All Chapters of 契約終了、霜村様に手放して欲しい: Chapter 1541 - Chapter 1550

1552 Chapters

第1541話

霜村冷司は善人でもなければ極悪人でもなかった。ただ、権力と地位のためには手段を選ばなかったのだ。命を奪ったとは言わずとも、その手が血に染まったことは、一度や二度ではない。そんな男にとって、何十年という年月こそが、やがて訪れる人生の終着点だったのかもしれない。最期の時が迫っても、恨み言はなかった。ただ......霜村冷司は振り返って別荘を見つめ、窓辺に佇む影に視線を向けた。淡々とした瞳の奥には、一抹の未練が漂っていた。「もし私が約束を果たせなかったら、君が代わりに、一生お母さんの面倒を見るんだ」霜村冬夜は両親二人がどれほど愛し合っているか知っていた。それは、誰にも代わることのできないほどの強い愛だった。だから、父の言葉に簡単に頷くことはできなかった。「お父さん、自分がした約束は自分で守るべきだよ。僕に押し付けないで」口調では厳しいことを言うが、息子の心は優しいことを霜村冷司は知っていた。自分がこの世を去れば、息子が和泉夕子の面倒を見てくれるだろう。しかし、必要な手配は済ませてあったが、もし本当に自分がいなくなってしまった時に、和泉夕子が自暴自棄になってしまうのではないかと心配だった。「彼女はおとなしそうに見えて、実際は結構頑固なんだ。もし今後、彼女が何か馬鹿なことをしそうになったら、なんとしてでも止めてくれよ......」まるで遺言を聞かされているようで、霜村冬夜はなんだか居心地が悪かった。「お父さん、もう最終段階の演算は終わったんだ。あと2ヶ月、後2ヶ月で必ず完璧に仕上げてみせる!そのときには、父さんと母さんが、手を取り合って、穏やかな老後を迎えられるように、僕がなんとかしてみせるから」霜村冷司は、ふっと微笑んだ。その笑みはどこか寂しげで、静かに心の奥に染み込んでくるような優しさがあった。はっきりとした感情は読み取れないけれど、何かを受け入れたような、そんな穏やかさが漂っていた。それは、生きているのにどこか遠く感じられるような、手の届かない微笑だった。まるで、自分の役目を終えた人が、静かに歩き出すような、そんな印象を残していた。霜村冬夜はそんな父を引き止めることができない。まるで別れを告げる時間もないかのように、スーツのポケットから精巧な箱を取り出し、父に差し出した。「本当は誕生日に渡すつもりだったんだが、何故か今日、渡したくなった」
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第1542話

「もう塩と砂糖の区別はつくの?」霜村冷司は質問した和泉夕子を見つめ、軽く首を横に振った。霜村冬夜はそれを見て、濃い眉を徐々にひそめた......何だか嫌な予感がする。その不吉な予感は、霜村冬夜がどう噛んでも噛み切れないステーキを完食した後に、確信した。特に初老を迎える相川涼介と相川泰の二人が口を押さえて笑いをこらえているのを見て、霜村冬夜は完全に騙されたと思った。吐き気をこらえながら、高校の学生服を着た霜村鉄男と霜村鉄子に視線を向け、「食べてみるか?」皿の上の料理をじっと見つめていた二人は、激しく首を横に振った。「お父さんが言ってた、冷司叔父さんの作った料理は犬も食わないって。だから絶対に食べたくない......」「......」霜村冬夜は言葉が出なかった。珍しく霜村冬夜が悔しそうな顔をしているのを見て、霜村鉄男と霜村鉄子は大喜びした。「兄貴、これは冷司叔父さんが心を込めて用意してくれた誕生日プレゼントだよ。叔父さんの気持ちを無駄にしないためにも、全部食べなきゃだめだよ......」主賓席に座る男性も息子を期待の眼差しで見つめていた。男の目から「全部食べろ」という意味を読み取った霜村冬夜は、唾を飲み込んだ。震える手でナイフとフォークを持ちながら、心の中で文句を言った。なんで手作りの料理が食べたいなんて言ってしまったんだろう、他のプレゼントでよかったのに。父の料理を食べるなんて、罰ゲームか何かかよ?ああ......霜村冬夜はため息をつき、再び覚悟を決めてナイフでステーキを切り、口に入れて噛み続けた......噛んでいるうちに、なんとプラスチックの膜が出てきた。彼が口からビニール袋を引き出すのを見て、周囲で見守っていた霜村家、如月家、春日家の人々は、最初に驚きの表情を見せたが、次々に大笑いし始めた......カメラを持っていた柴田南は、この温かい場面を見ると、すぐにシャッターボタンを押した。白石沙耶香みんなが笑顔で並んだ、あたたかな一枚を撮ったことがあった。あのときとは少し違うけれど、今の写真にもまた、穏やかな空気が流れている。減った顔ぶれもあれば、新しく加わった人もいる。人生なんて、きっと白鷺が空を横切る一瞬のようなもの。ほんの数十年の時間は、すれ違うだけの出会いもあれば、じっと見つめ合える関係もある。でも、
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第1543話

