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第0864話

Author: 龍之介
綿の視線は、宗一郎が大事そうに抱きしめているバッグに向けられた。

「桜井さん、これは……君のバッグです」

宗一郎は震える手でバッグを差し出した。

綿の胸が一瞬で締め付けられるように感じた。

見つからなかったバッグが、ずっと宗一郎に守られていたのだと知り、心が温かくなると同時に切なさが込み上げてきた。

宗一郎の疲れた顔がさらに痛々しく見えた。彼は小さな声で尋ねた。

「孫は……孫は大丈夫でしょうか?」

「和也さんは無事です。もう病院に運ばれています」

輝明が冷静に答えると、宗一郎はすぐに彼を振り返った。その名を聞くだけで、彼がただ者ではないことを理解していた。

「失くしたものはないか?」

輝明は綿に目を向け、低い声で尋ねた。

綿はバッグを開け、中にあった父が送ってくれた腕時計を確認した。

「……何も」

彼女は小さく首を振った。

輝明は宗一郎に向かって名刺を差し出した。

「山下先生、病院であなたと和也さんのために検査を手配しておきました。何かあれば、ここに連絡してください。それと、綿を守ってくださったことに感謝します」

その言葉に、綿は思わず彼を見つめた。

――綿を守ってくれてありがとう。

その言葉が耳に響くたび、綿は自嘲の笑みを浮かべずにはいられなかった。

彼女はバッグを手に取り、振り返ることなくその場を離れた。

こんな光景は見ていられない。あまりにも偽善的だった。

輝明は振り返り、局長に少し指示を与えた後、綿を追いかけた。

彼女はそっと腕をさすりながら、こちらへとゆっくり歩み寄ってくる輝明の姿を見つめた。

彼は薄い服一枚で、上着は彼女にかけてくれたまま。

この夜ずっと、彼は走り回っていた。——すべて、彼女のために。

その静けさを破るように、警察署の奥から再びサイレンが鳴り響いた。数秒後、三台のパトカーが外から滑るように入ってくるのが見えた。

彼女の目が一瞬、パトカーから出てきた人々に向けられた。その中には陽菜もいた。

陽菜はボロボロの状態で、誰かのコートを借りて身を包んでいる。髪は乱れ、顔も青白い。

綿は眉をひそめ、一歩前に出たが、すぐに輝明に止められた。

「徹に連絡を入れた。彼が解決する。今は俺が君を雲城に連れ戻す」

その時、綿のスマホ電話が鳴った。

画面には「天河」の名前が表示されている。

彼女は電話
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    「さすが、高杉さん。相変わらず頼りになるね」綿は苦笑した。そういえばプライベートジェットがあることをすっかり忘れていた。先ほど父が電話で言っていた「飛行機を取って行く」という言葉さえ、彼女にとっては普通の感覚だったのに。「心配だった」輝明は短くそう答えた。それだけで十分だった。心配だから、迷わずプライベートジェットで駆けつけたのだ。「これからはもっと頼れる男になる」彼はバックミラー越しに綿を見つめ、静かに言った。「だから、少しずつでいいから、俺を受け入れてくれ。拒まないでほしい」綿は疲れた様子で背もたれに寄りかかり、スマホをいじりながら、無表情で「うん」とだけ返した。その態度に、輝明はため息をついた。まあ、仕方ない。少しずつだ。綿には彼女なりの考えがある。何より、自分が悪かったのだ。もし、高校時代に戻れるなら――彼女を最初から選ぶだろう。あるいは、あの誘拐された日のやり直しができるなら。彼は迷わず自分が死を選び、綿を守るはずだった。雲城に戻った時、時刻はすでに深夜の3時を過ぎていた。クリスマスは終わったが、雲城の夜はまだ活気に満ちていた。森下はすでに空港で二人を待っており、無事な姿を確認すると安堵の表情を浮かべた。「社長、桜井さん」森下は低い声で丁寧に挨拶をした。綿は眉間を軽く揉みながら髪をまとめ、森下に小さく会釈した。「こんな遅くに、わざわざ迎えに来てもらって申し訳ないわ」「若奥様……」森下は思わずそう口にしたが、二人の視線を感じてすぐに言葉を詰まらせた。そして、急いで訂正した。「桜井さん、大丈夫です。これが僕の仕事ですから」それでも森下は内心落ち着かない。結婚生活が終わったことは分かっているが、どうしても「若奥様」という呼び方を忘れられない。特に、綿がこんなに礼儀正しく話しかけてくると、自然とその言葉が口をついて出てしまうのだ。綿は軽く微笑み、それ以上は何も言わず車に乗り込んだ。輝明は森下を一瞥し、森下は居心地悪そうに目をそらした。車内で、輝明が静かに口を開いた。「家に帰る前に、俺の家に少し寄れないか?」「もう遅いわ。これ以上遅くなると、父が追いかけてきそう」綿は冗談交じりに答えた。「30分だけだ。それで君を送る。いいだろう?」

