彼女が表と裏で顔を使い分けているわけではなかった。ただ、もともとそういう人付き合いが苦手なだけだった。けれど、今の彼女の立場では、周囲の挨拶を無視するわけにもいかない。だからこそ、表情に笑みを浮かべて応じるのは、彼女にとっては気力を使うことだった。エレベーターの中で笑顔が消えたのは、気が抜けたからだった。社交用の「作り笑い」を解いた、ただそれだけ。エレベーターは直接地下駐車場に降りた。リモコンで車のロックを解除すると、「ピピッ」と音がしてヘッドライトが点滅した。車の位置を確認し、彼女は足早に歩き出し、車に乗り込むとそのまま出発した。本屋に着いた彼女は、丁寧に選び、家庭料理のレシピ本を二冊購入した。会社に戻ってからは、ソファに座りながらその本を読み始めた。ときおり、彼女の視線はオフィス奥のデスクへと向かった。圭介はちょうど、本社とのビデオ会議中だった。彼の姿勢はどこか気だるげで、椅子にもたれかかりながら画面を見つめていた。向こうで何か言われたのか、時折眉をしかめたり、ふっと表情を緩めたりしていた。香織は静かに、邪魔をしないようにしていた。コーヒーカップが空いているのに気づくと、また一杯淹れてデスクに置いた。圭介が顔を上げると、彼女は笑みを返したが何も言わず、ソファに戻っていった。そしてジュースを一口飲み、再びレシピ本に目を落とした。座り疲れると、靴を脱いでソファに横になった。圭介がコーヒーカップを手に取り、一口飲んで置きながら、彼女の方を見た。どうやら彼女はこの静かな時間を楽しんでいるようだ。彼はかすかに唇を緩めた。視線をビデオ会議に戻すと、再び険しい表情に戻った。時間が過ぎるにつれ、香織は少し焦り始めた。しかし圭介の会議はまだ終わらなかった。佐藤さんは不在で、恵子が二人の子供の面倒を見ているのだから、夕食の準備はできないだろう。「私、先に帰るね?」香織は彼のそばに歩み寄り、小さな声で言った。圭介は彼女の気持ちを察し、秘書を呼び寄せた。「レストランを予約して、それから俺の家に寄り、子供たちと母をレストランまで送り届けてくれ。俺は、こっちの仕事が終わったら向かう」「承知しました」秘書は答え、部屋を出ていった。香織はしかたなく、またソファに腰を下ろして待
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