All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 451 - Chapter 460

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第451話

学校から別荘へ時折電話が入ってきたが、明日香は安静を求めてすべての電話線を引き抜き、携帯電話もどこかの隅に放り出したままにし、完全に外界とのつながりを断っていた。彼女の日常は、食事と睡眠、そして絵を描くことだけで成り立っていた。気が向いたときに庭の花へ水をやる程度である。スカイブルー社。遼一は片手をポケットに入れたまま会議室を出た。傍らには中村が付き添っている。「南苑別荘の様子はどうなっている?」「明日香さんは病院から戻って以来、ずっと別荘に籠ったままで、長らく外へは出ていません」「ああ......」遼一の瞳は陰鬱な光を帯び、何を思っているのか掴めなかった。オフィスに戻った彼はデスクに腰を下ろし、無意識にマウスを動かした。モニターには、白地に花柄のパジャマ姿で胡坐をかき、筆を洗っている少女の姿が映し出される。画面を拡大すると、薄布越しに浮かび上がる胸元の曲線が、否応なく視線を引き寄せた。遼一は手元のコーヒーをひと口含み、下腹に灯る熱を冷まそうとした。実際のところ、明日香が何をしなくても構わない。彼には、彼女を生涯安らかに暮らさせる力がある。明日香の行動はすべて彼の監視下にあり、その一挙一動が筒抜けであった。やがて画面の中で少女が立ち上がろうとし、ふらついて倒れそうになる。その瞬間、遼一の胸が思わず締めつけられる。幸い、駆け寄った使用人が彼女を支えた。映像の隅に、飲みかけの牛乳パックが捨てられているのが見える。遼一は眉をひそめた。彼は知っている。明日香は十八年間、朝と寝る前に必ず牛乳を一杯飲むのが習慣だった。だが今は――もう、その習慣すら手放してしまったのだ。芳江が彼女を二階へ支えながら、小言を洩らした。「まあ、お嬢さん。一日中あんまり食べんさかい、低血糖になるのよ。ちょっと休みんさい。ご飯できたら持ってきまんね」ベッドに横たわった明日香は、淡々と告げる。「郵便受けを見てきて。何か届いてない?」「はい」そろそろ知らせがあってもいい頃だ。数分後、芳江が分厚い封筒を手に戻ってきた。「今届いたんじゃけど......お嬢さん、これ、なんじゃろか?」明日香が封を切ると、金色の文字が燦然と輝く招待状が現れた。そこには、三日後に授賞式に出席するよう記されていた。彼女の顔に久しぶりの笑みが
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第452話

芳江はそう言うとスマホを取り出し、画面を操作して明日香に差し出した。その番号に、見覚えがないはずはなかった。もし、彼の心の中ですでに答えが出ているのなら、もはや二人の間にこれ以上の連絡は必要ないのかもしれない。確かに彼は素敵な人だった。けれど、私たちは結ばれる運命ではなかったのだろう。どんな関係であれ、明日香は誠実に向き合ってきた。後ろめたいことなど、何ひとつない。三日後の午後六時。明日香は特に着飾ることもなく、黒いパーカーに淡い色のスウェットパンツという、ごく普段着の装いだった。まだ肌寒い時期であり、数枚を重ね着していたが、せめて顔色だけでも明るく見せようと、薄紅色の口紅をひと筆差した。退院して以来、これほど長く自ら南苑の別荘を出るのは初めてだった。外には眩い陽光が広がり、降り注ぐ日差しは心地よい温もりを与える。予約していた送迎車が玄関に横付けされ、シートベルトを締めながら、明日香はふと考えた。時間があれば運転免許を取ろう。自分で車を持てば、外出ももっと自由になるだろう。しかし、スノーマンガへ向かう道中、ちょうど帰宅ラッシュに巻き込まれてしまった。今回の授賞式には、スノーマンガの上層部だけでなく、提携先企業の幹部たちまでもが顔を揃えていた。五つ星ホテル・クリスタルスター。煌めく宴会場の主賓席に、樹は腰を下ろしていた。その隣には、赤く染めた長い巻き髪を垂らし、黒のベアトップドレスを纏った女が座っている。ダイヤのタッセルピアスが肩まで揺れ、派手で奔放な雰囲気とともに、強烈な攻撃性を放っていた。さらに、首筋から胸元にかけて刻まれた磁石のような模様のタトゥーが、周囲の視線を惹きつける。右隣に座っていた責任者が声をかけた。「藤崎社長、すでに一時間が経過しました。いつ始めますか」南緒は退屈そうに爪をいじりながら答える。「今回の受賞者は明日香さん一人だけと聞いたけど......まさか、彼女を待っているんじゃないでしょうね」樹は黙したまま、鋭い眼差しをステージ上に注ぎ続けた。その瞳は一瞬翳り、冷ややかに光を宿す。「......今すぐ始めろ」まさか、たかが小さな授賞式に藤崎グループの社長が直々に出席するとは、誰ひとり予想していなかっただろう。しかもスノーマンガは設立間もない新興企業にすぎない。不可解とし
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第453話