霜村冷司はわずかに眉をひそめ、霜村涼平に余計なことを言うなと合図したあと、手を伸ばして彼の肩に置き、ぐっと力を入れた。兄弟間の暗黙の了解はすでに数十年のものだった。霜村涼平は、霜村冷司がこの姿で和泉夕子を驚かせたくないのだと理解し、その意向に従った。彼は黙って立ち上がり、霜村冷司の腕を取り、両目から血を流す霜村冷司を連れて外へ出た。「兄さん、すぐ医者を呼んでくる」別荘を出ると、霜村涼平はすぐに雪山の下へ駆け降りようとした。霜村冷司に何かあった時のために、霜村涼平は少し離れた場所にある小屋に、医者を待機させていたのだった。「涼平」霜村冷司は彼を呼び止めた。死が実際に訪れると、普段よりも落ち着き払っていて、声にも諦めの色が滲んでいた。「チップが血管を傷つけ、目や耳、口から血が出てくる。これは死期が近いことを示しているんだ。たとえ何千人もの医者が待機していても、脳の神経が完全に断裂した私を救うことはできない......」彼は血で霞む視界の中、ボロボロになった体を支えながら、一歩一歩階段を下り、雪の中へと足を踏み入れた。そして、よろめきながら霜村涼平の前に立った。「ロボットを雪山の下に用意してある。そいつにライチローズを持たせて夕子のところに行かせてくれ......」霜村涼平は顔の穴という穴から血を流す霜村冷司の姿を見て、思わず涙を流した。「兄さんは?」「私か?」舞い散る雪に身をさらしながら、霜村冷司はあたりをゆっくりと見渡す。「この世に肉体を持って生まれ、やがて大地に還っていく。それは、あまりにも自然なことだ。だから、俺はこのまま雪山の下に眠ろう」霜村涼平は泣きながら首を振った。「兄さん、あのロボットに兄さんの代わりをさせるのはいい。でも、あなたを雪山に置き去りにすることなんて僕にはできないよ。どんなことがあっても、霜村家の墓地に連れて帰らせて」霜村冷司は軽く唇の端を上げた。「それじゃ、今までやってきたことが全て無駄になってしまうじゃないか」霜村涼平は霜村冷司の腕を掴んだ。「兄さん、夕子さんだけじゃない。僕もいるし、霜村家の兄弟たちもいるんだよ。全てを夕子さんのためだけにするわけにはいかない」霜村冷司の目から流れ落ちるものが血なのか涙なのかは分からなかった。とにかく液体が混ざり合って、滴り落ちていた。彼は血と涙で
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第1544話

