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All Chapters of 離婚後、恋の始まり: Chapter 1121 - Chapter 1130

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第1121話

「いつの間に?」舞子はドアを開け、訝しげに問いかけた。「上の階だから。シャワーを浴びていただけだ」と賢司は応じた。彼も着替えを済ませたのだろう、白い半袖シャツというシンプルな部屋着姿は、彼を何歳も若く見せていた。舞子の視線が彼の全身をなぞるように行き来し、やがて気まずそうに目を逸らすとドアを閉めた。そのまま寝室へ向かう彼女の背中に、賢司が問いかける。「主寝室ではないのか?」舞子は振り返りもせずに言い放つ。「後でシーツを替えるのが面倒だから」賢司の旺盛な精力は、舞子もよく知るところだった。一度火が点けば、何もかもが乱れ尽くすまで終わらない。だからこそ舞子は、後始末の手間が省ける客室を選んだのだ。そうすれば、翌朝は心ゆくまで惰眠を貪れる。だが、賢司は「俺は主寝室がいい」と言った。その言葉に、舞子はたちまち眉をひそめて振り返る。「我儘が過ぎるんじゃない?ここは私の家よ」賢司は冷静に彼女を見つめ返す。「嫌なら俺の家に来ればいい」そして、少し間を置いて付け加えた。「遠くはない。真上だ」舞子:「……」まったく、敵わないわ!「わかったわ。あなたの家に行く」舞子は不満を露わに踵を返し、玄関へと向かった。賢司の薄い唇が微かに弧を描いたが、すぐに真一文字に結ばれた。エレベーターの中で、舞子は少し後悔していた。どうして彼の家に行くなどと言ってしまったのだろう。自ら虎の穴に入るようなものではないか。だが、そんなことを考えている間もなく、エレベーターは目的の階に到着した。ほんの数分の出来事だった。先に降りた賢司がドアを開け、舞子を振り返った。長い睫毛が微かに震えたが、舞子は彼と視線を合わせることなく室内へと足を踏み入れた。部屋には間接照明がいくつか灯され、薄明かりが辺りを照らしている。舞子は部屋を見渡す気にもなれず、ただ、早く始めて早く終わらせることだけを考えていた。背後でドアの閉まる重い音がして、舞子の全身がこわばった。次の瞬間、その体は不意に抱え上げられた。「きゃっ」舞子は短い悲鳴をあげ、落ちまいと無意識に彼の首へ腕を回した。落ちるはずなどなかった。賢司の逞しい腕は、舞子の体を軽々と支えている。何度も肌を重ねた仲だというのに、今更ながら羞恥心がこみ上げてきた。慌てて賢司を見
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第1122話

賢司の表情がふいに陰りを帯びた。彼はそっとその傷跡に指先を滑らせると、身をかがめて、そこにゆっくりと唇を落とし始めた。舞子は呆然とした。信じられない、という思いが顔に滲み出る。振り返って賢司の顔を確かめようとしたが、彼に押さえられて身動きが取れなかった。あんな醜い傷跡に、どうしてキスなんてできるの?どうしてそんなことができるの?賢司がこんな関係を続けてくれるのは、私の容姿が美しいからじゃなかったの?その瞬間、舞子の中で何かがひっそりと覆された。賢司のキスに、舞子の体はかすかに震えた。我慢できずに、指を噛んだ。彼の息遣いが羽のようにやさしく背中を撫でてゆく。それがあまりに柔らかくて、胸が締めつけられた。彼はまるで壊れ物を扱うように細心で、ひとつひとつの動作に舞子の気持ちへの配慮が込められていた。彼女がふと見せる悦びの表情に、賢司の内心は深い満足に満たされていくようだった。夜が更けていっても、ふたりの吐息は絡み合い、離れることなく続いていた。やがて舞子は意識を手放し、まるで波間を漂うように夢と現実の狭間を行き来した。いつ終わったのかも、もう分からない。ただ覚えているのは、彼に抱きしめられたその腕が、たまらないほど暖かくて、少しだけ、もっと欲しいと思ってしまったことだった。翌朝。舞子は目を覚まし、見慣れない天井を見つめながら、しばし呆然とした。また、ここで一晩を過ごしてしまった。終わったら自宅に戻るつもりだったのに。寝返りを打つと、体はさっぱりとしていて、どうやら賢司が洗ってくれたのだと察した。起き上がった舞子の白い肌には、曖昧な痕跡がまだ微かに残っていた。滑り落ちた布団の端をそっと拾い上げた。ベッドの傍らには、彼女の服が一式、きちんと畳まれて置かれていた。それを手に取り、身につけた。部屋を出ると、賢司が窓際で電話をしている姿が目に入った。片手を腰に当てた彼の背中は、肩幅が広く、ウエストは引き締まり、脚はまっすぐに伸びていた。その声は静かで、冷たさを孕んでいるように聞こえた。朝の陽光が彼の輪郭を照らしていて、なぜかその姿が眩しく感じられた。舞子の心臓が、ひときわ強く脈打った。慌てて視線をそらし、気持ちを落ち着かせようとする。違う、彼は私の好みのタイプじゃない。
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第1123話