背後の大スクリーンに映し出されたのは、明日香が描いた一枚の絵だった。その色彩の鮮烈さ、線の確かさは、一目見ただけで誰もが息をのむ。少なくとも三十年の修練がなければ到達できないと評されるほどの完成度である。明日香は深く息を整えた。壇下の主賓席に座る二人の視線をやり過ごすのは容易ではない。初めて目にする南緒という女性――彼女には樹と通じる雰囲気があり、二人はまるで一対の存在のように見えた。だが、これまでの経験を経た明日香は、もはや自分を見失うことはなかった。樹を前にしても、心は驚くほど静かに澄んでいた。彼女は淡々と視線を逸らし、黒いフードを外す。「すみません、道が混んでいて遅れてしまいました」その姿を見た瞬間、会場の多くが「驚嘆」の表情を浮かべた。まずは若さに不釣り合いな画力に。帝都中央美術学院を受験する数百万の学生の中で、合格できるのはわずか数百人。その審査員が今ここにいる教授陣だという事実を思えば、なおさら驚愕すべきことだった。そして次に、人々を息を呑ませたのは彼女の容貌だった。シンプルな装いにもかかわらず、一度見れば決して忘れられぬ顔立ち。雑誌の表紙に横顔が載ったことはあったが、実物はそれを凌駕し、艶やかに輝いていた。壇下にいた白髪交じりの老教授が眼鏡を直し、マイクを取る。「授与の前に失礼します。この絵の着想は、どこから得られたのですか?」マイクを手にした明日香は、初めてのスピーチにやや緊張していた。だが会場が静まり返り、すべての視線が彼女に注がれると、不思議と心が落ち着いていった。「実は......この絵を描いたとき、私は試しにやってみようという気持ちでした。あの頃、私は人生で最も暗く、落ち込んでいた時期にいました。大切な試験を逃し、立ち直れないほど打ちのめされ、退学さえ考えました。どうにでもなれと。コンテストのテーマは『希望』でしたが、当時の私には、まったく希望が見えなかったのです。......けれど、かつて友人がこう言ってくれました。『たとえ暗闇にあっても、光を恐れてはいけない。望めば光は救いとなり、掴めば希望や奇跡をもたらす。絶対に無理だと思っても――』」脳裏に、淳也の声が蘇る。そして、彼が告げてくれたあの言葉も。「だからこそ、可能に変えるんだ。逆境の中にも希望はある。闇と光は共存でき
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第454話