雪の中に佇む霜村冷司の姿を見つめ、霜村涼平は細く長い指で自分に向かって手を振る姿に、どんなに辛くても歯を食いしばり、雪山を駆け下りていった......「兄さん、先に医者を呼んで来るからね!それから、ロボットを山に登らせてから迎えに行くから!そこで待ってて――すぐ戻るから!」夜道は見通せない。けれど、一面に降り積もる白雪だけが、彼の歩いてきた道を淡く照らしていた。霜村涼平は、まるで昼間に歩いているかのように急ぎながら、それでも進むべき道が見つからず、何度も雪の中に膝をついた......徐々に視界から消えていく背中を見つめながら、霜村冷司はゆっくりと鼓動を刻む胸を押さえ、その場に立ちながら、静かに命の扉が閉じられていく痛みを感じていた......どれくらい時間が経っただろうか。和泉夕子が自分の姿を探し、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。霜村冷司は深い森の木々の間から、傘を差して雪の中を歩く彼女の姿を見つめ返した......一目見ただけで、万年が過ぎたような、時空を超えたような、そして初めての出会いに戻ったような気がした。しかし今は、太陽の光はなく、雪と陰鬱な空だけが広がっている......「冷司!」和泉夕子は少し待ってみたのだが、何かおかしいと感じ、別荘の向かいの家に霜村冷司を探しに行っていた。案の定、彼の姿はなく、彼女は途方に暮れながら辺りを見回し、彼を探しに出た。霜村冷司は「ここにいる」と返事をしたかった。しかし、顔の穴という穴から血を流している彼は、以前のように力強く「夕子、ここにいる」と答えることはできなかった。彼は、ほとんど見えなくなりつつある目で、山の奥へと足を踏み入れた......そこは森が深く、雪が夜空を照らしていても人影は見えにくい。屍を隠すには最適な場所だ。雪と氷が体を凍らせてくれれば、たとえ野獣が通りかかっても腐った肉は食いちぎられないだろう。こうすれば、雪山に埋もれても、顔は崩れない......そして何年か経って、和泉夕子がロボットが偽物だと気づき......もし霜村涼平が自分を見つけてくれていたとしても......彼女を怖がらせることはないだろう。かつて和泉夕子は自分の顔に惹かれ、そして自分に気持ちを寄せたと言っていた。だから、死んでからも彼女の中での自分のイメージを壊したくない......霜村
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第1545話

雪の中を必死に捜し回っていた和泉夕子は、ふと立ち止まった。まるで魂の呼び声を聞いたかのように。そして、ぼんやりと振り返ったが、あたり一面には雪景色が広がるだけで、他に人影はなかった。彼女は立ち尽くしたまま、胸に手を当てた。ドクン、ドクン、ドクン。三度心臓が大きく脈打った後、胸が張り裂けるような痛みが襲ってきた。まるで何か大切なものを失ってしまうかのような、身を屈めても耐えられないほどの痛みだった。霜村冷司に何かあったに違いない。そう直感した和泉夕子は、何とか立ち上がって捜し続けようとしたその時、息を呑むほど美しい男がライチローズの花束を手に、雪を踏みしめながら目の前に現れた。「夕子、待つように言っただろう?どうしてこんなところに来てるんだ?」無傷の霜村冷司の姿を見た瞬間、和泉夕子の張り詰めていた心が安堵で満たされた。やはり、彼はここにいたのだ。彼が無事であれば、心穏やかにいられる。和泉夕子は傘を放り投げ、森のうさぎのように飛び跳ねながら、喜びと安堵に包まれて、霜村冷司の胸に飛び込んだ。彼から伝わる温もりと、彼特有の匂いを感じて、和泉夕子は深く息を吐いた。「冷司、あなたに何かあったんじゃないかって、本当に心配したのよ。もう、驚かせないでよ」霜村冷司は長い指を和泉夕子の背に流れる髪に伸ばし、いつものように優しく撫でた。「そばにいると約束しただろ?どこにも行かないって。そう簡単にはいなくならないさ」霜村冷司の胸に抱かれていた和泉夕子は、小さく頷き、彼の腰にしっかりと腕を回した。だが、何かに触れた瞬間、和泉夕子の体は硬直し、慌てて彼を突き放した。「あなたは......冷司じゃない!」霜村冷司は最近痩せてしまっていて、腰に腕を回すと指が肘に触れるほどだった。だが、目の前の霜村冷司は以前と同じようにがっしりとしていた。彼は......霜村冷司ではない。少なくとも、自分の知っている霜村冷司ではない......和泉夕子の思考回路は崩壊した。何かを悟ったように、数歩後ずさりし、そして、狂ったように雪山へと駆け出した。後を追ってきた霜村冬夜は、母がこの人を父ではないと言うのを聞き、咄嗟に霜村冷司の手首を掴んだ。「お父さん、腕時計はどこ?」その情報を受け取っていなかった霜村冷司は、頭の中の機械を高速回転させた。しかし
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第1546話

