霧の中、君という雫

霧の中、君という雫

By:  若月 舟Updated just now
Language: Japanese
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霧島雫(きりしま しずく)が娘を連れて訪れた病院。そこにいた主治医は、長年離れ離れになっていた元恋人だった。 七年の時を経て、彼女は名前も変え、かつて太っていた面影などどこにもないほど、痩せて美しくなっていた。 彼が自分に気づくことはない。ましてや、自分との間に生まれた娘がいることなど、知る由もない。 娘が彼女の手を握る。「ママ、どうして泣いてるの?」 雫は答えられず、ただこの場から逃げ出したかった。 少女時代の片想いの末、彼女はあの「高嶺の花」を手に入れた。 S大学に衝撃のゴシップが広まった。学園の王子様と名高い柏木律(かしわぎ りつ)。品行方正で雪のようにクールな彼が、秘密の恋をしているという。そして、その相手が、なんと太った冴えない女子生徒だというのだ。 彼女はたちまち、嘲笑と嫉妬の的になった。 そんな中、耳にしたのは聞き覚えのある、冷たく掠れた声。 「遊びだよ。どうせすぐ海外に行くし」 その言葉を最後に、雫の苦い恋は終わりを告げた。 彼との再会は、雫の平穏な日常を打ち壊す。 必死に彼との世界に線を引こうとするのに、気づけば彼のベッドの上にいて…… 脅し、誘惑し、仮病を使い、甘え、ときには恥も外聞もなく、彼は彼女の周りにいる男たちを次々と追い払っていく。 「じゃあ、俺がお前の愛人になってやるよ。あいつより金もあって、若くて、もっといい思いをさせてやれる」 七年前に秘密の恋を強いたのも彼。 七年後に愛人にしてと乞うのも、また彼だった。 彼女が「病気よ」と罵ると、彼は「ああ、本当に病気なんだ」と呟いた。

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Chapter 1

第1話

まさか、柏木律(かしわぎ りつ)と再会するなんて、夢にも思っていなかった。

その日、霧島雫(きりしま しずく)は六歳になる娘を連れて、病院へ診察に訪れていた。

娘は心臓に先天性の疾患を抱えており、定期的な検診が欠かせなかったのだ。

だが、診察室のドアを押し開けた瞬間、雫はその場で凍りついた。

デスクの向こうに、男が腰かけている。パソコンの画面を見つめるそのすっと通った鼻筋には、フレームレスの眼鏡がかかっていた。

雪のように真っ白な白衣も相まって、その佇まいはどこか冷ややで、近寄りがたい空気を放っている。

品格と、理知的な冷やかさを感じさせる男。

雫の顔から、さっと血の気が引いていく。

今日予約していたのは、専門医である堂島主任のはずだった。しかし、主任が急患の対応で不在となり、看護師の案内に従って別の医師に診てもらうことになったのだ。

「代わりの柏木先生は海外で博士号を取得したエリートで、堂島主任の一番弟子なんですよ。心臓外科の第八診察室です」

看護師の説明が、頭の中で木霊する。

今、雫は入口に立ち尽くしたまま、硬直している。細い指がドアノブを強く握りしめ、慌てて俯きながらマスクを深くつけ直した。

頭をよぎったのは、たった一つの考え。

――娘を連れて、今すぐここから立ち去りたい。

七年。

彼は、いったいいつの間に東和国へ……?

雫の日常は、穏やかだった。律と再会する日が来るなんて、想像すらしたことがなかった。

まるで全身が砕け散ってしまいそうな衝撃に、どう反応すればいいのか、まったく分からない。

雫は、本能的に隣に立つ娘の手を握っていた。

じっとりと汗ばむ手のひらとは裏腹に、緊張で背筋が微かに震える。

その時、低く、しかし明瞭な男の声が響いた。

「どうぞ」

声と共に、律が顔を上げる。その視線が、入口に立つ雫へと向けられた。

レンズの奥の瞳には、淡い隔意が宿っている。

視線が絡んだ瞬間、雫の呼吸が乱れた。

二十八歳になった彼の姿に、白いシャツを着ていた二十一歳の頃の面影が重なっては、また剥がれていく。かつてS大学の「高嶺の花」と謳われた青年――

――その彼が、九十キロ近くもある冴えない女と、人目を忍んで付き合っていたのだ。

雫は平静を装って律の視線を受け止め、ぎり、と奥歯を噛みしめる。娘の手を引いて踵を返そうとした身体は、その場に縫い付けられたように動かなかった。

律の漆黒の瞳は静かで、感情を読み取らせない。指先が、とん、とデスクを軽く叩いた。

「霧島杏(きりしま あん)さんですね。カルテを拝見します」

雫はなんとか平静を装ったものの、顔色は青白いままだ。思わず触れたマスクの感触が、辛うじて彼女の理性を繋ぎとめていた。

束の間の、偽りの平穏。

彼は、自分に気づいていない。

今の自分は霧島雫。七年前の青木遥(あおき はるか)ではないのだから。

かつての、あの太った少女ではない。今の自分は身長170センチで、体重は50キロそこそこ。まるで別人なのだ。

娘の杏が椅子にちょこんと座り、律に聴診器をあてられる。

距離が縮まり、雫の目に彼の姿が映った。ふわりと漂う、ひんやりとした彼の匂い。それは懐かしいようで、ひどく知らないものでもあるようで――胸の奥に広がるそれに、雫は思わず娘の華奢な肩をぐっと押さえた。

