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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1121 - Chapter 1130

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第1121話

しかし清家は一つの懸念を抱いていた。この六眼銃はまだ十分な実験を経ていないため、大々的に宣伝するわけにはいかない。北冥親王が試し撃ちをしたと言っても、一度の実験では確実性に欠ける。銃身が裂ける危険を最小限に抑えるため、さらなる試験が必要だと考えたのだ。まるで夢でも見ているかのように、清家は銃を丹念に観察し、何度も手で触れた。「導火線なしで発射できるとは、なんという利便性だ。神弓営や伏兵営を編成できる。この神器があれば、もはや恐れるものなどない」銃を抱きしめながら、清家は喜びと感動で涙を流した。「お堅い話で恐縮ですが、我が妻と比べてもこちらが正室でしょうな。どうして側室を迎えぬと?家内を恐れているなどと思われては困る。私の心には常に一つの座が空いている。それはこの正室のためにね」玄武は微笑んで言った。「それが正室なら、十眼銃は?大砲は?」「なっ……何と?」清家は震える唇で尋ねた。「大砲とおっしゃいました?北森のあの大砲のことですか?」玄武は音無楽章のような物腰で、ゆっくりと懐から帳面を取り出した。「ほら、全部ここにある。まずはご覧になってください」清家は帳面を奪うように受け取ると、貪るような目で一枚一枚めくっていった。最後まで確認したものの設計図は見当たらず、少々落胆の色を見せた。だが、それも束の間のことだった。製造方法の記載があれば、じっくりと研究することができるのだから。「おお、これは先祖の御加護!」清家は帳面を握りしめ、思わず玄武に抱きついて泣き出した。「平和は絵空事ではなくなる。戦がなければ、我が大和国が栄えぬはずがない!」玄武も清家の感激を理解していた。六眼銃が五十丈先まで届いた時は、自分も飛び上がるほど興奮したのだから。無論、砲車が完成すれば、さらに強大な力となるだろう。玄武は師匠の言葉を思い出していた。師伯が火薬と花火の実験に没頭するあまり、自身の院を爆破してしまったという話だ。おそらく六眼銃の開発中に、砲車の試作も行っていたのだろう。帳面には確かに大砲の製造法が記されているものの、完成された技術とは言い難い。師伯も試行錯誤の最中だったに違いない。だが、今は六眼銃だけでも十分だった。「厳秘中の厳秘です」清家は涙を拭いながら、凛とした眼差しで言った。「実験と量産体制が整うまでは、絶対に漏らしてはなりません
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第1122話

天皇は興奮のあまり、その後の影響を考えていなかった。菅原陽雲の先祖である菅原義信は確かに異姓王であったが、その世襲はすでに終わっていた。新たに王位を授けるとなれば、天下に示せるほどの功績が必要となる。六眼銃の量産体制も整っていない上、神火器部隊もまだ設立されていない今、王位を授けるのは時期尚早だ。梅月山へ余計な目が向けられては厄介なことになる。「そうだ、その通りだ。王位の件は今は見送ることにしよう」清和天皇の目は輝きを増した。玄武にとって、陛下の即位以来、これほどまでに目が輝いているのを見たことがなかった。天皇は六眼銃の威力を自らの目で確かめようと、玄鉄衛に冷宮の封鎖を命じ、人の出入りを厳禁とした。広大な冷宮には、今は誰も住んでいなかった。先帝が崩御の際、慈悲深くも冷宮の女性たちを皇家の尼寺へ移させたのだ。冷宮の壁が六眼銃の一撃でほぼ貫通したのを目の当たりにし、天皇は言葉を失った。「鋼球を使うことは可能か?」天皇が尋ねた。「可能でございます」清家は答えた。「ですが、まだ最大の威力を把握しきれておりません。兵庫の主事と武器匠に詳しく研究させます」清家は帳面の内容をある程度理解していた。最も威力があるのは火薬弾で、敵に命中すれば炸裂し、より大きな損傷を与えられるという。「よかろう。この重責を汝に託す。だが、信頼できる者のみを用いよ」天皇も緊張した面持ちだった。この至宝を最大限活用したいという思いと、他者の垂涎を恐れる不安が交錯していた。「御意」清家は厳かに命を受けた。天皇は再び帳面を繰り、その内容に目を通した。書き記された文字には混乱した部分もあれば、修正された跡もある。思考の過程が随所に表れており、菅原陽雲が何一つ隠さず、大砲の構造まで含めて全てを明かしたことは明白だった。ただ、設計図だけが惜しくも欠けていた。天皇は思い巡らせた。陽雲は愛弟子の上原さくらを何より大切にしている。玄武も万華宗の出身だ。夫婦とはいえ、二人とも朝廷に仕える身でありながら、その本質は武将なのだろう。戦が起これば、必ずや戦場に赴くことになる。少なくとも、陽雲はそう考えているに違いない。だからこそ何も隠す必要はなく、むしろ研究に励むのも、さくらと玄武が戦場で傷つくことなく、勝利を収められるようにという思いからなのだろう。退出後、清家は浮き
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第1123話

