All Chapters of 拗れた愛への執着: 結婚から逃げた総裁に愛された: Chapter 1091 - Chapter 1100

時刻はすでに午前十時を回っていた。会議を終えた憲一は、自分のオフィスへと戻ってきた。ドアを閉めるなり、彼は急ぐように目の前のモニターを点けた。画面に映し出されたのは、自宅の様子だった。赤ちゃんはすでに目を覚まし、ミルクを飲んだあと、由美に抱かれて中庭で日向ぼっこをしていた。今日の日差しはそれほど強くなく、しかも庭には東屋がある。その下は風通しが良く、赤ちゃんが外気に触れるのにちょうど良い場所だった。傍らのバルコニーでは、今朝子どもが着ていた衣類が干されていた。それは由美がベビー用洗剤で手洗いしたもので、清潔そのものだ。由美は赤ちゃんの手におもちゃを渡しながら、優しく話しかけていた。「いい子ね、もうお腹いっぱい？」まるで独り言のように、彼女は静かに語りかけた。「松原さんが言ってたよ。昨日の夜、いっぱい泣いたんだって？それじゃダメよ。パパは毎日お仕事でとっても忙しいんだから、ちゃんと寝ないとね」「おばさんはね、専門の保育士なの。日光浴をするとメラトニンの分泌が整って、今夜はきっとぐっすり眠れるわよ」赤ちゃんは「あーうー」と声を出しながら、小さな手で由美の頬に触れた。その様子を画面越しに見ていた憲一の胸の内には、またあの妙な感情がじんわりと湧いてきた。だが、以前とは少し違っていた。彼はそっと映像を閉じ、溜息をひとつ漏らした。そして思わず口元に笑みが浮かんだ。──あれって全部、俺に聞かせるために言ってたのか？でも、たしかに彼女はちゃんと育児の知識があって、演技だけってわけじゃなさそうだ。憲一再びモニターを見つめた。──忙しい合間の束の間の休息か、それとも――彼女を覗き見るための言い訳か。時計を一瞥し、憲一はオフィスをあとにした。午前中の定例会議のほかにも、取引先の社長たちと契約について話し合う予定があった。廊下では、社員たちの声が時おり聞こえてきた。最近は取引もうまくいかず、社内にはどこか重苦しい空気が流れていた。その憲一のすぐ後ろには、いつものようにビビアンが静かに付き従っていた。数時間が過ぎ、時計の針はきっちり12時を指していた。昼休みに入る時間、ビビアンは30分の外出を申し出た。普段ほとんど休みを取らない彼女の申し出に、憲一は振り返りもせず、「行って

家政婦は今にも泣き出しそうな顔だった。あの家の赤ちゃんに付きっきりだったあの数日、すでに心身ともに限界だった。やっとあの家から解放されたと思ったら、今度はこの女に脅されて戻れと言われるなんて——！「ビビアンさん……」喉を鳴らし、家政婦はおずおずと目の前の女に視線を向けた。「所詮あの女なんてただの保育士ですよ？松原さんが一番大事にしてるのは娘さんです。もし本当に松原さんの心を掴みたいなら、まずは娘さんの方をどうにかしたほうが……」言い終える前に、ビビアンの冷たい視線が彼女を射抜いた。「……なに？」その声には、妙な威圧感があった。「私に指図でもしたいわけ？」傍らの男が再び力を込めた。息ができなくなり、家政婦は慌てて首を振った。「行きます！今日中に行きますから！」返事を聞いて、ようやくビビアンは満足そうにうなずいた。「そうこなくちゃ」その合図を受けて、男もようやく家政婦を解放した。立ち去る直前、ビビアンは意味深に一枚のカードを取り出し、指でくるくる回して見せつけた。「うまくやってくれたら——報酬は前に言った額の二倍にするわ」家政婦は苦しげに首をさすりながら、黙ってうなずいた。──あの男の力はとてつもなかった。さっき少しでも返事が遅れていたら、本当に首の骨が折れていたかもしれない。二人の姿が通りから消えていくと、残された家政婦は眉をひそめた。「やっと逃げられたと思ったのに、また巻き込まれるなんて！」彼女は携帯を取り出して時間を確認した。──ちょうど午後1時を少し過ぎたところ。あの赤ちゃんの昼寝の時間帯だ。「……仕方ないか」ビビアンから約束されたお金を思い出すと、家政婦は悔しそうに足を踏み鳴らした。「どうせ金のためだし、一度ぐらいは賭けてみるか！」そう言いながら、彼女は急ぎ足で憲一の家に向かった。憲一の住まいは警備の厳しい高級マンションで、入り口には常に警備員がいる。彼女は以前このマンションで働いていたため、警備員に止められることもなくすんなりと中に入ることができた。マンションの下まで来たとき、家政婦はちょうど下へ降りてくる由美を見つけた。昨夜、赤ちゃんがなかなか寝なかったため、午前中はずっと眠っていた。家に一人しかいない状況で、由美はどうしても