食事の途中、明日香は「ちょっとお手洗いに」と言い訳をして席を立った。そのため、彼女からゴシップを聞き出そうと待ち構えていた人々は、あっけなくその機会を失ってしまった。五階のレストランの外には、夜景を一望できる展望バルコニーがあった。明日香は店員に白湯を一杯頼み、静かに腰を下ろした。湯気の立つグラスを手にしていると、やがて向かいの席に人影が現れる。「いつ学校に戻るつもりだ?学年二位の成績が危ういぞ」問題の解説以外で、成彦がこれほど言葉を費やすのは珍しい。明日香は答えず、逆に問い返した。「数学オリンピックの結果、もう出た?どうだったの?」「一位だ。ほとんどが推薦で合格した。珠子もだ」「やっぱりね」明日香は静かに頷いた。だが、なぜわざわざ珠子の名を口にしたのだろう。その意図を測りかねる。成彦の声が夜気に溶けた。「だとしても、一位の座は譲らない」その言葉を受けても、明日香の表情は柔らかく緩んでいた。彼の前でここまで気負いなく笑うのは、滅多にないことだった。「譲ってもらう必要はないわ。一位は私が取る。あなたにも二位がどんなものか、ちゃんと味わわせてあげる」「俺を越えれば、お前は全国大学統一入試の頂点に立つ。だが......お前には、その栄誉を受ける資格がある」成彦は、明日香が必ず学校に戻ってくることを、とうに見抜いていた。彼女は、凡百の人間とは決定的に違っていたからだ。夜風が髪を揺らす。遠くに散りばめられた街の光を眺めながら、明日香はふと問いかけた。「もちろん戻るわ。でも......そういえば、あなたはどうしてここに?」成彦は淡々と、しかし隠し立てなく告げた。「俺がスノーマンガの創業者だからだ。この会社は、俺が立ち上げた」明日香は思わず目を瞬かせた。彼のすっきりとした一重の目は、伏し目にした時、世を斜めに見るような冷ややかさを帯びる。「知っている者は少ない。普段は時間が足りなくて、経営は友人に任せている」「成彦くんは、相変わらず優秀なのね」「バイトしてみないか?歓迎するぞ、明日香」「考えておくわ」「じっくり考えろ。給料は、お前が決めていい」それだけ言い残し、成彦はポケットに両手を突っ込んで去っていった。明日香がグラスを持ち上げた時には、白湯はすっかり冷めていた。
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第455話

明日香は礼儀正しく口元に淡い微笑を浮かべながらも、その瞳には冷ややかな距離感が宿っていた。「結構です。エレベーターは満員ですので、次のに乗ります」大勢の前でそう断った彼女は、同時に、彼女と樹の間を行き交う人々の微妙な視線も受け止めていた。「忘れ物を個室に置いてきたみたい。取りに行ってくるわ」成彦は短く言った。「待ってる」「うん」明日香が背を向けた直後、エレベーターのドアはゆっくりと閉じていった。樹は知っていた。明日香が嘘をついていることを。実際には何も忘れていない。ただ、この場から逃げ出したいだけだ、と。数分を個室で無駄にした後、ウェイターが片付けに入るのを見計らって、明日香は再び外へ出た。二人はエレベーターに乗り、地下駐車場へ降りていく。明日香は助手席に滑り込み、シートベルトを締めた。「はい、行きましょう」「ちょっと待て」「何?」成彦が不意に身を寄せてきたため、明日香は思わず少し身を引いた。何かされるのかと身構えたが、彼は軽薄な人間ではなかった。伸ばされた手が彼女のシートベルトに絡んだ髪をやさしく解きほぐす。「髪が挟まってる」明日香の警戒心はわずかに和らいだ。「ありがとう」成彦は窓の外に視線を戻し、アクセルを踏んで駐車場を抜け出す。少し離れた場所には一台のメルセデス・マイバッハが停まっており、その前の地面にはいくつかの吸い殻が散らばっていた。南緒は樹の手から吸いかけのタバコを取り上げ、脚を組み替える。深いスリットの入ったスカートから長い脚が露わになり、赤い唇から煙を吐き出した。「そんなに彼女を見つめていたら、嫉妬しちゃうわよ」彼女は身を乗り出し、慣れた仕草で樹の顔に煙を吹きかける。「私が戻ってきたんだから、もう他の女のことは考えないで。私たちこそが一番お似合いのカップルでしょ?あなたがこの何年も私を忘れられなかったのはわかってる。だって、私たちにはたくさんの『初めて』があったもの」「いい加減にしろ」樹の声は低く沈み、感情を一切含んでいなかった。南緒の指先で揺れていたタバコが止まる。彼女はすぐに吸いかけを投げ捨て、スカートの裾を整え、姿勢を正した。「わかったわ。冗談はやめる。誕生日を祝うために、あなたがレストランを予約してくれたんでしょう?早く行きましょう」樹は横
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第456話

