拗れた愛への執着: 結婚から逃げた総裁に愛された のすべてのチャプター: チャプター 901 - チャプター 910

1120 チャプター

第901話

夜の十二時。海辺では月明かりに照らされた波がきらめき、潮風が潮の香りを運んでは、岸辺を吹き抜けていった。身震いするほどの寒さだ。コンテナに潜んでいた警察官たちは、一糸乱れず、集中して外の状況を見張っていた。潜入捜査官からの情報により、特定の船に目を付け、動きがあれば即座に包囲する手はずだ。犯罪グループの目的は明確――公海に出て違法取引を行うつもりだ。だから警察は事前に行動を起こさなければならない。海上での行動は制約が多いため、船が動き出す前に一網打尽にしなければならない。やがて目標の船がエンジンをかけた瞬間――副署長が指令を下した。すぐに船は埠頭で封鎖され、包囲網が敷かれた。彼らが取り引きしていたものは、人々を害する違法薬物だ。逮捕されれば、銃殺刑を免れても、10年、あるいは数十年の刑務所生活が待っている。しかもこの連中には、人殺しの前科を持つ者も少なくない。命知らずの亡者たちだ。追い詰められれば、当然、死に物狂いで抵抗してくる。こうして激しい戦闘が始まった。銃声が響き渡り、誰もが不安に駆られた。眠れぬ夜となった。激戦の末、船の乗組員は全員逮捕された。しかし警察側にも犠牲者が出た。明雄は隊長として、真っ先に船に乗り込んだ。幸い、彼は軽い外傷を負っただけですみ、手当てを終えるとすぐに動ける状態に戻った。しかし、今は休んでいる場合ではない。今回逮捕した中に、組織のボスがいなかったからだ。「こいつは俺が訊く」明雄は、壁際にうずくまる黒いパーカーを着た男を指さした。男はすぐに取り調べ室へ連行された。「一旦電話する。由美に無事を伝えないと」明雄は言った。「どうぞ、隊長」外に出た明雄は、電話をかけた。すぐに通話が繋がった。「……もしもし?」「俺だ。署まで来い。俺に飯を届けるように言え」由美はすぐにその意図を悟った。「わかった」明雄が取り調べ室に戻ると、被疑者はまだ一言も口を開いていなかった。現行犯で押さえられ、違法な取引品まで押収されているのに、一切の供述を拒んでいる。厄介なやつだ。ほどなくして由美が弁当を持って到着した。大きく膨らんだお腹が目立っていた。隊員たちは皆、そんな彼女を気遣っていた。「奥さん、ご苦労様。隊長は
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第902話

翔太は震えながら、かすれた声で尋ねた。「……誰の子だ?」由美は彼の前に歩み寄った。だが、その問いには答えず、静かに別の質問をした。「あなた……何か違法なこと、したの?」翔太の目は血走っていた。彼女を睨みつけるように、言葉を吐き捨てた。「また憲一とよりを戻したのか?」弁当を食べていた明雄の手が、一瞬止まった。だがすぐに、何事もなかったように食べ続けた。由美は辛抱強く言った。「私のことは気にしないで。今はあなた自身のことを話して。そうすれば、どう助ければいいかわかるから……」「ははっ!」翔太は乾笑って言った。「ふっ……助ける?お前が?どうやって?え?職権乱用か?お前にそんな力があるのか?」由美は彼の肩をしっかりと掴んだ。「翔太……」「呼ぶなっ!!」翔太は怒りのあまり叫んだ。明雄が顔を上げた。「話したくないか。由美、君は外に出ててくれ」「明雄、少しだけ時間を……」由美は明雄を見つめて懇願した。「彼が嫌がってるのが分からないのか?これ以上いても意味はないんだ」翔太の視線が明雄へ、それから再び由美へと向けられた。「お前と……彼は?」「俺たちは夫婦だ」明雄が静かに答えた。翔太は呆然とした。その瞳に宿っていた怒りは徐々に消え、代わりに驚きと信じられない気持ちが浮かんできた。由美は優しい声で言った。「彼の言う通り、私たちは結婚したの。お腹の子は……彼の子よ」「ハッ、ハハ……」翔太は自嘲気味に笑った。「憲一の子じゃないだけ、まだマシだ……」憲一――あの男とその家族が、どれほど由美を傷つけたか。それでも彼女が憲一を許したとしたら――それだけは、絶対に受け入れられない。彼は明雄を見つめた。制服姿の彼は、凛とした空気を纏っていて、安心感があった。そして、ようやく翔太は理解しはじめた。――なぜ、由美がこの男を選んだのか。結局、最後に自分の元には—俺が求め、憧れたものは—何一つも届かなかった。まるで夢を見ていたようだ。今、その夢は打ち砕かれた。全てが消えてしまった……「……何を知りたいんだ?」翔太は力なく言った。彼の目は虚ろで、気力が感じられなかった。当初彼が旅立ったのは、由美を探すためでもあった。事業を起こしながら、彼女を探すつもりだった。し
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第903話

