All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 1021 - Chapter 1030

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第1021話

……病院。海人の母は、林也の報告を聞いていた。海人が診察に来たと知ると、瞬時に声を荒げた。「だからあの女は厄病神だって言ったじゃない!海人があの女と付き合ってから、ろくなことがない!病気や不幸ばっかり!」海人の父は言い淀みながら言った。「海人……今回は、つわりのことで受診したらしい」「は?」海人の母は、自分の耳を疑った。「今の話、自分で聞いてておかしいと思わないの!?」林也が続けた。「本当です」「……」海人の母は言葉を失った。林也は補足した。「専門家に確認しました。この症状は確かに珍しいですが、実際にあります。夫が妻を深く愛していて、妊娠中の苦しみを見て精神的に共鳴すると、つわりのような反応が出るんです」その言葉が落ちた瞬間、海人の母の耳の奥で蜂の巣でも割れたかのように、「ブーン」という音が鳴り続けた。しばらくして、やっと我に返り、鼻で笑った。「ほんと、理想的な旦那様だこと。私なんて、この子を産む時に命をかけたのに、感謝の一つもされたことない。なのに今は、私と対立するばかり」すると、菊池家の祖母が静かに口を開いた。「感謝されてない?跪いて、頭を下げて、あれだけ説得してきたのは感謝じゃないの?外の人間相手だったら、来依をいじめた時点で黙って潰してたわよ。何も言わずにね。そもそも子どもを産むっていうのは、彼に頼まれたわけじゃない。私たちが望んだことなの。子を盾にして、道徳的に縛るのは違うと思うけど?」海人の母は布団の端をぎゅっと握りしめた。「母さんは好き勝手言えるからいいわよね。結局、自分だけがいい人になったってわけね」海人の父が海人の母の肩に手を置き、なだめるように言った。「今は気持ちが不安定なんだ。少し落ち着いて、無理しないようにしよう」海人の母は冷笑を浮かべた。「あなたが気にしてるのは、私とお義母さんが喧嘩しないことだけでしょ?この何年、あなたは事なかれ主義ばっかりで、何を頼っていいかも分からない」「なんで俺に攻撃するんだ?」「昔、さっさと片付けろって言ったのに、もう少し様子を見ようって……その結果がこれよ。今じゃ、悪者は私一人。あなたたちはみんな達観して、受け入れモードなわけね」海人の母は海人の父を強く突き飛ばした。「もしあの女を家
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第1022話

菊池家の人々の顔色が一変した。菊池家の祖母はああは言ったが、内心ではやはり海人と来依の結婚に納得していないはずだった。ただ、彼女はすでに核心を見ていた。海人にとって、来依は唯一無二の存在であり、すでに制御不能な存在であることも――。だが、それをこうして赤裸々に突きつけられると、さすがの彼女でも心が詰まる思いだった。「今の言葉、どういう意味?」海人の母が詰め寄った。林也は静かに答えた。「これ以上は言えません」「それでも、これだけ話したのは……主従のよしみってやつです。今の私は、若様の命令に従う立場ですから」病室内に沈黙が落ちた。その静寂を破ったのは、祖母のかすかな笑い声だった。彼女は海人の母を見て言った。「あなたは、あの子の目には母親が映っていないと言ってたけど……でも本当にそうなら、わざわざ林也に知らせる必要なんてなかったんじゃない?」海人の母は一瞬、意味がわからなかった。菊池家の祖母はさらに言葉を続けた。「あの子はあえて、林也を通して知らせたのよ」林也も頷いた。「さすが、大奥様はお見通しですね」海人の母はしばらく呆然としたまま、その意味を理解したようだった。海人が知らせたのは――一つには、自分が何を思おうともう止められないという宣言。もう一つには、母子の情を捨てきれず、それでも来依ををあんな場所に送り、もう少しで母子ともに命を落としかけたことも、恨まずにはいられなかった。結局、来依のせいで海人の母は体調を崩し手術にまで至り、結果は「帳消し」。もう、誰にも止められない。彼は来依と、絶対に結婚する。海人の母は急に深い疲労感に襲われた。どうして、こんなところまで来てしまったのか――。本当なら、全ては計画通りに進むはずだったのに。最初から、根こそぎ除く覚悟だったのに。「私はもう年だわ。どうにもならない」祖母は立ち上がり、祖父の腕を取った。「私たち老いぼれは、もうこれ以上口出しせずに、曾孫を抱ける日を静かに待つとしましょう」そう言って、二人は病室をあとにした。林也も静かにその場を離れた。病室には、夫婦だけが残った。海人の父は海人の母の肩を軽く叩いた。「もう反対しても意味がないさ」彼が引退を決めた時点で、それがすでに答えだった。「無理
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第1023話

