綿は気まずそうにうつむいた。「君に会うのも一苦労だな」輝明はぼそりとつぶやいた。昨日、彼はわざわざ研究所に足を運んだが、スタッフに「外回りに出ています」と告げられたばかりだった。綿は地面をつま先でこすりながら、黙っていた。そんな沈黙の中、輝明が不意に尋ねた。「いつ戻る?」「まだしばらくは、じいちゃんとばあちゃんと一緒にいるつもり」綿は素直に答えた。輝明は数秒黙り込んだ。何かを決心したように言った。「じゃあ、俺がそっちに行く。ちょうどご挨拶もしたいし」綿は目を見開いた。「やめといたほうがいいよ。二人にイヤミ言われたら、嫌な思いするだけだよ?」綿はやんわり断ろうとした。しかし、輝明は軽く笑って言った。「君の前で恥かくの、今に始まったことじゃない」綿「……いや、私は……」言い返す言葉が出てこなかった。思えば、綿の輝明への当たりの強さは、他の誰とも比べ物にならなかった。「もう向かってるから」輝明はそう告げた。綿は肩をすくめた。「好きにすれば。助け舟は出さないからね」「でも、君は俺を見捨てない」彼は優しい声でそう言った。綿は窓の外を見つめ、唇を噛み、何も言わずに電話を切った。振り返ると、食卓にいた二人が、じっとこちらを見ていた。彼女が電話をかけていたのは窓際だったが、食卓とはそう離れていなかった。耳を傾けようと思えば、内容は十分に聞き取れる距離だった。聞く気がなかったんじゃなきゃ、絶対に何を話してたか分かってたはず。綿は苦笑いしながら言った。「えっと……輝明が、お二人に会いに来るって」二人は眉をひそめた。「なんで急に来るの?」と千恵子が問う。綿は正直に答えた。「最近、彼と少しだけ連絡を取ってて……」「連絡してるからって、うちに来る必要はないだろう!」山助は不満を隠さなかった。今日の山助は上機嫌だった。できれば、邪魔されたくなかった。「まあまあ、ただの若いもんが挨拶に来るだけよ」綿は説明に困りながらなだめた。確かに急すぎだ。本当は、もっと前に知らせておけばよかったのだが、輝明の急な行動に、準備する暇もなかった。「私たち、会わないって断れないの?」千恵子が聞いた。綿はすがるような目で祖母を見た。「おばあちゃん」その表情を見た千
研究所では年末の総まとめ作業が始まった。綿は全身全霊を注いで仕事に取り組んでいた。空いた時間には、祖父母の家に顔を出していた。千恵子は手を痛めていたが、それでも研究所への関心を失わなかった。綿が訪ねるたび、彼女は必ず研究の進捗を報告させた。そのたびに山助は口を挟んだ。「やれやれ、せっかく孫が来てくれたんだから、少しはゆっくりさせてやれよ。毎回仕事の話ばっかりじゃ、疲れるだろうが」それを聞いた千恵子はすかさず言い返した。「何も分かってないわね、あんたは!」山助は小声でぶつぶつと反論した。「はいはい、俺は分かってないよ。分かってるのはお前だけだよ」二人はいつものように言い合いをしていたが、そこには温かな愛情が滲んでいた。そして時折、千恵子はこんなことも口にした。「じゃあ、仕事以外に何を話せっていうの?まさか恋愛の話なんかできないでしょ。この子の恋愛はぐちゃぐちゃだし」こうなると、黙るのは山助ではなく、綿の方だった。頭が痛くなりそうだった。今日は珍しく休みが取れたので、綿は祖父母の家で食事をすることにした。食事の最中も、千恵子はあからさまに、あるいは遠回しに、こう言ってきた。「もういい頃なんじゃない?心も癒されたでしょ」「聞こえません」綿は白々しく答えた。千恵子は眉をひそめた。「あんたほど頭の回る子が、私の言いたいことが分からないわけないでしょ」綿は黙々とご飯をかき込み、まるで聞こえなかったふりを続けた。焦れた山助は、遠回しな言い方をやめて、単刀直入に言った。「つまり、そろそろ彼氏作れってことだよ!いつまで意地張ってるんだ!」「男なんていらないよ。邪魔なだけ」綿はスペアリブにかぶりつきながら答えた。なにが悪い、独り身だってスペアリブぐらい食えるし!祖父母は一緒にため息をつき、綿を無視することにした。その後は、綿が一人ずつ機嫌を取って回る羽目になった。まったく、年寄りというのは本当に子供みたいに手がかかる。ちゃんと宥めてあげないと、何日でも根に持つんだから。「ところで、おじいちゃん。最近あのお坊さんと遊びに行ってるの?」綿はからかうように言った。山助はピタリと動きを止めた後、鼻を鳴らした。「お前は余計なことを……」綿は声を上げて笑った。「どうしたの?ま
