Mag-log inリンとハリソンは、雨の中で向き合っていた。リンは傘を差し出したが、ハリソンは受け取らなかった。
「雨に濡れたいんです」
「風邪をひきますよ」
「構いません」
沈黙。雨音だけが響く。
「話があります」リンが口を開いた。「どこか、人目につかない場所で」
二人は近くの茶館に入った。奥の個室に通され、ハリソンは初めて彼女の顔をまともに見た。
疲れている。それが第一印象だった。美しい顔の下に、深い疲労が隠れている。
「何の話ですか?」ハリソンが尋ねた。
「銀行強盗の件です。私——あの日、犯人の顔を見ました」
ハリソンの目が鋭くなった。
「それは本当ですか? 以前、何も見ていないと——」
「嘘をついていました。ごめんなさい」
リンは下を向いた。
「なぜ今、真実を?」
「あなたが——あなたが正しいことをしようとして、全てを失おうとしているから」
リンは顔を上げた。目には涙が浮かんでいる。
「私は臆病者です。真実を知っていながら、自分の安全のために黙っていた。でも、あなたを見て——もう黙っていられなくなった」
リンは鞄から、田中の書斎でこっそり撮った書類の写真を取り出した。小型カメラで撮影したものだ。
「これを見てください。田中誠一郎と張偉は、銀行から金を横領するために、強盗事件を偽装したんです」
ハリソンは写真を見た。銀行の帳簿、金額、日付——全てが一致している。
「これは——決定的な証拠だ」
「でも、私がこれを証言すれば、田中は私を——」
リンの声が震えた。
「安全は保証します」ハリソンが言った。「あなたを守ります」
「どうやって? あなたは警察を追われるんでしょう?」
「それでも、私には——」
<田中誠一郎の逮捕から一週間後、上海は徐々に日常を取り戻していた。だが、街の空気は以前とは違っていた。人々の間に、小さな希望の光が灯り始めていた。 王福生は、いつものように人力車を引いていた。だが、今日は少し違った。客を乗せながら、彼は背筋を伸ばしていた。 客が降りるとき、いつもより多めのチップをくれた。「あんた、田中に立ち向かった車夫だろう? 新聞で読んだ。勇気があるな」 王は頭を下げた。「いいえ、私は——ただ、家族を守ろうとしただけです」「それが勇気というものだ」 客は去った。王は受け取った金を見た。 これで、美玲の学費がまた少し貯まる。 その夜、王の家では、家族三人で夕食を囲んでいた。「父さん」美玲が言った。「今日、学校の先生が言ってたの。父さんみたいな人が、社会を変えるんだって」 王は苦笑した。「俺は何も変えていない。ただ——」「いいえ」妻が遮った。「あなたは変えたわ。少なくとも、この家族の中では」 王は妻と娘を見た。「どういうことだ?」「美玲も私も、あなたを誇りに思っているわ。あなたは——私たちのヒーローよ」 王の目が潤んだ。「ありがとう」 その頃、リン・シュウメイは新しい人生を始めていた。彼女は香港に戻り、小さな音楽ホールで歌い始めた。 だが、今度は違った。誰かの愛人としてではなく、一人の芸術家として。 ステージに立ち、リンは新しい歌を披露した。「黄浦江の誓い」——上海での経験を歌にしたものだ。 歌詞には、ハリソンのこと、王のこと、そして自分の葛藤が込められていた。 観客は静かに聞き入り、曲が終わると——盛大な拍手が起こった。 楽屋に戻ると、陳独秀が待っていた。「素晴らしい歌でした、リンさん」「ありがとうございます。これも