視線の端に、律の横顔が映る。

フレームレスの眼鏡。彼が纏う冷たい空気。

白衣の下に着た白いシャツは、一目で上質だとわかるものだった。彼は杏の胸に聴診器をあてながら、真剣な表情で時おり眉をひそめる。やがて、雫に向かって口を開いた。

「日常生活でも注意を払ってください。可能であれば、この二、三年以内には手術の準備を。費用については、ご存知かと思いますが」

律は目の前の女に視線を移した。腕にかけられた黒いレザーのバッグは、持ち手の部分が擦れて剥げかけている。足元は白いキャンバス地のスニーカー、そして色褪せたジーンズ。質素な身なりを見るに、高額な手術費用を捻出するのは容易ではないだろう。

病院では、ありふれた光景だ。

だが今日、律はなぜかこの女から目が離せなかった。

痩せていて、背が高い。肌は透けるように白い。マスクで顔のほとんどは隠れているが、低めに結んだポニーテールから、若々しい印象を受ける。しかし、娘はもう六歳だという。

すっと伸びた首筋に、数本の黒髪が柔らかくかかっている様は、どこか儚げだ。

女は伏し目がちで、律と視線を合わせようとはしない。

娘の後ろに、まるで彫像のように、あるいは守護者のように、ただ静かに佇んでいる。

大きなマスクが顔の半分以上を覆い、見えるのは憂いを帯びた瞳だけだった。

入室してからというもの、女はほとんど口を開かなかった。律はわずかに眉をひそめる。堂島主任の予約だったのに、自分のような若い医師が出てきて不満なのだろうか。そう思い至り、彼は言った。

「もし私の診断にご不満でしたら、小児科に回すことも可能ですが。今なら小児科の香坂先生もいらっしゃるはずです。あるいは、そちらでセカンドオピニオンを聞いてみますか」

女は黙ってこくりと頷いた。前髪が、その目元にかかって表情を隠している。

「……失礼します」

そう小さく呟くと、デスクの上に広げていたファイルを素早くまとめ、女の子の手を引いて診察室を出ていった。

律は去っていく彼女の後ろ姿を見つめ、眉間の皺をわずかに深くした。雫が完全に立ち去ったのを見届けると、彼は鼻筋の眼鏡をくいと押し上げ、仕事に戻った。

続けて二人ほど患者を診察する。

律は数分間の短い休憩を取り、ポットでお湯を沸かしていると、高校時代のクラス委員長だった長谷川拓也(はせがわ たくや)から電話がかかってきた。

「今月の二十日、三組のクラス会があるんだ。クラスのグループLINEで連絡したんだけど、松崎市にいる奴は全員参加だってさ。お前、ここ数年海外だったろ。今年せっかく帰国したんだから、絶対に来いよな」

「ああ」律は応える。「その時になってみないと分からんな。まだシフト表も出てないし」

「相変わらず忙しい奴だなあ。うちのクラス会、毎回毎回欠席してるのお前と青木遥だけだぞ」拓也は遥の名前を出すと、堰を切ったように話し始めた。「青木遥、覚えてるか。ほら、クラスで一番太ってた女子だよ。大学卒業してから、マジで蒸発したみたいに連絡つかなくてさ。なあ、お前覚えてるか」