「お嬢さん、お願いだから！」家政婦は声を震わせながら、涙をぽろぽろとこぼした。「この仕事を失ったら、本当に家族みんなが生きていけなくなるんです！みんな私の稼ぎに頼っているんです！これからお嬢さんは子供の世話に専念して、私は家事をきちんとやります。それでいいじゃありませんか？」通りかかった数人の住民たちが、声に引き寄せられたように、由美の方を不思議そうに見つめた。「いい加減にしてくれない？」由美は深呼吸し、もはや無理に振りほどこうとはしなかった。彼女は家政婦を見下ろしながら、冷たく言い放った。「ここは、この辺りで一番の高級マンションよ。住んでいるのはみんなお金持ちばかり。本当にここで騒ぎを続けるつもりなの？」その言葉に、家政婦はハッとした。由美はその隙をついて、素早く足を引き抜いた。抱きかかえていた赤ん坊が、何かを感じ取ったのか、突然「わああん」と泣き出した。「よしよし、大丈夫よ」由美は赤ん坊の背中を軽く叩き、優しくあやした。泣き止んだのを見届けてから、彼女は再び家政婦をきつく見つめた。「こんなみっともない真似はやめた方がいいわ。松原さんの家には、もうあなたの居場所はない。私に取り直してほしいなんて思わないことね。あなたが子どもにどう接していたか、私はちゃんと見ていたから」──もし、最初から穏やかに話してきていれば、少しは手を貸したかもしれない。だが、こんな下品な手段を使う人間を、我が子の側に置くことなど絶対にできない。「それと……」くるりと背を向けかけたところで、由美はふと立ち止まり、肩越しに言い放った。「このマンションに住んでいるのは、全員が金持ち。本来なら、あなたの経歴を生かして、他の家庭で雇ってもらえたかもしれないのに──今日こんな騒ぎを起こしたことで、多分すぐにマンション中に噂が広まるわ。私からの忠告よ。これからは、ここに顔を出さない方が身のためよ」そう言い残し、由美は赤ん坊をしっかりと抱き直し、早足でその場を去っていった。由美の後ろ姿を見ながら、家政婦は腹立たしさで顔を歪めた。「何様のつもりよ……！」彼女は由美の背中に向かって「ペッ」と唾を吐きつけた。「子どもを育てているってだけ。実の母親でもないくせに、ちょっとお金もらっただけで調子に乗るなんて」周囲の住民

