ログイン王福生は、外灘の石畳の上で人力車を止め、深呼吸をした。一日中走り回り、体は疲労困憊していた。だが、それ以上に心が重かった。
家に帰れば、警察が来たことを妻から聞かされるだろう。そうなれば、もう逃げられない。
彼は黄浦江を見つめた。濁った水が、ゆっくりと流れている。この川は、上海のあらゆる汚れを飲み込んで、海へと運んでいく。
もし自分が川に飛び込めば、全てが終わる。家族は苦しむだろうが、少なくとも犯罪者の家族という烙印は押されない。
だが、王の頭に浮かんだのは、娘の顔だった。今朝、学校に行く前に見せてくれた笑顔。
「父さん、今日英語のテストがあるの。頑張ってくるね」
王は首を振った。死ぬわけにはいかない。少なくとも、娘が成長するまでは。
彼は人力車を引いて、家路についた。
家に着くと、予想通り妻が待っていた。
「福生、警察が来たわ」
王は黙って頷いた。
「明日、警察署に行く。全てを話す」
「でも、あなたは何も悪いことをしていないわ!」
「それを証明するには、真実を話すしかない」
その夜、王は娘の寝顔を見つめた。無垢な寝息、小さな手。この子のために、彼は何でもする。
翌朝、王はイギリス租界警察署を訪れた。受付で名前を告げると、すぐにハリソンが現れた。
「王福生さんですね。来ていただいてありがとうございます。こちらへどうぞ」
取調室に案内された王は、固い椅子に座った。ハリソンは向かいに座り、手帳を開いた。
「一昨日の午前、あなたは南京路付近で黒いコートの男性を人力車に乗せましたね」
王は頷いた。
「はい」
「その男性の顔を覚えていますか?」
「いいえ。お客様の顔をいちいち覚えていません」
「本当に? その男性は、あなたに銃を突きつけませんでしたか?」
王の体が硬直した。
「銃? そんなこと——」
「王さん、嘘をつく必要はありません。あなたは被害者です。脅迫されて犯人を乗せた。それだけのことです」
ハリソンの言葉に、王の目から涙が溢れた。
「本当に——本当に私は何も知らないんです。ただ、客を乗せただけで——」
「分かっています。だから、あなたの証言が必要なんです。犯人の特徴を教えてください」
王は震える声で答えた。
「四十歳くらい。背は高く、顔は——四角い顎で、左の頬に小さな傷がありました」
ハリソンは素早くメモを取った。
「どこで降りましたか?」
「フランス租界の——」
王は通りの名前を告げた。ハリソンは地図を広げ、場所を確認した。
「ありがとうございます、王さん。あなたの勇気に感謝します」
「私は——逮捕されるんですか?」
「いいえ。あなたは何も悪いことをしていません。ただ、もしかしたら後日、正式な証言が必要になるかもしれません」
王は深く息を吐いた。
「分かりました。協力します」
王が去った後、ハリソンは手帳を見返した。四角い顎、左頬の傷——この特徴は、どこかで見た覚えがある。
彼はファイルを調べ始めた。過去の事件記録、指名手配犯のリスト——そして、見つけた。
張偉。三十八歳。窃盗、詐欺、恐喝の前科あり。顔写真には、確かに左頬に傷がある。
だが、問題がある。張偉は、ある日本人実業家の用心棒として働いているという情報がある。その実業家とは——田中誠一郎。
ハリソンは眉をひそめた。田中誠一郎は、上海でも有力な財界人だ。警察署長とも懇意にしている。もしこの男が事件に関与していたら——
「深入りするな」という署長の言葉が、頭によぎった。
だが、ハリソンは決めた。真実を追う。それが自分の職務だ。
その夜、リンは再びカサブランカ・クラブの舞台に立った。だが、彼女の心はここにはなかった。
客席には、田中の姿があった。彼は微笑んでいるが、その目には冷たい光がある。
ショーが終わり、楽屋に戻ると、田中が待っていた。