「おい、おい、柏木、聞いてるか。

あれ、なんで黙ってんだよ。

電波悪いのかな。声が聞こえないぞ」

デスクの上の電気ポットが、ぐつぐつと沸騰する音を立てている。やがて熱湯が注ぎ口から溢れ出し、そばに置いてあった数枚の書類をじわりと濡らした。

椅子に腰かけたまま、律は身じろぎ一つしない。電話を耳にあてた姿勢のまま、その整った顔は静謐を保っている。だが、レンズの奥の瞳だけが、激しく揺れ動いていた。

廊下を通りかかった看護師が、慌てて診察室に入ってくる。「きゃっ、お湯がこぼれてますよ。柏木先生、大丈夫ですか」

律ははっと我に返った。

彼は立ち上がったが、看護師の言葉には応えず、数歩で窓辺まで歩み寄る。携帯を握る指の関節が、白く強張っていた。

「……彼女、一度もクラス会に参加してないのか」

その声は平坦だったが、瞳の色は一層深みを増している。

「誰だよ。そっち、やっぱ電波悪いのか」と拓也が重ねて尋ねる。「ああ、青木遥のことか。彼女なら一度も来てないよ。連絡がつかないんだ」

その後も拓也が何か話していたが、律の耳にはもう入っていなかった。

若い看護師は顔を赤らめながら彼のデスクを片付け、何か話しかけようとしたが、律が心ここにあらずといった様子で、会話どころではないのを察し、静かに診察室を後にした。

律は、まるで自分の世界に閉じこもっているかのようだった。

午前中の予約はあと三人残っていたが、とても仕事に集中できる状態ではない。なんとか無理やり意識を切り替え、ようやく午前の仕事を終えた。

彼はデスクの引き出しを開ける。中には、青いビロードの細長い箱がひとつ。蓋を開けると、黒い万年筆が収められていた。

先日落としてしまった一本だ。もう六、七年は使っているせいで使用感は顕著で、黒い軸の塗装もところどころ剥げている。

落とした衝撃でインク漏れがひどくなり、修理に出したばかりだった。今はもう使わず、引き出しの奥に大切にしまってある。

律は眉間を強く揉んだ。ひどい疲労感と倦怠感が、ずしりと身体にのしかかる。

-

雫は娘を連れて、バスに揺られていた。

頭の中では、様々な思いが駆け巡る。七年前の、あのパーティーの夜が、不意に蘇ってきた。

あれは、律の誕生日だった。

あの頃の遥も、今と同じように、高鳴る胸をおさえて個室のドアの前に立っていた。

中から聞こえてくる、耳障りな馬鹿騒ぎ。

「うわ、律の首元なんだよそれ!キスマークじゃねえか!まさか、あのデブとヤったのかよ」

「マジかよ律、あの太った子が本当に彼女なのか」

「何言ってんだよ、電気消しゃ同じだろ、がははは」

「律、お前本気なのかよ。大学の掲示板でその噂見たとき、マジでびびったんだけど。本当に付き合ってんのか」

「どうせあのデブが、詩織の件で脅したんだろ。じゃなきゃ律が、あんな豚みてえな女と付き合うわけねえよな」

そして聞こえてきたのは、律の声。

あの年の遥は、彼の声を一生忘れることはないだろう。

男の声があまりに魅力的で、特別だったせいか、騒がしいカラオケの音楽も、自分を嘲笑う声も、彼の言葉をかき消すことはできなかった。

「ああ、遊びだよ。どうせ来月には留学するし」

個室のドアの外で、遥は立ち尽くしていた。瞳がじわりと赤く染まり、心臓が窒息しそうなほど痛んだ。

律は誰もが知る名家の生まれで、その家柄はあまりに別世界だった。雫も、彼との未来など一度も望んだことはなかった。彼がいずれ留学することも知っていたし、二十一歳の誕生日を祝ったら、この関係には終止符を打つと、そう決めていたのだ。