だから、どんなに努力し、どれほど優秀であろうとも、あの男の目には決して映らなかった。認められることも、褒められることも、一度としてなかった。彼の人生は、ほとんど不完全な家庭に縛られて育った。その後、樹は完全に反抗へと傾いた。酒を覚え、タバコを吸い、肌にタトゥーを刻み、夜も帰らなくなった。やがて誰もが恐れる不良少年となり、通り一帯で手を出せない存在にまでなっていった。やがて報復を受け、街頭で襲われ、血まみれになって死を覚悟したとき、彼は南緒と出会った。彼女は一年、また一年と、彼と共に歩んでくれた。当時、樹のそばには彼女しかいなかった。交際を申し込んだのも樹の方だった。若さゆえの過ちか、ほんの気の迷いだったのかもしれない。樹は「好き」という感情を知らなかった。ただ「失いたくない」という思いを、恋だと錯覚していた。南緒が去ろうとしたとき、彼は命をかけてでも引き留めようとした。それを「愛」だと信じ込んでいた。けれど今ならわかる。それはただの未練にすぎなかった、と。人が次々と自分の側から離れていく、その恐怖に耐えられなかっただけなのだ。命を投げ出しかけたそのとき、確かに死にたいと願った瞬間もあった。生きていても誰もつなぎ止められないのなら、いっそ一緒に死んでしまおうと。家庭は崩壊し、唯一気にかけていた人まで去ろうとした。その感覚は、世界そのものから見放されたようだった。何度も、こんな人生から解き放たれたいと願った。どうせ生きる場所は地獄なのだから、と。だが、あの交通事故は彼を地獄へ連れてはいってはくれなかった。そして、明日香が現れた。彼女は暗闇を裂く一筋の光のようで、樹が生きる唯一の救いとなった。彼女のために、彼は闇から這い出ることを選んだのだ。樹は決して忘れていない。自分がこれまで積み重ねてきたものが、何のためであったのかを。南緒は涼しい顔のまま彼を見据えた。「冗談はやめて、樹。あなたは私なしでは生きていけないわ。私のためなら命さえ惜しまなかったじゃない。そんなこと言って、誰が信じると思うの?」樹は彼女の言葉を無視し、静かに告げた。「お前が借りたサラ金はすべて返済した。父親の問題も片をつけた。これから彼がお前に手を出すことはない。南緒、誰も永遠に過去の中に生き続けることはできない。祖母と
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第457話

「千尋、彼女を江川へ送り届けろ」江川は帝都から二百キロ離れた小さな町であり、南緒の生まれ故郷でもあった。車で行けば二、三時間の距離だ。「ですが社長、あなたは......」「こっちは大丈夫だ」樹は車から降りた。その瞬間、南緒も慌てて降りようとしたが、千尋がドアをロックする。泣き腫らした顔は涙でぐしゃぐしゃになり、崩れたアイメイクが痛々しい。彼女は爪を立て、窓ガラスを必死に引っかいた。「樹、この人でなし!ずっと傍にいてほしいって言ったのはあなたじゃない!それなのに今になって私を捨てるなんて、嘘つき!」樹は何も答えなかった。「樹、ごめんなさい......あなたから離れるべきじゃなかったの。あの交通事故だって、ただの事故にすぎなかった。あなたをあんなふうに傷つけるなんて思ってもいなかったのよ。だからお願い......これからの一生をかけて償わせて。もう離れたくないの。置いていかないで。あなたがいないと、私......壊れてしまう!」南緒は窓を拳で叩き続けた。「東条さん!お願い、ドアを開けて!ここから降ろして!」千尋は前後を仕切るパーテーションを静かに開いたが、南緒の叫びに動じることなく無言を貫いた。本来なら、これらの言葉は今夜が過ぎてから告げるつもりだった。だが、心の奥底から声が響いた。もう十分だ、と。もし今この瞬間、明日香を取り戻さなければ。愛しい人は、永遠に自分の手からすり抜けてしまうだろう。今回ばかりは......一度、頭を下げるくらい、何だというのだ。結局、離れられないのは、自分の方なのだから。夜九時を少し回った頃。タトゥーショップ。ドレッドヘアの、十六、七歳ほどに見える少女がガムを噛みながら、目の前でシャツを脱いだ男を見上げた。全身に彫られた刺青が浮かび上がり、彼の鍛えられた体を彩っている。少女は感嘆と戸惑いを入り混ぜた表情で眉を上げた。「あのさ......本気で一度に全部消すつもり?冗談じゃないよ。普通は何回かに分けてやるものだよ。じゃないと傷口が化膿しやすいし、この範囲だと明日までかかっちゃうかも」小さく肩をすくめて、つぶやく。「正直言って、タトゥー入ってる方がカッコいいのにな......」樹は黙って分厚い札束を財布から取り出した。ざっと見積もっても数十万円。少
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第458話