「これ、今まで撮ってきた風景や動物の写真だよね?」「うん。私、贈れるものって他にないからさ。赤ちゃんが小さいうちは、これで自然の美しさに触れてもらって……大きくなったら、実際に見に行けたらいいなって思って」「ほんとに心がこもってるね。じゃあ、この小さな胎芽に代わって、ありがとう、お姉ちゃん」来依はそのアルバムをとても気に入り、ページをめくりながら微笑んだ。見終わってから、隣にいる海人に渡そうとして、ふと気づいた。さっき紀香が乗ってきたとき、海人はもう当然のように降りて、後ろの車に移っていたのだった。仕方なく、そのアルバムを助手席前の収納ボックスに入れておいた。それから来依は紀香に、最近の活動について尋ねた。紀香は言った。「特に大きなことはなかったけど、すごく順調だったよ。撮った写真はすべてメディアに提供したし、もっと多くの人が目を向けてくれて、特に女の子たちの救助につながったらいいな。あの場所は、本当に女の子にとって地獄だったから」来依は頷いた。「よくやったね、本当に偉い」そのあと、尋ねた。「何食べたい?」「前に行ったレストラン、まだ食べ損ねた料理があったの」「OK、そこにしよう」来依は南に連絡を入れ、前の座席にいた五郎が車を発進させた。後ろの車では、清孝が海人の顔色が悪いのを見て尋ねた。「子どもまでできてるのに、まだ家族は反対してるのか?」海人はそのせいではなかった。レモンウォーターのふたを開け、一口飲んで、吐き気を抑えた。不思議なことに、車酔いまでし始めた。「いつから炭酸なんて飲むようになった?」「これ、炭酸じゃない。嫁さんに飲めって言われた。最近ちょっと車酔いするから」「……」清孝は鼻で笑った。――嫁アピールかよ。海人は黙っていると、かえって気分が悪くなりそうだったので、口を開いた。「離婚するのか?」清孝は眉間を揉みながら、疲れた声で言った。「するよ」海人は嘲笑した。「この一ヶ月、ずっと一緒にいたんだろ?誰にも邪魔されずにさ。それでも機嫌を直せないのか?」清孝はどうしようもない顔をした。毎日の会議よりも、よほど気が滅入る。海人はちらりと彼の顔色を伺い、淡々と呟いた。「その時になって後悔しても、意味ないよな」清孝もまた後悔し
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第1024話