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0865話

    綿は腕を組み、顔を上げて輝明をじっと見つめた。「分かってる」「ありがとう。本当に感謝してる。今度お礼に食事でもおごるわ」その言葉に、輝明は苦笑を浮かべた。「食事?そんなによそよそしい関係になったのか」「当然のことよ」綿は視線を落とし、小さな声で付け加えた。「でも、今日あなたが来てくれたことには、本当に感謝してる」輝明は少し間を置いてから、静かに言った。「綿、これは俺がするべきことだ」しかし、綿は首を振りながら言い返した。「輝明、誰も何かを『するべき』と決めつけられるわけじゃない」輝明は彼女の言葉をじっと聞き、複雑な表情を浮かべた。そして、静かな声で語った。「君に尽くすのは、俺がそうすべきだからだ。綿、君に借りがある」その言葉に、綿は鋭い視線を向けた。「じゃあ、あなたが私を愛するのも、借りを返すため?」彼女の視線は真っ直ぐで、その眼差しには強い感情が込められていた。輝明は深く息を吐き、目を逸らさず答えた。「俺が言ったことを忘れたのか?高校時代から君が好きだった。それと君に借りがあることとは、何の関係もない」「綿、俺が愛しているのは、君そのものだ。性格も、君のすべてが好きなんだ。俺を助けたから好きになったわけじゃない」その声には焦りが滲み、彼の眉間には深い皺が寄っていた。綿は溜め息をついた。でもね、輝明。あなたが私を愛している理由の前提は、私があなたを助けたからよ。——もし、あのとき彼を助けたのが本当に嬌だったのなら。きっと、こんな結末にはならなかった。けれど今となっては、この出来事はもう一つのループになってしまった。ならばせめて、誰かひとりくらいは、そのループの中で立ち止まらずに済ませるべきなのだ。綿は、輝明と争いたくなかった。感情が落ち着いた今だからこそ、心から彼に感謝している自分がいた。四周は静かで、警察署の喧騒だけが遠くから聞こえていた。輝明は頭を少し下げ、優しく言った。「綿ちゃん、今日はクリスマスだ。喧嘩はやめよう」綿も争うつもりはなかった。ただ、二人が愛について話すとき、どうしてもすれ違いが生じてしまうのだ。「本当は、今日は一緒に過ごすつもりだったんだ。君がこんな所に来るとは思わなかった」輝明は自嘲気味に笑い、言葉を続けた。家であれ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0864話

    綿の視線は、宗一郎が大事そうに抱きしめているバッグに向けられた。「桜井さん、これは……君のバッグです」宗一郎は震える手でバッグを差し出した。綿の胸が一瞬で締め付けられるように感じた。見つからなかったバッグが、ずっと宗一郎に守られていたのだと知り、心が温かくなると同時に切なさが込み上げてきた。宗一郎の疲れた顔がさらに痛々しく見えた。彼は小さな声で尋ねた。「孫は……孫は大丈夫でしょうか?」「和也さんは無事です。もう病院に運ばれています」輝明が冷静に答えると、宗一郎はすぐに彼を振り返った。その名を聞くだけで、彼がただ者ではないことを理解していた。「失くしたものはないか?」輝明は綿に目を向け、低い声で尋ねた。綿はバッグを開け、中にあった父が送ってくれた腕時計を確認した。「……何も」彼女は小さく首を振った。輝明は宗一郎に向かって名刺を差し出した。「山下先生、病院であなたと和也さんのために検査を手配しておきました。何かあれば、ここに連絡してください。それと、綿を守ってくださったことに感謝します」その言葉に、綿は思わず彼を見つめた。――綿を守ってくれてありがとう。その言葉が耳に響くたび、綿は自嘲の笑みを浮かべずにはいられなかった。彼女はバッグを手に取り、振り返ることなくその場を離れた。こんな光景は見ていられない。あまりにも偽善的だった。輝明は振り返り、局長に少し指示を与えた後、綿を追いかけた。彼女はそっと腕をさすりながら、こちらへとゆっくり歩み寄ってくる輝明の姿を見つめた。彼は薄い服一枚で、上着は彼女にかけてくれたまま。この夜ずっと、彼は走り回っていた。——すべて、彼女のために。その静けさを破るように、警察署の奥から再びサイレンが鳴り響いた。数秒後、三台のパトカーが外から滑るように入ってくるのが見えた。彼女の目が一瞬、パトカーから出てきた人々に向けられた。その中には陽菜もいた。陽菜はボロボロの状態で、誰かのコートを借りて身を包んでいる。髪は乱れ、顔も青白い。綿は眉をひそめ、一歩前に出たが、すぐに輝明に止められた。「徹に連絡を入れた。彼が解決する。今は俺が君を雲城に連れ戻す」その時、綿のスマホ電話が鳴った。画面には「天河」の名前が表示されている。彼女は電話