この数日間、街中で持ち切りになっているのは燕良親王家の醜聞ばかり。沢村家の娘のことは、誰一人として口にする者はいなかった。紫乃の弟子たちも黙ってはいなかった。師匠の名誉を貶めようとする者などいなかったが、紫乃と沢村氏が従姉妹という話題が出ただけでも、彼らは即座に反論に出向いた。「姉妹だからって?とんでもない。別の親から生まれた従姉妹であって、しかも既に他家に嫁いでいるのだ。沢村家とも沢村紫乃とも何の関係もありはしない」西山口での一件について、天方十一郎も調査を進めていた。確かに目撃証言によると、意識朦朧とした様子の娘が何人かの男たちに連れ去られるところを見たという。農具を手に取って助けようとした村人もいたそうだが、いずれも娘の顔ははっきりと見えなかったと証言している。日が暮れかけていた上、娘は激しく抵抗したらしく、髪が乱れて顔が隠れていたという。娘の素性が特定できなかったことに、十一郎はかえって安堵の胸を撫で下ろした。一方、燕良親王家は民衆の怒りを真っ向から受けることとなった。天皇自らが譴責の詔を下したことからも、事の重大さは明らかだった。これにより、民衆は権力者への不満を吐き出し、その怒りを鎮めることができた。同時に、皇叔である燕良親王であっても擁護することなく裁いた天皇の英明さを、人々は賞賛したのである。燕良親王の股間の傷は日増しに悪化の一途を辿っていた。その原因の一つは、彼の強情な性格にあった。自分の不能が本当なのかと疑い、艶本を広げては確かめようとする度に、傷は深刻さを増していった。都の名医をことごとく呼び寄せようとしたものの、実際に診察に訪れる者は少なかった。御典医だけは幾人か来てくれたが、これもひとえに燕良親王という身分と、榮乃皇太妃が事態を知って太后様に取り成しを頼んだからこそであった。御典医たちの診立ては一様で、現状では回復は極めて難しく、わずかな望みがあるとすれば、丹治先生の診察を仰ぐことだけだという。燕良親王は苛立ちながら、無相と金森側妃に丹治先生を呼びに行かせた。もし失敗したら榮乃皇太妃に頼むしかないと言い放った。しかし、運の悪いことに丹治先生は昨日、百年に一度しか咲かないという薬草を採りに都を離れたところだった。薬王堂の者の話では、戻るまでには半月ほどかかるという。半月後?その頃には手の施しよう
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第1124話