それは、上に長くいた者の習性だった。「どうした?」男の声は低く柔らかく、どこか包み込むような響きを持っていた。「何を照れてんのよ。嬉しいなら笑えばいいじゃない。何カッコつけてんの」鷹は完全に幸せな側にいる者の余裕で、人の揉め事を見るのが楽しくて仕方ない様子だった。「だから奥さんに逃げられるんだよ」清孝「……」紀香はこの会話に加わらず、そそくさとその場を離れた。鷹はからかい続けた。「見たか?また奥さん逃げたぞ」清孝は奥歯をきつく噛み締めた。こいつら、幸せを振りかざして、完全に自分をいじって遊んでいる。「手伝わないのはいいけど、邪魔すんな」鷹はわざとらしく舌打ちした。「そんなに拗ねるなって」南が鷹の腕を取って、雰囲気を和らげるように言った。「もう、やめなさい服部社長。いい加減、彼の傷に塩を塗るのは」清孝「……」ありがとう。少しだけ救われた気がした。南はさらに続けた。「それと、海人のつわりの話はもうやめて。あれは愛の表れよ」鷹はおかしそうに笑った。「じゃあ、なおさら言わなきゃ。どれだけ愛してるか、来依にもっと伝わるようにさ」「来依ちゃんはちゃんとわかってるから。あなたが言わなくていい」南は脅すように言った。「また言ったら、今夜はソファで寝てね」鷹はまったく怯まず、むしろ楽しそうに答えた。「いいよ。ソファも結構好きだし……」南は慌てて彼の口を手で塞いだ。本当に場所を選ばず、何でも口にする。清孝は無表情のまま背を向けた。――なに見せつけてんだ。南が指を立てて言った。「見なさいよ、また傷つけたじゃない」鷹は彼女と腕を組んで店内へ向かいながら言った。「俺はあいつを鼓舞してるだけ。もうすぐ三十五になるってのに、まだ努力しないと、死んだ時に妻と同じ墓にも入れないぞ」南はため息をついた。「鼓舞って言うけど、紀香はもう心が折れてる。離婚するつもりなのは本気よ。アプローチ変えたほうがいいと思う」鷹は笑みを浮かべた。「やっぱり、俺たち通じ合ってるな」……皆が席に着く段になると――海人が来依の隣に座るのは当然として、紀香も来依の隣を希望した。清孝が席につこうとした瞬間、鷹が立ちはだかった。「悪いけど、ここは俺の嫁が座
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第1025話

結局のところ、大半の結婚は利害関係によるものだった。結婚当初は感情など希薄で、家同士の結びつきが強まる中で、ようやく「子を持て」という話が出てくる。そうして少しずつ、愛情が育っていく――彼が間違ったのは、あの三年間の冷遇だった。彼女が困っているのを知りながら、何一つ手を差し伸べなかった。それは、彼女に自分への想いを忘れさせるためだった。けれど、本当に彼女が自分を忘れてしまった時、痛みは想像以上だった。「……俺は、怖い」「怖い」という言葉を清孝の口から聞くのは、鷹にとっても初めてだった。藤屋家は名門中の名門。他人が必死で働いていた頃には、すでに海運業をほぼ独占し、他業種への進出も進んでいた。清孝は長男として生まれ、誰よりも愛され、誰よりも重い責任を背負って育ってきた。感情を露にせず、どんな策謀にも動じない――まるで、常に平坦な道を歩いてきたような男だった。銃口を向けられても、まばたき一つせずにいられる人間。そんな彼が、「怖い」と?鷹は気だるげに言った。「珍しいな」清孝自身も、この感情が自分から出てきたことに戸惑っていた。自ら彼女を突き放しておきながら、戻ってこないことに怯える。鷹は酒を一本開けさせ、グラスに注いで差し出した。「ずっと気を張りっぱなしだったろ。一度、泥酔してでも考えろ」清孝は滅多に酒を飲まない。この地位に就いてからは、酒など必要なかった。接待の席でも、彼は茶を飲み、部下が酒を飲んだ。だが今夜は違った。すべての予定をキャンセルして、酔い潰れても構わなかった。一方、紀香が料理を注文し終えた頃、清孝と鷹が既に飲み始めているのを目にした。小声で南に尋ねた。「南さん、服部社長と清孝って、こんなに仲良かったっけ?海人さんの縁で知り合っただけじゃないの?」南は苦笑して答えた。「鷹はね、仲良くなろうと思ったら誰とでも早いのよ」まさに社交の猛者。紀香はくすりと笑って言った。「よく娘は父親に似るって言うけど、ほんとだね」彼女は安ちゃんを知っている。あの小さな女の子は、まるで人見知りなんて知らないかのように、誰にでも懐く。「社交が得意でも、誰かに騙されたりしない?」南は首を振った。「それは大丈夫」あの子はね、鷹にそっくりなの。誰が
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第1026話