綿はこくりと頷いた。「うん」急すぎるでしょ?輝明は黙り込んだ。しばらくしてから、彼は口を開いた。「怖くないか?……俺、一緒にいてやろうか?」綿はじっと輝明を見た。……何?彼が、自分に付き添おうとしている?「別に怖くなかったけど、今そう言われたら、ちょっと怖くなったかも」綿は微笑み、やんわりと断った。輝明は唇を引き結んだ。まるで自分が変な下心を持っているみたいに思われた気がして、少し釈然としなかった。本当に、ただ純粋に心配だっただけなのに。車はゆっくりと市街地へと入った。そんな中、輝明が口を開いた。「そうだ。おばあちゃんが……」だが、綿はちょうどスマホを見ながら、ふっと声を上げた。「明日から忙しくなるよ」「ん?」輝明は彼女を見た。ちょうど赤信号で車が止まった。「研究所で新しい進展があって、みんなでまとめをやるんだ。それと、来年の計画も立てなきゃ」「他の人に任せられないのか?」輝明は尋ねた。綿は首を振った。「私は院長だから。自分でやるべきことは、ちゃんとしないと」「SH2N、十年以内に成果出るか?」輝明は訊いた。綿はため息をついた。「順調にいけば三年。でも、うまくいかなければ十年かかるかも」この言葉は、彼女の祖母もよく言っていたことだった。輝明は静かに頷いた。「それでも、続けるつもりか?」「ここまでリソースを注ぎ込んできたのに、途中で諦めるなんて……もったいないから」綿は言った。「もちろん、いつか本当に行き詰まったら、諦めるかもしれないけど」でも、今はまだ、希望がある。だからこそ、綿は頑張り続けたかった。輝明はぽつりと呟いた。「聞いたよ。すでにかなりの資金を投入してるって」綿はうなずいた。「でも、問題ないよ。誰かが引き継いでくれるはずだし。たとえば……」言いかけたところで、綿はふっと口をつぐんだ。輝明は綿をじっと見た。綿はいたずらっぽく笑った。うん、そう。間違いなく、あなたのことだよ。輝明「……」綿はくすりと笑い、少し柔らかい声で言った。「高杉社長、SH2Nに貢献してくれてありがとう。このプロジェクトが成功しても失敗しても、私はちゃんと感謝するから」輝明は小さく「うん」と返した。「礼なんていいよ」「でも、本当
夜はすでに更け、道にはほとんど車の姿がなかった。綿は輝明の隣、助手席に座り、頬杖をつきながらスマホの画面を眺めていた。淡い光が彼女の顔をぼんやりと照らしていた。トレンドは神秘7に関するニュースで埋め尽くされていた。綿は一通り目を通し、ついでに自分の走りの映像を楽しんでいた。静かな車内で、輝明が口を開いた。「これ、いつからやってたんだ?」綿は顔を上げ、少し考えてから答えた。「十八歳。免許取ってすぐに始めた」「じゃあ、やめたのはいつだ?」綿は唇を引き結び、平然と答えた。「あなたが『大人しくて素直な子が好き』って言ったとき」その言葉に、輝明は綿を見た。綿も彼を見返した。二人の視線が静かに交差する。輝明の平静は、どう向き合えばいいか分からなかったから。綿の平静は、すでに輝明に対して何の期待も抱かなくなっていたからだった。「この何年、ずっとレースから離れてたのか?」輝明は問いかけた。綿は眉を上げた。「さっき言ったでしょ。神秘7はずっと表舞台から退いてたって」輝明は眉間に深い皺を刻んだ。車はスピードを抑え、静かに走っていた。だが、車内は少し暑かった。綿は窓を少し開けた。冷たい風が骨の芯まで吹き込んできた。輝明が静かに尋ねた。「後悔してるか?」綿は外の景色を見た。真っ暗な世界には何も見えず、重なる枯れ木がどこまでも続いていた。見ているだけで寂寥感が押し寄せた。「後悔してる」綿は率直に答えた。輝明は黙り込んだ。「でも、あなたを追いかけたことは、後悔してない」綿は輝明を見た。「追いかけなきゃ、手に入るかどうかなんて分からないもの」綿は気だるげに笑った。悲しみをごまかすように。輝明はぽつりと告げた。「俺は後悔してる」「何を?」「君と嬌の間で、迷ったことを」綿はスマホをくるくる回しながら、軽く言った。「そんな話、聞き飽きた」輝明は苦笑した。「でも、君が神秘7だったってこと、本当に驚いた。綿、すごかったよ」「ありがとう」綿は眉を上げた。「褒め言葉として受け取るわ」「褒めてるって、気づかない?」「そんなに分かりやすくない」「じゃあ、どうすれば伝わる?」輝明は不思議そうに尋ねた。「輝明、あなた本当に典型的な鈍感男だね」綿は呆れたよう