ちゃんとした終わりもないまま、淡い恋は、冷たい言葉の中で儚く灰と化した。

彼に贈るはずだったプレゼント。一本の黒い万年筆。

二ヶ月間、必死にアルバイトをして貯めた四万円で買った、大切な贈り物。

それが、彼の友人たちの嘲笑に晒される。

「どこで拾ってきたんだよ、この安物。まさかあのデブからか。律、お前こんな万年筆使うのかよ」

「律がこんな三流ブランド持ったら、格が下がるぜ」

「ママ――」

ふいに、娘の杏が雫の手を掴んで、軽く揺さぶった。

雫は息の詰まるような記憶の中から、はっと我に返る。そして、ぎゅっと娘を抱きしめた。

腕の中にいる、律にどこか似たこの顔。杏が成長するにつれて、その目元はますます彼に似てきている気がする。

「ママ、今日、わたしを診てくれたお医者さん……パパなの?」
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第1話
まさか、柏木律(かしわぎ りつ)と再会するなんて、夢にも思っていなかった。その日、霧島雫(きりしま しずく)は六歳になる娘を連れて、病院へ診察に訪れていた。娘は心臓に先天性の疾患を抱えており、定期的な検診が欠かせなかったのだ。だが、診察室のドアを押し開けた瞬間、雫はその場で凍りついた。デスクの向こうに、男が腰かけている。パソコンの画面を見つめるそのすっと通った鼻筋には、フレームレスの眼鏡がかかっていた。雪のように真っ白な白衣も相まって、その佇まいはどこか冷ややで、近寄りがたい空気を放っている。品格と、理知的な冷やかさを感じさせる男。雫の顔から、さっと血の気が引いていく。今日予約していたのは、専門医である堂島主任のはずだった。しかし、主任が急患の対応で不在となり、看護師の案内に従って別の医師に診てもらうことになったのだ。「代わりの柏木先生は海外で博士号を取得したエリートで、堂島主任の一番弟子なんですよ。心臓外科の第八診察室です」看護師の説明が、頭の中で木霊する。今、雫は入口に立ち尽くしたまま、硬直している。細い指がドアノブを強く握りしめ、慌てて俯きながらマスクを深くつけ直した。頭をよぎったのは、たった一つの考え。――娘を連れて、今すぐここから立ち去りたい。七年。彼は、いったいいつの間に東和国へ……?雫の日常は、穏やかだった。律と再会する日が来るなんて、想像すらしたことがなかった。まるで全身が砕け散ってしまいそうな衝撃に、どう反応すればいいのか、まったく分からない。雫は、本能的に隣に立つ娘の手を握っていた。じっとりと汗ばむ手のひらとは裏腹に、緊張で背筋が微かに震える。その時、低く、しかし明瞭な男の声が響いた。「どうぞ」声と共に、律が顔を上げる。その視線が、入口に立つ雫へと向けられた。レンズの奥の瞳には、淡い隔意が宿っている。視線が絡んだ瞬間、雫の呼吸が乱れた。二十八歳になった彼の姿に、白いシャツを着ていた二十一歳の頃の面影が重なっては、また剥がれていく。かつてS大学の「高嶺の花」と謳われた青年――――その彼が、九十キロ近くもある冴えない女と、人目を忍んで付き合っていたのだ。雫は平静を装って律の視線を受け止め、ぎり、と奥歯を噛みしめる。娘の手を引いて踵を返そうとした
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第2話
娘がそんなことを言いだすなんて、思ってもみなかった。その真っ直ぐで、透き通った瞳を見つめる。雫は、言葉を失った。長年の闘病生活のせいで、娘の身体は同年代の子よりもずっと小さい。けれど、杏はもう六歳なのだと、雫は不意に思い知らされた。父親がいないという現実に、杏は人一倍敏感だった。「パパは遠い所へ行っちゃったの」という雫の優しい嘘が、娘の成長と共に、もう通用しなくなりつつある。雫の部屋の引き出しには、律と一緒に撮った写真がしまってある。杏は、それを見たことがあったのだ。それにしても、あんなに小さかった娘が、今でもその写真を覚えているなんて。あれは高校時代、律と一緒に撮った写真。クラスで三位以内に入った生徒の記念写真で、雫はもう一人を切り取ってしまっていた。この街で、娘を連れて、律と再会する未来が来るなんて、あの頃の雫は想像すらしていなかった。不意に、バスが急ブレーキをかける。前のめりになった雫は、とっさに腕の中の娘を庇い、数秒間呆然とした後、かろうじて言葉を絞り出した。「……違うわ」「でも、あのお医者さん、写真のパパにそっくりだったよ」雫は一瞬言葉に詰まり、そして呟いた。「……ただ、似てるだけよ」家に着く。雫は階下に住む佐藤フミ(さとう ふみ)さんの部屋のドアを叩いた。フミさんはこの界隈ではちょっとした有名人で、少し風変わりな一人暮らしのお婆さんだ。事の始まりは二年前。雫が娘の杏を幼稚園に入れようとしたものの、手続きがうまくいかずに困り果てていた時、偶然にもフミさんの一人息子である佐藤昭彦(さとう あきひこ)と知り合ったのだ。当時、昭彦の父親は重病で、もう先は長くない状態だった。彼は父に「息子の嫁」を一目見せてやりたいという最後の願いを叶えるため、形だけの結婚をして、すぐに離婚してくれる相手を探していた。会社の人事異動で海外赴任が決まっていた昭彦と、娘の就学のために戸籍が必要だった雫。二人の利害は一致した。昭彦の父親に会うと、お爺さんはその日の夜、安らかに息を引き取った。フミさんは、息子がそんな性急な結婚と離婚をしたことにカンカンだったが、それもまた亡き夫を思っての息子の親孝行だと理解はしていた。離婚届を出すとすぐに昭彦は海外へ発ち、この家にはフミさんが一人残された。女手一つで娘を
