「そんなことないわよ」紗枝は無造作に、歯ブラシを啓司の手に押しつけた。「記憶をなくす前のあなたは、覚えが早くて、私が三日かけて物の場所を教えたら、ちゃんと自分で覚えてた。ほとんど手助けなんて必要なかったわよ。早く歯を磨いて、終わったら寝ましょ」啓司はそれ以上なにも言わず、俯いたまま黙々と歯を磨き始めた。洗顔と歯磨きが終わると、ぽつりと口を開いた。「先に出て行ってくれ」「......なんで?」「風呂に入るから」紗枝は小さくつぶやいた。「別に初めて見るわけじゃないのに」「......なんだって?」啓司が長い腕を伸ばし、彼女の体をぐいっと引き寄せた。「な、なんでもないっ!」紗枝は慌てて否定した。啓司は一瞬何か聞こえた気がしたが、聞き間違いだと思って手を離そうとしたそのとき、隣の部屋から妙な音が聞こえてきた。「......裕一、このバカ!離して!」梓の声だった。小さな声だったが、薄い壁を通してはっきり聞こえてきた。大人ならば、何が起きているかすぐに察しがつく。紗枝の顔が見る間に真っ赤になり、啓司に抱かれたまま、固まったように耳を澄ました。啓司もまた、息を止めるように静かになり......そして、ゆっくりと手を放した。「......先に出て行ってくれ。風呂から出たら、自分で部屋に戻る」「は、はいっ!」紗枝は顔から火が出そうな勢いで、その場を逃げるように洗面所を後にした。ベッドに戻ると、隣の音は次第に小さくなり、おそらく浴室に移動したのだろう。幸い、二人の子供たちはぐっすりと眠っていた。説明に困るような事態にはならずに済んだ。十分ほどして、啓司も風呂から上がり、無言で隣のベッドに横たわった。紗枝は部屋の灯りを消したが、二人ともなかなか眠れなかった。牧野と梓はどうやら部屋に戻ったらしく、壁一枚の防音効果は最悪だったが、それでも子供たちを起こすほどの騒音にはならなかった。紗枝は何度か寝返りを打った末に、そっと布団を抜け出して廊下へ出た。深夜の山風が、ふわりと花の香りを運び、都会の喧騒とはまるで別世界の静けさだった。紗枝は昔から、老後は田舎で畑を耕して、のんびり過ごすのが夢だった。そんなことを思い浮かべていると、背後から足音が聞こえた。啓司だった。手探りで、ゆっくり
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