「シュウメイ、少し話がある」
リンは化粧を落としながら答えた。
「何ですか?」
「銀行強盗の件だ。君は本当に何も見ていないのか?」
「何度も言ったでしょう。何も見ていません」
田中は立ち上がり、彼女の背後に立った。鏡越しに、二人の目が合う。
「シュウメイ、私は君を大切に思っている。だからこそ、言っておく。余計な詮索はしない方がいい」
「詮索なんてしていません」
「それならいい。ところで、警察は君に何を聞いた?」
「犯人を見たかどうか、それだけです」
「そうか」
田中は彼女の肩に手を置いた。その手は、優しいようで、同時に脅しでもあった。
「君は賢い女だ。賢い女は、見なくていいものは見ない。知らなくていいことは知らない」
田中が去った後、リンは鏡の中の自分を見た。完璧な化粧の下、蒼白な顔。
彼女は引き出しから、ハリソンの名刺を取り出した。
「ジョン・ハリソン警部補」
もし真実を話せば、田中は自分を許さないだろう。職を失い、路頭に迷う。もしかしたら、命さえ——
だが、黙っていれば、犯罪者を守ることになる。
リンは名刺を握りしめた。
その頃、ハリソンは署長室に呼ばれていた。
「ハリソン、君は張偉の捜査を続けているそうだな」
「はい、署長。彼が容疑者である可能性が高いと判断しました」
「その捜査は中止しろ」
「なぜですか?」
「理由は聞くな。これは命令だ」
ハリソンは立ち上がった。
「署長、張偉は田中誠一郎と繋がりがあります。もしかして、それが——」
「黙れ、ハリソン! これ以上言うな!」
署長の顔が紅潮していた。
「君は若い。理想に燃えている。それは素晴らしいことだ。だが、この世界には、理想だけでは解決できない問題がある」
「法は誰の前でも平等であるべきです」
「現実を見ろ、ハリソン。我々は植民者だ。この街を支配している。だが、その支配は、現地の有力者との協力関係の上に成り立っている。その関係を壊せば、租界全体が不安定になる」
「つまり、正義よりも政治的安定を優先しろと?」
「そうだ。それが大人の判断というものだ」
ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼の心の中で何かが壊れる音がした。
正義。法。秩序。それらは全て、権力者の都合で曲げられる。
だが、それでも——彼は諦めるわけにはいかなかった。
その夜、ハリソンは一人、外灘を歩いていた。黄浦江の向こうに、浦東の暗闇が広がっている。
租界と中国。支配者と被支配者。正義と不正義。
全てが混ざり合い、境界が曖昧になる。
彼は立ち止まり、川を見つめた。
「俺は何のためにここにいるんだ?」
答えは返ってこなかった。ただ、川の水が流れる音だけが聞こえた。
上海の新聞は、銀行強盗事件を「反帝国主義運動の英雄的行為」として報じ続けた。中国語の新聞は特に、犯人を「抑圧された民衆の代弁者」として称賛する論調を展開した。 王福生は、自宅で新聞を読みながら、複雑な思いに駆られていた。あの男——張偉が、英雄? だが、彼が見たのは、ただの強盗だった。銃を持ち、脅し、逃げた男。「父さん、新聞に何が書いてあるの?」 娘の美玲が隣に座った。「大人の話だ。お前には関係ない」「でも、学校の先生が言ってたわ。銀行強盗は、中国人の誇りを守った英雄だって」 王は新聞を置いた。「美玲、人を判断するときは、自分の目で見たものを信じなさい。新聞に書いてあることが、いつも真実とは限らない」「でも、先生が——」「先生も、時には間違える」 美玲は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。 王は窓の外を見た。狭い路地、洗濯物が干された物干し竿、煉瓦造りの古い建物。