FAZER LOGIN呼び捨てにされたことに腹を立てたのか、男の部下が凄んで殴りかかろうとした。だが、トムがそれを声で制止する。トムは葉巻をくわえたまま立ち上がり、景凪の前まで歩み寄ると、芝居がかった手つきで軽く頭を下げた。「申し訳ありまセンね、穂坂サン。ウチの連中は粗野な者ばかりでしテ。怖がらせてしまいマシタね?」反吐が出そうだった。人の命を虫ケラのように奪うテロリストの親玉が、紳士ぶって見せるとは。だが、もちろん口には出さない。人質の身代わりとしてここに来たが、自ら命を捨てるつもりなど毛頭なかった。「トムさん。私とあなたに接点などないはずよ。三百六十六人もの命と引き換えにしてまで私を求めた目的を、そろそろ教えてもらえないかしら」トムは不気味な笑みを浮かべた。「焦らナイデ。話す時間はたっぷりありマス。どうぞ、お掛けくだサイ」景凪は指示されたソファに目をやり、先ほど打ちつけた膝をかばうようにして、足を引きずりながらゆっくりと歩き出した。すると、それを見たトムの顔色が一変した。まるで最大の危機に直面したかのように目を見開く。「穂坂サン、その足は道中で怪我を?それとも……」景凪は、自分を甲板から乱暴に引きずってきた男を冷めた目で見やり、淡々と答えた。「あなたの大変優秀な部下のおかげよ。ここに着く前に、危うく足を折られるところだったわ」言い終わるか終わらないかのうちに、トムの顔からスッと表情が消え失せた。次の瞬間、彼は卓上の分厚い灰皿を鷲掴みにするなり、部下の頭めがけて力任せに殴りつけた。鈍い破砕音と共にガラスの破片が飛び散り、部下の頭部から鮮血が噴き出す。あまりに唐突な凶行に、景凪は息を呑んで立ちすくんだ。だが、男の狂気は終わらない。トムはすぐさま傍らにあった鉄パイプを拾い上げ、うずくまる部下の脚に向かって無慈悲に振り下ろした。一撃、また一撃。骨の砕ける嫌な音が室内に響き渡る。男の絶叫を聞きながら、景凪は恐怖で呼吸さえ忘れていた。やがて部下の脚が完全にあり得ない方向に折れ曲がると、トムはようやく鉄パイプを投げ捨てた。そして、周囲で青ざめている別の部下たちに、床に転がる男を引きずり出すよう冷酷に命じる。「申し訳ありまセン、穂坂サン」トムは手に飛び散った血をハンカチで悠々と拭いながら、実に誠実そうな口調で景凪に向き直った。「
須藤は前方の三隻を鋭く睨みつけながら、手元のトランシーバーに向かって冷徹な声を放つ。「穂坂さんは連れてきた。トム、約束の人質はどうした?」トムはスピーカー越しに気味の悪い笑い声を上げた。「須藤隊長、長い付き合いなのに、まだ私のことを信用してくれないんですカ。私ハ、約束は守る主義でしてネ」合図があったかのように、左右に停泊していた二隻の甲板に、後ろ手で縛られた大勢の人質が引きずり出された。女性や子供の姿も混ざっている。怯える群衆の中に、景凪は兄弟子である文哉の姿を認めた。ひどく痩せこけ、服はボロボロに汚れ、目を覆いたくなるほど憔悴しきっていた。「文哉先輩!」景凪はたまらず声を上げた。文哉は最初、空耳かと思ったようだった。しかし声のした岸辺に景凪の姿を認めると、信じられないというように目を見開く。「景凪……?どうして、君がこんな所に!」景凪が答える間もなく、スピーカーからトムの急かすような声が響き渡った。「人質の無事は確認できマシタね。さあ、穂坂サンをこちらへ。そうすれば彼らを解放しマス」文哉はハッとした。景凪が自分たちの身代わりとしてここへ来たのだと悟り、血相を変えて叫ぶ。「景凪、来るな!こいつらは……!」だが、言葉は最後まで続かなかった。背後に立っていたテロリストが、無慈悲に銃床で文哉の頭を殴りつけたのだ。意識を刈り取られた文哉の体は、そのままゴミのように海へと蹴り落とされる。そのあまりに凄惨な光景に、隣にいた子供が恐怖の悲鳴を上げ、母親の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。「先輩!」景凪が絶叫し、思わず駆け出そうとしたのを、須藤が強く腕を掴んで引き留めた。すぐさま待機していた隊員の一人が海に飛び込み、文哉の救出に向かう。頭に血が上り、全身が小刻みに震えていた。景凪は須藤の手からトランシーバーを奪い取るように掴み、怒りをぶつけた。「ふざけないで!私はここに来たわ!人質は全員、無事に船から降ろしなさい!」悲痛な叫びに対し、トムはどこ吹く風で、悪びれる様子もなく答えた。「穂坂サン、そう怒らナイデ。私の部下は少々短気でしテね。おとなしく従わない豚にハ、こうして躾をするコトになってるンです。ご安心ヲ、あなたの友人は死にマセンよ。……ただ、これ以上グズグズされるなら、部下たちの銃口が火を噴かないトハ保証できまセンが