たとえ二人挟んでいても、清孝には聞こえていた。彼女はすぐ隣にいたのだ。聞こえないはずがなかった。南は一度清孝をちらりと見てから、紀香の髪を整えてやった。「ただのおしゃべりよ。そんなに緊張しなくても」「もし好きな人がいないなら、離婚したときに誰か紹介しようと思って」清孝は手にしていたグラスを強く握った。透明なガラスが、微かにミシッと音を立て、ひびが入りそうだった。鷹は口元を歪め、茶色い瞳にイタズラっぽい光を宿した。「藤屋さん、離婚したからって再婚しないってわけにもいかないでしょう。藤屋家には、ちゃんと女主人が必要だし」清孝の目が細められ、視線が鋭くなった。――この夫婦、何を企んでる?「離婚するつもりはない」鷹はわざとらしく語尾を伸ばしながら、背もたれに置いた腕を少し動かし、南の後頭部を指先でつついた。「南、本人が離婚する気ないんだから、余計なお世話だって」南は素直に頷いて、茶杯を手に取った。「そうね、出過ぎた真似だったわ。ごめんなさい、お茶でお詫びするわね」清孝に向かって茶杯を掲げ、一気に飲み干した。「……」ホッと息を吐くように、清孝もグラスの酒を仰ぎ飲んだ。料理が来る前だというのに、もう顔が赤らんでいた。鷹はまたゆっくりと酒を注ぎ直す。南は茶杯を置き、紀香の方へ顔を寄せ、小声で言った。「内緒でいいから、私にだけこっそり教えて。誰にも言わないから」来依も乗ってきた。「私も言わない。絶対秘密にする」「……」紀香は信用しきれず、首を横に振った。「いないってば」そのとき、ちょうど料理が運ばれてきて、その話題はいったん終了。紀香はハタの料理を一品注文していた。箸を取ろうとした瞬間、隣でいきなり大きな音が響いた。海人が突然立ち上がり、背後の椅子を倒して、慌てて外へ駆け出したのだった。「……」鷹はゆっくりと席を立ち、半分酔っている清孝を支えて後を追った。トイレの前で立ち止まり、ちらりと中を覗いて、舌打ち交じりに言った。「情けないもんだね」海人「オェッ——」清孝はこめかみを押さえ、酔いが一気に引いたような気がした。海人は何も食べていなかった。ただの吐き気だった。個室でしばらく落ち着いた後、出てきて、口をすすぎ、手を洗った。そのタ
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第1027話

見られている気がして、ぞくっとした。彼女はぎこちなく話題を変えた。「来依さん、恩人ってほんとにつわりしてるの?」来依は笑った。「その質問、ちょっと遅くない?」「もう全部吐ききった頃じゃない?」ハタの香りが強烈で、つい我慢できなかった。本当は聞くつもりなかったのに。玄関先で既に海人がつわり中って知ってたから。要するに、話のネタがなかっただけだ。「そっか……」と、彼女は乾いた声で言った。「恩人はほんとに来依さんのこと愛してるんだね……」「それはわかってる」来依は彼女に料理を取り分けながら言った。「で、あんたとその師匠さん、男女の関係じゃないの?」紀香は目を見開いて、口の中の魚が急に味気なくなった。「やめてください、師匠とは清い関係だよ!」「じゃあ、本当に好きな人いないの?」南が重ねて尋ねた。ちょうど三人の男たちが屏風の向こうを通りかかった時、その言葉が耳に入り、彼らは足を止めた。紀香はしばらく迷い、小さな手をもじもじと揉みながら、なかなか口を開かなかった。南はズバッと切り込んだ。「そんなに迷ってるってことは、まだ誰かが心にいるってことじゃない?」「ち、違う……」紀香は焦って頭を掻いたが、否定したあとも何も言い足さなかった。南は悠然とお茶をすすりながら言った。「別に深い意味はないの。ただ、本当に好きな人がいるなら、いっそ正直に言ったらどう?藤屋さんもそれを知ったら、もしかしたら離婚に応じるかもしれないし」紀香は首を横に振った。「いないの?」来依が推測を口にすると、紀香は慌てて答えた。「違うの。好きな人がいるって言ったら、余計に離婚してくれなくなると思う」南「そこまでわかってるの?」紀香は苦笑した。かつては心から愛していた。彼の好きなものも嫌いなものも、生理周期より正確に覚えていたほどだ。でも、それでも彼からの応えはなかった。今はもう応えなんて望んでいないのに、彼はしつこく追いかけてくる。あの頃は理解していたけれど、今はもう本当にわからない。「好きな人はいないし、もう……」「もう誰かを本気で好きになるなんて、したくない」その瞬間、清孝は、自分が線路に横たわっているような気がした。轟音を立てて通り過ぎる列車が、すべての感覚を奪
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第1028話