舞子は一口味わうなり、はっと賢司に視線を向けた。「どうした?」賢司はそんな舞子の様子に気づき、平然と問いかけた。舞子は箸を置き、真剣な眼差しで賢司を見据え、問いかけた。「ねぇ、これどうやって作ったの?教えてくれない?」同じ麺、同じ野菜、同じ調味料のはずなのに、どうして賢司の手にかかると、こうも美味しくなるのだろう。一体、どんな魔法を使ったというの?知りたくてたまらなかった!「教えん」賢司はただぶっきらぼうに、三文字を返すのみだった。舞子の顔が、一瞬くしゃりと歪みそうになる。だがすぐに気を取り直し、賢司の腕を掴んで軽く揺さぶった。「お願い、教えてよ。授業料だって払うから。本当に、あなたの作るものってすごく美味しいんだもの。ねぇ、いいでしょう?」それは紛れもない、甘えの仕草だった。賢司は、自分の腕に絡むその両手に、ちらりと目を落とした。以前の舞子は、賢司の前では常に礼儀正しく微笑みを浮かべ、冷静でどこか自分を抑制しているようだった。しかし今の彼女は、その仮面を脱ぎ捨て、少しずつ素の表情を見せるようになっている。そして、甘えるという行為は、心を許した相手にしか見せないものだ。その甘えが、今、自分に向けられている。ということは、自分も彼女にとって「心を許せる人間」になったということなのだろうか。賢司の胸に様々な思いが去来したが、それでも口から出た言葉は同じだった。「教えん」舞子はぷっと唇を尖らせると、彼の手を離し、再び箸を取った。教えてくれないなら、もういい!ケチ!意地悪!「食べたくなったら、俺のところに来ればいい」むくれる舞子の横顔を眺めながら、賢司は淡々と告げた。舞子は賢司を意図的に無視し、黙々と麺を啜った。一杯の麺を綺麗に平らげると、口元を拭い、すくと立ち上がった。そして一言も発することなく、そのまま部屋を後にした。賢司は軽く眉を上げた。なかなかの気性の強さだが、それが賢司の目にはひどく愛らしく映るのだった。自室に戻り、ソファに身を沈めても、舞子の胸にはまだ微かな怒りが燻っていた。教えてくれないくせに、「食べたくなったら来い」だなんて。わざと言っているに決まっている。しかし、ふと考え直すと、舞子の怒りはいつの間にか霧散していた。そうか……これも、賢司と会
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第1124話

