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第三章:交錯する運命

作者: 佐薙真琴
last update 最終更新日: 2025-12-01 15:23:22

 王福生は、外灘の石畳の上で人力車を止め、深呼吸をした。一日中走り回り、体は疲労困憊していた。だが、それ以上に心が重かった。

 家に帰れば、警察が来たことを妻から聞かされるだろう。そうなれば、もう逃げられない。

 彼は黄浦江を見つめた。濁った水が、ゆっくりと流れている。この川は、上海のあらゆる汚れを飲み込んで、海へと運んでいく。

 もし自分が川に飛び込めば、全てが終わる。家族は苦しむだろうが、少なくとも犯罪者の家族という烙印は押されない。

 だが、王の頭に浮かんだのは、娘の顔だった。今朝、学校に行く前に見せてくれた笑顔。

「父さん、今日英語のテストがあるの。頑張ってくるね」

 王は首を振った。死ぬわけにはいかない。少なくとも、娘が成長するまでは。

 彼は人力車を引いて、家路についた。

 家に着くと、予想通り妻が待っていた。

「福生、警察が来たわ」

 王は黙って頷いた。

「明日、警察署に行く。全てを話す」

「でも、あなたは何も悪いことをしていないわ!」

「それを証明するには、真実を話すしかない」

 その夜、王は娘の寝顔を見つめた。無垢な寝息、小さな手。この子のために、彼は何でもする。

 翌朝、王はイギリス租界警察署を訪れた。受付で名前を告げると、すぐにハリソンが現れた。

「王福生さんですね。来ていただいてありがとうございます。こちらへどうぞ」

 取調室に案内された王は、固い椅子に座った。ハリソンは向かいに座り、手帳を開いた。

「一昨日の午前、あなたは南京路付近で黒いコートの男性を人力車に乗せましたね」

 王は頷いた。

「はい」

「その男性の顔を覚えていますか?」

「いいえ。お客様の顔をいちいち覚えていません」

「本当に? その男性は、あなたに銃を突きつけませんでしたか?」

 王の体が硬直した。

「銃? そんなこと——」

「王さん、嘘をつく必要はありません。あなたは被害者です。脅迫されて犯人を乗せた。それだけのことです」

 ハリソンの言葉に、王の目から涙が溢れた。

「本当に——本当に私は何も知らないんです。ただ、客を乗せただけで——」

「分かっています。だから、あなたの証言が必要なんです。犯人の特徴を教えてください」

 王は震える声で答えた。

「四十歳くらい。背は高く、顔は——四角い顎で、左の頬に小さな傷がありました」

 ハリソンは素早くメモを取った。

「どこで降りましたか?」

「フランス租界の——」

 王は通りの名前を告げた。ハリソンは地図を広げ、場所を確認した。

「ありがとうございます、王さん。あなたの勇気に感謝します」

「私は——逮捕されるんですか?」

「いいえ。あなたは何も悪いことをしていません。ただ、もしかしたら後日、正式な証言が必要になるかもしれません」

 王は深く息を吐いた。

「分かりました。協力します」

 王が去った後、ハリソンは手帳を見返した。四角い顎、左頬の傷——この特徴は、どこかで見た覚えがある。

 彼はファイルを調べ始めた。過去の事件記録、指名手配犯のリスト——そして、見つけた。

 張偉。三十八歳。窃盗、詐欺、恐喝の前科あり。顔写真には、確かに左頬に傷がある。

 だが、問題がある。張偉は、ある日本人実業家の用心棒として働いているという情報がある。その実業家とは——田中誠一郎。

 ハリソンは眉をひそめた。田中誠一郎は、上海でも有力な財界人だ。警察署長とも懇意にしている。もしこの男が事件に関与していたら——

「深入りするな」という署長の言葉が、頭によぎった。

 だが、ハリソンは決めた。真実を追う。それが自分の職務だ。

 その夜、リンは再びカサブランカ・クラブの舞台に立った。だが、彼女の心はここにはなかった。

 客席には、田中の姿があった。彼は微笑んでいるが、その目には冷たい光がある。

 ショーが終わり、楽屋に戻ると、田中が待っていた。

「シュウメイ、少し話がある」

 リンは化粧を落としながら答えた。

「何ですか?」

「銀行強盗の件だ。君は本当に何も見ていないのか?」

「何度も言ったでしょう。何も見ていません」

 田中は立ち上がり、彼女の背後に立った。鏡越しに、二人の目が合う。

「シュウメイ、私は君を大切に思っている。だからこそ、言っておく。余計な詮索はしない方がいい」

「詮索なんてしていません」

「それならいい。ところで、警察は君に何を聞いた?」

「犯人を見たかどうか、それだけです」

「そうか」

 田中は彼女の肩に手を置いた。その手は、優しいようで、同時に脅しでもあった。

「君は賢い女だ。賢い女は、見なくていいものは見ない。知らなくていいことは知らない」

 田中が去った後、リンは鏡の中の自分を見た。完璧な化粧の下、蒼白な顔。

 彼女は引き出しから、ハリソンの名刺を取り出した。

「ジョン・ハリソン警部補」

 もし真実を話せば、田中は自分を許さないだろう。職を失い、路頭に迷う。もしかしたら、命さえ——

 だが、黙っていれば、犯罪者を守ることになる。

 リンは名刺を握りしめた。

 その頃、ハリソンは署長室に呼ばれていた。

「ハリソン、君は張偉の捜査を続けているそうだな」

「はい、署長。彼が容疑者である可能性が高いと判断しました」

「その捜査は中止しろ」

「なぜですか?」

「理由は聞くな。これは命令だ」

 ハリソンは立ち上がった。

「署長、張偉は田中誠一郎と繋がりがあります。もしかして、それが——」

「黙れ、ハリソン! これ以上言うな!」

 署長の顔が紅潮していた。

「君は若い。理想に燃えている。それは素晴らしいことだ。だが、この世界には、理想だけでは解決できない問題がある」

「法は誰の前でも平等であるべきです」

「現実を見ろ、ハリソン。我々は植民者だ。この街を支配している。だが、その支配は、現地の有力者との協力関係の上に成り立っている。その関係を壊せば、租界全体が不安定になる」

「つまり、正義よりも政治的安定を優先しろと?」

「そうだ。それが大人の判断というものだ」

 ハリソンは部屋を出た。廊下を歩きながら、彼の心の中で何かが壊れる音がした。

 正義。法。秩序。それらは全て、権力者の都合で曲げられる。

 だが、それでも——彼は諦めるわけにはいかなかった。

 その夜、ハリソンは一人、外灘を歩いていた。黄浦江の向こうに、浦東の暗闇が広がっている。

 租界と中国。支配者と被支配者。正義と不正義。

 全てが混ざり合い、境界が曖昧になる。

 彼は立ち止まり、川を見つめた。

「俺は何のためにここにいるんだ?」

 答えは返ってこなかった。ただ、川の水が流れる音だけが聞こえた。

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