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第二章:銀行の銃声

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-30 15:06:39

 翌朝、上海の新聞各紙は銀行強盗事件を一面で報じた。『申報』は「中国銀行襲撃——反帝国主義運動の一環か」という見出しを掲げ、『字林西報』は「租界の治安悪化——警察の対応に疑問」と批判的な論調を展開した。

 ハリソンは警察署の自分の机で、それらの新聞を読み比べていた。中国語の新聞と英語の新聞では、まるで違う事件を報じているかのようだった。

「ハリソン、署長が呼んでいる」

 同僚のウィリアムズが声をかけた。ハリソンは立ち上がり、署長室に向かった。

 ロバート・スミス署長は、六十歳を過ぎた老練な警察官だった。上海に三十年以上勤務し、この街のあらゆる裏も表も知り尽くしている。

「座りたまえ、ハリソン。昨日の事件だが、進展はあるか?」

「目撃証言を整理していますが、矛盾が多く、まだ犯人の特定には至っていません」

「そうか。ところで、君はこの事件をどう見ている?」

 ハリソンは慎重に言葉を選んだ。

「被害額から見て、計画的な犯行です。だが、中国銀行を狙ったという点が引っかかります。もし金が目的なら、外国系の銀行の方が警備が手薄です」

「つまり、政治的動機があると?」

「可能性は否定できません」

 署長は窓の外を見た。外灘の景色が広がっている。

「ハリソン、君は理想主義者だ。それは悪いことではない。だが、この街で生き残るには、現実を見る目も必要だ」

「どういう意味ですか?」

「この事件には、深入りしない方がいい。すでに上からの圧力がある。穏便に処理しろ、とね」

 ハリソンは眉をひそめた。

「それは捜査を打ち切れということですか?」

「そうは言っていない。だが、あまり熱心にやりすぎるな。この街には、我々が触れてはいけない領域がある」

 ハリソンは立ち上がった。

「署長、私は法の執行者です。犯罪者を捕まえることが私の職務です」

「その法が、誰のための法なのか、よく考えることだ」

 ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼は拳を握りしめた。

 正義とは何だ? 法とは何だ? この街では、それさえも金と権力で買えるものなのか?

 その日の午後、ハリソンは現場付近の聞き込みを続けた。カフェ、商店、路地——犯人の逃走経路を追う。

 そして、パラダイス・カフェに辿り着いた。

「事件当時、二階の窓際に座っていた女性客はいましたか?」

 ウェイターは少し考えて答えた。

「ああ、リン・シュウメイさんですね。よくここに来られます」

「彼女の連絡先を教えてもらえますか?」

「カサブランカ・クラブで歌っています。夜なら会えると思いますよ」

 ハリソンはメモを取った。重要な目撃者かもしれない。

 同じ頃、王福生は旧城区の自宅で、妻の李梅香と向き合っていた。

「福生、あなた昨日、何があったの? 帰ってきてから様子がおかしい」

 王は黙っていた。どう説明すればいい? 銀行強盗を乗せてしまったと?