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第3話
夜十時。雫はベッドに横たわりながら、スマートフォンの隅に追いやっていた昔のチャットアプリを開いた。クラスの委員長だった長谷川拓也から、いくつかメッセージが届いている。【青木、来週「晩風」で同窓会やるんだけどさ、詳しいことはクラスのグループに流してある。あと連絡ついてないのお前だけなんだけど、来れそうか?】【メッセージ送っても返信ねーし、心配してんだよ。青木、もし今なんか大変なことがあるんだったら、俺ら昔のダチに言ってこいよ。力になれることなら、何でもするからさ】クラスのグループ……雫は、ひっきりなしに更新されていくトークルームをぼんやりと眺めた。本当は、とっくに抜けてしまいたかった。だけど、クラス全員が揃った四十八人のグループだ。今さら自分が理由もなく抜けでもしたら、かえって悪目立ちしてしまうだろう。もっとも、このアプリ自体、ほとんど開くこともないのだけれど。トーク履歴を少し上にスクロールしてみる。予想通り、誰も彼女の名前には触れていなかった。学生だった頃から、雫は教室の中で空気のような存在だった。けれど、それは決して無視できない、厄介な空気だった。なにせ、彼女はひどく太っていたから。当時の雫は、必死に気配を殺して空気になろうと努めていたというのに、彼女を揶揄する声はいつもすぐ側にあった。デブ、ブタ、ドラム缶。何をするでもなく、ただ廊下を歩くだけで、ひそひそと嘲笑が追いかけてくる。中学の頃は、別に太ってなんかいなかった。病気の治療で使っていた、ステロイドの副作用だったのに……対照的に、柏木律の名前は、グループ内で一番多く目に付いた。彼はいつだって、どこにいたって、輪の中心にいる人だった。彼を彩る言葉は、いつも煌びやかだ。神に愛された才能、誰もが振り返る容姿、そして、生まれ持った富と権力。自分とは、まるで正反対の世界にいる人。雫は、律のアイコンをタップしてみた。彼も、このアプリはほとんど使っていないのだろう。プロフィール写真は、ずいぶん昔のままで更新されていない。-あっという間に、次の土曜日がやってきた。慌ただしい一週間が過ぎ、結局、クライアントである「綾衣-AYAGINU-」の担当者は、雫が最初に提出したデザイン案を採択した。契約は無事に結ばれ、入金も驚くほどスムーズだった。詩帆の指
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第4話
個室の眩しいほどの照明が、律の顔を真正面から照らし出していた。その表情は、まるで彫像のように動かない。指に挟んだ煙草の赤い先端が、じりじりと皮膚を焼いている。熱も、痛みも、まるで感じていないようだった。ふと、肉が焦げる匂いがした。……自分自身の指から立ち上る匂いだ。それでも、彼の神経は麻痺したままだった。律は勢いよく立ち上がると、床に落ちていたジャケットを無言で拾い上げる。その横顔は相変わらず静かで無表情だったが、瞳の奥ではどす黒い感情が渦巻いていた。「病院から急ぎの用だ。これで失礼する」男は早口にそう告げると、嵐のように部屋を出て行った。もう一秒たりとも、この場所にいたくない、とでも言うように。拓也が慌てて後を追ったが、あっという間に彼の姿は見えなくなっていた。仕方なく個室へと引き返す。その時、今までずっと黙っていた一人の女子生徒が、ためらいがちに口を開いた。その声は囁くように小さかったが、個室の喧騒を一瞬で静寂に変える力を持っていた。「ねぇ、みんな噂、聞いたことない?」「噂って、なんだよ」「青木さんと柏木くん、同じS大だったでしょ。大学の時、三年間、内緒で付き合ってたんだって」その一言に、その場にいた誰もが息を呑んだ。中でも、雅が甲高い声で叫んだ。「モナ、何バカなこと言ってるのよ!青木さんよ?あのブサイクなデブよ?柏木くんが見境ないわけないじゃない!あんた、寝ぼけてるんじゃないの?」「そうだよモナ、記憶違いじゃないのか……もし青木さんが柏木くんを落とせるんだったら……今頃あたしが柏木夫人になってるっつーの」すると、一人の男子生徒が、ぽつりと反論した。「いや、そこまで言うのはどうかな。青木さん、確かに太ってはいたけど、ブスってわけじゃなかっただろ。色も白かったし、話し方もおっとりしててさ」原田モナ(はらだ もな)はこくりと頷く。彼女自身、最初にその話を聞いた時は耳を疑ったのだ。「本当だってば。私のお姉ちゃん、S大だったから……あの話、S大じゃ結構有名だったんだよ。冴えないデブな女の子と、高嶺の花だった柏木くんが、三年間も秘密で付き合ってたって。信じられないなら、直接柏木くんに聞いてみなよ」しかし、律本人にそんなことを聞ける勇者がいるはずもない。誰もが馬鹿げた話だと思いながらも、さも見て