芳江は明日香の背中を見送りながら、小さくつぶやいた。「まあまあ、こげな立派なお屋敷、ほかにあるもんかのう......」芳江は根っからの食いしん坊で、食べ物に目がなかった。ここに来て初めて口にしたフカヒレスープを、あまりの美味しさに夢中で食べ過ぎ、とうとう吐いてしまったことすらある。高級食材など、これまで一度も味わったことがなかった。持ち帰ったスープを夫が嬉しそうにすすっていたのを思い出す。もっとも、芳江はこっそり持ち出したのではなく、必ず許可を得ていた。泥棒まがいの真似をするような性分ではなかったのだ。その晩、芳江はリビングの明かりを落とし、階段を上がる前に、洗ったばかりの苺を一皿持っていった。自分の口にするのは半分傷んだものばかりで、きれいで甘そうな苺は、必ず明日香の部屋に届けていた。この子もかわいそうに......でけえ屋敷に一人きりで、冷たくて、活気の欠片もないなんて......住み心地は申し分ないはずなのに、ここには「家」という温もりがなかった。部屋に戻った芳江は、ふと何かを思い出し、慌ててウメに電話をかけた。三度目の呼び出し音でようやく繋がる。「もしもし、ウメさん?お嬢様が戻られよって、電話するように言われてん......心配せんといて。今は元気じゃよ!ねぇ、いつ戻ってくるん?あらまあ、あんたおらんと寂しゅうてたまらんのう」「げほ、げほ......」「まぁ!咳しよるじゃないか、風邪かえ?ほんまに大丈夫なん?」受話器の向こうからは、弱々しいウメの声が返ってきた。「持病なのよ。あの子が元気なら、それでいい。迷惑をかけて悪いけど、どうかこれからもあの子を頼むわ」「なんじゃ他人行儀なこと言うとる......あんたが紹介してくれたさかい、わしはこげなええ仕事にありつけたんじゃ。お礼を言うならこっちの方じゃよ。明日、病院に行ってきんさいねぇ......」夜は深く、しんと静まり返っていた。その頃、明日香はトイレから出て、自分が初めて受賞した時の賞状を飾っていた。ふと、かつて樹が彼女の練習帳に書き残した一句が脳裏をよぎる。「雲散じて月明らかなるを待つ」今の自分は、ようやくその境地にたどり着いたのだろうか。彼女は樹を責めなかった。彼の立場に立って考えれば、未練を断ち切れずにいたのは自分の方だったのかもし
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第459話