無相は数日間熟考の末、燕良親王に進言した。「親王様は当分の間、傷の養生で都を離れられぬでしょう。しかし、燕良州を長く留守にしており、淡嶋親王様が実権を握っておられます。このままでは燕良州を乗っ取られかねません。私めが先に燕良州へ戻る必要がございます」その言葉に燕良親王は一瞬驚きの表情を見せた後、怒りを露わにした。「何だと?このような有様で私を置き去りにして燕良州へ戻るというのか。この混乱を誰が収めろというのだ」無相は予想通りの主君の怒りに、平静を装って説明を続けた。「親王様、現状は如何様にも好転し難い状況です。ですが、親王様は養生に専念なさってください。世間の噂も数日すれば収まるでしょう。都に留まられている間、私めが淡嶋親王様と今後の対策を協議して参ります。我々の死士の半数が敵の手中に落ちた今、新たな策を練り直さねばなりません。それに」無相は声を落として続けた。「燕良州を淡嶋親王様に任せきりで、本当によろしいのでしょうか」燕良親王は確かに不安だった。だが、この窮地を一人で乗り切る自信もない。そのもどかしさが更なる怒りとなって表れた。「それに」無相は更に続けた。「沢村家から破門された王妃様のことも考慮せねばなりません。もはや沢村家との姻戚関係は途絶えました。彼らの軍馬も、武器も、資金援助も望めません。別の手立てを考えねばなりませんが、時間との戦いです。これだけの兵を養うには日々莫大な出費がかかります。大長公主様からの資金提供も途絶えた今、私めが燕良州に戻り、何としても打開策を見出さねばなりません」不能な体になってしまった現実は、燕良親王の誇りと自信を完全に打ち砕いていた。無相の提案に即座には首を縦に振らず、数日の猶予を求めた。清和天皇からの新たな詔が下されるかもしれないと様子を見たかったのだ。本当の懸念は別にあった。もし誰かが適当な娘を連れてきて、自分に汚されたと言い出したらどうする。そんな時、無相がいなければ誰が知恵を貸してくれるというのか。無相は王の不安を察すると、心中で深い溜息をつきながら諭した。「親王様、そのようなことは決してございません。あの事件の被害者は沢村紫乃。彼らは必死になってこの事実を隠そうとしております。女学校や工房を設立し、女性の権利を守ると標榜している彼らが、どうして無実の娘を世間の噂の的にするでしょうか。それは
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第1125話

北條守は長い間黙って座り続けていた。涙を流すかと思われたが、目元は乾いたままで、ただ虚ろな表情で沈黙を保っていた。哉年は相手の胸中を推し量りかね、酒を差し出した。守は一気に飲み干すと、そのまま酔い潰れてしまった。哉年は彼を送り返すこともせず、別邸に一晩泊めることにした。翌朝、執事の話では夜明け前に帰っていったという。その後も守は何度か訪れた。二人の間に取り立てて話すことはなかったが、酒を共にする相手として心地よい関係が築かれていった。哉年は守の妻が実家に戻り、離縁を望んでいることを知っていた。ある夜、守は酔った勢いで告白した。妻に関する秘密を知ってしまったのだと。それは心に刺さった針のように抜き難く、かといって、自分のような男なら、抜こうが抜くまいが生きていける。ただ、彼女はもう戻ってこないのだと。哉年が秘密の中身を尋ねると、守は苦笑いを浮かべて首を振った。「話せば彼女の身が危うくなる。離縁しても、西平大名家の娘なら再婚できるだろう」それ以上は問わなかった。奥方の秘密で、話せば危険とあれば、人命に関わることか、男女の仲か。結局、二人は飲み友達として付き合うことになった。守は貧しく、酒も食事も哉年の金で賄われたが、かまわなかった。誰かと酒を酌み交わせるだけでも、充分だった。三姫子は最近、工房に顔を出していなかった。山積みになった問題に頭を抱えていたのだ。一つは邪馬台からの知らせだった。夫に同行した二人の側室が病に倒れ、亡くなったという。今や夫の傍らには一人の妾しかいないが、その妾は二人の側室が病に伏した際、献身的に看病し、軍務で多忙な夫の身の回りの世話や元帥邸の采配まで一手に引き受けているという。そのため夫は手紙で、この妾を平妻に昇格させたいと相談してきたのだ。手紙には妾の名前すら記されていなかった。おそらく書くのを躊躇したのだろう。椎名青舞の素性を知っている夫は、以前から彼女に新しい身分を与えていた。今度は平妻となれば、その身分では不相応となる。西平大名の平妻にふさわしい新たな家柄を探さねばならないというわけだ。もう一つは、親房夕美が実家に戻り、離縁を騒ぎ立てていることだった。とはいえ、本気で離縁を望んでいるわけではないようだ。老夫人に諭されると涙を流し、夫の北條守が一兵卒として従軍すると言い出したため、もう生
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第1126話