由美の瞳の光が徐々に薄れ、ぼそりと呟いた。「……やっぱり、刑務所に……入らないといけないのね……」「無罪放免は……無理だ」明雄は彼女を宥めるように言った。「でも、命を落とすよりはずっといいだろ?」由美は翔太を見つめた。「翔太……」「俺は構わない」翔太は静かに答えた。自分が犯した過ちが、どれほど重いかは彼自身が一番よく分かっていた。どんなに償っても、無傷では済まないと悟っていた。明雄の提案は、実際のところ最善の策だった。「先に帰ってくれ。後は俺に任せて」明雄が彼女を支えた。彼女も分かっていた。これ以上ここにいることは、彼にとっても負担になる。明雄のことなら、きっと大丈夫――だが……彼女は振り返り、もう一度翔太を見た。翔太は微笑んで彼女に手を振った。「……帰れよ」由美は尋問室を後にした。明雄は彼女を署の外まで見送った。「俺はまだ帰れない。君は一睡もしてないだろう?家でしっかり眠れ。後で食事を届けるから」「何が食べたい?私が作るわ」由美は言った。「いい。お腹が大きいんだから無理するな。翔太の件は俺が何とかする。量刑を軽くするよう最善を尽くす。これが俺たちにできる全てだ」由美がうなずくと、明雄は署に戻った。その後、彼は翔太のすべての供述書を手に入れ、彼が内通者になることについても、上の許可を取った。これからの任務は、翔太を「捕まっていない」ように見せかけ、逃走したふりをさせること。そして敵のもとへ戻り、潜入捜査員として情報を提供させる――最終的には、すべてを一網打尽にするのだ!……由美は家に帰ると、力なくベッドの端に腰を下ろした。しばらくぼんやりと時間を過ごし、ようやく立ち上がってキッチンへと向かった。彼女は、少しだけ料理をした。明雄が帰宅したとき、ちょうど料理が出来上がったところだった。「手を洗ってきて!」明雄は食べ物も買って帰っていた。「作らなくていいって言ったのに」「だって、疲れて帰ってきた夫に温かい食事一つ出せないなんてありえないでしょ?」由美は料理をテーブルに並べた。明雄は笑い、そして買ってきたものを置き、洗面所へと向かった。由美も彼が買ってきたものをテーブルに並べた。明雄が席に着くと、由美はスープをよそった。「温かいものを一
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第904話