深雲にすがりつこうとした両親を、海舟が容赦なく引き剥がした。「気安く触るな!ここはあなたたちの村ではありませんよ。これ以上暴れるというなら、罪が重くなるだけです!」海舟の冷ややかな警告が飛ぶ。深雲はこれ以上時間を無駄にする気もなく、長い脚を踏み出してその場を立ち去ろうとした。「深雲さん!」玲凪が慌てて小走りで追いかけてくる。深雲は足を決して止めず、氷のように冷たい声で言った。「もし両親の情状酌量を頼みに来たのなら、弁護士に手を引かせてやってもいい。だが、君と会うのはこれで最後だ」貧しいこと自体は構わない。深雲のような人間からすれば、美しい女が貧しいのは、かえって都合が良いことすらある。だか、面倒を持ち込む女は御免だった。「深雲さん、誤解です」玲凪が深雲の服の裾を掴んだ。彼を引き留めるほどの力はなかったが、深雲はピタリと足を止め、自分の袖口をきつく握りしめるその指先に視線を落とした。ゆっくりと振り返り、玲凪を見下ろす。玲凪は真剣な面持ちで口を開いた。「お礼を言いたかったんです。それと……あんな見苦しいところをお見せしてしまって、ごめんなさい」彼女は自嘲気味に、苦しげな笑みを浮かべた。「あなたの前では、少しでもちゃんとした人間でいたくて。せめて、あんな家庭で育ったことだけは知られたくなかったんです」玲凪は小さく唇を噛み、少しだけ顔を上げ、絞り出すような声で言った。「深雲さん……どうか、私を見捨てないでください」その恐る恐る窺うような視線。深雲はしばらく彼女の顔をじっと見つめていたが、やがて静かに手を伸ばし、赤く腫れ上がった彼女の頬にそっと触れた。「また時間が空いたら、食事に来よう」深雲の声は、先ほどとは打って変わって優しく響いた。玲凪はパッと顔を輝かせ、力強く頷いた。「はい!」彼女はその場に立ち尽くし、深雲の背中が見えなくなるまで見送った。やがて口元の笑みがゆっくりと消え、代わりに、氷のような冷静さと久しく感じていなかった安堵感が顔に広がった。ようやく……ようやく、あの呪縛から逃れられたのだ。振り返ると、大柄な警備員二人に両親が乱暴に引きずり出されているところだった。「娘に会いに来たって言うから通してやったのに、他人の敷地で騒ぎを起こしやがって!」警備員が容赦なく怒鳴りつける。自分にとってはあれ
深雲の「金で解決する」という言葉を聞いた両親の目は、欲にまみれてギラギラと光った。「結納金は400万円だったんで……」口火を切った母親の腕を、父親が慌てて引っ張って止め、深雲に向かって揉み手すり手がらんばかりの卑しい笑みを見せた。「いやあ、深雲さんとか言いましたね。お金持ちのお兄さんには想像もつかねぇでしょうが、うちらみたいな田舎の夫婦が、女ん子を一人ここまで育て上げるのは、そりゃあ大変な苦労だったんで!」父親は言葉の端々で深雲の顔色を窺いながら、あくどい計算を巡らせていた。玲凪は、父親のこの底なしの強欲さをこれでもかというほど知っていた。抑えきれない欲の深さが目から溢れ出し、皺だらけの顔を醜く歪ませている。以前は、この計算高くがめつい面を人前で晒されるのが何より耐えられなかった。二人が学校へ押しかけてくるたびに、玲凪は大勢の面前で赤恥をかかされたものだ。大声で喚き、下品に振る舞い、口を開けば金の無心。少し新しい服を着ていただけで、人前で散々罵倒される……だが今となっては、不思議なことに、この醜く貪欲な姿にすら感謝の念が湧いてくる。玲凪は深雲の端正な横顔をひそかに盗み見た。彼の瞳の奥には、隠しようのない軽蔑と嫌悪が浮かんでいる。深雲は冷ややかな目で男を見下ろした。「それで、要求は?」父親は、ごつごつした黒い五本の指を広げて見せた。