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黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語
黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語
Author: 佐薙真琴

第一章:租界の三つの影

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-30 15:06:07

 1932年1月、上海。

 黄浦江から立ち上る朝霧が、租界の西洋建築群を白いヴェールで包んでいた。外灘の石畳を踏む靴音、人力車の鈴の音、複数の言語が飛び交う喧騒——この街は、世界中のあらゆるものが混ざり合い、ぶつかり合い、溶け合う坩堝だった。

 リン・シュウメイは、南京路のカフェ「パラダイス」の二階の窓際に座り、通りを眺めていた。二十五歳の彼女は、上海でも指折りの美貌を持つ歌手として知られていた。だが、その美しさは夜の舞台でのみ輝き、昼間の彼女は疲労と罪悪感に侵された一人の女に過ぎなかった。

 彼女の前には冷めかけた珈琲。フランス製の磁器カップに注がれた黒い液体は、租界での生活の象徴だった——贅沢で、苦く、そして同胞たちには手の届かないもの。

「シュウメイ、また一人で考え込んでいるのか」

 声の主は、彼女の愛人である日本人実業家、田中誠一郎だった。四十代半ばの彼は、上海で綿花貿易を営み、莫大な富を築いていた。

「いいえ、ただ街を見ていただけです」

 リンは微笑んだ。完璧な微笑み。夜の舞台で何千回も繰り返した、感情を隠すための仮面。

「今夜のショーの準備はできているか? 今晩は重要な客が来る。イギリス租界の警察署長だ」

「ええ、準備万端です」

 田中は満足そうに頷き、テーブルに札束を置いた。

「新しいドレスを買いなさい。君には最高のものが似合う」

 彼が去った後、リンは窓の外に視線を戻した。通りの向こう側、路地の入り口で、ぼろをまとった中国人の子供たちが物乞いをしていた。彼女と同じ言葉を話し、同じ血を持つ子供たち。だが、彼女は租界の華やかな世界にいて、彼らは泥の中にいる。

 リンは珈琲を一口飲んだ。苦味が喉を焼いた。

 同じ頃、イギリス租界警察署では、ジョン・ハリソン警部補が朝の報告書に目を通していた。三十二歳の彼は、ケンブリッジ大学で法学を学び、理想に燃えて上海に赴任してきた。正義と法の支配——それが彼の信条だった。

 だが、この街で五年間勤務する中で、彼はその信念が揺らぎ始めていることを自覚していた。

「ハリソン、また中国人地区での喧嘩だ。処理を頼む」

 同僚のトンプソンが書類を投げてよこした。

「被害者は?」

「中国人同士だ。放っておけばいい」

「それは職務怠慢だ、トンプソン。我々は——」

「法を守る? ハリソン、ここは中国だ。だが我々の法が適用されるのはイギリス人だけだ。中国人は中国人の法で裁かれる。それが租界というものだ」

 ハリソンは黙った。トンプソンの言葉は正しかった——法的には。だが道徳的には? 人間として正しいのか?

 彼は報告書を手に取り、現場に向かうことにした。少なくとも、自分にできることはする。それが彼の譲れない一線だった。

 一方、旧城区の狭い路地では、王福生が人力車の準備をしていた。四十八歳の彼は、二十年以上この仕事を続けていた。背中は曲がり、手には深い皺が刻まれ、顔は風雨に晒されて革のように固くなっていた。

 だが、彼の目だけは生きていた。娘のために、妻のために、彼は毎日車を引いた。

「父さん、今日も頑張ってね」

 十二歳の娘、王美玲が学校に行く前に声をかけた。彼女は英語の初級教本を抱えていた。王が給料の大半を注ぎ込んで通わせている、キリスト教系の学校で使うものだった。

「美玲、勉強を頑張るんだぞ。お前は父さんみたいになってはいけない」

「父さんは立派よ。私の自慢のお父さん」

 娘の言葉に、王の目が潤んだ。だが彼はすぐに視線を逸らし、人力車の車輪を確認した。

「行ってらっしゃい」

 娘が去った後、王は深呼吸をした。今日も一日、外国人に頭を下げ、笑顔を作り、チップをもらうために卑屈に振る舞う。それが彼の人生だった。

 だが、それでいい。娘が違う人生を歩めるなら、それでいい。

 王は人力車を押して、外灘の方角へと向かった。そこには金を持った外国人がいる。彼らを乗せれば、今日の糧が得られる。

 午前十時、王は南京路と江西路の交差点で客待ちをしていた。冬の冷たい風が肌を刺す。だが彼は動かなかった。ここは外国人がよく通る場所だ。

 その時、銀行の方角から銃声が響いた。

 三発。四発。人々の悲鳴。

 王は反射的に身を低くした。銃声は珍しくない。上海では、毎日どこかで暴力が起きている。だが、今日の銃声は近かった。あまりにも近かった。

 パラダイス・カフェの窓際で、リンは銃声を聞いた。彼女は立ち上がり、窓から通りを見下ろした。人々が走り、叫び、逃げ惑っている。そして、銀行の入り口から、黒いコートを着た男が飛び出してきた。