さくらは驚きの表情を浮かべた。「賢一くんは学問の才能に恵まれていると伺っておりましたが、なぜ私に武芸を学ばせたいのでしょうか?私は良い師になれるとは思えません。それに、将来爵位を継ぐお立場なのですから、学問を修めて官位に就くのが最善の道ではありませんか?」さくらには弟子を取る気はなかった。公務がある身で、まともな指導などできるはずもない。特に賢一はまだ若く、十代の少年には武芸だけでなく、人としての道や正しい人生観を教え導く必要がある。紫乃の弟子たちとは違う。彼女の弟子たちは皆年上で、それぞれに職も持っている。「爵位、ですか?」三姫子は苦笑を浮かべ、諦めの色を瞳に滲ませた。「王妃様、この爵位が守れるかどうかも分かりませんし、むしろ危険な重荷になるかもしれません……私は必ずしも正式な弟子入りを望んでいるわけではありません。どなたかに教えていただければ……ただ、自分の身を守る術を身につけてほしいのです。もし何かあった時、少なくとも丈夫な体で立ち向かえるように。数日の拷問で命を落とすようなことだけは……」さくらは胸が締め付けられる思いだった。「何かあったのですか?なぜそのような……」三姫子は鬢の簪に手をやった。その冷たい感触が、自分の凍えた心を映すようだった。「むろん、何事もなく平穏に過ごせることを願っております。ただ、先々のことも考えておきたいだけです」さくらは多くの疑問を抱えていたが、これ以上の追及は控えた。三姫子はいつも十手先を読んで行動する人だった。一歩進むごとに十歩先まで考え、ただ子供たちの安寧だけを願っているのだと、さくらには分かっていた。「では、こういうのはどうでしょう」さくらは少し考えてから提案した。「私自身が教えるのは難しいのですが、村上教官が時間のある時に指導してもらえるよう手配します。お礼の金額はお任せします。今、どちらで学んでいらっしゃるのですか?書院ですか?」三姫子は喜びに顔を輝かせた。「親房家の私塾に通っております。夕方なら来られます。あの子は取り柄といえば素直さだけですが、学ぶ意欲が強く、努力を惜しみません。お礼の件は幾らでも構いません」「分かりました。まず村上教官の意向を確認させていただき、承諾いただければ、明日から賢一くんに来ていただけます。ただし、村上教官は厳格な方で、簡単には弟子を取らないので、正
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第1127話

翌日、三姫子は賢一を連れて来た際、棒太郎への年俸として三百両を提示した。金には目がない棒太郎だが、さすがにその額に見合う価値が自分にはないと感じ、慌てて断った。「そ、それは受け取れません!年六十両でも十分過ぎます。三百両なんて申し訳ありません」三姫子がどれほど説得しても、棒太郎は頑として三百両を受け取ろうとせず、年六十両で十分だと主張し続けた。困り果てた三姫子は、さくらに助けを求めるような目を向けた。「六十両で良いんじゃないかしら」さくらは微笑んで言った。「村上師範の言う通りよ。六十両でも三百両でも、教えることは変わらないわ。それに、重荷になるような報酬は却って良くないでしょう」王妃の言葉に、三姫子は感謝の念に胸が一杯になった。学問であれ、武芸であれ、我が子のためならば、自分の力の及ぶ限り惜しむものはなかった。一方、棒太郎は月に五両でさえ過分だと考えていた。多くの庶民は年収でさえ五両に届かないのだから。それに、彼はただ指導するだけで、全てを教え込むわけではない。賢一は既に十代で、武芸の修行を始めるにはやや遅い。大きな成果は期待できないかもしれなかった。だが、三姫子の言葉通り、賢一は実に勤勉で素直な少年だった。礼儀正しく、分別もわきまえている。棒太郎のことを「村上師範」と呼び、正式な師弟関係ではないにも関わらず、本当の師のように敬意を払った。名家の子息とは思えないほどの謙虚さだった。初日の稽古は基礎体力作りから始まった。賢一は幼い頃から多少は武芸の心得があったものの、それは体系立っていない雑多な技に過ぎず、基礎が足りなかった。しかし、武芸の修行には苦労が伴うことを覚悟していたようで、棒太郎がどんなに厳しい鍛錬を課しても、歯を食いしばって耐え抜いた。さくらは茶碗を手に、稽古の様子を見守っていた。少年は繊細な骨格で、一見すれば書生然としていた。母親似の柔和な顔立ちながら、眉間には凛とした気概が宿っていた。さくらには分からなかった。なぜ三姫子がこれほどまでに息子に苦行を強いるのか。確かに親房甲虎と椎名青舞の邪馬台での一件は耳に入っていた。父の、そして玄武の配下だった天方将軍たちと文通は続いていたのだから。だが、椎名青舞が正室の座を脅かすことなど、まして賢一の立場を危うくすることなどできるはずもない。甲虎が妾を寵愛するあ
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第1128話