まるで予感があったかのように、霜村冬夜が震える手で霜村冷司の手を掴んだ時、和泉夕子は顔を上げた。そして、たった一目見ただけで、狂ったように髪を振り乱し、這うようにして霜村冬夜のそばまで来た。彼女はまだ泣いていなかった。固い視線が、凍えて硬直し、白くなった手に触れた後、震える睫を伏せた。血まみれの両手で、霜村冷司の体を覆う雪を狂ったようにかき分け始めた。山奥深くの雪は、外よりもさらに激しく降り積もっていた。何層にも重なった雪が霜村冷司を埋め尽くしている。全力を振り絞り、彼を雪の中から掘り出した瞬間、彼の顔が和泉夕子の目に入った。目、鼻、口、耳、すべての穴から血が流れ出していた。その血痕は、雪とともに、この世のものとは思えないほどの美しい顔に凍り付き、全ての温もりを奪っていた......息絶えた父を目の当たりにして、霜村冬夜は信じられないというように後ろにのけぞり、両膝をついて崩れ落ちた。何かが心の琴線を断ち切り、大きな衝撃が走った。轟音とともに、世界が果てしない闇に包まれたようだった......「冬夜」耳元で和泉夕子の落ち着いた声が聞こえた。「手伝って」霜村冬夜はそこで我に返り、充血した母の目を見つめた。そこには悲しみや苦しみではなく、父がすでにこの世を去ったことがまだ信じられていないというような気持ちが見てとれた。だから母は、今、父を抱きしめ、彼の両手と顔をこすり続け、体温で凍りついた男を目覚めさせようとしている......この瞬間、霜村冬夜も父はただ凍えているだけだと思い込み、和泉夕子と同じように、父の両足を抱え、硬直した靴を脱がせ、自分の服をめくり上げて体に乗せた......自分の体温で父の足の裏を温めながら、ズボンの裾をまくり上げ、手のひらをこすり合わせて温め、彼の肌にこすり続けた......和泉夕子は手のひらの温かさで霜村冷司の頬の雪を溶かせば、彼を生き返らせられると信じて、必死に何度も何度も頬をこすり続けた。「あなた、私を置いて行かないって約束したじゃない。ちゃんと待ってたのに、どうしてあなたは帰ってきてくれないの?今、もし目を覚まして、一緒に帰ってくれたら、今日のことは許してあげるから。そうでなければ、絶対に許さないよ」彼女の腕の中の男は以前のように、昏睡状態から目を覚ました後に、抱きしめてくれて、
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第1547話

とめどなく溢れ出す涙。声を上げて泣くこともなく、ただ静かに頬を伝う。何かを言おうと口を開くけれど、この人生で言うべきことは、もう霜村冷司に全て伝えた気がして、静かに目を伏せた。そして、生気を失った白い顔を見つめた......「バカね、どんなに血を流していたとしても、私の夫であることには変わりないわ。怖いわけがないでしょ。私は怖がらないのに、どうしてこんなところに一人で来他の?」最後の別れも言えなかったなんて、どんなに悲しいことだろう。なのに、霜村冷司は、そんな悲しみはお構いなしで、自分を騙し続けてた......もし......偽物の霜村冷司だと気づかなかったら、一生彼の体を見つけられないままだったかもしれない。そして、彼は雪と共に凍りつき、この雪山の下に永遠に眠ることになっただろう......霜村冷司は、この世を去る覚悟をしていた。自分が後を追うのを恐れて、偽物のロボットを作り、一生騙そうとしたんだ。だけど、霜村冷司......どれだけ精巧なロボットを作っても、それはあなたじゃない。一生騙せるなら、それはそれで受け入れたかもしれない。でも、嘘は一瞬でバレたのよ。だから、今すぐあなたのところに行っていいかな?きっと許してくれないわよね。じゃないと、偽物のロボットで騙したりしない。信じ込ませるために、一人で顔の穴という穴からの出血するという苦しみを堪え、雪山深くまで来て、雪と枯れ木に囲まれることもない......霜村冷司は、とことんバカで、とことん愛してくれた。最期を看取ることができなかったのは本当に悲しい。でも、彼の愛のおかげで、和泉夕子は死を少しも恐れていなかった。むしろ、彼と一緒に死ねるなら、一生を共に過ごすと誓った約束を果たせると思っている。だけど、先に逝ってしまった霜村冷司は、黄泉の道で待ってくれているのだろうか?答えは分からない。ただ霜村冷司の冷たい体を抱きしめ、雪の中に座り込んだまま、誰に引っ張られても手を離そうとはしなかった。激しく降りしきる雪の中、吹き荒れる風がそこにいる人々の耳に悲痛な音を響かせる。誰も言葉を発さず、雪山が静寂に包まれ、最期の瞬間を刻んでいた。疲れ果てた霜村冬夜は、雪の上に膝をつきながら、信じられない思いと、信じざるを得ない現実の間で揺れ動きながら、固く閉じられたその目を見つめていた....
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第1548話