「1千万だ!結納金に色をつけて、こいつを今まで養ってきた親の苦労代も込みだ」深雲は呆れ果てて鼻で笑った。「1千万?つまり、娘を俺に売り飛ばすってことか」金額を吹っかけすぎて払ってもらえないと焦ったのか、母親がヒステリーを起こして甲高い声で喚き立てる、いつもの厄介な常套手段に出た。「あのねぇ!アンタがうちの娘とどういう関係か、こっちはお見通しなんだよ!アンタだってそこそこの立場なんだろ?慰謝料払わないんなら、会社に乗り込んでやるからね!そんで、アンタがうちの娘を騙して手にしたって言いふらしてやる!そうなったら、あんたの人生もおしまいだよ!!」……いいぞ。玲凪は、思わず上がりそうになる口角を必死で噛みしめた。両親は以前にも同じ手を使ったことがある。高校を卒業した年の夏休み、玲凪は小遣い稼ぎのために、クラスメイトの男子生徒の家庭教師を引き受けた。その男子生徒は早瀬悟史(はやせ さとし)と
深雲が無意識に視線をやると、画面には『お母さん』という文字が表示されていた。玲凪が素早く着信を切るが、すぐにまたかかってくる。すると、彼女は躊躇いなくスマートフォンの電源を落としてしまった。深雲は片眉を上げて尋ねた。「出ないのか?」「……出ません」玲凪は短く首を横に振った。深雲の興味はそこまでだった。それ以上追及することはなく、玲凪も理由を説明しようとはしなかった。深雲は、彼女のこういう「面倒を持ち込まない」利口さを気に入っていた。食事が終わると、深雲は帰る支度を始めた。「深雲さん、ちょっと待ってください!下までお見送りします。どうせ食後の散歩もしたかったですし」玲凪が慌てて引き留め、後片付けを済ませるのを、深雲はドアの枠に寄りかかって待っていた。やがて二人でエレベーターを降り、エントランスの外に出た直後だった。突然、古びたダウンジャケットを着た野暮ったい中年夫婦が、目の色を変えて玲凪に突進してきた。「この親不孝者が!電話の電源まで切りやがって!自分だけこんな立派なマンションに住んで、親兄弟のことは知らんふりする気かい!」女の甲高い怒声が、強烈な訛りとともに響き渡る。深雲は軽く眉をひそめ、一瞬で状況を察した。これが、先ほど玲凪が話していた両親だろう。父親と思しき男は片足を引きずっていたが、その分剣幕は凄まじかった。痩せこけて日に焼けた顔には、深いシワが溝のように刻まれている。「だから都会の大学なんか行かせるんじゃなかったんだ。少しばかり学がついたからってつけ上がりやがって、実家にも寄り付かねえ!」玲凪は顔を真っ赤にして叫び返した。「絶対に帰らない!お見合いも結婚も嫌だって言ったじゃない!」「もう結納金も受け取っちまったんだぞ!村長の息子ならお前に苦労はさせねえよ。さっさと来い!」他人の家の揉め事に首を突っ込む気はなかった深雲だが、男が実力行使に出て玲凪の髪を掴もうとしたのを見て、反射的にその手首をガシッと掴み上げた。「ここはあんたたちの田舎じゃない。話があるなら言葉でやれ。手を出すな」深雲の低い声には、人を射すくめるような冷たさがあった。大柄で圧倒的なオーラを放つ深雲の前に、娘には偉ぶっていた父親もあからさまに気圧された。「な、なんだお前は!人の家のことに口出しするな!離せ!」男は負けじ
「研時!」深雲の低い声が、冷たく凍りついた。地雷を踏んだと悟った研時は、慌ててトーンを落とす。「悪かった、今の言葉は取り消す!お前の大事な元奥さんは、絶対に無事生還するさ」深雲は深く息を吸い込み、強引に渡の話題へと引き戻した。「今、黒瀬渡がどこにいるかわかるか?」少し間を置き、さらに問う。「それから、あの小松原茜という女だ。アイツとは一体どういう関係なんだ?」「俺が居場所なんて知るわけないだろ。だが、一つだけ確かなことがある。小松原茜はまだA市にいて、おそらく黒瀬渡のそばにいるはずだ。関係ね……ハンッ、どういう関係だと思う?黒瀬渡が黒瀬の跡継ぎとして初めて公の場に姿を見せた時、エスコートしていたのは穂坂じゃなく小松原茜だったんだぜ」研時は面白がるように鼻で笑った。「つまり、黒瀬渡は穂坂との関係を一度も公には認めていないってことだ。それにしても、穂坂もある意味で『一途』だよな。