三日後、貨物船「永安号」は香港に到着した。リンは船倉から出て、香港の港を見た。 ビクトリア・ハーバーが目の前に広がっている。上海とは違う、だが同じように活気のある街。 船長が近づいてきた。「リンさん、ここからは気をつけて。田中の手下が先回りしているかもしれない」「分かっています。ありがとうございました」 リンは船を降りた。だが、桟橋を歩いていると——背後から声がかかった。「リン・シュウメイ!」 振り返ると、見知らぬ男が二人、近づいてくる。田中の手下だ。 リンは走り出した。 港の雑踏の中を駆け抜け、路地に入る。だが、追手は容赦なく追いかけてくる。 リンは人混みの中に紛れ込もうとしたが、腕を掴まれた。「逃げられると思うな」 男がリンを引っ張る。リンは抵抗したが、力では敵わない。 その時——「彼女を放せ!」 声の主は——陳独秀だった。『申報』の編集長が、なぜここに? 陳は数人の仲間を連れていた。「彼女は私の友人だ。手を出すな」 田中の手下は躊躇した。人数では不利だ。「覚えてろ」 男たちは去った。 リンは陳に駆け寄った。「陳さん、なぜここに?」「ハリソンさんから電報を受け取りました。あなたが危険だと。だから、香港の仲間に頼んで、港で待っていたんです」「ハリソンさんが——彼は無事なんですか?」「分かりません。電報は寧波から送られてきましたが、それ以降は音信不通です」 リンの目に涙が浮かんだ。「彼は——私のために——」「リンさん、今は安全な場所に行きましょう。私の友人が、隠れ家を用意してくれています」 陳はリンを連れて、香港の街を歩いた。 その夜、リンは陳の
香港行きの貨物船「永安号」は、東シナ海の波に揺られながら南下していた。船倉の中、ハリソンとリンは貨物の箱に寄りかかり、それぞれの思いに耽っていた。「ハリソンさん」リンが静寂を破った。「あなたは後悔していませんか? 上海での全てを失って」 ハリソンは少し考えてから答えた。「後悔——ですか。正直に言えば、時々考えます。もっと賢く立ち回れば、職も地位も保てたかもしれない、と」「でも?」「でも、鏡の中の自分を見られなくなるよりはましです。あなたが言っていたように」 リンは微笑んだ。「私たちは、似ていますね。愚かなほど正直で」「愚かではありません。人間らしい、というだけです」 船が大きく揺れた。二人は互いに身を寄せ合った。 その時、船倉のドアが開いた。船長が急いで入ってくる。「大変だ! 上海から無線が入った。田中誠一郎の手下が、この船を追っているらしい」「何ですって?」リンが立ち上がった。「高速艇で追跡しているそうだ。このままでは、数時間で追いつかれる」 ハリソンは冷静に考えた。「船長、この船の最高速度では逃げ切れませんね?」「ああ、無理だ。貨物船と高速艇では、スピードが違いすぎる」「では——」ハリソンはリンを見た。「私が囮になります」「え?」「次の港、寧波に寄港する予定でしたね? そこで私が降ります。田中の手下は、私を追うでしょう。その間に、リンさんは香港へ」「そんな! あなたが捕まったら——」「大丈夫です。私は元警察官です。逃げる技術は持っています」 船長は二人を見た。「いい案だが——危険すぎる」「他に方法がありますか?」 船長は黙った。「決まりです」ハリソンが立ち上がった。「寧波まで、あとどれくらいですか?」「三時間だ」「分かり
上海の夕暮れは、いつになく美しかった。黄浦江が夕日を反射し、金色に輝いている。だが、その美しさの下には、暗い潮流が渦巻いていた。 リンは、波止場の倉庫の影に身を潜め、出航時刻を待っていた。今夜十時、香港行きの貨物船が出る。船長には、持っていた金の大半を渡して、密航を手配した。 新しい人生。それがどんなものになるか分からないが、少なくともここよりはましだろう。 リンは母の形見の翡翠の腕輪を撫でた。「お母さん、私は正しいことをしたと思う。でも、なぜこんなに辛いんだろう」 答えは返ってこない。ただ、波の音だけが聞こえる。 その時、足音が近づいてきた。リンは身を縮めた。「シュウメイ、そこにいるのは分かっている。出てきなさい」 田中の声だ。リンの心臓が激しく打った。 どうする? 逃げる? だが、どこへ?「出てこなければ、こちらから行くぞ」 リンは立ち上がった。もう隠れても無駄だ。 倉庫の影から出ると、田中が数人の部下を連れて立っていた。「よく見つけましたね」リンが言った。「君の行動は読めていた。上海を出るなら、船しかない。波止場を見張らせていたのさ」 田中は近づいてきた。「シュウメイ、君は大きな間違いを犯した」「間違い? 真実を明らかにすることが?」「この街では、真実など二束三文だ。大切なのは、誰の味方につくか」「私は——人間の味方につきました」 田中は冷笑した。「人間? この街に人間などいない。いるのは、捕食者と被食者だけだ」 田中は部下に目配せした。二人の男がリンに近づく。「待って!」 リンは後ずさりした。だが、背後には海しかない。「君を殺すつもりはない」田中が言った。「ただ、少し旅をしてもらう。遠く、誰も君を見つけられない場所へ」 男たちがリンの腕を掴んだ。「離して!」 リンは抵抗したが、力では敵わ