夜の雨は冷たく、針のように肌を刺した。明日香は肩にショールを掛け、足早に階下へと向かう。芳江が玄関の灯りを点けると、闇の中に、全身の力を失った樹が、身を引きずるようにしてこちらへ歩いてくるのが見えた。その姿を認めた瞬間、明日香の瞳が強く収縮した。考えるより早く、彼女は雨の中へ駆け出していた。芳江も慌てて玄関に掛けてあった傘を掴み、後を追う。雨粒が明日香の体を濡らし、白い肌を滑っていく。美しい眉が苦しげに寄せられた。「どうしたの?こんな時間に......傘もささずに。東条さんはどこ?」惨めなほどに弱り果てた樹の姿が胸を締めつけ、喉をも押し潰すように苦しかった。樹は薄い唇をわずかに動かし、最後の力を振り絞るように彼女へ縋りついた。黒髪から滴る冷たい雨水が、明日香の白い首筋を伝い落ちていく。彼女は思わずのけぞりながらも、そっと彼の背を叩いた。「樹?」芳江が駆け寄り、声を上げた。「あらまあ、気絶しちまったわい!」明日香は急いで彼を抱え、リビングのソファへと運んだ。「芳江さん、お湯を沸かして。それから遼一の部屋から着替えも持ってきて」「はい、すぐに!」自分の服もすでに雨に濡れていた。ショールを脱いだ瞬間、そこに赤黒い血痕が滲んでいるのを見て、胸が大きく脈打った。この血は......?樹のジャケットを脱がせると、首筋に刻まれていたはずのタトゥーは掻き消されたように痕跡だけを残し、その周囲には幾筋もの傷が走っていた。いくつかはまだ血が滲み出ている。考える暇もなく、彼のシャツのボタンを外した。次の瞬間、明日香は息を呑み、思わず口元を手で覆った。胸の奥が激しく震え、静かな湖面に突如として嵐が吹き荒れたかのようだった。上半身に、無傷の部分は一片たりともなかった。首から指先に至るまで、焼け焦げたような外傷が幾重にも刻まれていた。彼に、いったい何が......?そこへ芳江が着替えを抱えて駆け戻ってきた。ソファに横たわる樹を見て、顔色を変える。「な、なんちゅうこっ......!お嬢様、救急車呼んだ方がええんじゃ......?熱もあんねぇ、どーしょちゅうの!」明日香は呆然と彼を見つめ続け、やっと我に返ると震える声を発した。「私......今すぐ電話する」「お着替えはどないしゃぁります?」「あなた
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第460話

樹が南緒を諦めきれないのは、前世で珠子が亡くなったあと、遼一が決して手放そうとしなかったのと同じだった。明日香は、樹はいずれ南緒とよりを戻すのだろうと思っていた。それなのになぜ、こんな真夜中に自分を訪ねて戻ってきたのか。樹もまた遼一と同じく、その胸の内を掴ませない男だった。明日香は今や十八、九歳。しかし、その精神年齢はすでに一人の人間が二度の人生を生き抜いた深みを宿していた。午前四時二十六分。灯りの落ちた書斎にて、遼一の氷を宿したような眼差しが監視カメラの映像を射抜いていた。その様は、闇に潜み、獲物を狙う毒蛇そのもの。気配は空気を凍らせ、書斎全体を張りつめた氷室へと変えていく。彼は手近にあったカップを掴み、苛立ちのままにドアへ投げつけた。熱いコーヒーが灰色の壁紙を伝い、じわじわと流れ落ちる。床には鋭利な破片が散乱した。外の嵐が窓を叩く。稲妻が夜空を裂き、男の深い彫りを刻んだ顔半分を閃光で浮かび上がらせる。その表情は、氷よりも冷たく、恐ろしく、限界まで研ぎ澄まされていた。物音に気づいた珠子が、勢いよく書斎の扉を開いた。「遼一さん!」モニターの光に照らされた彼の顔を見た瞬間、珠子は息を呑む。そこにあったのは、人の温もりを欠いた氷の貌だった。「どうしたの......音が聞こえたから......」「出ていけ」低く押し殺した声が、地の底から響くように飛んだ。それでも珠子は一歩踏み込む。「ただ......あなたのことが心配で」「俺の言葉が聞こえなかったか。もう一度言う。俺の許可なく、この書斎に足を踏み入れるな」珠子は両の拳を固く握り、指先が白くなる。「......わ、わかったわ」悔しさと恐怖で涙が一気に溢れ出す。珠子は踵を返し、感情をぶつけるようにドアを強く閉めた。そのとき、机の上の携帯が震え出した。表示された番号を確認した遼一は、無言のまま立ち上がり、フランス窓際へ歩む。長身の身体は静かに闇に溶け、片手で電話を取り、もう一方の手をズボンのポケットへ差し入れる。その姿には微塵の動揺もなかった。しかし、耳に飛び込んできたのは狂気じみた女の絶叫だった。「樹が帰ったのよ!絶対にあの女に会いに行ったに決まってる!お願い、何とかして......早く!樹は私のものなの、彼は絶対に私のものなんだから!」
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