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第5話
そして、こう続けた。「先に部屋に戻ります」そう言い残して席を立つ律の後ろ姿を、悠美は胸を押さえながら見送るしかなかった。洋治が、深いため息をつく。「あの頑固なところは、まったく君にそっくりだ。もうすぐ三十だというのに……同い歳の連中は、とっくに政略結婚を済ませて、子供だっている。それなのにあいつは、来る日も来る日も病院のことばかりだ」「あら、私に似てどこが悪いの」悠美は夫をきつい目つきで睨みつけた。「今夜は書斎で寝てちょうだい。私ももう部屋に戻るから」悠美が階段を上り始めた、ちょうどその時。入れ違いに、すでに私服に着替えた律が階下へと降りてきた。「母さん、病院から緊急オペの連絡です。すぐ行きます」悠美が何かを言う間もなく、彼の姿は玄関の向こうへと消えていた。ダイニングに残されていた洋治が、バンッと激しくテーブルを叩く。「見たか、あれがお前の育てた息子だぞ!四六時中、頭の中は病院のことばかり。家に帰ってきて、まだ一時間も経っていないだろう。挨拶もそこそこに、また出ていく。こんな男の元へ、どこのお嬢様が嫁に来てくれるというんだ!」「何をそんなに大声を出すのよ……」悠美は耳に指を当て、やれやれといった風に首を振る。「そうよ、私の息子だわ。あなたには関係ないって言いたいの?……律は、ただ患者さんに対して、責任を果たしているだけじゃないの」-律が病院から帰宅したのは、深夜十一時半を回っていた。クリーム色の毛並みをしたゴールデンレトリバーが、のっそりと彼に駆け寄り、足元に体をすり寄せる。律は、その大きな頭をそっと撫でてやった。水を一杯飲むと、そのまま書斎へと向かう。今朝、急いで家を出た際に窓を閉め忘れたのだろう。夜風が入り込み、机の上に積まれていた本や資料が床に散らばっていた。男は腰をかがめ、一枚ずつ丁寧に拾い上げていく。そのほとんどが、彼が最近になって調べ始めた症例に関する論文やカルテの写しだった。腹部が異常に膨張する原因は、数多く存在する。資料に目を通しているうちに、ずきずきと目の奥が痛み始めた。律は眼鏡を外し、指で鼻筋を強く押さえてみる。だが、疲労は一向に和らがない。ふと、スマートフォンの通知に目が留まった。拓也から、今日の昼前にメッセージが届いたままになっている。【万理華に聞いてみた。あいつ、隣のク
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第6話
ふと、律は足元に転がっていた何かを踏みつけた。視線を落とすと、それは淡いピンク色をした、丸っこいうさぎのぬいぐるみだった。長い耳を持ち、背中にはなぜか蜂のような小さな羽が生えている。このぬいぐるみを、遥がひどく気に入っていたことを律は覚えていた。「突然変異か何かか?不格好だな。ブサイクなくせに、羽まで生えてやがる」彼女が本気で欲しがっているのを分かった上で、わざと意地悪を言ったのだ。からかいたかった。案の定、遥はむすっと黙り込み、じろりと自分を睨みつけた。あれは、映画館に併設されたゲームコーナーのクレーンゲームで、律が取ったものだった。遥がどうしても欲しいと、彼の腕にまとわりついて甘えてきたのだ。——まさか、こんなガラクタまで送り返してくるとは。その夜、律は怒りに任せて彼女に電話をかけた。しかし、聞こえてきたのは「現在使われておりません」という無機質なアナウンスだけだった。彼女は、全てを綺麗さっぱり清算し、一円の金も受け取らず、そして、跡形もなく消えた。この七年間、律は遥の消息を一切耳にしていない。ただ、大学も突然休学し、そのまま姿を消したということだけを、風の噂に聞いた。医学部の勉強は人のやることではないと思うほど過酷だったし、ちょうどその頃、長兄の健人が実家の会社を継ぐことが決まった。兄弟間の無用な争いを避けるため、律は自ら相続権を放棄した。そんなこともあり、しばらく東和国に帰る気にはなれなかった。いつからだったか、遥は律の心に刺さった一本の棘になっていた。それが正確にいつ自分の胸に突き刺さったのか、律自身にももう分からない。その存在がひどく忌々しいのに、彼はいつしか、その棘がそこにあることを受け入れてしまっていた。普段は何ともない。だが、それは何の予兆もなく、不意に痛み出す。まるで突然訪れた梅雨のように、じっとりと重い空気が胸を塞ぎ、呼吸さえ苦しくなるのだ。-午後の診察へ向かう途中、律は車を走らせていた。その時だった。不意に車の前へ小さな人影が飛び出してきたのは。律はとっさに急ブレーキを踏み込んだ。慌てて車を降りて駆け寄ると、地面にへたり込んでいる女の子の姿があった。大きな黒い瞳にはまだ怯えの色が残っており、腕の中には小さな仔犬を固く抱きしめている。「君、大丈夫か。どこか痛むと
