すぐにぱっと表情を輝かせ、母親の胸に飛び込んだ。「じゃあ、ひいおばあちゃまに会えるんだね!お話ししたいこと、いーっぱいあるの。それにね、絵も描いたんだよ」-律はタクシーを拾って帰路についた。その途中、スマートフォンの画面を開き、LINEを起動する。姉の静華からメッセージが届いていた。どうして急にいなくなったのか、と。律は返信しなかった。返せるわけがなかった。雫の家に行ったことなど、どう説明すればいい。部屋に上がったはいいものの、ものの数分で、玄関に置かれた男物のスリッパや、あの子が描いた画用紙に気づいてしまった。パパとママ、そして自分、さらに犬が二匹。完璧な「家族」の絵がそこにあった。部屋の隅々まで、温かく幸せな空気が満ち満ちていた。差し出された林檎は、ひどく酸っぱく感じた。自分が完全に場違いな存在だと突きつけられ、居ても立ってもいられず、逃げるように飛び出してきた……なんてこと、言えるはずがない。律は静華個人には返事をしなかったが、家族のグループLINEには一言だけメッセージを送った。悠美が、律が詩帆との見合いを断ったのを知り、また新たな見合い相手をセッティングしてきたからだ。それに対して、ただ一言。「来週は忙しくて無理だ」とだけ打ち込ん
律はソファに腰を下ろした。小さな、しかし柔らかなソファだ。上にはベージュ色のカバーが掛けられている。リビングは広くない。けれど、隅々まで温かい生活感が漂っていた。窓辺には、いくつかの多肉植物の鉢。部屋には、清潔で心地よい香りが満ちていた。テーブルの上は少し散らかっている。杏のものらしい本や、描きかけの大きな画用紙、色とりどりの水彩ペン。杏は家に帰るとすぐにここにうつ伏せになり、熱心に絵を描いていた。律は、そんな女の子の姿をじっと見つめていた。杏が顔を上げる。「柏木おじさん、フルーツ食べる?」いらない、と律は言いかけた。だが、気づけば頷いていた。途端に、杏はぱっと立ち上がり、冷蔵庫へと駆け寄っていく。走るたびに、ポニーテールがぴょんぴょんと揺れる。その姿は、たまらなく愛らしい。冷蔵庫を開け、つま先立ちになった杏が「ママぁ」と呼ぶと、奥から出てきた雫が、彼女のために林檎を一つ取り出してやった。そうして律は、杏が差し出した林檎を受け取った。自分が今、束の間だけ感じているこの温もりも、すべては別の男が……日常的に享受しているものなのだ。彼はキッチンに立つ雫に目をやった。女は背を向けている。ポットの湯がしゅんしゅんと音を立てる中、雫はとん、とん、と軽く首を回した。脱ぎっぱなしの上着の下、青いブラウスが、淡いパールのような光沢を帯びて、しっとりと肌に馴染んでいる。うつむいた拍子に見えた白いうなじを、キッチンの黄色がかった照明が、優しく照らし出していた。律は林檎を一口かじる。瑞々しい甘さが広がるはずの真っ赤な果実が、なぜか、ひどく酸っぱく感じられた。彼は、唐突に立ち上がった。杏が驚いたように彼を見上げる。律はそのまま玄関へと向かい、ドアの向こうに姿を消した。「ママ、柏木おじさん、帰っちゃった」キッチンにいた雫にも、その声は聞こえていた。いや、律が出て行ったことも、ドアが閉まったことも、音で分かっていた。この家は、せいぜい3LDKぐらいしかないのだ。少し強い風が吹けば、その音さえ筒抜けになる。ましてや、人が出て行き、ドアが閉まる音なら、なおさらのことだった。雫が湯を沸かし始めて、わずか四分。ポットがカチリと音を立てるのと、彼が出て行ったのは、ほぼ同時だ
このマンションで、雫と昭彦の結婚が偽装であり、約束に基づいた離婚であることを知る者は少ない。そもそも、胸を張って吹聴できるような話でもない。特に年配の人々には、到底理解されないだろう。それに、聞く耳を持たない相手に、どれだけ言葉を尽くしたところで無駄だ。六十、七十を過ぎた老婆たちに事情を説明したところで、信じてもらえるはずもなかった。だから雫は、ただ自分の生活を穏やかに過ごすことだけを考え、耳障りな言葉は聞かないように、そう心に決めてきたのだ。ようやく自宅のドアの前に着くと、杏が不意に雫に向かってにこりと笑った。さっきのやりとりが、何か楽しいゲームのように感じられたらしい。この子の、どこまでも純粋で汚れない世界の中では、ママが柏木おじさんの背中を押して歩く姿は、ただのじゃれ合いにしか見えないのだ。雫もつられてふっと笑みをこぼし、指先で娘の鼻をちょんとつついた。「さあ、もう降りようね」娘の前では、いつだって無限の力が湧いてくるような気がした。どんな嫌なことも、すべて吹き飛ばせるような。律が杏を床に降ろしてやる。六階分の階段を上ってきたというのに、彼は顔色一つ変えず、息もまったく乱れていない。雫は玄関で靴を脱ぎ、ドアを開けて中へと入った。律は、ドアの外に立ったままだ。その平静を保っていたはずの顔から、すっと血の気が引いた。彼の視線は、下駄箱の上に置かれた一足の男性用スリッパに釘付けになっていた。黒い、26センチのスリッパ。律の足のサイズは26.5センチだ。どちらにせよ、合わない。しかもそれは新品ではなく、明らかに使い込まれた跡があった。玄関の小さな四段の下駄箱には、女性用と子供用の靴に交じって、他にも二足、男物の靴が収まっている。そのすべてが、律に一つの事実を、有無を言わさず突きつけていた。この女は、結婚しているのだと。このスリッパは、彼女の「夫」のものなのだと。その男物のスリッパを睨みつけながら、律は、まるで目に見えない何かに、思い切り頬を張られたような衝撃を感じていた。打ちのめされたのは、道義に反した、己の馬鹿げた欲望そのものだ。さっきまで、この腕の中で、杏は彼の首にしっかりと抱きついていた。すべすべの頬が時折彼の顔をかすめ、その寝息はまるで、おとなしい子猫のよう