LOGIN高校卒業を目前に控えた夏、早坂有紗は同級生・桐生篤からの告白を予感しながら、自ら距離を置いた。理由は誰にも言えなかった――母の病気だ。それから十年。地元で花屋を営む有紗の前に、再開発事業の担当者として篤が現れる。かつて何も言えなかった相手と、今度は「事業者」と「住民」という立場で向き合うことになった二人。仕事の対立の中で少しずつ本音がこぼれ始めるが、母の容体、篤の婚約者の存在、会社の思惑が絡み合い、簡単には進めない。十年前と同じように離れようとする有紗と、それを見過ごせない篤。二人が最後にたどり着くのは、対立でも妥協でもない、もう一つの選択だった。
View More体育館の裏、桜の蕾もまだ固い三月の夜だった。
早坂有紗《はやさかありさ》は、コートの前をかき合わせながら、校舎の非常階段に座っていた。明日には卒業式がある。制服を着るのも、あと一度きりだ。 「こんなところにいたのか」 声に振り返ると、桐生篤《きりゅうあつし》が息を切らして立っていた。前髪が汗で額に張りついている。きっと教室から探し回ってくれたのだろう。 「……何か用?」 有紗は、努めて何でもない声を出した。篤が何を言おうとしているのか、わかっていた。わかっていたからこそ、逃げてきたのだ。 篤は階段を三段のぼり、有紗より少し高い位置で足を止めた。夜風が二人のあいだを通り抜けていく。 「有紗、俺──」 「篤くん」 有紗は先に言葉を挟んだ。続きを言わせてはいけない、と思った。もし篤が想いを口にしてしまえば、自分はきっと頷いてしまう。頷いてしまえば、後戻りできなくなる。 母の病気のことは、誰にも話していなかった。話せば「かわいそうな子」になる。同情されるくらいなら、いっそ誰にも知られたくなかった。そしてもし篤と付き合うことになれば、いずれ知られてしまう。母を支えながら誰かと恋をする余裕なんて、自分にはない。そう思い込んでいた。 「わたし、進路変えたの。東京の専門、やめた。地元の花屋さんで働くことにした」 用意していたわけではない言葉が、するりと口から出た。篤の表情が固まる。 「……急だな。何かあったのか」 「別に。ただ、地元の方が向いてる気がしただけ」 嘘だった。篤はしばらく有紗の顔を見つめていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。誠実な人だから、有紗が「それ以上聞かないで」と背中で語っているのを、感じ取ってしまったのだろう。 「そっか」 短い言葉だけを残して、篤は階段を下りていった。振り返ることはなかった。 有紗は、篤の背中が見えなくなるまで動けなかった。言えなかった。母のことも、本当は自分がどう思っているかも。 ──ごめんね。 声にならない謝罪だけが、三月の夜に溶けていった。 十年後。 「有紗ちゃん、そこの薔薇、もう少し前に出したほうが目立つんじゃない?」 「あ、ほんとだ。ありがとう沙織《さおり》」 早坂有紗は花束の位置を直しながら、開店準備の手を止めなかった。商店街の一角にある小さな店、「フルール・アリサ」。三年前、母の入院費を工面するために始めた花屋だが、今では常連客もついてきている。 親友の森田沙織が、隣の美容室から顔を出してからかうように笑った。 「今日も朝から気合入ってるね。誰か来るの?」 「別に誰も来ないよ。ただの月曜日」 そう言いながら、有紗は店先に「本日の花」の黒板を出した。三月の陽射しは、まだ少し肌寒い。あの卒業式の夜からちょうど十年が経つのだと、ふと気づいて、有紗は自分でも驚いた。 十年。母の由美子は、今も当時の後遺症と付き合いながら暮らしている。以前ほど重くはないが、無理はできない。だから有紗は、店の営業と母の介護を、ほとんど一人で担ってきた。それが当たり前になっていて、寂しいと思う暇もなかった。 「有紗、そういえば聞いた?」沙織が声を落とした。