「情に流されすぎなんだよ、君は」明雄は言った。由美も笑みを浮かべた。「それって褒めてるの?」「いや、そうじゃない。これは良いことじゃない。情に流されると、周りの人や出来事に振り回されてしまう。人間はまず冷静さを保つことが、自由に生きる第一歩だ」由美は眉をひそめた。そんなことをしたら、人は冷たくなってしまうんじゃないか?人生には、心から心配してしまう人が一人や二人いてもいいはずでは?彼女は明雄を見つめた。「あなたってそんなに冷静なんだ。もし私が死んだら、すぐに別の女と結婚するでしょう?どうせ女なんてみんな同じだもの」「……」明雄は呆然とした。「そんな意味じゃないんだ」由美はいたずらっぽく笑って、肩をすくめた。「冗談だよ。そんなに驚かないでよ」明雄は彼女の笑顔を見て、自然と笑みがこぼれた。付き合い始めた頃の由美の笑顔は作り物だった。しかし今の笑顔は、心からのものだと感じられたのだ。「さあ、早く食べろ」明雄は料理を取り分けた。「うん」由美は箸を取った。食事後、明雄は寝についた。昨夜は一睡もしていないのだ。由美は食卓と台所を片付け、明雄を邪魔したくないため、散歩に出かけることにした。医者からも、よく歩くことが出産に良いと聞いていた。部屋で上着を取ろうとすると、明雄の腕から包帯がのぞいているのに気づいた。彼女は思わず眉を上げ、ベッドに近寄って彼を見つめた。眠りは浅かったらしく、誰かの視線を感じたのか、明雄はまどろみの中で目を開けた。焦点の合わなかった目が、徐々に彼女の顔をとらえた。「……由美?」「……怪我してるの?」「ちょっとした傷だよ、大したことじゃない」彼は微かに笑って答えた。「私、妻として失格ね。あなたが傷を負っているのに気づかなかったなんて……」由美は自分を責めた。明雄は彼女の手を握った。「君のせいじゃない。俺が言わなかったんだ」「痛い?」「大丈夫だ。こんな傷、大したことないよ」彼は首を振った。「でも、痛いものは痛いでしょう」そう言って彼の額にそっとキスをした。「ゆっくり休んで。邪魔しないから」明雄は午後からまた仕事があった。休めるのは午前中だけだったのだ。そして由美は部屋から出てきて、静かに寝室のドアを閉めた。道に出ると、携帯を取り
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第905話

「……深刻よ」由美は言った。香織は大きく息を吸い込んだ。「どのくらい……?」「命に関わる」その瞬間、香織の表情が一変した。彼女は次男を抱いたまま、力なくベンチに腰を下ろした。両足が急に力を失ったかのように震えていた。次男はじっとしていられず、彼女の腕の中でもぞもぞと動き回り、時々彼女の頬を叩いたり、髪を引っ張ったりした。「香織、落ち着いてね。明雄ができる限りのことはするわ」由美は言った。「……ありがとう。あなたたちに迷惑かけるわね。圭介は今そばにいないし、私は子供ふたりの世話で……行けそうにないの」「大丈夫、心配しないで。私たちでなんとかするから」「……ありがとう」「気にしないで」由美は言った。電話が切れたあと、香織は次男を抱いて室内に入ろうとした。だが、次男は中に入りたがらず、屋内に入るとすぐ泣き出した。仕方なく彼女は外で次男に歩く練習を続けた。そのとき、越人が慌ただしく走って来た。香織は顔を上げた。「どうしたの?」越人は彼女を見て、何かを言いかけたが口をつぐんだ。「話があるなら言いなさい」香織は言った。越人の顔色はますます悪くなり、まるでどう言っていいのか分からないといった様子で、立ち尽くしていた。香織は何か重大なことが起きたのを察した。「何があったの?こんなにも慌てるなんて、ただ事じゃないでしょ?」越人は声を低くして言った。「水原様が……事故にあったそうです」それを聞いて、香織はふらつき、よろけて一歩後ろに下がった。心臓がぐっと締め付けられたようだった。越人はすぐに彼女を支えてベンチに座らせ、彼女の腕の中にいた次男を抱き取った。「奥様……」香織は胸を押さえた。ついさっき翔太の事件を知ったばかり。それに続いて今度は圭介の悪い知らせ。本当に耐えきれないの……いつも冷静な越人が……これほど慌てて駆けつけるということは、よほどのことに違いない。「どういうことか、教えてちょうだい!」彼女は必死に感情を抑えながら言った。「落ち着いてください。まだ確定ではありません。……行方不明なんです」越人は言った。「行方不明ってどういうこと!?」香織は彼を見つめた。越人は目を伏せた。「飛行機事故です」「……なに?」香織の目は見開かれ、瞳が震
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第906話

