霧島雫(きりしま しずく)が娘を連れて訪れた病院。そこにいた主治医は、長年離れ離れになっていた元恋人だった。 七年の時を経て、彼女は名前も変え、かつて太っていた面影などどこにもないほど、痩せて美しくなっていた。 彼が自分に気づくことはない。ましてや、自分との間に生まれた娘がいることなど、知る由もない。 娘が彼女の手を握る。「ママ、どうして泣いてるの?」 雫は答えられず、ただこの場から逃げ出したかった。 少女時代の片想いの末、彼女はあの「高嶺の花」を手に入れた。 S大学に衝撃のゴシップが広まった。学園の王子様と名高い柏木律(かしわぎ りつ)。品行方正で雪のようにクールな彼が、秘密の恋をしているという。そして、その相手が、なんと太った冴えない女子生徒だというのだ。 彼女はたちまち、嘲笑と嫉妬の的になった。 そんな中、耳にしたのは聞き覚えのある、冷たく掠れた声。 「遊びだよ。どうせすぐ海外に行くし」 その言葉を最後に、雫の苦い恋は終わりを告げた。 彼との再会は、雫の平穏な日常を打ち壊す。 必死に彼との世界に線を引こうとするのに、気づけば彼のベッドの上にいて…… 脅し、誘惑し、仮病を使い、甘え、ときには恥も外聞もなく、彼は彼女の周りにいる男たちを次々と追い払っていく。 「じゃあ、俺がお前の愛人になってやるよ。あいつより金もあって、若くて、もっといい思いをさせてやれる」 七年前に秘密の恋を強いたのも彼。 七年後に愛人にしてと乞うのも、また彼だった。 彼女が「病気よ」と罵ると、彼は「ああ、本当に病気なんだ」と呟いた。
View More寝室のベッドサイドランプが、柔らかく暖かな光を落としている。ベッドに横たわる女の顔を、その光が優しく照らし出す。絹のように白い肌はほんのりと潤いを帯び、その表情は慈愛に満ちていた。彼女は、隣で眠る娘の背中を、そっと、規則正しく叩いている。杏が、夢うつつに「ママ」と小さく寝言を漏らした。「うん、ママはここにいるわ」この七年間、杏を産んだことだけは、一度だって後悔したことがない。天から授かった、最高の贈り物だと思っている。もちろん、天は同時に、もうひとつの贈り物を取り上げていったけれど。雫は服のボタンを外し、白く平らな下腹部に目を落とした。帝王切開の痕跡は、もうずいぶんと薄くなっている。それでも、色白の肌の上では、淡くピンクがかった一本の線が、七年経った今でもはっきりと見て取れた。夜が更けて静まり返るたび、彼女は自問する。もしあの時、もう少し早く病院に行っていたら、あの子は死なずに済んだのではないか。あるいは、もし……叔母と口論にならず、突き飛ばされて腹を打ったりしなければ、あんなに出血せずに済んだのなら、あの子は助かったのではないか、と。叔母の加山秋恵(かやま あきえ)は、遥に成り代わって柏木健人と志穂を脅迫し続けていた。従姉を柏木グループに就職させ、海外留学で箔をつけさせることまで要求して。遥は、その間なにも知らなかった。詩織が自分のカバンを漁り、金を盗むあの動画は、とっくに削除していたからだ。叔母がどうやってその動画を手に入れたのかも、そしてこの四年間、それを盾に健人たちを脅し続けていたことも、遥は全く知らなかったのだ。すべてはとっくに終わったことだと思っていた。それなのに、叔父と叔母は、何年もの間、健人夫婦を金のなる木のように扱い続けていた。いつの間にか、被害者であったはずの遥は、血をすする吸血鬼の共犯者に仕立て上げられていた。叔母に問いただすと、秋恵は遥の鼻先を突きつけるような勢いで罵倒した。「どの口が言うのよ!あんただって、この一件をネタに柏木家の四男を脅して、あの醜いデブのあんたと付き合わせたじゃない!で、結局捨てられたんでしょ!私たちがあんたを何年面倒見てやったと思ってんの。少しは恩返ししたっていい頃でしょ。ねえ、亮介、あんたからもなんとか言いなさいよ!」秋恵は、遥の