来依は、海人の目に一瞬浮かんだ冷たい光を見逃さなかった。清孝を送っていくというのも、鷹に用事があるというのも、きっと建前だ。本当は、彼が何かを処理しに行くのだろう。それでも彼女は何も聞かず、ただ口元に笑みを浮かべた。「お帰りを待ってるわ」海人は彼女のために魚の骨を取りながら言った。「眠くなったら先に寝てていいよ。俺は必ず帰る。約束する」「うん」隣で鷹が南に何か耳打ちをした。南は軽くうなずいて、わかったと示した。紀香は周囲を見回しながら、自分がここに座っているのが、頭上のシャンデリアよりも目立っている気がしてきた。とにかく、料理を食べるしかない。レンコンを取ろうと回転テーブルに手を伸ばした瞬間、それがちょうど回ってきて、ぴたりと彼女の前で止まった。視線を上げることなく、それでも顔に熱い視線を感じた。長いまつげが一瞬小刻みに震えたが、彼女は箸を動かさなかった。南が箸を伸ばしてレンコンを取り、彼女の皿に置いた。そして何気ない口調で話しかけた。「甘いもの、好きなの?」紀香は一瞬間を置いて、レンコンをかじりながら、もごもごと答えた。「うん、甘いもの食べると気分が明るくなるから」南は微笑んだ。「あなたと来依ちゃんが友達になったのもきっと縁ね。あの子も落ち込むと甘いものを食べたがるの」「そうだね」来依は紀香にデザートを注文しながら言った。「もっと食べな。そんなに細いんだから、ダイエットなんて禁止よ」そのとき、不意に低く落ち着いた声が響いた。酒の匂いが混ざった、しゃがれた声だった。「彼女は太らない」四人の視線が一斉にその声の主へ向けられた。ただ一人、紀香だけがうつむいていた。静かに、皿のレンコンを食べきった。彼女は、危うく忘れかけていた。清孝が一番嫌うのが「甘いもの」だということを。何年も彼の誕生日ケーキを手作りしてきたのに、彼は一口も食べたことがなかった。個室の空気が、急に奇妙なほど静まり返った。デザートを持ってきた店員も、息をひそめてさっとテーブルに置いて立ち去った。清孝は配膳口の近くに座っていた。マンゴーケーキが彼の手の届く位置にあった。酔いのせいか、彼はそのケーキを一切れ取り、口に入れた。酒の苦味は少し消えたが、やはりこの甘
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第1029話

