All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 441 - Chapter 450

450 Chapters

第441話

遼一は一言も発せず、ただ振り返って静かに階下へと降りていった。一階に着くと、芳江に短く指示を与えた。「鶏スープを作っておいてくれ。明日香が目を覚ましたら、飲ませてやってほしい」「かしこまりました」芳江は恭しくうなずいた。そこへ珠子が駆け寄り、遼一の腕をぎゅっとつかんだ。「遼一さん、まだ私の質問に答えてくれてないわ。明日香は一体どうしたの?あの数学オリンピックのこと、まだ引きずっているのかしら?本当は、まだチャンスがあるのよ」「もういい。明日香のことは俺に任せろ」心がざわついていたところへ、耳元でしつこく問いかけられ、遼一のこめかみを鈍い痛みが突いた。珠子は呆然と立ち尽くし、潤んだ瞳に今にもこぼれそうな涙をためている。遼一は幼い頃から、彼女を一度も叱ったことがなかった。たとえ彼女が間違っていても、責めるような言葉を投げたことはない。「遼一さん......私、何か間違ったこと言った?怒らないで。私はただ、明日香のことが心配なだけなの」遼一は静かなまなざしで珠子を見据えた。「食事が終わったら、予習に戻れ。ウメにはアパートへ行かせた。これからは、俺が連れてくる時以外、ここに来る必要はない」そう言い置くと、遼一は階段を上がり始めた。珠子は慌てて後を追った。「どうして?どうしてここに来ちゃいけないの?私たち、何年も一緒にここで暮らしてきたじゃない。遼一さんのいる場所が、私の家なのよ。もうとっくに、そう思っているの。あのとき私が明日香の数学オリンピックの枠を奪ったからなの?そう思うなら......今回の二次試験、私は出ないようにするから」遼一は足を止め、振り返った。その瞳には、抑えきれぬ嫌悪の色が差していたが、彼はぎりぎりまで言葉を選んでいた。「珠子......もう三歳児じゃない。何もかも俺が面倒を見てやるべきじゃない。いつまでも子供のままでいるな。ここは月島家だ。佐倉家でも、白川家でもない。自分の立場をわきまえろ。これ以上、この手の話は二度と聞きたくない」傍らで芳江が、震える手を握りしめながらちらりと珠子を見やった。よくもまあ、そんなことを言えるわね。ここを自分の家だなんて......ただの養子でありながら、本物のお嬢様気取り。まったく節度というものがない。「遼一さん、私を放っておかないで!ねえ
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第442話

明日香はブランコに腰かけたまま、ただ夜空を見上げていた。遼一も彼女の視線を追ったが、そこには何の星明かりもない、漆黒の空が広がっているだけだった。ここ数日は天候が冴えず、月も雲に隠れていた。胸の奥でわずかな異変を感じ、遼一はそっと歩み寄った。しかし、ブランコの少女はまるで気づかぬかのように微動だにしない。やがて明日香はゆっくりと立ち上がり、別荘の方へ歩き出した。遼一は一歩も離れず、その後を追った。室内に入ると、彼女はソファの前に座り込み、リモコンを手にテレビをつけた。映し出されたのは砂嵐ばかりの画面。その無意味な光景を、光を失った瞳でじっと見つめている。午前四時。明日香はようやくテレビを消し、靴を脱いでソファに身を横たえた。胸の上で両手を組み、そのまま静かに眠りへと落ちていく。ドアの外で煙草をくゆらせていた遼一は、吸いかけを足元で踏み消すと、眠る明日香をそっと抱き上げ、階段を上った。その瞬間、彼女の体が驚くほど軽いことに気づく。藤崎家でわずかにふっくらしたかと思えば、すでに元の痩せた輪郭に戻っていた。夜明けまで二時間以上。深い闇の中、遼一は明日香をベッドに寝かせた。彼女は無意識のうちにベッドの中央へ転がり込み、かすかな物音に一度まぶたを持ち上げたものの、すぐに再び夢の底へ沈んでいった。十五分ほど後、浴室から男が現れる。下半身には明日香が使っていたバスローブを無造作に巻き、濡れた体を拭きもせず歩み出てきた。小麦色の引き締まった体には余分な肉がなく、胸元には目を背けたくなるほど深い傷痕が刻まれている。明日香は睡眠薬のせいで深く眠り続けていた。ただ翌朝、目を覚ましたとき、ベッドの端にかけられたバスローブと、隣にまだ残る微かなぬくもりに気づく。昨夜、遼一が部屋に来たのだろうか?だが、ドアも窓も、バルコニーの扉までも、すべて鍵は掛けられていた。遼一に開けられるはずがない。壁をすり抜ける術でも持っていない限り。さらに奇妙なことに、散らかっていた部屋は隅々まで片付けられていた。ただし、自分が持ち込んだスナック菓子だけは跡形もなく消えている。昨日はほとんど何も口にしておらず、空腹は胃を締め付けるほどに強くなっていた。それでも階下には降りたくない。そう思うのは、自らを閉じ込めることがもう習慣になっていたか
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第443話