玄武も夫婦間の問題に特段の関心があったわけではない。ただ話の流れで出た話題だった。賢一は二時間もの間、稽古を続けた。亥の刻を過ぎてようやく屋敷へ戻る頃だった。連日の稽古でも疲れを見せず、基礎訓練の単調さにも文句一つ言わない。時には馬歩の姿勢をとりながら、経書を暗唱する姿も見られた。さくらは時折、少年を見つめては考え込んだ。親房甲虎の息子とは到底思えない。だが、三姫子の息子と考えれば、すべて納得がいった。そこへ有田先生が慌ただしく駆け寄ってきた。「親王様、報告が参りました。まだ手が届いておりません」玄武は特段驚いた様子もなく、静かに尋ねた。「護衛がついていたというのか?」「はい。道中、熟練の武芸者たちが護衛についておりました。三度の交戦を試みましたが、いずれも我々に分がありませんでした」「死士か?」玄武の眉が僅かに動いた。「いいえ、戦い方から見て死士ではありません。武芸者に扮してはいましたが、どの流派とも見分けがつかない技を使っていました」傍らで会話を聞いていたさくらは、最初こそ意味が掴めなかったが、すぐに理解した。無相の暗殺を試みたのだ。「ということは」玄武は言葉を続けた。「これらの護衛は燕良親王の配下ではないということだ。予想通りだ。無相の背後には別の存在がいる。燕良親王は、その者の駒に過ぎないということだ」「まさか淡嶋親王様では……いや、それはありえませんが」有田先生は眉を寄せた。淡嶋親王を軽んじているわけではない。老狐と呼ばれるほどの狡猾さを持つ人物だ。しかし、これまでろくな人脈も実力も築けずにいた。影森茨子や燕良親王の陰で目立たないよう立ち回り、その影に隠れてきただけだ。私兵さえ持てない身では、どれほど策略に長けていようと、せいぜい闇討ち程度しかできまい。燕良親王が燕良州で長年築き上げた勢力など、到底掌握できるはずがない。「我々の部下は追跡を続けているのか?」玄武が問うた。「はい、機会を窺いながら追跡を続けております」玄武は僅かに頷いた。「そうか。しばらく様子を見よう。どのような妖魔が潜んでいようと、いずれ姿を現すはずだ。燕良親王の京での立場も変わった。そろそろ、背後の者も動き出すだろう」これまで燕良親王は京で静養しているとはいえ、その勢力は健在だった。燕良州で築き上げた人脉、財力、武器、私兵、地方
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第1129話

