ログイン翌朝、上海の新聞各紙は銀行強盗事件を一面で報じた。『申報』は「中国銀行襲撃——反帝国主義運動の一環か」という見出しを掲げ、『字林西報』は「租界の治安悪化——警察の対応に疑問」と批判的な論調を展開した。
ハリソンは警察署の自分の机で、それらの新聞を読み比べていた。中国語の新聞と英語の新聞では、まるで違う事件を報じているかのようだった。
「ハリソン、署長が呼んでいる」
同僚のウィリアムズが声をかけた。ハリソンは立ち上がり、署長室に向かった。
ロバート・スミス署長は、六十歳を過ぎた老練な警察官だった。上海に三十年以上勤務し、この街のあらゆる裏も表も知り尽くしている。
「座りたまえ、ハリソン。昨日の事件だが、進展はあるか?」
「目撃証言を整理していますが、矛盾が多く、まだ犯人の特定には至っていません」
「そうか。ところで、君はこの事件をどう見ている?」
ハリソンは慎重に言葉を選んだ。
「被害額から見て、計画的な犯行です。だが、中国銀行を狙ったという点が引っかかります。もし金が目的なら、外国系の銀行の方が警備が手薄です」
「つまり、政治的動機があると?」
「可能性は否定できません」
署長は窓の外を見た。外灘の景色が広がっている。
「ハリソン、君は理想主義者だ。それは悪いことではない。だが、この街で生き残るには、現実を見る目も必要だ」
「どういう意味ですか?」
「この事件には、深入りしない方がいい。すでに上からの圧力がある。穏便に処理しろ、とね」
ハリソンは眉をひそめた。
「それは捜査を打ち切れということですか?」
「そうは言っていない。だが、あまり熱心にやりすぎるな。この街には、我々が触れてはいけない領域がある」
ハリソンは立ち上がった。
「署長、私は法の執行者です。犯罪者を捕まえることが私の職務です」
「その法が、誰のための法なのか、よく考えることだ」
ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼は拳を握りしめた。
正義とは何だ? 法とは何だ? この街では、それさえも金と権力で買えるものなのか?
その日の午後、ハリソンは現場付近の聞き込みを続けた。カフェ、商店、路地——犯人の逃走経路を追う。
そして、パラダイス・カフェに辿り着いた。
「事件当時、二階の窓際に座っていた女性客はいましたか?」
ウェイターは少し考えて答えた。
「ああ、リン・シュウメイさんですね。よくここに来られます」
「彼女の連絡先を教えてもらえますか?」
「カサブランカ・クラブで歌っています。夜なら会えると思いますよ」
ハリソンはメモを取った。重要な目撃者かもしれない。
同じ頃、王福生は旧城区の自宅で、妻の李梅香と向き合っていた。
「福生、あなた昨日、何があったの? 帰ってきてから様子がおかしい」
王は黙っていた。どう説明すればいい? 銀行強盗を乗せてしまったと?
「何でもない。ただ疲れているだけだ」
「嘘。あなたの目を見れば分かる。何か隠している」
妻は彼の手を取った。二十年連れ添った手は、互いの温もりを知っている。
「梅香、もし俺が——もし俺に何かあったら、美玲を頼む」
「何を言っているの? あなたに何があるっていうの?」
王は目を閉じた。
「何もない。何もないさ」
だが、その夜、彼の夢には銃声が響き続けた。
リンは、カサブランカ・クラブの楽屋で化粧をしていた。鏡に映る自分の顔——完璧に整えられた美しさの下に、疲労と不安が隠れている。
「シュウメイ、今夜も満席だ。君の人気は衰えないね」
クラブのマネージャー、陳が入ってきた。
「ありがとう、陳さん。ところで、田中さんは今夜来るの?」
「いや、今夜は来ないそうだ。仕事が忙しいらしい」
リンはほっとした。田中がいなければ、少しは気が楽だ。
「それと、イギリス人の警察官が君に会いたいと言っている。銀行強盗の件で話を聞きたいそうだ」
リンの手が止まった。
「分かった。ショーの後で会う」
その夜のショーは、いつもより情熱的だった。リンは歌に全てを込めた。恐怖も、罪悪感も、孤独も——全てを音楽に変えて、客席に投げつけた。
曲が終わり、拍手が鳴り止まない。リンは微笑み、舞台を降りた。
楽屋の外で、ハリソンが待っていた。
「リン・シュウメイさんですね。イギリス租界警察のハリソンと申します」
リンは彼を見た。昨夜、客席で見た男だ。近くで見ると、思ったより若い。そして、目が——疲れているが、誠実だ。
「どうぞ、中へ」
二人は楽屋に入った。ハリソンは手帳を取り出した。
「昨日の午前、あなたはパラダイス・カフェにいましたね。銀行強盗の現場を見ましたか?」
リンは一瞬躊躇した。だが、すぐに決めた。
「いいえ、何も。混乱していて、よく分かりませんでした」
「本当に? 窓際に座っていたと聞きました。犯人の顔は見ていませんか?」
「人々が逃げ惑っていて——本当に何も」
ハリソンは彼女の目を見た。彼女は嘘をついている。それは明らかだった。だが、なぜ?
