Share

第五章:沈黙の代償

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-03 15:24:36

 リンとハリソンは、雨の中で向き合っていた。リンは傘を差し出したが、ハリソンは受け取らなかった。

「雨に濡れたいんです」

「風邪をひきますよ」

「構いません」

 沈黙。雨音だけが響く。

「話があります」リンが口を開いた。「どこか、人目につかない場所で」

 二人は近くの茶館に入った。奥の個室に通され、ハリソンは初めて彼女の顔をまともに見た。

 疲れている。それが第一印象だった。美しい顔の下に、深い疲労が隠れている。

「何の話ですか?」ハリソンが尋ねた。

「銀行強盗の件です。私——あの日、犯人の顔を見ました」

 ハリソンの目が鋭くなった。

「それは本当ですか? 以前、何も見ていないと——」

「嘘をついていました。ごめんなさい」

 リンは下を向いた。

「なぜ今、真実を?」

「あなたが——あなたが正しいことをし

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語   第十章:見えない糸

     田中誠一郎の逮捕から一週間後、上海は徐々に日常を取り戻していた。だが、街の空気は以前とは違っていた。人々の間に、小さな希望の光が灯り始めていた。 王福生は、いつものように人力車を引いていた。だが、今日は少し違った。客を乗せながら、彼は背筋を伸ばしていた。 客が降りるとき、いつもより多めのチップをくれた。「あんた、田中に立ち向かった車夫だろう? 新聞で読んだ。勇気があるな」 王は頭を下げた。「いいえ、私は——ただ、家族を守ろうとしただけです」「それが勇気というものだ」 客は去った。王は受け取った金を見た。 これで、美玲の学費がまた少し貯まる。 その夜、王の家では、家族三人で夕食を囲んでいた。「父さん」美玲が言った。「今日、学校の先生が言ってたの。父さんみたいな人が、社会を変えるんだって」 王は苦笑した。「俺は何も変えていない。ただ——」「いいえ」妻が遮った。「あなたは変えたわ。少なくとも、この家族の中では」 王は妻と娘を見た。「どういうことだ?」「美玲も私も、あなたを誇りに思っているわ。あなたは——私たちのヒーローよ」 王の目が潤んだ。「ありがとう」 その頃、リン・シュウメイは新しい人生を始めていた。彼女は香港に戻り、小さな音楽ホールで歌い始めた。 だが、今度は違った。誰かの愛人としてではなく、一人の芸術家として。 ステージに立ち、リンは新しい歌を披露した。「黄浦江の誓い」——上海での経験を歌にしたものだ。 歌詞には、ハリソンのこと、王のこと、そして自分の葛藤が込められていた。 観客は静かに聞き入り、曲が終わると——盛大な拍手が起こった。 楽屋に戻ると、陳独秀が待っていた。「素晴らしい歌でした、リンさん」「ありがとうございます。これも

  • 黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語   第九章:黄浦江の夕暮れ

     三日後、貨物船「永安号」は香港に到着した。リンは船倉から出て、香港の港を見た。 ビクトリア・ハーバーが目の前に広がっている。上海とは違う、だが同じように活気のある街。 船長が近づいてきた。「リンさん、ここからは気をつけて。田中の手下が先回りしているかもしれない」「分かっています。ありがとうございました」 リンは船を降りた。だが、桟橋を歩いていると——背後から声がかかった。「リン・シュウメイ!」 振り返ると、見知らぬ男が二人、近づいてくる。田中の手下だ。 リンは走り出した。 港の雑踏の中を駆け抜け、路地に入る。だが、追手は容赦なく追いかけてくる。 リンは人混みの中に紛れ込もうとしたが、腕を掴まれた。「逃げられると思うな」 男がリンを引っ張る。リンは抵抗したが、力では敵わない。 その時——「彼女を放せ!」 声の主は——陳独秀だった。『申報』の編集長が、なぜここに? 陳は数人の仲間を連れていた。「彼女は私の友人だ。手を出すな」 田中の手下は躊躇した。人数では不利だ。「覚えてろ」 男たちは去った。 リンは陳に駆け寄った。「陳さん、なぜここに?」「ハリソンさんから電報を受け取りました。あなたが危険だと。だから、香港の仲間に頼んで、港で待っていたんです」「ハリソンさんが——彼は無事なんですか?」「分かりません。電報は寧波から送られてきましたが、それ以降は音信不通です」 リンの目に涙が浮かんだ。「彼は——私のために——」「リンさん、今は安全な場所に行きましょう。私の友人が、隠れ家を用意してくれています」 陳はリンを連れて、香港の街を歩いた。 その夜、リンは陳の