これが自分の世界だ。 だが、新聞が作り上げた「英雄」の物語と、自分が見た現実との間には、深い溝がある。 その溝を埋めることが、果たして自分にできるのだろうか? 一方、ハリソンは署内で孤立していた。張偉の捜査を中止するよう命じられた後、彼は同僚たちから距離を置かれるようになった。「ハリソンは理想主義すぎる」「この街のルールを理解していない」——そんな囁きが、彼の耳に届いた。 昼休み、ハリソンは一人で署の外に出た。近くの中国人経営の麺屋に入り、簡素な昼食を注文した。 店内には、中国人の労働者たちが座っている。彼らはハリソンの制服を見て、会話を止めた。 ハリソンは麺をすすりながら、自分がこの街でどれほど異質な存在かを改めて感じた。 店を出ようとしたとき、老人が声をかけてきた。「あんたは、いい警察官だな」「え?」「王福生のことだ。あいつを逮捕しなかった。感謝している」
王福生は、外灘の石畳の上で人力車を止め、深呼吸をした。一日中走り回り、体は疲労困憊していた。だが、それ以上に心が重かった。 家に帰れば、警察が来たことを妻から聞かされるだろう。そうなれば、もう逃げられない。 彼は黄浦江を見つめた。濁った水が、ゆっくりと流れている。この川は、上海のあらゆる汚れを飲み込んで、海へと運んでいく。 もし自分が川に飛び込めば、全てが終わる。家族は苦しむだろうが、少なくとも犯罪者の家族という烙印は押されない。 だが、王の頭に浮かんだのは、娘の顔だった。今朝、学校に行く前に見せてくれた笑顔。「父さん、今日英語のテストがあるの。頑張ってくるね」 王は首を振った。死ぬわけにはいかない。少なくとも、娘が成長するまでは。 彼は人力車を引いて、家路についた。 家に着くと、予想通り妻が待っていた。「福生、警察が来たわ」 王は黙って頷いた。「明日、警察署に行く。全てを話す」「でも、あなたは何も悪いことをしていないわ!」「それを証明するには、真実を話すしかない」 その夜、王は娘の寝顔を見つめた。無垢な寝息、小さな手。この子のために、彼は何でもする。 翌朝、王はイギリス租界警察署を訪れた。受付で名前を告げると、すぐにハリソンが現れた。「王福生さんですね。来ていただいてありがとうございます。こちらへどうぞ」 取調室に案内された王は、固い椅子に座った。ハリソンは向かいに座り、手帳を開いた。「一昨日の午前、あなたは南京路付近で黒いコートの男性を人力車に乗せましたね」 王は頷いた。「はい」「その男性の顔を覚えていますか?」「いいえ。お客様の顔をいちいち覚えていません」「本当に? その男性は、あなたに銃を突きつけませんでしたか?」 王の体が硬直した。「銃? そんなこと——」「王さん、嘘をつく必要はありません。あなたは被害者です。脅迫さ
翌朝、上海の新聞各紙は銀行強盗事件を一面で報じた。『申報』は「中国銀行襲撃——反帝国主義運動の一環か」という見出しを掲げ、『字林西報』は「租界の治安悪化——警察の対応に疑問」と批判的な論調を展開した。 ハリソンは警察署の自分の机で、それらの新聞を読み比べていた。中国語の新聞と英語の新聞では、まるで違う事件を報じているかのようだった。「ハリソン、署長が呼んでいる」 同僚のウィリアムズが声をかけた。ハリソンは立ち上がり、署長室に向かった。 ロバート・スミス署長は、六十歳を過ぎた老練な警察官だった。上海に三十年以上勤務し、この街のあらゆる裏も表も知り尽くしている。「座りたまえ、ハリソン。昨日の事件だが、進展はあるか?」「目撃証言を整理していますが、矛盾が多く、まだ犯人の特定には至っていません」「そうか。ところで、君はこの事件をどう見ている?」 ハリソンは慎重に言葉を選んだ。「被害額から見て、計画的な犯行です。