越人は香織の目をまともに見られなかった。彼女の問いに答えることなど、なおさら不可能だ。慰めの言葉をかけないわけではない。ただ――彼が事故の一報を受け取ったのは、もう少し前のことだった。彼が事故の知らせを受け取ったとき、最初にしたのは香織に知らせることではなく、すぐさま現地に人を派遣することだった。向こうからの報告では、飛行機が墜落したという情報が確定していた。墜落したのは、D国の空域。彼が来る直前にも追加情報が入り、D国のツークシュ山域で機体の残骸が発見されたという。誰もが知っているように、飛行機は最も安全な交通手段だ。事故は稀だが、一度起これば命に関わる。だからこそ、何とも言えなかったのだ。期待させた挙句、最悪の結果を知らせなければならないとしたら――香織は力なく手を振った。「わかった。手配して。今日出発できる?」「できます」越人は言った。香織は次男を抱き上げた。まるで心臓を抜き取られたかのように、胸が空っぽだった。彼女は次男をぎゅっと抱き締めた。まるで消えゆく現実から、唯一のぬくもりを引き留めるように。次男は不快そうにもぞもぞと身をよじり、ついに泣き出した。香織は我に返り、腕の力を緩めた。「どうしたの?」恵子が駆け寄ってきた。香織はぼんやりと恵子を見て、首を振った。「お母さん、荷物をまとめて」「え?どうして?」「F国に行くの」その声は努めて平静だったが、沈んだ表情に、恵子は違和感を覚えた。「何かあったの?」香織は恵子を見つめた。真実を伝える勇気はなかった。母には、とても耐えられないだろうと思ったから。「圭介が前からF国で一緒に暮らそうって言ってたでしょう?私は仕事で国内に残ってたけど、もう辞めたから行けるの。本社もあっちだし、圭介の仕事もやりやすいし」恵子は頷いた。娘の言葉に納得したふうを見せながらも、どこか釈然としない表情を浮かべた。「でも、そんなに急がなくても……」「今日中に行かなければならないの」恵子は怪訝そうに彼女を見つめた。「なんだか様子がおかしいわね」以前からF国で暮らすことなど一言も言っていなかったのに、どうして急に、今すぐ行こうとしているのか?あまりに突然すぎて――やっぱりおかしい……香織は無理や
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第907話

鷹は彼女が突然目を覚ましたことに驚く様子もなく、静かに声をかけた。「奥様、お目覚めですか」香織は鷹の顔をじっと見つめ、意識を集中させた。「私……どうしたの?」「気を失われました」香織は部屋中を見回し、ゆっくりと記憶を取り戻すと、ベッドから起き上がろうとした。鷹は彼女のふらつく様子を見て、さっと手を差し伸べたが、彼女に振り払われた。「大丈夫」鷹の手は一瞬止まり、そしてすぐに背後に引っ込められた。香織は顔を上げ、彼を見た。「……鷹」「奥様、何かおっしゃりたいことがあれば、どんなことでも」鷹は恭しく頭を下げた。「確かにお願いしたいことがある。でもその前に、聞いておきたいことが」「はい」「あなた……F国に一緒に来られる?」鷹は圭介が雇った身だ。きっと何らかの契約があるはず。それがF国同行を許すかどうか、彼女にはわからなかった。しかし鷹の力はどうしても必要だった。一緒に過ごした期間は短いが、彼の能力は疑いようもない。「契約期間中は、奥様がどこへいらっしゃっても、私が付き従うことになっております」鷹は答えた。「ありがとう」香織はかすかに微笑んだ。「あなたの力が必要なの」鷹はうつむき、彼女の表情を見ないようにした。「はい」「病院に行って、佐藤さんを連れてきてくれる?」佐藤の容態はずいぶん良くなっていた。本来ならもう少し療養させたかったが、今は国内で待っている余裕などなかった。「彼女に聞いてみて、もしF国に行きたくないなら、国内の医療費は私が引き続き支払うと伝えて。あと、出る前に運転手にも確認して。行くなら急いで準備して、行きたくないなら、私のところに来て清算を」今回は、家の人たち全員を連れて行くつもりだった。彼女も、母の恵子も彼らに慣れていたのだ。言葉が通じない異国で、身近にいてくれる存在が必要だ。子供たちはまだ小さいので、言葉はゆっくり覚えられる。家庭教師を雇って、双と恵子に教えることもできる。だが――それには時間がかかる。「かしこまりました」鷹は短く答えた。鷹が用事を済ませに行っている間、香織は恵子と共に子供たちの日用品や自分の衣類をまとめていた。圭介の服を見つめると、彼女は数着をスーツケースにしまった。もし彼が見つかって、F国で暮らすことになった時
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第908話