  • 黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語   第八章:犠牲と勇気

     香港行きの貨物船「永安号」は、東シナ海の波に揺られながら南下していた。船倉の中、ハリソンとリンは貨物の箱に寄りかかり、それぞれの思いに耽っていた。「ハリソンさん」リンが静寂を破った。「あなたは後悔していませんか? 上海での全てを失って」 ハリソンは少し考えてから答えた。「後悔——ですか。正直に言えば、時々考えます。もっと賢く立ち回れば、職も地位も保てたかもしれない、と」「でも?」「でも、鏡の中の自分を見られなくなるよりはましです。あなたが言っていたように」 リンは微笑んだ。「私たちは、似ていますね。愚かなほど正直で」「愚かではありません。人間らしい、というだけです」 船が大きく揺れた。二人は互いに身を寄せ合った。 その時、船倉のドアが開いた。船長が急いで入ってくる。「大変だ! 上海から無線が入った。田中誠一郎の手下が、この船を追っているらしい」「何ですって?」リンが立ち上がった。「高速艇で追跡しているそうだ。このままでは、数時間で追いつかれる」 ハリソンは冷静に考えた。「船長、この船の最高速度では逃げ切れませんね?」「ああ、無理だ。貨物船と高速艇では、スピードが違いすぎる」「では——」ハリソンはリンを見た。「私が囮になります」「え?」「次の港、寧波に寄港する予定でしたね? そこで私が降ります。田中の手下は、私を追うでしょう。その間に、リンさんは香港へ」「そんな! あなたが捕まったら——」「大丈夫です。私は元警察官です。逃げる技術は持っています」 船長は二人を見た。「いい案だが——危険すぎる」「他に方法がありますか?」 船長は黙った。「決まりです」ハリソンが立ち上がった。「寧波まで、あとどれくらいですか?」「三時間だ」「分かり

  • 黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語   第七章:決断の時

     上海の夕暮れは、いつになく美しかった。黄浦江が夕日を反射し、金色に輝いている。だが、その美しさの下には、暗い潮流が渦巻いていた。 リンは、波止場の倉庫の影に身を潜め、出航時刻を待っていた。今夜十時、香港行きの貨物船が出る。船長には、持っていた金の大半を渡して、密航を手配した。 新しい人生。それがどんなものになるか分からないが、少なくともここよりはましだろう。 リンは母の形見の翡翠の腕輪を撫でた。「お母さん、私は正しいことをしたと思う。でも、なぜこんなに辛いんだろう」 答えは返ってこない。ただ、波の音だけが聞こえる。 その時、足音が近づいてきた。リンは身を縮めた。「シュウメイ、そこにいるのは分かっている。出てきなさい」 田中の声だ。リンの心臓が激しく打った。 どうする? 逃げる? だが、どこへ?「出てこなければ、こちらから行くぞ」 リンは立ち上がった。もう隠れても無駄だ。 倉庫の影から出ると、田中が数人の部下を連れて立っていた。「よく見つけましたね」リンが言った。「君の行動は読めていた。上海を出るなら、船しかない。波止場を見張らせていたのさ」 田中は近づいてきた。「シュウメイ、君は大きな間違いを犯した」「間違い? 真実を明らかにすることが?」「この街では、真実など二束三文だ。大切なのは、誰の味方につくか」「私は——人間の味方につきました」 田中は冷笑した。「人間? この街に人間などいない。いるのは、捕食者と被食者だけだ」 田中は部下に目配せした。二人の男がリンに近づく。「待って!」 リンは後ずさりした。だが、背後には海しかない。「君を殺すつもりはない」田中が言った。「ただ、少し旅をしてもらう。遠く、誰も君を見つけられない場所へ」 男たちがリンの腕を掴んだ。「離して!」 リンは抵抗したが、力では敵わ