「うちの商店街、再開発の話が本格的に動いてるって」 「再開発?」 「なんか、駅前から続く区域が対象になるって噂。この前、説明会の案内が回覧板で回ってきたでしょ」 「ああ……それ、正直まだちゃんと見てなくて」 有紗は正直に答えた。店と母のことで手一杯で、回覧板の内容までは頭に入っていなかった。 その時、控えめにドアベルが鳴った。 「すみません、少しいいですか」 聞き覚えのある声に、有紗の手が止まった。 振り返ると、スーツ姿の男性が、戸口に立っていた。記憶より少し大人びた輪郭。だが、その少し困ったような目元は、十年前から変わっていなかった。 「……篤くん?」 「久しぶり、有紗」 桐生篤は、名刺を差し出しながら、どこか気まずそうに笑った。 「実は今日、この辺りの再開発事業の担当で回ってて……有紗の店だって、看板見て気づいた」 有紗は差し出された名刺を受け取った。「都市開発一課 桐生篤」の文字が、蛍光灯の下で妙にはっきりと見えた。 十年前、何も言えずに離れた相手が、今度は「事業者」として目の前に現れている。有紗は名刺を握りしめたまま、次に何を言えばいいのか、しばらくわからなかった。商店街のアーケードに、新しい看板が掲げられたのは、桜が散り始めた頃だった。 〈フルール商店街 リノベーションプロジェクト 第一期完成〉 半年前まで空き店舗だった一角には、木の温もりを活かした小さな工房やカフェが並んでいる。古い建物の骨組みを活かしながら、新しい息吹を吹き込んだ空間は、当初案とはまったく違う表情を見せていた。 「有紗さん、花、届きました!」 健太が台車を押しながら、フルール・アリサの店先にやってきた。花屋も、リノベーションの一環で少し店構えを新しくしていた。大きなガラス窓から差し込む光が、店内の花々を鮮やかに照らしている。 「ありがとう、健太くん。すっかり、頼れる大工さんね」 「まだ見習いですけどね」 健太は照れくさそうに笑いながら、花の箱を運び入れた。あの模型作りをきっかけに、健太は本格的に大工の道を目指し始めていた。 店の奥では、朋子が新しいプロジェクトの収支報告書をまとめている。乾物屋の主人は、リノベーションされた店先で、常連客と楽しそうに話し込んでいた。 「有紗ちゃん、今度の夏祭り、うちの店も出店枠もらえるかい」 「もちろんです。楽しみにしていてください」 商店街には、以前よりも多くの人通りが戻っていた。地元のフリーペーパーに載った沙織の記事がきっかけで、近隣の街からも「あの再開発の商店街」として、若い世代の客が訪れるようになっていた。 昼過ぎ、篤が工事現場の視察を終えて店に顔を出した。設計事務所を辞め、この春から独立して、商店街のプロジェクトを専属で手がけるようになっていた。 「現場、順調か」 「うん、第二期の工事も、来月には始まるって」 「かすみからLINEが来てたよ。今度、視察がてら遊びに来たいって」 「うん、私にも連絡来てた。楽しみにしてる」
かすみが地元の駅に降り立ったのは、報告会から一週間後のことだった。 有紗は店の前でかすみを待っていた。会うのは、あの夏、かすみが現地を訪れて以来だった。あのときのかすみは、静かな覚悟を纏いながらも、どこか痛みを堪えているように見えた。今、目の前に立つかすみは、あのときとは違う、澄んだ表情をしていた。 「お忙しいところ、ありがとうございます」 かすみが丁寧に頭を下げた。 「いえ、こちらこそ。中で、お茶でも」 店の奥の小さな休憩スペースに、二人は向かい合って座った。有紗が淹れたお茶からは、湯気がゆっくりと立ち上っていた。 「対案、採用されて本当によかったです」 「かすみさんの企画も、力になったって篤くんから聞きました。住民の声を可視化する企画……」 「いえ、あれは私が自分のためにやったことです」 かすみは静かに首を振った。 「広報担当として、会社のやり方に、ずっと違和感を持っていました。