紫乃は最近、日の出前から姿を消すようになっていた。まだ夜明け前の静けさが街を包む頃、彼女はすでに屋敷を後にしていた。とはいえ、毎日必ず一刻ほどは工房に顔を出していた。最近、工房には新しい仲間が加わっていた。松平七紬という名の女性で、夫に離縁された身の上だった。実家の兄は快く迎えようとしたものの、兄嫁の反対に遭い、兄を難しい立場に追い込むまいと、工房に身を寄せることを選んだのだ。工房では、みんなで刺繍品を作りながら、穏やかに言葉を交わしていた。誰も過去の話はせず、これからのことばかりを語り合っていた。紫乃はこの雰囲気が気に入っていた。時折訪れては蘭との会話を楽しみ、石鎖さんや篭さんとも自然と打ち解けていった。まるで長年の知己のような親しみやすさがそこにはあった。この日も三姫子が顔を見せ、折よく紫乃と言葉を交わす機会があった。紫乃は賢一が棒太郎から武芸を学んでいることを知っていた。率直な物言いで「賢一くんは確かに勤勉ですが、才能の方はちょっと……むしろ学問向きかもしれませんね」と語った。三姫子は気にした様子もなく、穏やかな笑みを浮かべて答えた。「構いませんよ。別に驚くような武芸の腕前を期待しているわけではありませんから。ただ、体を丈夫にして、万が一の時に道中で倒れることのないように、という程度のものです」紫乃はその言葉を聞きながら、三姫子の微笑みの裏に潜む何とも言えない哀しみを感じ取っていた。よく考えれば、その懸念も分かる気がした。普段なら、大名家の世子が旅をする時は、前後に従者を従え、護衛や召使いも大勢付き添うはずだ。また、科挙に及第して地方官として赴任する時も、それなりの規模の行列となり、苦労も危険も感じることはないだろう。道中で苦しむような目に遭うとすれば……それは流罪に処せられた時くらいではないか。今の西平大名家は、かつての栄華こそないものの、それでもなお相応の地位を保っている。どうして三姫子はそんな不吉なことを案じているのだろう。紫乃が尋ねようとした矢先、三姫子付きの侍女・織世が慌ただしく駆け込んできた。紫乃の存在など気にする様子もなく、息を切らして告げる。「奥様!蒼月様がお呼びです。夕美お嬢様が……自害を……」「まさか!」三姫子が立ち上がる。「助かったの?」「はい、危うく間に合いました。詳しいことは、お
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第1130話

夕美の一件については、さくらも偶然、その現場に居合わせていた。さくらは御城番の見回りを密かに監視していたのだ。最近の査察項目の一つに巡視があり、以前の悪習は取り締まったものの、まだ商人たちは昔のように贈り物で巡視の目を逸らそうとしていた。部下に見回りを命じてはいたが、彼らは取り締まりを怠り、すぐに茶屋で茶を啜りながら世間話に興じてしまう。見せしめに一件でも現行犯で押さえようと考えていたさくらは、図らずもこの騒動に出くわすことになった。薬王堂で一息つこうと立ち寄った際、淡い青色の簾越しに、後ろの間で事の成り行きを目の当たりにした。最初は夕美の声を聞いただけだった。顔を合わせたくないと思い、後ろの間で彼女が立ち去るのを待っていたのだが、夕美は雪心丸を求めて粘り強く交渉を続けた。番頭が品切れを告げても、なかなか諦めようとしない。そこへ薬材を運んできた村松光世が姿を現す。互いの間に何もないことを示すかのように、夕美は挨拶を交わし、薬王堂に秘蔵の雪心丸が残っているはずだと持ちかけた。たった一粒でいいから、昔の縁を思って分けてもらえないかと。店内は既に客で賑わっていた。人目もはばからず頼み込む夕美に、光世は冷たく断った。その素っ気ない態度に夕美は堪えきれず、「せめて親戚だった仲じゃないですか」と涙ながらに訴え始めた。折悪しく、夫の薬材運搬を知っていた村松の妻が、八角の重箱を手に現れ、その場面を目撃してしまう。たちまち店内は修羅場と化した。村松の妻の言葉から、さくらは事の真相を知ることとなった。本来なら知るはずのなかった秘密を、妻は夫への深い愛ゆえに探り当てていた。夫が天方家に寄寓していた過去、そして天方十一郎の帰京後、従兄弟の付き合いが途絶え、節季の挨拶さえ省くようになったことに疑念を抱いていたのだ。幾度となく調べ、さりげなく探りを入れ、ついに夫と夕美との因縁を突き止めた。当初は激しい怒りに駆られたものの、双方とも既に他人と結ばれている以上、この醜聞を蒸し返すまいと心に決めていた。だが今日、夫と夕美が密かに言葉を交わす場面を目の当たりにし、嫉妬の炎が理性を焼き尽くした。もはや何も制御できず、すべてを暴露してしまった。現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。病人たちや付添いの者たちは、噂話どころではなく、ただ呆然と口を開けたまま、
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