INICIAR SESIÓN夕方の光は橙に傾き、大学キャンパスの廊下には学生たちの声と足音が重なっていた。活気に満ちた空気の中で、スマホの通知音だけがひときわ軽く響く。その音に反応して立ち止まった浩人が画面を開き、瞬間、表情を変えた。
眉がわずかに動き、次いで息を吸い込む。光を受けた瞳が喜びで揺れ、胸の奥に湧き上がる熱がそのまま顔に浮かび上がる。
「……内定、出た」
声は抑えていても震えていた。学生たちのざわめきの中で、その言葉だけが隆寛の耳に鮮明に届いた。
隆寛は数歩離れた位置に立ち、浩人の横顔を見つめていた。光の中で輝くその表情は、成功の瞬間を掴んだ人間の強さに満ちている。未来が形を取り始めた人間特有のまぶしさがあった。
浩人の周りにはすぐに仲間たちが集まり、祝福の声が飛び交う。
「すげえじゃん!」
「やっぱりだと思ってたよ」
「エリートコース一直線だな」
肩を叩かれ、笑い返す浩人。その中心には彼がいて、その輪から少し離れた場所に隆寛がいた。距離にすれば数メートル。だが感覚的には、触れられないほど遠かった。
隆寛は笑おうとした。祝福の言葉を探そうとした。
けれど口の中が乾き、舌が貼りついたように動かなかった。(喜ばなきゃいけない。心から祝ってあげたいのに)
そう思っているのに、胸の奥に広がっているのは喜びではなく、重たい焦燥だった。
浩人は仲間に囲まれながらも、隆寛を見つけて歩いてきた。
視線が合った瞬間、隆寛は胸がざわつくのを感じて目をそらした。「隆寛」
名を呼ばれ、無視はできず、顔だけ向ける。
「……内定、出たんだ」
「すごいな」
言葉は出た。だが声は弱かった。
浩人はすぐに違和感に気づいた。彼は鋭い。隆寛が嬉しいとき、無理して笑うとき、迷っているとき、それら全部を表情のわずかな動きから読み取ってしまう。
「なんか、元気ない?」
その問いに、胸が一瞬ぎゅっと縮んだ。
「そんなことないよ。&helli
山門の前まで来ると、空気の冷たさが一段階変わった。境内の中よりも、外の方が、風が容赦なく肌を刺す。石畳の終わりと舗装道路の境界に、小さな段差がある。その手前で足を止めると、吐いた息が白くなって、すぐに夜の闇に溶けた。山門の外には、一台の車が停まっている。黒いボディに、外灯の淡い光がぼんやりと映り込んでいた。フロントガラスには、境内の十月桜の枝が細く影を落としている。エンジンはすでにかかっているようで、フロント部分から微かな振動と低い音が伝わってきた。道路脇の外灯は、決して明るくはない。黄味がかった光が、小さな円を地面の上に描いている。その輪の中に、浩人の影と、自分の影が落ちていた。「本日は、色々とありがとうございました」隆寛は、僧衣の袖を軽く合わせてから頭を下げた。顔を上げたとき、外灯の位置がちょうど浩人の後ろにあるせいで、彼の表情は半分影に沈んで見えた。額から鼻筋にかけてのラインだけがうっすらと浮かび、目元は暗くてよく分からない。それでも、口元の動きで、彼が少し笑ったことが分かる。「こっちの台詞だ。急に押しかけて悪かった」低く落ち着いた声。仕事で鍛えられた、取引先との会話に向ける声だと頭では分かっている。だが、耳には、大学の頃の、部屋で二人きりのときの声の温度が重なってしまう。「急に」ではない、と心のどこかが囁く。一周忌の準備という名目のもとに、何度もここに来ている。その積み重ねの延長に、今日がある。決して、今日だけが特別ではない。それなのに、こうして山門の外で向かい合っていると、「特別な夜」のように感じてしまう自分がいた。「いえ。本当に、助かっております」声を落ち着かせて返事をする。「一周忌は、寺にとっても大切な法要です。施主様と直接お話しできるのは、ありがたいことですから」形式として、これ以上なく正しい言葉。口にしながら、自分が僧侶の仮面をしっかりと被り直しているのを感じた。その仮面の内側で、別の顔が息を潜めている。短い会話が途切れた。
寺務所の戸が閉まったとき、外の空気は、思っていたよりも冷たく感じられた。紙とインクの匂いで満たされていた狭い部屋から一歩出ると、冬の夕方の空気が、肺の奥にすっと入り込んでくる。薄曇りだった空は、いつの間にか雲が切れかけていて、西の方だけが薄く赤みを帯びていた。廊下の先、玄関のあたりから、泰然の朗らかな声が聞こえてきた。「せっかくですから、境内の桜でも見ていってください。十月桜でね、今の季節もちらほら咲いているんですよ」「桜、ですか」浩人の声が、それに続く。「ええ。春ほど派手ではありませんが、冬の花もなかなか風情がありましてね。隆寛」呼ばれた名前に、隆寛は「はい」と返事をした。「野上さんを案内してあげなさい。