「お嬢さん……」店員が商品の在庫を取りに行った際に、家政婦が由美の目の前に駆け寄った。「お願いだから……！」彼女はしゃがみ込み、由美の脚にすがりついた。「どうかもう一度だけ働かせてください！二度と問題は起こしませんから！」店の外からも、何人かの通行人が中の様子を覗き込んでいた。地味な服装の中年女性が床に座り込み、若い女性に懇願する様子に、周囲はざわめき始めた。「何？イジメじゃない？」「さすがにこれはやりすぎだろ……」「動画を撮ってネットに上げたらどう？」周囲の雰囲気がざわつき始めるのを察して、由美はすぐに俯いた。恐怖の色を帯びた家政婦の目を見つめ、由美は軽く咳払いをした。「……こうしましょう。松原さんはもうすぐ仕事が終わりますし、退社時間になったら、私からあなたの話してみます。もし問題がなければ、私は別に構いません」──これ以上騒がれると、余計な誤解を招くかもしれない。その言葉を聞き、家政婦はパッと立ち上がった。「ありがとうございます！」彼女は目を細めて満面の笑みを浮かべた。「ご安心ください、松原さんが会ってくださるなら、私はもう絶対にお嬢さんにはご迷惑をかけません！」そこへ、店員が洋服を抱えて戻ってきた。それを見て、家政婦がすぐに手を伸ばした。「私が持ちます！」「結構」由美は冷たく言い放ち、自分で袋を取った。──この家政婦はあまりにも執念深い。単に仕事が欲しいだけなのか、それとも他に目的があるのか。警戒せずにはいられない。だからこそ、子どもに関わるものは絶対に触れさせたくなかった。店を出ると、陽射しはすでにやや傾き始めていた。帰り道、家政婦はずっと彼女の後ろについていた。ちょうど住宅街の入口に差しかかったとき、背後から声が飛んできた。「前で停めてくれ！」会議を終えた憲一は、いつものようにモニターを確認したが、画面に誰も映っていないことに気づき、慌てて早めに帰宅することにした。「あれが新しい保育士さんですか？」運転手が前方を見ると、ちょうど由美の姿が見えた。憲一は答えず、車はゆっくりと減速し、由美の横に停まった。「松原さん？」車に気づいた由美は、背筋をピンと伸ばした。「来たよ！」彼女はそばの家政婦に低く言い放った。──こ

赤ん坊はまだ目を覚ましていた。小さな手足を元気いっぱいに動かし、とても楽しそうな様子だった。まん丸な頬がなんとも愛らしい。「そんなに楽しいのか？」赤ん坊を見た瞬間、憲一の顔にごく僅かな優しさが浮かんだ。由美はすぐに哺乳瓶を差し出した。憲一はそれを受け取り、赤ん坊に授乳を始めた。ミルクの匂いを感じた赤ん坊は、小さな手で一生懸命に哺乳瓶を掴もうとした。どうやらお腹が空いていたようだった。「赤ちゃんにミルクをあげるときに、何か気をつけることがあるのか？」そう尋ねながら、憲一は振り返った。由美は微笑みながら赤ん坊を見ていたが、ふと彼と目が合い、由美は一瞬だけ動きを止めた。そしてすぐに我に返り、自ら手を伸ばして示した。「こうです」そう言いながら、由美は丁寧に手本を見せた。「赤ちゃんは今、ベッドの上で気持ちよさそうにしているので、無理に抱き上げなくても大丈夫です。でも、姿勢が悪いとミルクが気管に入ってしまうこともあるので注意が必要です」彼女の慎重な様子を、憲一は黙って見つめていた。哺乳瓶の乳首が赤ん坊の唇に触れると、赤ん坊は勢いよくミルクを飲み始めた。その様子に、由美は思わず微笑んだ。「いい子だね」彼女は目を伏せながら手を伸ばし、そっと赤ちゃんの頬を撫でようとした。しかし、指先が頬に届きそうになった瞬間、ふと身後の存在を思い出し、手を止めた。──自分はあくまで保育士。分をわきまえなければ。「今日はどうだった？」憲一は彼女の仕草には気づかないふりをして、一歩前に出ながら尋ねた。「ぐずることもなく、食欲も問題ありません。途中で一度熱を出しましたが、すぐに下がりました」由美は赤ん坊のそばに置かれたクマのぬいぐるみに目をやり、ふと口を開いた。「松原さん、お子さんには立派なお名前がありますけど、普段呼ぶにはちょっとよそよそしい気がします。よければ、呼びやすい愛称をつけてあげませんか？」赤ちゃんの笑顔を見つめながら、由美は内心ずっと愛称を考えていた。実は数日前からこのことを気にしていた。──いつも名前と呼ぶよりも、親しみを込めた愛称があった方がいいに決まっている。「愛称か？」憲一は少し考えるように視線を窓の外へ向けた。外ではそよ風が静かに吹いていた。「なる