彼女はエレベーターを降りた。越人は圭介に付き従っていた時と同じように、彼女の後ろを歩いた。「奥様」誰かが声をかけると、香織は軽く頷き、淡い微笑みを返した。そしてわざと大きな声で言った。「越人、全員に会議の通知を」そう言い残すと、彼女は真っ直ぐに圭介のオフィスへ向かった。周囲の社員が越人に詰め寄った。「奥様が会議を?どういうことですか?」「水原様から、これから奥様が会社のことを学ばれると聞いています。今日はそのご挨拶と、皆さんへの指導のお願いだと思います」越人は言った。「そうなんですか?」一人の社員が小声で尋ねた。「奥様は華遠研究センターの院長でしたよね?先日、インタビュー動画が話題になっていましたが」「すでに退職されました」越人が答えると、周りから驚きの声が上がった。「それは惜しい…以前は皆、社長が外見重視で奥様を選ばれたと思っていましたが、私たちが浅はかでした。あれだけの実績をお持ちなんて、本当にすごい方ですね」「奥様はM国のメッドセンターで研修を受けたこともありますよ」越人はここぞとばかりに付け加えた。「メッドセンター?知ってますよ、それって世界でもトップクラスの研究機関ですよね!」越人の周囲に、どんどん人が集まってきた。みんな、香織に関する話には興味津々だ。なにしろ、彼女は圭介の妻なのだから。越人が続けた。「そうです。帰国後は華遠研究センターの院長として人工心臓の開発に成功され、優秀な心臓外科医でもあります。ただ、お二人ともお忙しくて家庭の時間が取れないため、奥様はご自身のキャリアを一旦中断されました。でも仕事慣れした方ですから、水原様が本社へ行かれたのを機に、会社運営を学ばれることにされたのです」人工心臓の開発成功はメディアで大きく報じられ、社内でも彼女のインタビューを見た者は多かった。香織の話し方は飾り気なく、質問にも誠実に答えていた。功績を独り占めにせず、チームへの感謝を忘れない姿勢が、視聴者の好感を大きく引き寄せたのだ。それまで「美貌だけで社長の心を掴んだ」と誤解されていたが、実際は圧倒的な実力で彼を魅了したのだった。「さあ、会議です」越人はこれ以上話すのを止めた。言いすぎると不自然なのだ。社員たちは散りながらも、小声で噂話を続けた。「医学の才能
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第909話