和泉夕子は震える睫毛を持ち上げ、生気を失った目で遠くを見つめた。「いいえ、どこにも行かない。彼とここで、凍死するまで一緒にいるわ。誰も私たちを引き裂くことはできないから」彼女がここで凍死するつもりだと聞いて、皆は胸を詰まらせ、彼女を止めようとした。馬鹿なことをするなと。しかし、彼女は一言も聞き入れなかった。頑なに霜村冷司を離そうとはせず、雪の中に座り込み、死を待っていた。霜村冬夜は和泉夕子の手を掴み、力強く彼女の手のひらを包み、意識を少しだけ自分に向けさせた。「お母さん、お父さんを愛していることは分かっている。だから、彼の死を受け入れるのは難しいよね。でも、僕はもうお父さんを失ったんだ。だから、お母さんまで失いたくない。お願い、変なことは考えないでよ......」耳元で息子が呼ぶ声を聞き、和泉夕子はゆっくりと彼の顔を見た。霜村冷司と瓜二つの顔を見た瞬間、彼女の唇の端がわずかに上がり、花のような笑みを浮かべた......「お父さんが亡くなる準備は、ずっと前からできていたの。彼が去ってしまったら、私も一緒に行かなくちゃいけないの。あなたも知っているでしょ?彼が生きているなら私も生きるし、彼が死んだなら私も死ぬの。誰にも止められないのよ」以前は、霜村冬夜は父の方が母を愛していると思っていた。そして、この瞬間まで彼は母の愛が父の愛と同じくらい深いことを知らなかった。ただ、霜村冬夜は成人の日に両親を同時に失うことなどできなかった。雪の中についていた膝をゆっくりと和泉夕子の前に動かし、両腕を広げて彼女を抱きしめた。「お母さん、お父さんは僕が結婚して子供を持つまで生きていたかったと言っていたんだ。けど、その願いは叶わなかった。だから、お母さん、お父さんの代わりに、僕が結婚して子供を持つまで、生きていてくれないかな?そのあと、お父さんのところへ行くのはどう?」もし母が承諾してくれたら、生涯独身でいるつもりだった――しかし......心はもう決まっていた。和泉夕子の中にある「夫のもとへ行く」という想いを、たったひとつの果たせなかった願いが揺るがすことはなかった。たとえ目の前の人が息子であっても、彼女の心は動かなかった。和泉夕子の断固とした様子を見て、霜村冬夜はひざまずき、既に死の影を帯びた彼女の目をみて、必死に懇願した。「お母さん、僕のこと
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第1549話