賢司が突然、手を伸ばしてドアを押さえつけた。その動作に、舞子の足が止まった。「ん?」怪訝そうな顔で彼を見上げた舞子は、状況が呑み込めずに戸惑っていた。賢司の視線は暗く沈んでいて、しばし彼女を見つめたまま、低く言った。「お前、本当に殴られたいのか」はぁ?耳を疑うような言葉に、舞子は目を丸くした。何言ってんの?まさか、殴るつもり?馬鹿みたい!そんなこと言った人なんて、両親以外で初めてよ!怒りがこみ上げ、舞子は勢いよくドアを押した。もうこんな男の顔なんて、二度と見たくない!だが、賢司はあっさりとドアを押し開け、そのままずかずかと部屋の中へと入ってきた。「ちょっと!出てって!今、あなたの顔なんて見たくないの!」舞子は冷たい眼差しを向け、入り口を指差して鋭く追い返そうとした。だが、賢司はその言葉にも動じず、無言でソファへと向かい、どっかりと腰を下ろした。「風呂に入れ」顎をしゃくって命じるその声には、一切の妥協がなかった。「賢司、私とあなたって、もう何の関係もないでしょ?何様のつもり?ここはあなたの会社でもなければ、私はあなたの部下でもない。私に命令する権利なんて、どこにもないのよ!」舞子の声は鋭く、怒りに満ちていた。その姿は、毛を逆立てた狐のように鋭く、全身から敵意を放っていた。賢司は黙ってその様子を見つめていたが、ゆっくりとネクタイを緩め、抑えていた感情がじわじわとにじみ出てきた。「桜井舞子」フルネームを呼ばれた瞬間、舞子のまつげがぴくりと震えた。彼女は声を強めて叫んだ。「出て行ってください!」もう、賢司が怒ろうがどうなろうが構わない。今はただ、彼の存在そのものが耐え難かった。強引で冷酷で、横暴で、自分の支配下にすべてを置こうとするその態度。ここはあんたの城じゃない!私はもう、あんたの命令には従わない!リビングの空気は緊張に満ち、一触即発の雰囲気が張り詰めていた。賢司はまさか、ここまで強く拒絶されるとは思っていなかった。幼い頃からあらゆる場面で優越感に浸って生きてきた。大人になってからは瀬名グループを掌握し、自分に異を唱える者など、周囲にほとんど存在しなかった。いつしか、それが傲慢さとして染みついてしまっていたのだ。だから、舞子に対して
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第1125話

幸美の言葉を聞いた瞬間、舞子の全身が小さく震えた。罰は、まだ終わっていなかった。両親はゆっくりと、だが確実に彼女の心を追い詰め、再び自分たちの支配下に屈服させようとしている。舞子は手にしていたスマホを強く握りしめた。幸美は、娘の揺れる感情に気づいたのか、ふっと笑みを含んだ声で、柔らかく語りかけてきた。「舞子、あなたは小さい頃から、とても素直で賢い子だったわよね。だから、素直に過ちを認めさえすれば、今回のことはもう水に流すわ。国に戻ってきてもいいのよ。もちろん、海外でもう少し遊びたいっていうなら、それでも構わないけれど。あなたのカードも、ちゃんと使えるようにしてあげる」飴と鞭。鞭はすでに打たれた。だが、飴が与えられるかどうかは、彼らの気分次第。いや、私の態度次第だ。舞子は心の中で冷ややかに笑った。だがその笑みは、次第に自嘲の色を帯びていく。深く息を吸い込み、彼女は低く、しかしはっきりと告げた。「わかったわ。よく考えてみる」そう言い残し、舞子は一方的に電話を切った。そして次の瞬間、スマホを床に思いきり叩きつけた。そのままへたり込むように膝をつき、虚ろな目で、ただ前を見つめていた。賢司はそんな彼女の様子を見て眉をひそめ、静かに片膝をついて隣に膝をついた。青白い顔、うつろな瞳。魂の抜けたような姿は、なぜか彼の胸に小さな棘となって刺さった。「これで分かったか?」賢司が低い声で言った。「お前のやったことなんて、全部、無意味なんだよ」舞子はかすれた声で答えた。「少し、一人にして」彼女に気持ちの整理が必要なのは明白だった。だが賢司はその場を立ち去ることなく、代わりに言った。「他の方法で発散してみたらどうだ。今より、少しはマシになれるかもしれない」舞子は目を閉じ、言葉を押し出すように言った。「ごめんなさい。そういう気分じゃないの」それでも賢司は引かなかった。彼女の顎をそっと掴み、その瞳を覗き込んだ。虚ろな瞳に自分の影が映る。彼の呼吸が一瞬止まり、問いかけるように言った。「よく、考えるんだろ?本当に、そうなんだな?」この鬱陶しい男は、なんでまだいるの?舞子の胸の奥で、抑えていた感情が限界に近づく。何をペラペラと……聞きたくない。今は、もう何も。舞子は勢いよく賢
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第1126話