「何でもない。ただ疲れているだけだ」

「嘘。あなたの目を見れば分かる。何か隠している」

 妻は彼の手を取った。二十年連れ添った手は、互いの温もりを知っている。

「梅香、もし俺が——もし俺に何かあったら、美玲を頼む」

「何を言っているの? あなたに何があるっていうの?」

 王は目を閉じた。

「何もない。何もないさ」

 だが、その夜、彼の夢には銃声が響き続けた。

 リンは、カサブランカ・クラブの楽屋で化粧をしていた。鏡に映る自分の顔——完璧に整えられた美しさの下に、疲労と不安が隠れている。

「シュウメイ、今夜も満席だ。君の人気は衰えないね」

 クラブのマネージャー、陳が入ってきた。

「ありがとう、陳さん。ところで、田中さんは今夜来るの?」

「いや、今夜は来ないそうだ。仕事が忙しいらしい」

 リンはほっとした。田中がいなければ、少しは気が楽だ。

「それと、イギリス人の警察官が君に会いたいと言っている。銀行強盗の件で話を聞きたいそうだ」

 リンの手が止まった。

「分かった。ショーの後で会う」

 その夜のショーは、いつもより情熱的だった。リンは歌に全てを込めた。恐怖も、罪悪感も、孤独も——全てを音楽に変えて、客席に投げつけた。

 曲が終わり、拍手が鳴り止まない。リンは微笑み、舞台を降りた。

 楽屋の外で、ハリソンが待っていた。

「リン・シュウメイさんですね。イギリス租界警察のハリソンと申します」

 リンは彼を見た。昨夜、客席で見た男だ。近くで見ると、思ったより若い。そして、目が——疲れているが、誠実だ。

「どうぞ、中へ」

 二人は楽屋に入った。ハリソンは手帳を取り出した。

「昨日の午前、あなたはパラダイス・カフェにいましたね。銀行強盗の現場を見ましたか?」

 リンは一瞬躊躇した。だが、すぐに決めた。

「いいえ、何も。混乱していて、よく分かりませんでした」

「本当に? 窓際に座っていたと聞きました。犯人の顔は見ていませんか?」

「人々が逃げ惑っていて——本当に何も」

 ハリソンは彼女の目を見た。彼女は嘘をついている。それは明らかだった。だが、なぜ?

「もし何か思い出したら、連絡してください」

 彼は名刺を渡した。

「あなたの証言が、この事件の解決に繋がるかもしれません」

 リンは名刺を受け取った。だが、何も言わなかった。

 ハリソンが去った後、リンは名刺を見つめた。「ジョン・ハリソン警部補」と英語で書かれている。

 彼女は名刺を引き出しにしまった。そして、鏡の中の自分に語りかけた。

「私は何も知らない。何も見ていない」

 だが、鏡の中の自分は、非難するような目でこちらを見ていた。

 その夜遅く、田中誠一郎は自分の事務所で、ある男と向き合っていた。黒いコートを着た男——銀行強盗の犯人、張偉だ。

「馬鹿者が。なぜ銃を使った? 計画では、静かに金を移動させるはずだったのに」

「警備員に見つかったんです。仕方なかった」

「おかげで警察が動いている。これ以上目立つことはするな」

「分かっています。でも、田中さん、約束の金は?」

 田中は鞄から札束を取り出し、机に置いた。

「これで最後だ。上海から消えろ。二度と戻ってくるな」

 張は金を掴み、立ち上がった。

「あの歌手、シュウメイは俺の顔を見ましたよ」

 田中の表情が硬くなった。

「それは本当か?」

「ええ、カフェの窓から。はっきりと目が合いました」

「分かった。それは私が処理する」

 張が去った後、田中は窓の外を見た。上海の夜景が広がっている。光と闇が混ざり合う街。

 彼はリンのことを思った。美しく、才能があり、そして——知りすぎた女。

 どうするべきか?

 翌朝、ハリソンは現場付近で新たな聞き込みを続けた。そして、人力車の車夫たちが集まる場所を見つけた。

「昨日の午前、南京路付近で客を乗せた人はいませんか?」

 車夫たちは互いに顔を見合わせた。誰も答えない。

「情報提供には報酬を払います」

 一人の老人が前に出た。

「私は見ました。王福生という車夫が、黒いコートの男を乗せて、フランス租界の方へ走っていくのを」

「その王福生という人物はどこにいますか?」

「旧城区に住んでいます。でも——」

「でも?」

「彼は良い男です。家族思いで、真面目に働いている。犯罪者じゃありません」

 ハリソンはメモを取った。

「ありがとうございます。彼の住所を教えてください」

 その午後、ハリソンは王福生の家を訪ねた。狭い路地の奥、古い建物の一階に、王の家はあった。

 ドアをノックすると、若い娘が出てきた。

「どなたですか?」

「警察です。王福生さんはいますか?」

 娘の顔が青ざめた。

「父は——仕事に出ています」

「いつ戻りますか?」

「分かりません」

 その時、奥から女性の声が聞こえた。

「美玲、誰?」

 妻の李梅香が出てきた。ハリソンを見て、彼女も顔色を変えた。

「何の御用でしょうか?」

「昨日の午前、ご主人が南京路付近で黒いコートの男性を乗せたという情報があります。その件で話を聞きたいのですが」

「夫は何も知りません。ただの車夫です」

「それは私が判断します。ご主人に、警察署まで来るように伝えてください」

 ハリソンは名刺を渡し、去った。

 ドアが閉まった後、李梅香は娘を抱きしめた。

「お母さん、お父さんは大丈夫?」

「大丈夫よ、美玲。お父さんは何も悪いことをしていない」

 だが、彼女の声は震えていた。

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