私はちょっと檀家さんのところへ行ってくるから」父は外套を羽織りながらそう言い、草履をつっかける。玄関の引き戸が開き、冷たい外気が一瞬流れ込んできた。檀家の家へ向かうらしく、すぐに戸は閉まり、足音が遠ざかる。玄関には、浩人の黒いコートと、革靴があった。スーツの上からコートを羽織った彼は、寺の土間に立っている。その姿が、この空間の中で少しだけ浮いて見える。だが、何度か足を運ぶうちに、その違和感も薄れかけている自分がいた。「…では、少しだけ」隆寛は、僧衣の上から薄手の羽織を引っかけた。冬の空気に慣れているとはいえ、日が傾き始めると、さすがに風が骨に染みる。「外は冷えますから、お足元にお気をつけください」「ありがとうございます」浩人は、きちんと頭を下げる。玄関を出ると、石畳が山門の方へと続いている。踏み固められたその道は、昼間は陽を受けて白く見えるが、夕方になると鈍い灰色に変わる。両脇には、砂利を敷いた細い通路と、低い植え込みが続いていた。二人は、自然と並んで歩き始めた。ただし、その「並び方」は、以前とはまるで違う。肩と肩のあいだには、きちんと一人分の距離がある。腕を軽く振っても、相手の手には触れない程度の間合い。意識して保たれたその距離
寺務所の窓の外は、いつ雨が落ちてきてもおかしくないほど、白く曇っていた。冬の手前の、色を失いかけた空。薄い光だけを落としながら、どこか重さを孕んでいる。外から入ってくる光はやわらかいのに、そのやわらかさがかえって、室内の細かなものをくっきりと浮かび上がらせていた。小さな寺務所の机の上には、紙の束がいくつも積み上げられている。参列者リスト、供花の一覧、香典の振り込み明細、当日のタイムテーブル。どの紙も同じような白さをしていて、細かい文字だけが黒く並んでいる。その机を挟んで、椅子が二つ。本来なら、この寺務所には折り畳み椅子が三脚置いてある。だが今日は、父が別の檀家の納骨の対応に向かう前に、「後は任せた」と言って、自分の椅子を廊下側にずらして出て行った。残されたのは、机の片側に僧衣の男、もう片側にスーツの男だけ。「…では、このリストが現時点での参列予定者の確定分です」隆寛は、手元の紙を整え、机の中央に置いた。紙が木の天板の上で、さらりと音を立てて滑る。その音が、妙に大きく感じられた。部屋の中には、今、自分たちの気配しかないのだということを、あらためて意識させる。「ありがとうございます」浩人が、短く礼を言った。彼も椅子に座っている。椅子を引きすぎると、机から遠くなりすぎてしまう。自然と、二人の膝の位置は机の下で近づいていた。机の脚と脚の間は、それほど広くない。膝を少しでも前に出せば、互いの足がぶつかるだろう。だから二人とも、膝を揃えて、微妙な角度で引き気味に座っている。それでもなお、膝と膝のあいだの距離は、拳一つ分もあるかどうかというところだった。「…当日、香典は会社としてのものをまとめてお持ちする形でよろしいでしょうか」浩人が、紙を目で追いながら言う。「はい。その方が、受付としても取り扱いがしやすくなります」隆寛も、紙の文字に目を落とした。「個人でお持ちになる方がいらっしゃる場合は、別途、香典袋にご芳名をお書きいただくようお伝えいただければと」
最初の再訪から、一週間も経たないうちに、寺の玄関でまたスーツ姿を見ることになるとは思っていなかった。「四葉商事の野上様がお見えですよ」本堂から戻る途中、母にそう声をかけられたとき、隆寛は一瞬、自分の足が止まるのを自覚した。だが、次の瞬間には、僧衣の裾を整え、何事もない顔を作る。「分かりました。応接間ですね」「ええ。お父さん、今は檀家さんの相談中だから、少し遅れるそうよ。先にお話、伺っておいてもらえる?」さらりと言う母の口調には、特別な含みはない。少なくとも本人は、そう信じているだろう。寺にとっては大口の仕事を持ってきてくれた施主。好印象を持つのは当然のことだ。「…承知しました」声を整え、廊下を応接間に向かって歩く。板張りの床が、足裏に冷たさとわずかな湿り気を伝える。初冬の空気は、建物の中にもじわじわと入り込んでいる。応接間の襖の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。それから、手を襖にかけた。「失礼いたします」声をかけて襖を開けると、座卓の向こう側に、やはりスーツ姿の背筋の良い男が座っていた。「お忙しいところ、申し訳ありません」浩人が立ち上がりかけ、軽く頭を下げる。濃紺のスーツにグレーのネクタイ。前回とは違う色合いだが、全体の印象は変わらない。仕事の装い。寺の木の匂いの中で、その布の匂いだけが異物のように感じられる。「いえ。住職が少し遅れると聞いております。よろしければ、それまでの間、こちらで承れる範囲でお伺いいたします」自然と口から出たのは、僧侶としての、そして「副住職」としての言葉だった。浩人は、薄く笑う。「助かります。…実は、一周忌の当日の流れについて、社内で少し意見が出まして」座布団に座り直しながら、黒いビジネスバッグからファイルを取り出す。紙の擦れる音。インクと紙の匂いが、畳の上でふわりと広がる。「故人のご家族と相談した結果、会社側の挨拶のタイミングや、弔辞の順番など、いくつか調整が必要になりまして…」内容は、確かに