「もし何か思い出したら、連絡してください」
彼は名刺を渡した。
「あなたの証言が、この事件の解決に繋がるかもしれません」
リンは名刺を受け取った。だが、何も言わなかった。
ハリソンが去った後、リンは名刺を見つめた。「ジョン・ハリソン警部補」と英語で書かれている。
彼女は名刺を引き出しにしまった。そして、鏡の中の自分に語りかけた。
「私は何も知らない。何も見ていない」
だが、鏡の中の自分は、非難するような目でこちらを見ていた。
その夜遅く、田中誠一郎は自分の事務所で、ある男と向き合っていた。黒いコートを着た男——銀行強盗の犯人、張偉だ。
「馬鹿者が。なぜ銃を使った? 計画では、静かに金を移動させるはずだったのに」
「警備員に見つかったんです。仕方なかった」
「おかげで警察が動いている。これ以上目立つことはするな」
「分かっています。でも、田中さん、約束の金は?」
田中は鞄から札束を取り出し、机に置いた。
「これで最後だ。上海から消えろ。二度と戻ってくるな」
張は金を掴み、立ち上がった。
「あの歌手、シュウメイは俺の顔を見ましたよ」
田中の表情が硬くなった。
「それは本当か?」
「ええ、カフェの窓から。はっきりと目が合いました」
「分かった。それは私が処理する」
張が去った後、田中は窓の外を見た。上海の夜景が広がっている。光と闇が混ざり合う街。
彼はリンのことを思った。美しく、才能があり、そして——知りすぎた女。
どうするべきか?
翌朝、ハリソンは現場付近で新たな聞き込みを続けた。そして、人力車の車夫たちが集まる場所を見つけた。
「昨日の午前、南京路付近で客を乗せた人はいませんか?」
車夫たちは互いに顔を見合わせた。誰も答えない。
「情報提供には報酬を払います」
一人の老人が前に出た。
「私は見ました。王福生という車夫が、黒いコートの男を乗せて、フランス租界の方へ走っていくのを」
「その王福生という人物はどこにいますか?」
「旧城区に住んでいます。でも——」
「でも?」
「彼は良い男です。家族思いで、真面目に働いている。犯罪者じゃありません」
ハリソンはメモを取った。
「ありがとうございます。彼の住所を教えてください」
その午後、ハリソンは王福生の家を訪ねた。狭い路地の奥、古い建物の一階に、王の家はあった。
ドアをノックすると、若い娘が出てきた。
「どなたですか?」
「警察です。王福生さんはいますか?」
娘の顔が青ざめた。
「父は——仕事に出ています」
「いつ戻りますか?」
「分かりません」
その時、奥から女性の声が聞こえた。
「美玲、誰?」
妻の李梅香が出てきた。ハリソンを見て、彼女も顔色を変えた。
「何の御用でしょうか?」
「昨日の午前、ご主人が南京路付近で黒いコートの男性を乗せたという情報があります。その件で話を聞きたいのですが」
「夫は何も知りません。ただの車夫です」
「それは私が判断します。ご主人に、警察署まで来るように伝えてください」
ハリソンは名刺を渡し、去った。
ドアが閉まった後、李梅香は娘を抱きしめた。
「お母さん、お父さんは大丈夫?」
「大丈夫よ、美玲。お父さんは何も悪いことをしていない」
だが、彼女の声は震えていた。
上海の新聞は、銀行強盗事件を「反帝国主義運動の英雄的行為」として報じ続けた。中国語の新聞は特に、犯人を「抑圧された民衆の代弁者」として称賛する論調を展開した。 王福生は、自宅で新聞を読みながら、複雑な思いに駆られていた。あの男——張偉が、英雄? だが、彼が見たのは、ただの強盗だった。銃を持ち、脅し、逃げた男。「父さん、新聞に何が書いてあるの?」 娘の美玲が隣に座った。「大人の話だ。お前には関係ない」「でも、学校の先生が言ってたわ。銀行強盗は、中国人の誇りを守った英雄だって」 王は新聞を置いた。「美玲、人を判断するときは、自分の目で見たものを信じなさい。