 男は鞄を抱え、周囲を見回し、そして——リンと目が合った。

 ほんの一瞬。だが、リンは男の顔を記憶した。四角い顎、鋭い目、左の頬の小さな傷。

 男は視線を切り、人混みの中に消えた。

 イギリス租界警察署では、無線が騒がしく鳴り響いた。

「南京路の中国銀行で強盗事件! 犯人は逃走中! 全車両、現場に急行せよ!」

 ハリソンは書類を放り出し、拳銃を掴んで署を飛び出した。パトカーに飛び乗り、サイレンを鳴らして現場へ向かう。

 彼の頭の中では、疑問が渦巻いていた。なぜ中国銀行なのか? 租界には外国系の銀行がいくつもある。なぜ中国人の銀行を狙ったのか?

 もしかして、これは政治的な犯行なのか?

 現場に到着したハリソンは、銀行の周囲を封鎖し、目撃者から話を聞き始めた。だが、誰もが混乱していて、一貫した証言が得られない。

「黒いコートを着ていた」「いや、灰色だった」「背が高かった」「いや、普通だった」

 ハリソンはため息をついた。これは長くなる。

 王福生は、混乱の中で人力車を守ろうとしていた。人々が逃げる中で、彼の車が倒されれば、それで終わりだ。修理代を払う余裕はない。

「おい、車夫! すぐに俺を乗せろ!」

 声の主は、黒いコートを着た男だった。息を切らせ、鞄を抱えている。

 王は一瞬躊躇した。この男は——だが、彼には選択肢がなかった。客は客だ。

「どちらまで?」

「フランス租界だ。急げ! 金は払う!」

 王は人力車を引き始めた。男は後ろに座り、周囲を警戒している。王の背中に、何か固いものが当たった。銃だ。

「余計なことを考えるな、車夫。お前の仕事は車を引くことだけだ」

 王は黙って走った。足が地面を蹴る。車輪が石畳を転がる。彼の心臓は激しく打っていた。

 これは間違いなく、銀行強盗だ。だが、どうすればいい? 警察に知らせれば、自分も共犯者として逮捕されるかもしれない。黙っていれば——だが、それは犯罪に加担することだ。

 王の頭の中で、娘の顔が浮かんだ。もし自分が逮捕されたら、美玲はどうなる?

 彼は歯を食いしばり、ただ走り続けた。

 フランス租界の路地で、男は降りた。札を何枚か王に投げつけ、人混みの中に消えた。

 王は震える手で札を拾った。いつもの十倍の金額だった。だが、この金は——血の匂いがした。

 彼は人力車を引いて、来た道を戻り始めた。何も見なかった。何も知らない。それが彼の生き残る道だった。

 その夜、リンはいつものように「カサブランカ・クラブ」の舞台に立った。金色のドレスを纏い、スポットライトを浴び、ジャズバンドの演奏に合わせて歌う。

 客席には、田中誠一郎と、彼が招待したイギリス人の警察署長が座っていた。そして、その隣には——昼間、銀行の前で見た、ハリソンの姿があった。

 リンは歌いながら、彼を観察した。若い。真面目そうな顔をしている。だが、目には疲労が浮かんでいる。

 曲が終わり、拍手が起こった。リンは微笑み、優雅に頭を下げた。

 楽屋に戻ると、田中が待っていた。

「素晴らしかったよ、シュウメイ。ところで、昼間の銀行強盗のことだが——」

 リンの心臓が跳ねた。

「——君は何か見なかったか? カフェにいただろう?」

「いいえ、何も。混乱していて、よく分かりませんでした」

 田中は彼女の目を見た。長い沈黙。

「そうか。それならいい」

 彼は去った。だが、リンは感じた。田中は何かを知っている。そして、彼女が嘘をついていることも。

 その夜、リンは眠れなかった。窓の外では、上海の夜が眠らずに脈打っている。ジャズの音楽、自動車のクラクション、遠くの工場の汽笛。

 彼女は犯人の顔を思い出した。あの男は、田中の事業仲間の一人に似ていた。名前は——思い出せない。だが、確かに何度か田中の事務所で見たことがある。

 もしそうなら、これは単なる強盗ではない。何か裏がある。

 リンは窓を開け、冷たい夜気を吸い込んだ。黄浦江の方角から、湿った風が吹いてくる。

 彼女は決めた。何も言わない。何も知らないふりをする。それが彼女の生き残る道だ。

 だが、その選択が、彼女の心をさらに蝕んでいくことを、彼女はまだ知らなかった。

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