しかし、入試は目前に迫っている。つい先日、律の祖母が大手術を受けたばかりで、体調も芳しくない。もし詩織が学校で盗みを働いたなどと知れば、衝撃で倒れてしまうかもしれない。それに、詩織はまがりなりにも自分の姪だ。事がここまで大事になるのは、彼としても望んでいなかった。柏木家の家風は厳格だ。先祖代々、政界に身を置いてきたが、父である柏木洋治の代から事業を始めた。律の叔父や伯父たちは、今も政界の重鎮として名を連ねている。母である悠美もまた、名門の出だ。こんな不祥事が祖父の耳にでも入れば、詩織は勘当されるだけでは済まないだろう。「青木、よく考えてほしい。解決策は、他にもいくらでもあるはずだ」六月の陽射しが、遥の視界を白く焼き尽くすようだった。彼女は自分の掌を、爪が食い込むほど強く握りしめる。目の前の少年が纏う、どこかひやりとするような匂いがした。それが、ゆっくりと胸の中にまで染み渡っていく。喉が、からからに乾いていた。声は、断固としているようで、それでいてひどく頼りなかった。「……でも、私は、泥棒じゃない」少年は、そんな彼女に視線を落とした。夏の陽に火照り、薄い皮膚の下の血の色が透けて見えるような顔。伏せられた長い睫毛。彼の声はどこまでも他人行儀だった。「条件を言え。柏木家にできることなら、可能な限り応えよう」「……私の彼氏に、なってくれない……?」「……は?」まるで予想だにしていなかった言葉に、律は虚を突かれたようだった。一瞬息を止め、十数秒の沈黙の後、改めて目の前の少女を値踏みするように見つめた。長い、長い時間。彼は、脅迫されるのが嫌いだった。それが感情を取引材料にするようなことであれば、なおさらだ。それでも、彼は頷いた。冷え冷えとした声で、こう付け加えて。「いいだろう。だが、俺は遠距離恋愛はしない。君がS大に合格できたら、という条件付きだ」遥は三回の模試で、最も良かった成績ですら、S大の合格最低点まであと8点も足りなかった。最悪の時には、26点も差があった。わずか五日間で8点の差を埋めるなど、ほとんど不可能に近い。だが、遥は、それをやってのけたのだ。その年の入試問題は、決して易しくはなかった。そして詩織はといえば、入試が終わるとすぐに海外へと送られた。柏木家のお嬢様は、将
志穂は遥の名前を尋ねた。青木遥です、と答える。その名前を聞いた途端、志穂は表情を奇妙に歪めた。そして遥の顔を、値踏みするようにじっと見つめる。その目には、侮蔑と……それから、どこか嫌悪の色が浮かんでいた。「動画が一本あるだけでしょう?うちの娘がお金を盗む瞬間が、そこに映っているのかしら。娘がこの方の机を漁っていたのは事実でしょう。でも、それがお金を盗むためだったと、誰が証明できるの?女の子同士ですもの。ウェットティッシュか、それとも生理用品でも探していたのかもしれないじゃない」たしかに、一本目の動画に映っているのは、詩織が遥の机の中に手を入れるところまでで、彼女がお金を盗む瞬間は捉えられていなかった。詩織はすぐさま目に涙を浮かべた。「先生、お母さん、私、ちょうど生理になっちゃって……遥のカバンにナプキンが入ってるのを知ってたから、借りようと思っただけなの」「ごめんね、遥。断りもなしにカバンを漁っちゃって。怒らないで。でも、あなたのお金は本当に取ってないわ。あたし、十八万円くらいのお金に困ってないもの。それに、こんなに仲がいいのに、どうしてそんなことするわけないじゃない」志穂は鼻で笑った。「田中先生、もうお分かりでしょう。青木さんの成績が良いから、先生が穏便に済ませたいお気持ちは分かりますわ。でも、この年で、これほど品性に欠けるとは」「学校の奨学金は、かねてより私ども柏木家が支援しておりますのよ。まさか、このような方に給付されるとは思いもしませんでしたわ」だが、遥には二本目の動画があった。