新聞に書いてあることが、いつも真実とは限らない」「でも、先生が——」「先生も、時には間違える」 美玲は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。 王は窓の外を見た。狭い路地、洗濯物が干された物干し竿、煉瓦造りの古い建物。これが自分の世界だ。 だが、新聞が作り上げた「英雄」の物語と、自分が見た現実との間には、深い溝がある。 その溝を埋めることが、果たして自分にできるのだろうか? 一方、ハリソンは署内で孤立していた。張偉の捜査を中止するよう命じられた後、彼は同僚たちから距離を置かれるようになった。「ハリソンは理想主義すぎる」「この街のルールを理解していない」——そんな囁きが、彼の耳に届いた。 昼休み、ハリソンは一人で署の外に出た。近くの中国人経営の麺屋に入り、簡素な昼食を注文した。 店内には、中国人の労働者たちが座っている。彼らはハリソンの制服を見て、会話を止めた。 ハリソンは麺をすすりながら、自分がこの街でどれほど異質な存在かを改めて感じた。 店を出ようとしたとき、老人が声をかけてきた。「あんたは、いい警察官だな」「え?」「王福生のことだ。あいつを逮捕しなかった。感謝している」
王福生は、外灘の石畳の上で人力車を止め、深呼吸をした。一日中走り回り、体は疲労困憊していた。だが、それ以上に心が重かった。 家に帰れば、警察が来たことを妻から聞かされるだろう。そうなれば、もう逃げられない。 彼は黄浦江を見つめた。濁った水が、ゆっくりと流れている。この川は、上海のあらゆる汚れを飲み込んで、海へと運んでいく。 もし自分が川に飛び込めば、全てが終わる。家族は苦しむだろうが、少なくとも犯罪者の家族という烙印は押されない。 だが、王の頭に浮かんだのは、娘の顔だった。今朝、学校に行く前に見せてくれた笑顔。「父さん、今日英語のテストがあるの。頑張ってくるね」 王は首を振った。死ぬわけにはいかない。少なくとも、娘が成長するまでは。 彼は人力車を引いて、家路についた。 家に着くと、予想通り妻が待っていた。「福生、警察が来たわ」 王は黙って頷いた。「明日、警察署に行く。全てを話す」「でも、あなたは何も悪いことをしていないわ!」「それを証明するには、真実を話すしかない」 その夜、王は娘の寝顔を見つめた。無垢な寝息、小さな手。この子のために、彼は何でもする。 翌朝、王はイギリス租界警察署を訪れた。受付で名前を告げると、すぐにハリソンが現れた。「王福生さんですね。来ていただいてありがとうございます。こちらへどうぞ」 取調室に案内された王は、固い椅子に座った。ハリソンは向かいに座り、手帳を開いた。「一昨日の午前、あなたは南京路付近で黒いコートの男性を人力車に乗せましたね」 王は頷いた。「はい」「その男性の顔を覚えていますか?」「いいえ。お客様の顔をいちいち覚えていません」「本当に? その男性は、あなたに銃を突きつけませんでしたか?」 王の体が硬直した。「銃? そんなこと——」「王さん、嘘をつく必要はありません。あなたは被害者です。脅迫さ
翌朝、上海の新聞各紙は銀行強盗事件を一面で報じた。『申報』は「中国銀行襲撃——反帝国主義運動の一環か」という見出しを掲げ、『字林西報』は「租界の治安悪化——警察の対応に疑問」と批判的な論調を展開した。 ハリソンは警察署の自分の机で、それらの新聞を読み比べていた。中国語の新聞と英語の新聞では、まるで違う事件を報じているかのようだった。「ハリソン、署長が呼んでいる」 同僚のウィリアムズが声をかけた。ハリソンは立ち上がり、署長室に向かった。 ロバート・スミス署長は、六十歳を過ぎた老練な警察官だった。上海に三十年以上勤務し、この街のあらゆる裏も表も知り尽くしている。「座りたまえ、ハリソン。昨日の事件だが、進展はあるか?」「目撃証言を整理していますが、矛盾が多く、まだ犯人の特定には至っていません」「そうか。