白くて柔らかな足が、ぴたりと合うスリッパに収まる。舞子はゆっくりと賢司の家に足を踏み入れた。前回は気が動転していて、部屋をよく見る余裕すらなかったが、今回は玄関に立った瞬間に気づいた。この家全体が、あの主寝室と同じ色調でまとめられている。ひんやりとして静かで、どこか、賢司自身の人柄をそのまま映したような空間だった。賢司は舞子のすぐ後ろに立ち、どこか落ち着かない彼女の様子を見て、ふと思った。本当は、こういう言葉は、自分から言うべきなんだろう。舞子はまだ若くて、しかも一度自分を拒絶した。その手前、いまさら気持ちを口に出すのは、きっと簡単なことじゃない。一方の舞子も、心の準備を整えていた。ちょうどいいタイミングを計っていたそのとき、不意に視界に影が差した。「舞子」低くて、心地よく響く声が、頭上から降ってきた。顔を上げると、真っ直ぐこちらを見つめる賢司の視線とぶつかった。端正で凛としたその顔は、テレビでニュースを読むアナウンサーのように真剣で、いつになく真っ直ぐだった。「こんなに時間が経ったし、もう気持ちはないだろうと思ってた。でも、違った。むしろ前より強くなってる。もう一度聞く。俺と、付き合ってくれないか?」舞子は呆然とした。澄んだ切れ長の目の奥に、明らかな驚きが浮かぶ。賢司……また告白してきた?前回、あんなにきっぱり断ったのに、それでも?胸の奥で、見慣れない感情が渦巻いていた。ときめきに似ているけれど、それが何なのか、自分でもよくわからない。ただ、一つだけはっきりしていた。いま目の前にいる賢司は、本気だった。冗談でも気まぐれでもない。舞子はそっと息を吸い、慎重に言葉を選びながら口を開いた。「私も、ちゃんと考えてみたの。たぶん、私たちって気が合うと思う。だから、ちょっと試してみるのもいいかなって。でも――」言いかけたところで、賢司はただ静かに、真っ直ぐ彼女を見つめていた。舞子の中に、躊躇や不安があること。もしかしたら、少し計算もあること。彼はそれを感じ取っていた。舞子はそっと視線を落とし、自分の心の奥を探るように言った。「まず、付き合ってみて……もし合わないって思ったら、そのときは静かに別れよう。それでもいい?」「いいよ」賢司は迷いなく頷いた。付き合い始めたばかりで「別
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第1127話

よくよく考えてみれば、舞子の反抗心は、まさに自分へと向けられていたのだ。その瞬間、賢司の表情がさっと険しくなった。舞子は彼の不機嫌さを敏感に察し、慌てて口を開いた。「あの、運動するんでしょう?じゃあ、行ってきて。私、ほとんど一晩中寝てないから、先に部屋に戻って休むね」そう言いながら、舞子は彼に握られていた手を抜こうとし、その場を離れようとした。しかし、賢司は彼女の手首をしっかりと掴んだまま離さず、黒い瞳でじっと見据えながら低く言った。「一晩中寝ていないなら、もう少しくらい平気だろう」その声に、舞子の目がすぐさま警戒色を帯びる。危険の兆しを本能的に察知したのだ。「あ、あなた……何をするつもりなの?」腰をぐっと引き寄せられた瞬間、彼女の背筋にぞくりと寒気が走った。「お前が思っている通りのことだ」賢司の言葉は低く、静かだったが、その裏には感情の奔流が潜んでいた。「わ、私には……わからないわ」その目に浮かぶ怒り。いや、それ以上に冷たく、凍てつくような気配に、舞子は恐怖を覚えた。彼の全身から漂うのは、怒りと支配欲を含んだ異様な気配。今の彼女にできるのは、ただ一つ。逃げること。できるだけ遠くへ。舞子はすぐに表情を柔らかく変え、声音も甘くなった。「賢司さん……ほんとに、疲れてるの。お願い、休ませて。お話があるなら、ちゃんと寝てからじゃだめ?」無意識のうちに、媚びるような口調になっていた。その目はどこまでも無垢で、可憐だった。その姿を見て、賢司の胸の中に渦巻いていた怒りが、すっと引いていくのがわかった。彼はただ眉をひそめ、短く言った。「ここで休め」冷たく、拒絶を許さぬ威圧的な声音だった。「や、やっぱりいいわ。私の家は階下だし、すぐだから……もう帰るね」舞子はなおもその場を離れようとする。しかし、賢司は一歩も譲らない。「今ここで話すか、ここで休むか。どちらかだ」短い言葉に込められた強い圧に、舞子は一瞬で方向を変え、寝室の方へと歩き出した。歩きながら大きくあくびをし、振り返らずに言った。「すごく眠いから、もう帰らないで、ここで寝るわ」その言葉を聞き、ようやく賢司は手を放した。舞子が寝室に入るのを見届けると、その厳しい表情もわずかに和らいだ。舞子は寝室のドアに耳を当
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第1128話