それもまた、烈が送ってきたものだ。その動画には、詩織が札束を鞄に詰め込みながら、こそこそと教室を出ていく姿がはっきりと映っていた。遥がその動画を再生した瞬間、職員室は奇妙な静寂に包まれた。詩織はぶるりと体を震わせ、顔を青ざめさせた。職員室には担任の田中先生のほか、学年主任と教頭先生も同席していた。名家の令嬢である詩織が金を盗むなど、誰もが信じがたいことだった。しかし、動かぬ証拠がそこにはあった。志穂は眉間を揉み、押し黙る。詩織は狼狽したように言った。「お母さん、違うの、これは遥とちょっとした冗談のつもりで……」「そうですよ。子供同士の、ただの悪ふざけじゃないですか」遥は信じられないというように教頭を見
「先生は、私のこと信じてくれますか?私がやったんじゃないって。あのお金は、盗んでません」「遥。先生は信じてるよ、君がいい子だってことは。だから余計なプレッシャーは感じずに、目の前の試験に集中しなさい」その時の遥は、先生の言葉にひどく落胆した。けれど、今の雫には分かる。田中先生は、遥を信じていなかったわけではないのだと。嵐の中心にいる時、誰一人として味方がいない状況では、決定的な証拠がない限り、反論すればするほど立場は悪くなる。名家の令嬢である柏木家の娘が、たかだか十八万円のために盗みを働くなどと、誰も信じるはずがないのだ。それは別に、金持ちに媚びへつらっているわけではない。ただ、裕福な家の人間がお金に困るはずがないという、一種の思い込みだ。詩織にとってはTシャツ一枚分の金額でも、貧しい遥にとっては大金に違いない。大衆の認識の中では、より金を必要としている遥こそが、犯人だった。あの時、遥はこのまま事件が風化していくものだと思っていた。歯を食いしばり、一ヶ月後に迫った入試に向けて、がむしゃらに勉強した。もう成功するしか道はないのだと、背水の陣で臨むような悲壮な覚悟で。だが、事態は遥の想像を超えて悪化の一途をたどった。遥が行く先々で、人々は奇異の視線を向け、あからさまに彼女を避けた。陰ではコソコソと、泥棒だと囁かれた。そんな日々が続いていた、ある日のこと。一本のショートメッセージが届いた。【柏木詩織があんたの机を漁ってる動画、持ってるんだけど。あんたの無実、証明できるぜ】【欲しけりゃ、ホテル・サンウエストの202号室まで来な】遥は指定された場所へ向かった。そこにいたのは、隣のクラスの矢野烈(やの れつ)だった。彼は札付きの不良で、毎週月曜の朝礼で名指しで注意を受ける常習犯だ。裕福な家庭環境を盾に、やりたい放題だった。烈は、いやらしい笑みを浮かべ、遥の胸元をねめつけるように見つめた。「青木遥、だっけ。高一の頃から目つけてたんだ。肌、真っ白だよな。なぁ、俺と仲良くしようぜ?そしたらこの動画、すぐに送ってやるからさ」遥は、烈に下心があることを見抜いていた。それでも、自分の無実を証明するその動画が、是が非でも欲しかったのだ。烈が遥に手を出してくることはなかった。そして約束通り、動画は彼女のスマートフォ
幸運の女神が三度目に微笑んだのは、高校三年の秋のことだった。実のところ、高校生活のほとんどで、遥は律と口を利いたことすらなかった。それが、高校三年の秋。二人は、隣の席になったのだ。だからといって、二人の会話が増えたわけではなかった。たまに、言葉を交わす程度。それだけだ。ある時、教科書を取り違えたことがあった。遥はその教科書にびっしりと書き込みをしていたのだが、授業が終わってから、それが律のものだと気づいたのだ。表紙には、柏木律、と彼の名前が記されていた。彼の字は、鋭く、少し癖のある筆跡だった。遥はその文字を、しばらくじっと見つめた。そして遥の文字もまた、彼の教科書の上に残された。その時からだろうか。決して交わることのなかった二本の線が、ほんの少しだけ、近づいたのは。