ところで、君はこの事件をどう見ている?」 ハリソンは慎重に言葉を選んだ。「被害額から見て、計画的な犯行です。だが、中国銀行を狙ったという点が引っかかります。もし金が目的なら、外国系の銀行の方が警備が手薄です」「つまり、政治的動機があると?」「可能性は否定できません」 署長は窓の外を見た。外灘の景色が広がっている。「ハリソン、君は理想主義者だ。それは悪いことではない。だが、この街で生き残るには、現実を見る目も必要だ」「どういう意味ですか?」「この事件には、深入りしない方がいい。すでに上からの圧力がある。穏便に処理しろ、とね」 ハリソンは眉をひそめた。「それは捜査を打ち切れということですか?」「そうは言っていない。だが、あまり熱心にやりすぎるな。この街には、我々が触れてはいけない領域がある」 ハリソンは立ち上がった。「署長、私は法の執行者です。犯罪者を捕まえることが私の職務です」「その法が、誰のための法なのか、よく考えることだ」 ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼は拳を握りしめた。 正義とは何だ? 法とは何だ? この街では、それさえも金と権力で買えるものなのか? その日の午後、ハリソンは現場付近の聞き込みを続けた。カフェ、商店、路地——犯人の逃走経路を追う。 そして、パラダイス・カフェに辿り着いた。「事件当時、二階の窓際に座っていた女性客はいましたか?」 ウェイターは少し考えて答えた。「ああ、リン・シュウメイさ
1932年1月、上海。 黄浦江から立ち上る朝霧が、租界の西洋建築群を白いヴェールで包んでいた。外灘の石畳を踏む靴音、人力車の鈴の音、複数の言語が飛び交う喧騒——この街は、世界中のあらゆるものが混ざり合い、ぶつかり合い、溶け合う坩堝だった。 リン・シュウメイは、南京路のカフェ「パラダイス」の二階の窓際に座り、通りを眺めていた。二十五歳の彼女は、上海でも指折りの美貌を持つ歌手として知られていた。だが、その美しさは夜の舞台でのみ輝き、昼間の彼女は疲労と罪悪感に侵された一人の女に過ぎなかった。 彼女の前には冷めかけた珈琲。フランス製の磁器カップに注がれた黒い液体は、租界での生活の象徴だった——贅沢で、苦く、そして同胞たちには手の届かないもの。「シュウメイ、また一人で考え込んでいるのか」 声の主は、彼女の愛人である日本人実業家、田中誠一郎だった。四十代半ばの彼は、上海で綿花貿易を営み、莫大な富を築いていた。「いいえ、ただ街を見ていただけです」 リンは微笑んだ。完璧な微笑み。夜の舞台で何千回も繰り返した、感情を隠すための仮面。「今夜のショーの準備はできているか? 今晩は重要な客が来る。イギリス租界の警察署長だ」「ええ、準備万端です」 田中は満足そうに頷き、テーブルに札束を置いた。「新しいドレスを買いなさい。君には最高のものが似合う」 彼が去った後、リンは窓の外に視線を戻した。通りの向こう側、路地の入り口で、ぼろをまとった中国人の子供たちが物乞いをしていた。彼女と同じ言葉を話し、同じ血を持つ子供たち。だが、彼女は租界の華やかな世界にいて、彼らは泥の中にいる。 リンは珈琲を一口飲んだ。苦味が喉を焼いた。 同じ頃、イギリス租界警察署では、ジョン・ハリソン警部補が朝の報告書に目を通していた。三十二歳の彼は、ケンブリッジ大学で法学を学び、理想に燃えて上海に赴任してきた。正義と法の支配——それが彼の信条だった。 だが、この街で五年間勤務する中で、彼はその信念が揺らぎ始めていることを自覚していた。「ハリソン、また中国人地区での喧嘩だ。処理を頼む」 同僚のトンプソンが書類を投げてよこした。「被害者は?」「中国人同士だ。放っておけばいい」「それは職務怠慢だ、トンプソン。我々は——」「法を守る? ハリソン、ここは中国だ。だが我々の法が適用されるのはイギ