「起きたか」賢司はまっすぐ舞子のもとへ歩み寄り、まだ寝起きでどこかぼんやりとした顔を見つめながら、そっと手を伸ばし、その頬を軽くつまんだ。その仕草はあまりにも自然で、どこか親しみに満ちていて、舞子に心の準備をする隙さえ与えなかった。そして彼は、まさに思ったとおりの行動に出た。正確に言えば、それは彼がずっと以前から望んでいたことだった。舞子の頬は想像通りに柔らかく、つい何度も触れていたくなるような感触だった。舞子は小さく頷き、尋ねた。「仕事、行ってないの?」賢司は落ち着いた声で答えた。「今、帰ってきたところだ」「もう帰ってきたの?」舞子は少し驚いたものの、その話には深く立ち入らず、代わりにこう切り出した。「実はね、あなたに話しておきたいことがあるの」賢司はごく自然な動作で舞子の手を取ると、彼女をソファへ導き、一緒に腰を下ろした。「話してごらん」舞子は静かに言った。「実はね、今の私、まだ海外にいることになってるの」唐突にも聞こえるその言葉は、事情を知らぬ者にとっては、何を意味しているのかまったく理解できないだろう。だが、賢司にはすぐにその意味が分かった。彼は短く頷いた。「ああ、知ってる。かおるが手を貸してくれたんだろう」舞子はほっと息をついた。それだけで、一気に話しやすくなった気がした。「家の人は私をおとなしくさせるために海外に送って、経済的な援助も断ったの。本当の目的はね、あなたに近づかせることだった」そう言いながら、舞子はそっと賢司の表情を窺った。だが彼は、いつもと変わらない落ち着いた表情を浮かべていた。まるで、舞子の話す内容など、なんの驚きもないという風に。舞子は少し間を置き、言葉を継いだ。「今、あなたと付き合うことになったから……それはつまり、私が両親に屈したということになる。だから、私は国に帰らなくちゃいけないの」舞子が賢司と付き合っていることを公表すれば、きっと幸美と裕之は空港まで迎えに来るだろう。だから今、舞子は実際に海外へ行かなければならなかった。賢司は一瞬で舞子の意図を見抜き、口を開いた。「俺に、海外まで送ってほしいんだな」舞子は頷いた。「ええ」すると賢司は、少し声の調子を変えて言った。「つまり俺は、お前にとって都合のいい
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第1129話