けれど、その席替えもわずか三ヶ月のこと。すぐにまた、二人は離れ離れになった。遥の高校生活は、平穏なようで、平穏ではなかった。律の背中を、必死に追いかけた。もっと良くなりたいと、もがき続けた。自分の人生を、自分の手で掴み取りたかった。叔父夫婦の家から、一日も早く独立したかったのだ。S大を目指したのは、律と同じ大学に行きたいという気持ちだけでなく、自分自身のためでもあった。未来が、欲しかった。だが、今度ばかりは、幸運の女神は微笑んでくれなかった。大学入試を一ヶ月後に控えたある日。受験勉強で張り詰めている生徒たちを気遣った担任が、貴重な週末を利用して、クラス全員での遠足を企画した。費用は一人四千円。不足分は担任が負担し、余ったお金は卒業前のささやかなお別れ会でジュースやお菓子を買う足しにする、という決まりだった。当時のクラスでは、委員長が持ち回り制だった。その日、ちょうど当番だった遥は、全員から集めた会費をまとめ、自分の机の中に入れておいた。だがその日の午後、体育の授業から戻ると、机の中にあったはずの現金が、忽然と姿を消していた。夜の自習の時間。いつもは静まり返っている教室が、今はひそひそと囁き合う声で満ちていた。無数の視線が、遥の全身に突き刺さる。まるで皮膚を一枚一枚、ゆっくりと剥がされていくようだ。手のひらは汗でじっとりと濡れ、呼吸は恐怖に震える。全身が強張り、凍りついたように動けない。どうしていいか
あの頃、遥が着けていたのは、安物の子供っぽいブラジャーで、豊かな胸を支える力などまるでなかった。発達の良かった胸は歩くたびに揺れ、男子生徒だけでなく、女子生徒までもがひそひそと噂しながら見つめてくる。その視線が、遥には耐えがたいほどの屈辱だった。もっと良い下着を買うお金はない。だから夏でも制服の下に、白い木綿のタンクトップを一枚重ねて着るしかなかった。背後に迫る足音に気づき、遥は恐怖に駆られて駆け出した。すると、後ろの足音も速度を上げる。もう、泣き出してしまいそうだった。お腹が引きつるように痛む。背後には、いやらしい目つきの男。叔父の家までは、まだ遠い。律が現れたのは、そんな時だった。あの時、自分が先に彼の背中へ隠れたのか。それとも、彼が先に一歩踏み出し、遥の前に立ちはだかってくれたのか。今の雫には、もう思い出せない。それまでの遥にとって、「タバコ」や「ゲームセンター」なんて言葉は、目の前にいる彼とは最も縁遠いものだった。律は学校中の憧れの的で、松崎第九高校のまさに高嶺の花。そして、成績は常に学年トップという、眩しいほどの存在だったのだ。けれど、彼の喫煙姿は、街でいきがっている若者たちとはまるで違っていた。真っ白な制服の第一ボタンまできっちりと留められ、その身なりは塵ひとつないほどに清潔で整っている。ただ、薄紫の煙だけが、形の良い唇の端からそっと溢れ出す。それは決して単なる格好つけや、ニコチンへの渇望からくるものではない。彼がそうしたいから、しているだけ。そして、いつでも自分の意思でやめることができる。まるで、この世のすべてを意のままに操れるとでも言うように。氷のようにクールな仮面の下に、傲慢なまでの反骨精神を隠しているのだ。誰かに見つかることや、罰を受けることなど、まるで意に介していない様子だった。律はちらりと遥に目をやると、革財布から二千円札を一枚抜き取り、それを彼女に差し出した。「これでタクシー乗れ」結局、遥は歩いて家に帰った。あの二千円札は、使わずに日記帳にそっと挟み込んだ。おとぎ話のようにヒーローが助けてくれる、なんて展開ではなかったけれど、うぶな少女の心をかき乱すには、それだけで十分すぎた。ましてや相手は、誰もが見惚れるほどの美しい容姿の持ち主なのだから。高校二年
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