かつてはお前を追いかけ回して鷹野家に嫁いだかと思えば、離婚した途端、今度は黒瀬に乗り換えるんだから。……まあ、黒瀬渡のような男と遊びで渡り合うには、穂坂じゃまだ甘すぎる気がするがね」不快そうに眉をひそめ、深雲は語気を強めて訂正した。「ずっと景凪を追いかけ回していたのは、黒瀬渡の方だ!」「なあ深雲、今のお前が穂坂にかなり執着しているのはわかる」研時は少し嘲るような口調で言った。「だが、俺たち男の性(さが)ってやつを考えろ。手に入らないうちは最高に思えても、一度自分のものになれば、どれだけ美化されていた女でもただのありふれた女に成り下がる。もし黒瀬渡が本気で穂坂を大切に思っているなら、人質としてあんな危険な場所へ向かわせると思うか?」「……」深雲は言葉に詰まった。電話を切り、掌の上のスマートフォンを見つめる。暗転した画面には、眉間を深く寄せた自分の顔が鏡のように映り込んでいた。——そうだ。黒瀬渡がその気になれば、景凪を止めることなど造作もなかったはずだ。それなのに止めなかったということは、答えは一つしかない。景凪のことなど、どうでもいいのだ。彼女が傷つこうが、危険な目に遭おうが、知ったことではないのだから……そう行き着いた瞬間、深雲の胸の奥から奇妙な高揚感が湧き上がってきた。どこが純愛だ?どこが一途だ?あの男の景凪に対する想いなど、俺が彼女
彼女は太い木の棒を二本探し出すと、それを扉に突っ張らせて簡易的な閂(かんぬき)にした。渡は背後からその様子をじっと見守っていた。彼女が一度たりとも、その手のナイフを離さないことを。扉を固く閉ざし終えると、景凪はようやく渡のそばへ歩み寄った。壁に耳ありという言葉が脳裏をよぎり、彼女は声を極限まで押し殺した。「……あの人たち、指名手配犯よ。油断しないで。仲間のひとりが銃傷を負っていて、かなり容態が悪いの。私の治療が必要なうちは、手を出してこないはず。今夜さえしのげば、明日は佐藤刑事たちがきっと見つけてくれる……」独り言のように一気にまくしたてる景凪。だが、彼女自身は気づいていな
そして土間からマッチを持ち出し、躊躇なく物置に火を放った。乾燥した藁の山にあっという間に火が回り、瞬く間に炎の舌が建物を舐め尽くす。もうもうと立ち上る黒煙と熱波。極悪人を憐れむつもりはないが、生きたまま焼き殺すほどの非情さは、人の命を救う医師としての矜持が許さなかった。この火の手が上がれば、悠斗たちや警察が駆けつけるだろう。逆に、熊代のような逃亡犯は、居場所が露見するのを恐れて近づかないはずだ。もっとも、仲間を見捨てるような人間かどうかまでは賭けられないが。「行くわよ」景凪は渡の体を支え、煙の中を抜け出した。「ここへ来る途中で地形を見ておいたの。この先に背の低い草むらが続い
景凪は元来た道を戻り、エレベーターで一階に降りるつもりだった。だが、運悪く、エレベーターホールに着いた途端、扉は閉まり、箱は階下へと去っていってしまう。すぐ隣には、金箔が施された豪奢な螺旋階段があった。美しい木で組まれたその階段は、ただそこにあるだけで、美術品のような価値を放っている。どうせ三階から降りるだけだ。景凪は迷わず階段を選んだ。しかし、二階の踊り場に差し掛かったところで、通路の反対側から出てきた研時と鉢合わせになった。もちろん、研時も景凪の姿を認めている。彼が二階へ上がってきたのは、化粧室を利用するためだった。だが、本当はそれだけではない。わざとラウンジを通り抜け、深
姿月からの伝言を受け取った真菜は、すっかり舞い上がっていた。スマホを置くなり、すぐにその朗報を周囲に広める。「姿月が今から鷹野社長を連れてここに来るって!」やっぱり、社長にとって一番大事なのは姿月なのね、と真菜はほくそ笑む。真菜はぴたりと閉まった大扉を一瞥し、目の奥に勝ち誇った光を浮かべた。もうすぐ鷹野社長が来る。今度こそ、景凪のやつ、どんな目に遭うか見ものだわ。……研究室の中で、景凪は朝からずっと忙しく働き通しだった。ようやくメガネを外し、こわばった首筋を揉みほぐす。何気なくスマホを手に取ると、深雲からの不在着信が4件――一番新しいものは、たった三分前についていた