だが、中国銀行を狙ったという点が引っかかります。もし金が目的なら、外国系の銀行の方が警備が手薄です」「つまり、政治的動機があると?」「可能性は否定できません」 署長は窓の外を見た。外灘の景色が広がっている。「ハリソン、君は理想主義者だ。それは悪いことではない。だが、この街で生き残るには、現実を見る目も必要だ」「どういう意味ですか?」「この事件には、深入りしない方がいい。すでに上からの圧力がある。穏便に処理しろ、とね」 ハリソンは眉をひそめた。「それは捜査を打ち切れということですか?」「そうは言っていない。だが、あまり熱心にやりすぎるな。この街には、我々が触れてはいけない領域がある」 ハリソンは立ち上がった。「署長、私は法の執行者です。犯罪者を捕まえることが私の職務です」「その法が、誰のための法なのか、よく考えることだ」 ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼は拳を握りしめた。 正義とは何だ? 法とは何だ? この街では、それさえも金と権力で買えるものなのか? その日の午後、ハリソンは現場付近の聞き込みを続けた。カフェ、商店、路地——犯人の逃走経路を追う。 そして、パラダイス・カフェに辿り着いた。「事件当時、二階の窓際に座っていた女性客はいましたか?」 ウェイターは少し考えて答えた。「ああ、リン・シュウメイさ
1932年1月、上海。 黄浦江から立ち上る朝霧が、租界の西洋建築群を白いヴェールで包んでいた。外灘の石畳を踏む靴音、人力車の鈴の音、複数の言語が飛び交う喧騒——この街は、世界中のあらゆるものが混ざり合い、ぶつかり合い、溶け合う坩堝だった。 リン・シュウメイは、南京路のカフェ「パラダイス」の二階の窓際に座り、通りを眺めていた。二十五歳の彼女は、上海でも指折りの美貌を持つ歌手として知られていた。だが、その美しさは夜の舞台でのみ輝き、昼間の彼女は疲労と罪悪感に侵された一人の女に過ぎなかった。 彼女の前には冷めかけた珈琲。フランス製の磁器カップに注がれた黒い液体は、租界での生活の象徴だった——贅沢で、苦く、そして同胞たちには手の届かないもの。「シュウメイ、また一人で考え込んでいるのか」 声の主は、彼女の愛人である日本人実業家、田中誠一郎だった。四十代半ばの彼は、上海で綿花貿易を営み、莫大な富を築いていた。「いいえ、ただ街を見ていただけです」 リンは微笑んだ。完璧な微笑み。夜の舞台で何千回も繰り返した、感情を隠すための仮面。「今夜のショーの準備はできているか? 今晩は重要な客が来る。イギリス租界の警察署長だ」「ええ、準備万端です」 田中は満足そうに頷き、テーブルに札束を置いた。「新しいドレスを買いなさい。君には最高のものが似合う」 彼が去った後、リンは窓の外に視線を戻した。通りの向こう側、路地の入り口で、ぼろをまとった中国人の子供たちが物乞いをしていた。彼女と同じ言葉を話し、同じ血を持つ子供たち。だが、彼女は租界の華やかな世界にいて、彼らは泥の中にいる。 リンは珈琲を一口飲んだ。苦味が喉を焼いた。 同じ頃、イギリス租界警察署では、ジョン・ハリソン警部補が朝の報告書に目を通していた。三十二歳の彼は、ケンブリッジ大学で法学を学び、理想に燃えて上海に赴任してきた。正義と法の支配——それが彼の信条だった。 だが、この街で五年間勤務する中で、彼はその信念が揺らぎ始めていることを自覚していた。「ハリソン、また中国人地区での喧嘩だ。処理を頼む」 同僚のトンプソンが書類を投げてよこした。「被害者は?」「中国人同士だ。放っておけばいい」「それは職務怠慢だ、トンプソン。我々は——」「法を守る? ハリソン、ここは中国だ。だが我々の法が適用されるのはイギ