息子のため、和泉夕子は霜村冷司の後を追うことはなかった。だが、一夜にして髪は白くなり、まるで一気に10歳も老け込んだようだった。かつて歳月を感じさせなかった顔は、あっという間に無数の皺に侵食され、常に輝いていた美しい瞳は、色を失い、虚ろになっていた。母になったら、以前のように好きなようにはできない。だから、和泉夕子は霜村冷司の墓前で、待っていてくれるように言った。息子が結婚したら、会いに行く、と。もし霜村冷司が待っていなければ、来世の約束はなかったことにして、永遠に会わない、とも言った......霜村冷司の葬儀に、和泉夕子は参列しなかった。その後、彼女はふと我に返ると、よろめく足取りで霜村冷司の墓前にやってきては、とりとめのない話をしていた。このことは、父に会うために彼女を支えてきた霜村冬夜だけしか知らない......あの夜、和泉夕子は雪の中に倒れ込み、意識を失った。病院に運ばれ、7日間の昏睡状態に陥り、ようやく目を覚ました。彼女がいない間、霜村冷司は霊安室に安置され、7日間葬儀が行われなかった。しかし、彼女が目を覚ました後、虚ろな目と白髪頭で彼を一目見ると、すぐに背を向けてしまった......葬儀に関することに、泉夕子は一切関わろうとしなかった。ただベッドにもたれかかり、隣にある冷たい枕を撫でながら、彼がまだ生きている姿を想像していた......もし彼がまだ生きていたら、白髪になった自分を見て、心を痛め、目を赤くするだろうか?きっと、そうするだろう。「冷司、あなたって、本当にやきもち焼きで、不安ばっかり抱えてて、私が少しでもあなたのことで焦ったり、心配したりすると、それだけで、すごく嬉しそうにしてたよね。やっぱり自分のこと好きなんだって、そう思って、しばらくご機嫌になって。でも、今はもう、私が、あなたのことでどれだけ心をすり減らして、眠れない夜を過期しているかなんてあなたには見えないんだよ。悔しいでしょ?」誰も和泉夕子に答える者はいなかった。まるで独り言を言う老婦人のように、冷たい枕を撫でながら、一晩中過ごしていた。やつれて骨と皮ばかりになった彼女が、かつては息を呑むほど美しく、霜村冷司を一生虜にした女性だったなんて、誰が想像できるだろうか?霜村冬夜は火葬場から霜村冷司の遺骨を受け取ると、霜村家の墓地に埋葬した。木や花に囲ま
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第1550話

和泉夕子は霜村冬夜の頭を撫でた。まるで全てを受け入れたかのように、表情は穏やかだった。「いつ結婚するつもりなの?」霜村冬夜は体をこわばらせ、涙でかすんだ目をゆっくりと上げて、和泉夕子からゆっくりと視線を外した。「お母さん......まだ、いいと思える女性に出会えていないんだ」彼の瞳に映る自分の姿を見た和泉夕子は、自分の顔に触れた。「見て。お母さんはね、生きているのが辛いの。だから、お父さんのところへ行かせてくれないかな?」子供の頃は両親に縛られていたが、大人になったら自分が両親を縛る番になっていた。縛ることによってのみ、自分は一人にならないですむ。だから......もう一度だけ、わがままを言わせてくれないだろうか?霜村冬夜は和泉夕子の腕をつかみ、懇願した。「お母さん、もう少し待ってて。すぐに、好きな女性を見つけて、結婚するから」結局、息子の心を傷つけるなんてできなかった和泉夕子は、いつものように頷いた。「じゃあ、明日、縁結び神社に行って、あなたにお祈りしてくるわ。素敵な女性に早く出会えるようにって......」霜村冬夜は「わかった」と答えたが、心の中では神に祈っていた。母の願いを叶えないでくれと。この一生、母の愛を得るためなら、結婚せずに生きていくつもりだった。結婚を引き延ばしつつ、霜村冷司が残したロボットを運び込み、和泉夕子に告げた。父の遺言は全てロボットのプログラムの中に入っていて、毎日決まった時間に聞かせてくれる。父が言いたかったことを全部聞きたいなら、生きていなければならない、と。和泉夕子は最初、霜村冷司にそっくりなロボットを見るのを嫌がっていたが、ロボットが口を開いた瞬間、足を止め、書斎に座り込み、来る日も来る日も、霜村冷司からの世界で一番ロマンチックな言葉を聞いている。まるで、かつて彼が彼女を見つけられず、「夜さん」の番号に毎日何十通ものメッセージを送り、彼女の死を悼んでいた時のように。今度は彼が先に逝ってしまったというのに、残された彼女が孤独に生きること、後を追うことを恐れて、ロボットを使って毎日愛を囁いているのだ。和泉夕子は話を聞きながら、もう乾いてしまった目から涙を流していた。しまいには視界がぼやけて、何もかもが二重に見え、次第に体が衰弱し、まるで燃え尽きそうな蝋燭のようだった......和泉夕子は、
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