  • 黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語   第六章:亀裂

     翌朝、上海中の新聞売りが『申報』の号外を叫んでいた。「号外! 号外! 銀行強盗の真相が明らかに! 田中誠一郎、横領の疑い!」 街中が騒然となった。人々は新聞を奪い合うように買い求め、カフェや茶館で記事を読み、議論を交わした。 王福生も、人力車を止めて新聞を買った。一面には、大きな見出しとともに、田中と張偉の関係、横領の証拠となる帳簿の写真が掲載されていた。「本当だったのか——」 王は唇を噛んだ。自分が乗せた男は、英雄ではなく、ただの犯罪者だった。 そして、記事の最後には、「匿名の目撃者と勇気ある内部告発者の協力により、真実が明らかになった」と書かれていた。 王は新聞を畳んだ。匿名の目撃者——それは自分のことだろうか? ハリソン警部補は、自分の名前は出さなかった。王を守るために。 王の胸に、温かいものが広がった。 イギリス租界警察署では、大混乱が起きていた。スミス署長の部屋には、電話が鳴り止まず、上層部からの叱責が続いていた。「なぜこんな記事が出た! お前は田中との関係を管理できていないのか!」「申し訳ございません。ですが、証拠は確実なようで——」「証拠など関係ない! この記事のせいで、租界全体の信用が失墜した!」 電話が切れた後、署長は深いため息をついた。 そして、ハリソンのことを思った。あの若造が、結局正しかったのか。 だが、それを認めるわけにはいかない。 一方、ハリソンは自分のアパートで新聞を読んでいた。記事は完璧だった。陳編集長は、事実を正確に、そして説得力を持って報じた。 だが、ハリソンの心には不安があった。リンは無事だろうか? 彼は窓から外を見た。通りには、新聞を読む人々の姿がある。真実は広まった。だが、その真実を守ったリンは、今どこにいるのか? リンは、外灘の倉庫地区に隠れていた。三日間、ほとんど食べ物もなく、寒さに震えながら過ごしていた。 新聞

  • 黄浦江に誓う——上海1932、三つの魂の物語   第五章:沈黙の代償

     リンとハリソンは、雨の中で向き合っていた。リンは傘を差し出したが、ハリソンは受け取らなかった。「雨に濡れたいんです」「風邪をひきますよ」「構いません」 沈黙。雨音だけが響く。「話があります」リンが口を開いた。「どこか、人目につかない場所で」 二人は近くの茶館に入った。奥の個室に通され、ハリソンは初めて彼女の顔をまともに見た。 疲れている。それが第一印象だった。美しい顔の下に、深い疲労が隠れている。「何の話ですか?」ハリソンが尋ねた。「銀行強盗の件です。私——あの日、犯人の顔を見ました」 ハリソンの目が鋭くなった。「それは本当ですか? 以前、何も見ていないと——」「嘘をついていました。ごめんなさい」 リンは下を向いた。「なぜ今、真実を?」「あなたが——あなたが正しいことをしようとして、全てを失おうとしているから」 リンは顔を上げた。目には涙が浮かんでいる。「私は臆病者です。真実を知っていながら、自分の安全のために黙っていた。でも、あなたを見て——もう黙っていられなくなった」 リンは鞄から、田中の書斎でこっそり撮った書類の写真を取り出した。小型カメラで撮影したものだ。「これを見てください。田中誠一郎と張偉は、銀行から金を横領するために、強盗事件を偽装したんです」 ハリソンは写真を見た。銀行の帳簿、金額、日付——全てが一致している。「これは——決定的な証拠だ」「でも、私がこれを証言すれば、田中は私を——」 リンの声が震えた。「安全は保証します」ハリソンが言った。「あなたを守ります」「どうやって? あなたは警察を追われるんでしょう?」「それでも、私には——」

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status