一周忌という言葉を、今年に入って何度耳にしただろうと、隆寛はふと思った。檀家の誰それ、遠縁の誰それ。寺に生まれ育った以上、年忌法要は日常の一部であり、特別な響きを持たないはずだった。それでも「そういえば、四葉商事か。あの会社の部長さんの一周忌でね」と父が口にしたとき、胸の奥で何かが小さく跳ねた。「去年のお葬式に来てくれた、あの野上さん。また来られるそうだ。会社としてのご相談だと」寺務所で帳簿を見ていた手が、紙の上で止まる。「…そうですか」自分でも驚くほど、声は平板に出た。抑揚を削ったのは、意識的な操作というより、身体の防衛反応に近い。父・泰然は、息子の内側に起こった反応など知る由もなく、いつもの穏やかな口調で続ける。「応接間の方、整えておいてくれ。母さんは台所で手一杯だろうし、茶はお前に頼む」「分かりました」いつもどおりに返事をすると、泰然は満足げに頷き、別の用事に向かった。季節は初冬。山門から見える山肌の木々は、赤や黄をとうに手放していて、枝先だけが細く空に伸びている。風はもう冬の冷たさを含んでいるが、まだ刺すほどではない。昼下がりの陽射しは弱く、しかし、障子を透かすと部屋の中に柔らかな光の帯を落とした。応接間に入ると、紙と畳と古い木の匂いが鼻に満ちる。低い座卓の位置を少し整え、座布団を四枚、きちんと並べる。来客用の座布団は、新しい藍のカバーがかかっており、自分が普段使うものよりもいくぶんふかふかしている。隆寛は、窓際の障子を半分だけ開けた。西日の角度が、ちょうど座卓の端にかかるくらいになる。眩しすぎず、暗すぎず。客の顔がよく見えるようにという、寺の応接間で自然に身についた癖だった。「…会社としてのご相談、か」口の中で繰り返してみる。現実味のない言葉に、少しずつ輪郭が与えられていく。野上浩人。その名前を、意図的に思い浮かべないようにしてきた時間は長い。六年前、大学を卒業する前夜に別れてから、意識の表層に上がってくるたび、座禅の呼吸で押し戻してきた。それなのに、去年
護摩堂の戸が閉じられたとき、外の空気がこんなにも冷たいものだったかと、隆寛は思った。さっきまで肌を刺していた火の熱が、急激に奪われていく。頬に当たる夜風は鋭くはないが、火照った皮膚には十分すぎるほど冷たく感じられた。吐いた息が白くなり、すぐに闇に溶けて消える。足元は暗い。石畳の上に落ちた影が、ぼやけて揺れている。護摩行を終えた修行僧たちは、皆、言葉少なに寮へと戻っていく。袂が擦れる音と、草履が石を踏む音だけが、小さく続いた。隆寛は、列の少し後ろを歩いていた。頭の芯がまだ熱い。額には薄く汗が浮かんでいるのに、首筋には冷たい風が入り込み、ぞくりと身震いさせる。火の熱が身体の外側を焼き、今は冷気がその上を撫でている。温度だけで言えば、体は疲れきっているのに、胸のあたりは異様に冴えていた。護摩壇の前で見ていた炎の残像が、まだ目の奥にこびりついている。まぶたを閉じても、赤い光がちらつく。開けても、暗い境内の隅に、揺らめく影が見える気がした。「…寒」隣で誰かが小さく呟いた。声の主は慈遠だった。彼もまた護摩行に参加していた一人だ。息を白くしながら、肩をすくめている。「焚き火ってさ、離れた瞬間が一番寒いよな」ぽつりと落とされた言葉は、冗談のようでいて、どこか自分の今の状態を言い当てられたようにも感じられた。隆寛は、返事をしなかった。声を出す余裕が、うまく見つからない。ただ、少しだけ顎を引き、前を歩く背中を追う。寮の灯りが見えてきた。窓から漏れる柔らかな光が、雪も霜もない夜の庭をぼんやりと照らしている。建物の輪郭が浮かび上がると、不思議と肩が重くなった。ここに戻れば、今日一日は終わる。終わるはずなのに、終わりがどこにも見えない。玄関で草履を脱ぎ、板張りの廊下に足を乗せる。火照った足裏に、冷たい木の感触が伝わってきた。さきほどまで炎の前で感じていた熱を、木の床がすうっと吸い取っていくようだった。廊下も静かだ。護摩行を終えた他の僧たちが、それぞれの部屋に戻っていく足音が、遠くでしている。どこかの扉が開いて閉じる音。水の流れる音。短い咳払い。