輝明……うそでしょ……輝明は綿をじっと睨みつけ、彼女が着ているあの全く同じ服を見て、眉を深くひそめた。しかも、タイミング悪く、スマホ越しに玲奈がまだ叫んでいた。「綿!綿!なに服なんか見せてんの!」「もしかして、あのクズ男の輝明が来たとか!?」綿「……」ドアの外のある人「……」綿は慌ててビデオ通話を切った。そして、何事もなかったかのようにソファへ戻り、足を組み、腕を組み、輝明をじっと見つめた。輝明は、あの女が綿に似ているとは思っていた。だが、本当に綿だったなんて……考えもしなかった!「神秘7……」彼はゆっくりと口を開いた。長い沈黙の末に絞り出すように。綿「私じゃない」「違う?」輝明は笑った。その時、外から夜の声が聞こえた。「ボス、そろそろ……」言いかけた瞬間、夜は輝明と目が合ってしまった。夜「……」輝明は目を細めた。夜はさっき、綿のことをボスと呼んだ?またしても、綿の手下ってわけか?「彼氏じゃなかったのか?」輝明は夜を睨みつけ、冷たい疑念を滲ませた。夜は綿を見た。助けを求めるような目だった。これは……完全にやらかしたか?「人違いだと思うけど」綿はまだ必死に誤魔化そうとしていた。輝明はニヤリと笑った。「人違い?何を間違えた?君があの女じゃないって?神秘7じゃないって?彼が彼氏じゃないって?」冗談じゃない。そんな話、信じるわけがなかった。輝明はふと疑問に思った。「綿、君がレーシングをやってたなんて、なんで俺は知らなかった?」しかも、その腕前は……あの伝説の神秘7と呼ばれるレベルだったのに。「知らないことなんて、いくらでもあるわ」綿は立ち上がった。冷ややかな目で輝明を見つめる。「でも、知っておいて。私はあなたのために、たくさんのものを捨てたのよ」輝明は綿の腕をぐっと掴んだ。「君が誰だろうと関係ない。綿、君がレースを楽しんでるなら、俺は応援する。誰にも言わない」「誰かに知られたって、別に恥ずかしいことじゃないわ。私がレースをするのに、誰かの許可なんていらない。やりたいから、やってるだけ」綿は輝明の手を振り払った。そして微笑んだ。輝明は言葉を失った。今の綿には、確固たる自信が満ちていた。その姿が、たまらなく美しく見えた。その
レースが終わった頃には、すでに夜中の二時を回っていた。神秘7の登場に、全員の血が沸き立っていた。神秘7は裏道を使ってひっそりと退場したが、誰もが、あの女が神秘7であることを知っていた。レースが終わっても、まだ多くの観客が残っていた。彼女を一目見たい一心で、誰もその場を離れようとはしなかった。綿はレースを終えた後、雅彦と夜に連れられ、スタッフ用の控室へと移動した。スタンド周辺はまだ人だかりができていて、とても外へ出られる状況ではなかった。綿はあまりにも目立つ存在だったため、外に出ればすぐに見つかってしまう。今は隠れるしかない。仮面を被る者の宿命だ。格好よく見える裏では、こっそりと動かなければならない場面も多いのだ。「ボス、今日のレース、マジで最高だったよな!」雅彦はスマホの画面を見ながら興奮していた。さっきのレース中、綿の走りを何本も動画に収めていたのだ。帰ったら、M基地の掲示板にいくつかアップしようと考えていた。「楽しかった。でも……危なかった」綿は、レース中に何度か輝明と目が合ったことを思い出し、少し憂鬱な気分になった。疑われないために、わざわざタバコまで吸った。今でも自分の体中からタバコの匂いがして、気持ち悪くて仕方なかった。その時、夜が部屋に入ってきた。「責任者が言ってた。今、会場を片付けてるところだって。あと十数分したら、車を正面玄関まで回してくれるってさ。そのまま乗り込んで出ればいい」綿は静かに頷いた。「俺、もう一回外を見てくる。あいつに怪しまれたら厄介だからな」夜が言った。夜は、やはり慎重な性格だった。ここでいう「あいつ」とは、もちろん輝明のことだった。雅彦は頷いて、夜を送り出した。綿は髪を無造作にかき上げながら、控室をぐるりと見回した。清潔で、必要なものはすべて揃っていた。右側の壁にはずらりと並んだヘルメットがかかっており、どれもスタイリッシュだった。綿が眺めていると、外で雅彦を呼ぶ声が聞こえた。スタッフが出口の確認に来たらしい。綿はソファに腰を下ろし、スマホに届いた玲奈からのメッセージを開いた。玲奈:「聞いたぞ、今日レースに出たって?」綿:「おや、さすが大スター。どこから嗅ぎつけた?」玲奈:「何言ってんの。神秘7が登場したんだぞ?あっという間にトレ