翌朝、上海中の新聞売りが『申報』の号外を叫んでいた。「号外! 号外! 銀行強盗の真相が明らかに! 田中誠一郎、横領の疑い!」 街中が騒然となった。人々は新聞を奪い合うように買い求め、カフェや茶館で記事を読み、議論を交わした。 王福生も、人力車を止めて新聞を買った。一面には、大きな見出しとともに、田中と張偉の関係、横領の証拠となる帳簿の写真が掲載されていた。「本当だったのか——」 王は唇を噛んだ。自分が乗せた男は、英雄ではなく、ただの犯罪者だった。 そして、記事の最後には、「匿名の目撃者と勇気ある内部告発者の協力により、真実が明らかになった」と書かれていた。 王は新聞を畳んだ。匿名の目撃者——それは自分のことだろうか? ハリソン警部補は、自分の名前は出さなかった。王を守るために。 王の胸に、温かいものが広がった。 イギリス租界警察署では、大混乱が起きていた。スミス署長の部屋には、電話が鳴り止まず、上層部からの叱責が続いていた。「なぜこんな記事が出た! お前は田中との関係を管理できていないのか!」「申し訳ございません。ですが、証拠は確実なようで——」「証拠など関係ない! この記事のせいで、租界全体の信用が失墜した!」 電話が切れた後、署長は深いため息をついた。 そして、ハリソンのことを思った。あの若造が、結局正しかったのか。 だが、それを認めるわけにはいかない。 一方、ハリソンは自分のアパートで新聞を読んでいた。記事は完璧だった。陳編集長は、事実を正確に、そして説得力を持って報じた。 だが、ハリソンの心には不安があった。リンは無事だろうか? 彼は窓から外を見た。通りには、新聞を読む人々の姿がある。真実は広まった。だが、その真実を守ったリンは、今どこにいるのか? リンは、外灘の倉庫地区に隠れていた。三日間、ほとんど食べ物もなく、寒さに震えながら過ごしていた。 新聞
リンとハリソンは、雨の中で向き合っていた。リンは傘を差し出したが、ハリソンは受け取らなかった。「雨に濡れたいんです」「風邪をひきますよ」「構いません」 沈黙。雨音だけが響く。「話があります」リンが口を開いた。「どこか、人目につかない場所で」 二人は近くの茶館に入った。奥の個室に通され、ハリソンは初めて彼女の顔をまともに見た。 疲れている。それが第一印象だった。美しい顔の下に、深い疲労が隠れている。「何の話ですか?」ハリソンが尋ねた。「銀行強盗の件です。私——あの日、犯人の顔を見ました」 ハリソンの目が鋭くなった。「それは本当ですか? 以前、何も見ていないと——」「嘘をついていました。ごめんなさい」 リンは下を向いた。「なぜ今、真実を?」「あなたが——あなたが正しいことをしようとして、全てを失おうとしているから」 リンは顔を上げた。目には涙が浮かんでいる。「私は臆病者です。真実を知っていながら、自分の安全のために黙っていた。でも、あなたを見て——もう黙っていられなくなった」 リンは鞄から、田中の書斎でこっそり撮った書類の写真を取り出した。小型カメラで撮影したものだ。「これを見てください。田中誠一郎と張偉は、銀行から金を横領するために、強盗事件を偽装したんです」 ハリソンは写真を見た。銀行の帳簿、金額、日付——全てが一致している。「これは——決定的な証拠だ」「でも、私がこれを証言すれば、田中は私を——」 リンの声が震えた。「安全は保証します」ハリソンが言った。「あなたを守ります」「どうやって? あなたは警察を追われるんでしょう?」「それでも、私には——」