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第298話

Author: 花辞樹(かじじゅ)
「私の娘に指一本でも触れてみなさい。あなたたち、誰一人としてこの部屋から出られると思わないで」凛と響く、冷たく怒りを帯びた声。

その声に、清音は思わずびくりと首をすくめた。だが、入口に立つ景凪の姿を認めると、鼻の奥がつんとして、涙がこぼれそうになる。

景凪が、そっと清音に手を差し伸べた。

ほんの少しの間ためらった後、清音は母親の元へ駆け寄り、その腕の中に隠れる。

残された二人の母親、莉奈ともう一人――美園亜紀(みその あき)――は顔を見合わせ、値踏みするような不躾な視線を景凪に向けた。

「あなたが、鷹野清音の母親?」

「ええ」景凪もまた、ソファに座る二人の男の子へと目を向けた。清音と同じくらいの歳だろうか。二人とも、顔には痛々しい殴られた跡が残っている。

「たくっ、あんたの娘がうちの子たちをこんなにしたのよ!今日、ちゃんと落とし前つけてもらわないと、承知しないからね!」莉奈が金切り声を上げた。

ちょうどそのとき、森屋先生が慌てた様子でトイレから戻ってきた。

清音を庇うように立つ景凪の姿を見て、彼女が誰であるかを即座に察する。

「景凪さん、やっと来てくださったんですね」

景凪は片手で清音を抱き寄せたまま、森屋先生に向き直った。「先生、一体どういうことでしょうか。うちの清音は、理由もなく人様に手を上げるような子ではございません」

その口調には、微塵の揺らぎもなかった。

清音は思わず、母親の顔をそっと盗み見る。胸の内に広がる、言葉にできない温かい感情。ただ黙って、景凪の腕をぎゅっと抱きしめる力が強くなった。

森屋先生が口を開くより先に、莉奈と亜紀が、それぞれ泣いている息子の腕を掴んで景凪の前に突き出した。

「このクソガキが人を殴らないですって?うちの息子がどんな目に遭ったか、その目でよく見なさいよ!」

「そうよ!うちの子にもしものことがあったら、鷹野の名にかけても許さないから!鷹野家がいくら大きいからって、何でも思い通りになると思ったら大間違いよ!私たちだって、泣き寝入りするほど弱くはないんだからね!」

この幼稚園に通う園児は、誰もがそれなりの家柄の子供たちだ。

鷹野家にこそ及ばないものの、だからといって、理不尽を黙って飲み込むような家は一つもない。

景凪は、「クソガキ」という罵声が飛んだ瞬間、咄嗟に清音の耳を手で覆っていた。

「ど
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