海人は目を開け、鷹と目が合った。──この腹黒、やっぱりな。……個室では、来依が場の空気を和らげようとしていた。「今日はマンゴーはやめとこう。私もあんまり食べたくないし」南はわざと突っ込んだ。「食べたくないんじゃなくて、今はマンゴー控えないとでしょ」来依は舌をぺろっと出し、店員を呼んだ。「ピーナッツ抜きのケーキお願い」「ブルーベリー味がございます。よろしいでしょうか」「ブルーベリー、ちょうど食べたかったんだ」「少々お待ちくださいませ」店員が下がったあとも、紀香の様子は冴えなかった。来依と南は目を合わせ、来依が口を開いた。「離婚って、嬉しいことじゃないの?それが一番望んでたことでしょ?」紀香はテーブルクロスの端を揉みしだいて、シワをつけていた。清孝のことはよくわからない。でも、理解していた土台はまだ残っていた。彼女はため息をついて言った。「彼が一度決めたこと、滅多に変えない。三年間、連絡しないって決めたら、本当に一切連絡してこなかった」来依は疑問を口にした。「じゃあ、彼が『離婚しない』って言ったら、その意思も簡単には変わらないってこと?」紀香はうなずいた。「多分、あんたがあまりにも辛そうだからだと思う」南は考えながら言った。「もしかしたら、あなたは彼にとって大切な存在なんだよ」本当は「彼はあなたのことが好きなんだよ」と言いたかった。でも、それではプレッシャーになるかもしれないと思い、言い換えた。「今は余計なこと考えすぎないで」来依は紀香の肩をぽんと叩いた。「来週の月曜に役所に行けば、答えが出るんだから」紀香はそう楽観的にはなれなかった。「この前、グループで話したでしょ?彼、また手を変えてきたのよ。だから、今回の離婚の約束もそうかも。しかも、あの人酔ってる状態で言ったことだし、あとから『酔っ払ってただけ』って言われたら、私、どうにもできないよ」来依と南は、それももっともだと思った。「でも、藤屋さんのご両親、あなたの味方になってくれるって言ってたよね?もしかしたら、もう説得してくれたかもしれないし。とにかく、そんなに落ち込まないで。当日になればわかること」南も来依に同調した。「私、来週石川に行く用事あるし、一緒に役所行こう」
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第1030話

地下室の照明は薄暗かった。海人は一歩一歩と奥へ進み、ようやく下の様子がはっきりと見えた。青城の首には鉄の鎖が巻かれていた。すでに一か月は放置されているようで、全身が汚れにまみれていた。むき出しの肌には裂けた傷があり、そこから血がにじみ出ていた。伸ばしっぱなしの髪は木の枝のように絡まり、顔を覆って目元さえ見えなかった。今、彼は地面に這いつくばって、桶の中の何かを食べていた。それが何なのかは不明だったが、まるで豚の餌のようだった。その光景を見た瞬間、海人は思わず目を逸らした。つわりは、持病の胃痛よりも遥かに辛かった。「こんな状態でも生きてるって……いつか俺を殺してやろうとでも思ってるのか?」冷ややかな声が響いたが、青城は飯に集中し続けた。海人はステンレスの桶を蹴り倒した。「お前、俺が思ってたよりずっと屈辱に耐えるやつだな。どうりで、道木家がお前の手に渡ってからは順調に伸びたわけだ。今じゃ、道木家は世間に見捨てられたような存在だけどな」菊池家と道木家の因縁は、代々続くものだった。文と武は、元々水と油だった。菊池家は武を家業とし、その血筋もそれを受け継いでいた。道木家は文官を輩出する家だったが、近年はそうでもなかった。だが、青城が実権を握ってからは、まだまともに回っていた。宿敵でありながらも、敬意を抱かざるを得ない相手だった。ただ一つ、致命的な誤算があった。──自分をどう扱うかはどうでもいいが、来依に手を出したのは、許されなかった。「メディア一社だけ残して、何ができるつもりだったんだ」海人は壁に掛かっていた小型の彫刻刀を手に取った。そして、屈んで青城の目の前に腰を下ろした。「お前がどれだけ大騒ぎしても、俺には何の影響もない。ましてやメディア一つで俺を倒せるとでも?世論は確かに強力だけど、俺に傷一つつけることすらできない」そのときになってようやく、青城は海人の存在に気づいたかのように顔を上げた。口元には、不気味な笑みを浮かべた。「これはお前を倒すためじゃない。まさか、お前みたいに冷血で無情な男が、骨の髄まで誰かを愛するなんて、思ってもみなかったよ。女が苦しんでるとき、絶望してるとき、お前の心臓はきっと、千本の矢が刺さるような痛みだったろ?それにしても、あの肌は本当に
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