賢司が自分に近づいてくるのを見て、舞子は先ほどの彼の言葉を思い出し、知らず識らずのうちに身を硬くした。だが、賢司はそんな舞子の手を取り、ぐっと引き寄せると、「行こう。着替えてこい。食事に連れて行ってやる」と告げた。賢司に促されるまま二、三歩足を踏み出した舞子は、はっとしたように顔を上げた。まさか、デート……!?舞子はこくりと頷き、「うん」とだけ答えた。自室に戻り、ドアに背を預けると、途端に心が浮き立つのがわかった。初めてのデート。とびっきりお洒落をしなくちゃ。舞子は寝室へ駆け込むと、まずはシャワーで身を清め、それから入念に服を選び、化粧に取り掛かった。すべての支度が終わったのは、二時間後のことだった。賢司にメッセージを送ってからドアを開けると、そこには仕立ての良いスーツに身を包んだ賢司が立っていた。その静かな佇まいからは、いつから待っていたのか見当もつかない。舞子はぱちくりと瞬きをして、「もしかして、ずっとここで待ってたの?」と尋ねた。「いや、俺も今来たところだ」と賢司はこともなげに言った。彼氏が彼女を待つのは当然のこと。それ以上気にする必要はない。「腹は減ったか?」と賢司が尋ねた。しかし舞子は答えず、彼の前でくるりと一回転してみせると、「私、きれい?」と小首を傾げた。賢司の眼差しが、ふと深みを帯びた。花柄のロングドレスに、肩まで流した髪。ナチュラルでありながら精緻な化粧は、彼女の全身から放たれる若さ特有の甘い匂いを引き立て、ふわりと漂う上質な香水の香りが鼻腔をくすぐる。甘く、柔く、そして何より美しい。紛れもなく、魅力的な少女だった。「ああ」賢司は低く応えた。その素っ気ない返事に、舞子は不満げに唇を尖らせた。「それだけ?何か感想はないの?特別だって思わない?」「ある」賢司は率直に認めた。途端に舞子はぱっと顔を輝かせ、「どんな感じ?」と身を乗り出した。「猛烈に、キスがしたい」言葉が終わるか終わらないかのうちに、賢司は片手で舞子の後頭部を引き寄せ、その唇を奪った。「んっ……!」咄嗟に身を引こうとしたが間に合わず、舞子の唇は彼のそれによって完全に塞がれてしまった。柔らかく艶やかな唇が貪られ、そこに差されていた口紅は、跡形もなく彼に食み尽くされた。エレベーター
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第1130話

舞子は驚いたように彼を見つめた。「噂で聞いたことがあるの。あなたが恋愛経験ゼロだって。最初は信じられなかったけど……」賢司は彼女にちらりと視線を向け、「その通りだ」と短く応じた。「うん……今なら信じられる」彼の目には、ただ仕事だけが映っていた。賢司は両手でハンドルを握り、静かに車を走らせていた。夕陽はすでに沈み、街にはぽつぽつと灯りがともり始めていた。舞子は何日も外に出ていなかったせいか、久しぶりの夜風に少し戸惑いを覚え、道中ずっと窓の外を眺めていた。その瞳には、本人さえ気づかぬほど微かな興奮が揺れていた。賢司が何度か横目で彼女に目をやっても、舞子はまったく気づかなかった。やがて、車は静かに止まった。舞子が車を降りると、そこには三階建ての日本料理店が佇んでいた。古びた木造の建物に、精緻な彫刻が施された玄関。漂う空気はどこか懐かしく、温かい。彼女は店の名前に目をやった――「安らぎの家」。すぐに賢司が歩み寄り、自然な仕草で彼女の手を取りながら言った。「ここの料理、美味しいんだ」「この名前、聞いたことがあるわ。本店は冬木にあるんでしょう?錦山には、いつできたの?」「そんなに前じゃない」舞子は首を傾げる。「どうしてここを?」「妹の旦那が始めた店なんだ。妹がこの味を気に入ってね」なるほど。舞子は思い出していた。瀬名家が実の娘と再会し、その娘が錦山に定住したという話を。夫も一緒に来たのだという。深い愛情ね。賢司が彼女を見て、ふと口を開いた。「お前、妹に会ったことあるよな。気が合ってたみたいだったけど」舞子はうなずいた。「ええ、里香さんはとても優しい方。私、彼女のこと好きよ」「なら、これからもっと会えばいい。絆を深めるためにもな」舞子は思わずまばたきをした。絆……?それって、家族としての絆?そんな……まだ早いわ。賢司との関係だって、始まったばかりなのに。里香の兄嫁になるなんて……そんな未来、想像するには少し勇気がいる。店員の案内で二人は階上へと向かい、個室へ通された。扉を開けた瞬間、舞子の目が一瞬輝いた。両面刺繍の屏風が美しく、それをくぐると、広々としたダイニングスペースが広がっていた。食事エリアと休憩エリアに緩やかに仕切られ、透かし彫りの木枠窓の向こう
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