篤くんのことがあってもなくても、いつかは声を上げていたと思います。ただ……」 かすみは、お茶を一口飲んでから続けた。 「篤くんのおかげで、その違和感に、ちゃんと向き合う勇気をもらえたのは事実です」 有紗は黙って、かすみの言葉に耳を傾けた。 「今日、伺ったのは、きちんとご挨拶をしたかったからです」 かすみは背筋を伸ばし、有紗をまっすぐに見た。 「篤くんのこと、大事にしてあげてください」 その言葉に、有紗は胸が締め付けられるのを感じた。 「かすみさん……」 「正直に言うと、悔しくなかったと言えば嘘になります。でも、篤くんが本当に大切にしたいものが何なのか、現地に来て、皆さんの様子を見て、よく分かりました」
東京から地元に戻る新幹線の中、有紗はスマートフォンで沙織にメッセージを送った。 〈採決、通った。対案でいくことになった〉 返信は、驚くほど早く届いた。 〈は!? 本当に!? みんなに伝えていい!?〉 〈うん、お願い〉 窓の外を流れる景色を眺めながら、有紗は隣に座る篤の横顔をちらりと見た。篤は資料を整理しながらも、時折こちらに視線を向けては、照れたように目を逸らしていた。 「明日、商店街のみんなに報告会をしようと思う」 「俺も行っていいか」 「当たり前でしょ。責任者なんだから」 駅に着くと、改札の外に沙織が待っていた。有紗の姿を見つけるなり、駆け寄って抱きついてくる。 「やった……! 本当に、やったね!」 「沙織のおかげだよ。ずっと支えてくれて」 「何言ってんの。これは有紗が、自分の足で掴んだことだよ」 沙織は篤にも気づき、少し意地悪な笑みを浮かべた。 「桐生くんも、お疲れ様。……で? 二人の関係は、結局どうなったわけ?」 有紗と篤は、顔を見合わせて赤くなった。沙織はそれだけで察したらしく、満足そうに頷いた。 「まあ、聞かなくても分かるけどね」 翌日、対案本部には商店街の人々が集まっていた。乾物屋の主人、雑貨屋の女将、健太、朋子、そして由美子も杖をついて顔を出していた。 「報告があります」 有紗が前に立つと、部屋の空気が張り詰めた。 「昨日、東京の役員会で、私たちの対案が正式に採用されることが決まりました」 一瞬の静寂のあと、部屋中から歓声が上がった。健太が模型を抱きしめ、朋子は目に涙を浮かべ、乾物屋の主人は隣の雑貨屋の女将
役員たちの間で、小さく言葉が交わされる。篤には、その内容までは聞き取れなかった。ただ、心臓が痛いほど脈打っているのが分かった。 専務が、テーブルの端から順に視線を送っていく。一人、また一人と、小さな頷きが返っていく。 「反対の方は」 専務の問いに、手を挙げた役員は二人だけだった。当初案に強くこだわっていた古参の役員たちだ。だが、その他の役員たちは誰も手を挙げなかった。 「賛成多数、と見ていいだろう」 専務がそう言った瞬間、篤は自分の手が震えていることに気づいた。隣で、有紗が小さく息を呑む音が聞こえた。 「ただし」 専務は続けた。 「条件がある。工期とコストについては、改めて詳細な計画書を提出すること。それから──」 専務は篤と有紗を交互に見た。 「住民側の窓口として、早坂さん、あなたにも正式に協力してもらいたい。この案は、会社だけでも、住民だけでも、成立しないものだ。両方が手を取り合って初めて形になる」 「……はい。喜んで」 有紗の声は、わずかに震えていた。 「桐生」 「はい」 「この案の責任者は、引き続き君に任せる。今度こそ、最後までやり遂げろ」 「ありがとうございます」 篤は深く頭を下げた。隣で、有紗も同じように頭を下げているのが分かった。 会議室を出ると、廊下の窓から差し込む光が、いつもより眩しく感じられた。 「終わった……のか」 篤がぽつりと呟くと、有紗が隣で小さく笑った。 「終わったんじゃないよ。これから、始まるの」 その言葉に、篤ははっとした。 「そ