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0863話

    幻城警察署は大混乱に陥っていた。この一件で多くの人間が警察に連行され、署内は慌ただしい空気に包まれていた。綿と輝明が到着した時、警官たちは皆忙しく、二人に注意を払う余裕もなかった。輝明は綿が疲れ切っている様子を察し、近くの空いた椅子を見つけて彼女に座るよう促した。そして綿を残して宗一郎と和也の様子を尋ねるため署内へと入っていった。綿は下を向いたまま、身につけている乱れた服を直す気力もなく、ただ自分を包む輝明のコートを握りしめていた。目が行く先には、煙草で焦げた服の穴があり、その傷跡が嫌悪感を呼び起こす。宏のあの下品な顔を思い出すだけで、心が吐き気で揺れた。女を自分の娯楽の道具にし、その尊厳を踏みにじることで楽しむような男たちは、生きる価値などない。綿は歯を食いしばり、すでに彼をどう葬るかを頭の中で思い描いていた。もし今日、輝明が現れなければ、自分は――彼女はその先を想像することすらできなかった。髪が顔の半分を隠し、誰にも感情を見せないように俯いたまま、彼女は静かに座っていた。周囲の騒がしさの中で、綿だけがその場に溶け込めず、異質な静けさを纏っていた。少し離れた場所から、署内を出てきた輝明は彼女の姿を見つけた。まるで何事もなかったかのように、静かで冷静に座っている綿。幻城でこんな目に遭えば、普通の女性なら怯え、泣きじゃくり、彼に助けを求めるだろう。だが、綿は何一つ彼に求めなかった。彼女はどこまでも強く、まるで心に刃を持つかのように見えた。輝明はカウンターから紙コップを取り、水を注いで彼女の元へ向かった。彼は綿の目の前でしゃがみ込むと、静かにコップを差し出した。綿はその手を見つめ、ゆっくりと視線を上げた。逆光の中に立つ彼の顔は、硬く整った輪郭と鋭い目元が印象的だった。彼女が何年も愛してきた顔。その顔が今、目の前にあり、自分のために動いている――その事実が、胸を締め付けた。それは——ただの「もしも」の話。もしも、二人がずっと仲睦まじくいられて、彼が変わらず自分だけを愛してくれていたなら。どれほど幸せだっただろう。自分はきっと、世界で一番幸せな女になれていた。輝明には、欠点なんて山ほどある。けれど、不思議なことに——彼のそばにいると、心が落ち着く。安心できるのだ。誰よりも。彼

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0862話

    「病院には行かない。私は平気よ」綿は静かに言った。輝明は彼女をじっと見つめた。確かに見た目には特に問題なさそうだったが、彼は精神的な負担や恐怖が影響しているのではないかと心配していた。しかし、彼女の落ち着いた様子を見て、無理に病院へ連れて行くのはやめ、代わりに自分の車へと案内した。周囲は静まり返っていた。外では警察が後片付けをしており、時折誰かが近づいてきては、「高杉さん、何かお手伝いすることは?」と尋ねてきた。輝明は首を軽く振ると、彼らはすぐに引き返していった。綿は車内で頭を下げたまま、足首を揉んでいた。輝明は彼女を黙って見つめていた。綿の服は乱れ、荷物も少なく、幻城に来たのも今日中に帰るつもりだったことが明らかだった。彼は彼女の痛々しい姿に胸を締め付けられる思いがし、手を伸ばして足首を揉もうとした。しかし綿はその手を引っ込めながら、「ありがとう、でも大丈夫」と冷静に答えた。輝明は眉間に皺を寄せ、「俺がここにいる理由を聞かないのか?」と問いかけた。「聞きたくないわ」その答えに、輝明は短く息を吐いた。彼がここにいる理由は分かりきっている――彼女を心配して来たのだ。「綿、俺は君のために来たんだ。心配で」輝明の声には真摯さが滲んでいたが、綿は視線を落としたまま、黙々と自分で足首を揉み続けた。その態度に輝明は不満を覚え、彼女に近づくと、足首を掴んで再び尋ねた。「痛むか?」綿は顔を上げ、輝明の顔を見つめた。輝明にはわからなかった。彼女が自分を見るその目に、どんな意味が込められているのか。しかし、彼女は視線を逸らし、唇を噛んだ。「不満があるなら言え」彼の低い声が車内に響いた。綿は何も言わなかった。輝明は彼女の足首を優しく揉みながら、ふと涙が彼女の頬を伝っているのに気づいた。自分でも、自分の気持ちが分からなかった。恐らく、生き延びた安堵感や、先ほどの恐怖、そして長年蓄積された感情が一気に溢れ出してしまったのだろう。しかし、彼女にとって一番大きな理由は、危機的状況で最初に現れたのが輝明だったことだ。彼が現れたその一瞬が、綿にとって贅沢とも言える体験だった。これまでの彼女の人生で、輝明は必要な時にそばにいる存在ではなかった。いつも一人で困難に立ち向かってきた綿

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