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第7話
雫は何も言わず、娘の手を固く握りしめて歩き出す。杏は、そんな母の心中も知らず、振り返って律に小さな手を振っていた。すれ違いに、同僚の医師がにやにやしながら律の隣に並ぶ。「先生、親戚の子?いやあ、しかしあの子、先生にそっくりじゃないですか。一家揃って美形なんですねえ」「……似てるか?」律は眉をひそめた。視線を上げた時には、雫と杏の姿はもう遠ざかっていた。もし本当に、自分にあんなに大きな娘がいたら。母親の悠美が聞いたら、狂喜乱舞するだろうな。——あり得ない話だ。だが、あの子は確かに愛嬌のある顔立ちをしていた。そう思考を打ち消しながらも、律は杏の姿を思い出し、胸の内に奇妙な温かさが灯るのを感じていた。-帰り道。「ママ、ポテト、まだあの先生の車の中だよ」「ポテト?」雫は、娘が車道から助け出したあのクリーム色の子犬のことだ、とはっと思い出す。先ほどの危険な光景が脳裏に蘇り、彼女は表情を改めた。「杏ちゃん、もう二度とあんな危ないことはしちゃ駄目よ」「わかってる。でも、あの先生の車、そんなに速くなかったもん。ぶつかったんじゃなくて、びっくりして自分で転んじゃっただけだもん」「それでも駄目」雫は娘の髪を優しく撫でた。手のひらに伝わるこの確かな温もりだけが、先ほどの光景で凍りついた心を、そっと溶かしてくれるようだった。この子の無事こそが、名前も過去も捨てた今の自分を支える、たった一つの祈りなのだから。「でもママ、ポテト、パパにそっくりな先生の車の中だよ」「杏ちゃん、いいこと?あの先生がパパに似てるなんて、他の人に言っちゃ絶対に駄目だからね。そんなこと言われたら……あの先生も、嫌な気持ちになっちゃうでしょ。その……人の気持ちは、ちゃんと考えてあげないと」胸が騒ぎ、自分でも何を言っているのか分からないほど、言葉がしどろもどろになる。幸いにも、杏は素直にこくりと頷いた。雫は、そっと娘を抱きしめた。固く結ばれた毛糸玉のように、解こうとすればするほど、嘘は複雑に絡まっていくだけだった。今さら律の元へ子犬を返してもらいに行くなど、雫にできるはずもなかった。それに、今住んでいるフミさんの家は古い集合住宅だ。犬を飼えば、鳴き声で近所迷惑になるのは目に見えている。律が犬を嫌っているとは思わないが、かといって、彼がこ
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第8話
リビングに戻ると、杏はもう眠くて目も開けられない様子だった。雫は娘を抱き上げて部屋に運び、その小さな背中を優しく叩いてやる。腕の中に、ピンクのうさぎのぬいぐるみをそっと入れてあげた。それから娘の通園バッグの準備をしながら、先ほど一緒に描いた画用紙に目をやった。クリーム色の子犬の絵。雫は、小さくため息をついた。明日、ペットショップを覗いてみよう。そう、心に決めた。-律はスマートフォンをベッドサイドのテーブルに放り投げると、首にかけていたグレーのタオルで、濡れた髪をがしがしと乱暴に拭いた。隣に立っていた静華が、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。「女の患者さん?声、すっごく若かったわよね。きっと綺麗な人よ、声で分かるもん。独身かしら?もうちょっと優しく話してあげなさいよ。……ねえ、このチビちゃんは、その人の犬なの?」「……静華。いつからそんなにお喋りになったんだ」律は声を低くし、瞼をわずかに伏せながら、姉の名前を呼んだ。「あらやだ、あなたのことを心配してあげてるんじゃない」律の薄い唇の端が、微かに吊り上がる。タオルをソファに投げ捨てると、少し癖のある黒髪がふわりと揺れて、額にかかった。「姉さんの目はレントゲンか?電話越しに声を聞いただけで、相手の顔まで分かるとはな。柏木グループにいるには惜しい人材だ。特殊能力開発センターにでも行ったらどうだ。その『超能力』を活かせるぞ」「やっぱり、美人だったんでしょ」静華は、待ってましたとばかりに目を輝かせた。「ブスだ」律は素っ気なく一言だけ吐き捨てると、ソファに腰を下ろし、ノートパソコンを開いてカルテを閲覧し始めた。視線は画面に釘付けのままだ。「……ドアを閉めていけ」「ふーん、じゃあ絶対美人ね」静華はこの弟の性格を熟知している。こういう時の言葉は、裏を返せばいいのだ。律の隣に数歩で駆け寄ると、その隣にちょこんと腰を下ろし、根掘り葉掘り聞き始めた。「霧島雫さん、かあ。素敵な名前じゃない。写真ないの?お姉ちゃんに見せてよ」「静華。いつから母さんみたいに、そんなに口うるさくなった」律はパソコンから顔を上げず、細く長い指で宙を指した。「娘がいる。もうこれくらいの背丈だ。先天性の心疾患で、俺の外来にかかってる」「……結婚してるの?」静華は呆気に取られた。「なーんだ、本当にただの患者さ