越人が椅子を引くと、香織は優雅に腰を下ろした。「皆さん、緊張されなくて結構です。私は正式に就任するわけではなく、会社の業務に関しては全くの素人です。今後いろいろ教えていただくかと思い、今日はそのご挨拶に来ました。どうぞ、よろしくお願いします」その声の大きさも話し方も完璧で、サラッと会議の目的を説明した社員たちは既に越人からこの話を聞いていた。「奥様、お気遣いいただき恐れ入ります」彼女は何と言っても社長の妻だ。誰も逆らうわけにはいかない。それに彼女の話し方は威圧的でもなく、誠実で率直なイメージを与えた。香織は微笑んだ。「圭介が言ってました。ここにいる皆さんは会社の中枢を担う存在だと。だから、皆さんから学べば、きっと得るものが多いって。とはいえ、私が仕事を辞めたのは、家庭を優先するためです。だから暇な時に少しずつ会社のことを知っていこうと思って……暇つぶしでもあるし、それに彼の仕事の内容を少しでも理解できたらと思って。……彼はいつも忙しいと言いますが、本当に忙しいのか、嘘なのか、私にはわかりませんから」「社長は本当に忙しいですよ。会社の業務だけでなく、遠隔で本社の案件まで処理してるんです。今回も、以前買収した企業でトラブルがあったから、本社に向かったんです」テーブルの下で、香織は膝を握りしめた。彼女は圭介の仕事をこれまで理解しようとしなかった。ただ忙しいということしか知らなかった。今、彼女の胸には後悔が込み上げていた。もっと早く辞職して、家庭を支えるべきだったのではないか……しかし、どんな思いが内心に渦巻こうと、顔には一切出さなかった。香織はふっと口角を上げ、少しだけ冗談めかして言った。「皆さん……彼のこと、私に隠してたりしないですよね?」「奥様、ご安心ください。社長は本当にお忙しいです。他のことに時間を割く余裕などありません」「彼が何をしているか、あなたたちに本当にわかります?仮に彼が浮気をしていたとして、私でさえ知らないことを、あなたたちが知っていると思います?」香織は笑って言った。「それは……」「奥様……」「まあまあ、緊張しないで。冗談ですから」彼女があえてあんな発言をしたのには、理由があった。皆に、「自分が会社に来たのは、ただの見学や勉強ではない」と思わせるた
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第910話

越人はバックミラー越しに彼女を一瞥した。香織の落ち着きと、言葉の選び方に、彼は少し驚かされた。「完壁です」香織の顔からは、すでに笑みが消えていた。会社にいたときの笑顔は、無理に作っていた仮面だった。今、圭介の状況がわからない中で、彼女は気を緩めるわけにはいかなかった。車内で彼女は、両手で自分の顔をぎゅっと揉みほぐした。家に戻ると、ちょうど佐藤が車から降りてきたところだった。「奥様」彼女は足早に歩み寄ると、「私も一緒に行きます」と告げた。「でも、あなたの体は……」香織は不安そうに言った。「もう大丈夫です!」佐藤は胸を叩いて笑った。「ほら、元気いっぱいでしょ!」「向こうに着いたら、ちゃんとお医者さんに診てもらうからね」香織は言った。「いえいえ、もう大丈夫ですってば。奥様がもう少し休んでいろって仰らなければ、とっくに退院してましたよ。毎日病院にいるの、息が詰まりそうでしたわ。それより、双の顔を見てきます、しばらく会ってなかったから……」そう言って、佐藤は小走りで屋内へと消えていった。香織は鷹に目を向け、「あなたも準備して」と言った。鷹は黙ってうなずいた。そして、午後六時。一行は空港へ向かった。飛行機の手配はすでに越人が済ませてあり、人数も荷物も多かったが、直接搭乗口へ向かうことができた。荷物も同じ機に積み込まれているため、預ける手間もない。搭乗後も、香織は一貫して冷静な表情を崩さなかった。次男がぐずると、彼女は自ら抱き上げてあやした。双は少しお兄ちゃんになったぶん、お菓子さえあれば比較的おとなしい。「ママ、おばあちゃんが『旅行に行く』って言ってたけど、本当?」荷造りをしていたとき、双は恵子にそう尋ねた。「なんで僕のオモチャ、箱に入れるの?」恵子は微笑んで答えた。「遊びに連れて行くの」その一言で、彼はぱっと顔を明るくした。恵子は双を見つめながら、ため息をついた。香織は微笑んで答えた。「ええ。F国へ行くの。あっちには楽しいところがいっぱいあるわ。誰かに頼んで、あなたをたくさん遊びに連れて行ってもらうつもりよ」「じゃあ、ママとパパは一緒に行かないの?」双は続けて聞いた。その問いに、香織は一瞬だけ目を伏せた。「パパとママには、大事なお仕事があるの」恵子が
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