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第9話
そうだ、と雫は思い出す。あの日から、もう一週間が経っていた。忙しいから犬の件は来週に、と彼は言っていた。数日前、雫は階下に住むフミさんに、子犬を飼おうか迷っていると相談していた。フミさんは二つ返事で賛成してくれた。雫の部屋の屋根裏にはルーフバルコニーがあり、犬が遊ぶスペースには困らない。それに、雫が仕事で忙しい時、犬が杏の良い遊び相手になってくれるだろう、と。この一週間、雫もずっと考えていた。律に恋人がいようがいまいが、そんなことはもう関係ない。たとえ彼がフリーだったとしても、自分と彼がどうにかなることなんて、絶対にあり得ないのだ。これからは、病院の検診も、彼が担当ではない日を選べばいい。松崎市は広い。そう何度も、偶然出くわすはずがない。雫が眉をひそめているのに気づいて、梨奈が顔を覗き込んできた。「どうしたの?何かあった?」「……ううん。ねえ、明日、時間ある?杏に子犬を買ってあげたくて、ペットショップに付き合ってくれないかな」「オッケー、任せて。じゃ、また明日ね」翌日の午前中。梨奈が車を出し、雫をペットショップまで連れて行ってくれた。雫は、そこで一匹の犬と出会う。丸々と太った、ベージュ色のミックス犬。小さな体で、雫の指を一生懸命に舐めてくる。つぶらな瞳が、とても利発そうだ。雫は、この子を家に迎えることに決めた。家に連れて帰ると、杏は大喜びで、壊れ物を扱うかのようにそっと子犬を抱きしめた。だが、その瞳の奥に、喜びだけではない、ほんのかすかな失意の色が浮かんでいるのを、雫は見逃さなかった。この子は、杏が助けたあの子ではないのだ。どんなものでも、完全な代わりにはなれない。「杏、この子に名前をつけてあげましょうか」雫は、娘の前髪を優しく撫でながら言った。「うん……」杏はしばらく考え込んだ。いくつか候補が挙がったが、最終的に二人は『きなこ』という名前に決めた。きなこはとても賢く、新しい家にもすぐに馴染んだ。雫は、その他にもペット用品をいくつか買い揃えた。きなこは人懐っこく、夜になるといつも雫のスリッパの中に潜り込んで眠るようになった。そのせいで雫は、ベッドから降りるたびに、踏んでしまわないかと足元を恐る恐る探るのが癖になった。あの日、仕事で出られなかった着信を最後に、律から電話がか
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第10話
その言葉に、雫は弾かれたように我に返り、彼の腕から逃れようともがいた。まるで何かに怯えた小動物のように。だが、しかし。男の骨張った、力強い両腕は、雫の腰をがっちりと掴んだまま、ぴくりとも動かない。雫は唇をきつく噛みしめた。「……柏木、先生」その声に、男はふっと力を抜いた。雫は慌てて立ち上がると、彼から数歩後ずさり、安全な距離を保つ。そして、深く息を吸い込んだ。「……どうか、ご自重ください」それだけを言い残し、雫は診察室を飛び出すようにして去っていった。「自重、か」律は、その言葉を舌の上で転がすように呟き、実に面白い、と口の端を上げた。雫が消えていった後ろ姿を目で追う。淡いブルーのワンピースの裾が、涼やかな波紋を描き、ふわりと甘い香りの残滓が漂った。律は車でクリニックの敷地を出た途端、遠くの路肩に、淡いブルーのワンピースを纏った人影を見つけた。その上品でどこか懐かしい香りが、真夏の燃えるような日差しを突き抜けて、ふわりと彼の近くを漂うかのようだ。八月の陽射しが強すぎるせいか。律はただ、彼女の肌が目に焼き付くほど白く、ちらついて目を逸らせないと感じた。奇妙な、しかし拭い去れない既視感……脳裏に、先ほどの光景が甦る。屈み込み、彼女に口づけた、あの瞬間が。自分の指越しではあったが、それでも確かに触れた彼女の唇の端。きめ細やかな柔らかさ。ふわりと香る甘さ。そして、驚くほど細い腰は、片手でやすやすと掴めてしまった……怯えた小動物のように必死でもがいて逃げ出した彼女。心の中ではきっと自分を「痴漢」とでも罵っていただろうに、それでも最低限の体裁は繕っていた。黒のカイエンが、すっと彼女の隣に並走する。律は軽くクラクションを鳴らした。驚いた猫のようにびくりと肩を震わせ、雫は警戒心を露わに隣の車に視線を向けた。スモークガラスが静かに下がり、彫刻のように整った顔が覗く。そして、低い声が命じた。「乗れ」「いえ、お構いなく……」「二度言わせるな」律は、じりじりと照りつける太陽の下で、白い肌をほんのり赤く染めている雫を見つめた。きめ細やかな肌には玉の汗が浮かび、濡れた黒髪が数本、頬に貼り付いている。窓を開けた瞬間、生ぬるい熱風が車内に流れ込んできた。「……犬、いらないのか?なら、あのデブ犬は捨てる」雫は、
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