明日香は、ほとんど力ずくで椅子に座らされ、遼一が箸を取り上げてひと口、口に運んだ。「見ただろう。毒なんて入ってない」その行動の意味が、明日香には理解できなかった。遼一は、もしかして自分が早く死ぬことを望んでいるのではないか。そう思っていたはずなのに、なぜこうして自分の生死にこだわるのか。お菓子は取り上げられ、代わりに食事を運んでくるなど、かつては一度もなかったことだ。あまりにも空腹だったはずなのに、今は不思議と食欲が湧かず、むしろ胃がむかむかして吐き気すら覚える。服の裾を握りしめ、無表情のまま、彼が使った箸をじっと見つめた。毒はなくとも、彼が運んできたものなど口にしたくはなかった。遼一が、そんなに親切なはずがない。「私、全然お腹空いてない」立ち上がって逃げようとしたその瞬間、背後から肩を押さえつけられ、再び椅子に座らされた。「直接食べさせてやろうか?」「いらない」思わず、反射的に拒絶の言葉が口をついた。震える手で箸を取り、ゆっくりと拭う。遼一は、その仕草を見て不快げに眉をひそめた。明日香は、嫌々ながらも少しずつ食べ進める。遼一は浴室から櫛を持ち出し、彼女の背後に立つと、ゆっくりと髪を梳きはじめた。昨日洗ったばかりの髪からは、淡い苺の香りがふわりと立ちのぼる。明日香は身をこわばらせ、一言も発さず動かなかった。この部屋では、ただ息苦しさだけが募っていく。半分ほど口にしたところで、スープ以外にはほとんど箸が伸びなかった。「もういいわ。顔を洗ってくる」遼一の手は止まらない。夢中になったように、何度も何度も髪を梳いている。「全部食べろ」「本当に食べられないの」「食べられなくても食べろ」鏡の中、嫌悪を隠しきれない顔が映っていた。嫌でも我慢しろ、と言わんばかりに。髪を整え終えると、遼一は引き出しから紫色のリボンを取り出し、後ろで結んだ。それは、かつて彼が誕生日に贈ったもので、明日香が大切にしまっていたものだ。明日香は堪えきれず、勢いよく立ち上がった。「結局......何がしたいの?」言ってしまった瞬間、後悔が胸を刺した。今、この家には康生はいない。遼一を怒らせれば、面倒なことになるだけだ。気持ちを押し殺し、冷静を装って言った。「今日の食事、ありがとう。もうお腹い
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第444話

明日香は、まるで永遠に遼一の影の中で生きることを宿命づけられているかのようだった。ドアノブが回る音がして、反射的に顔を上げた瞬間、男の強引で侵略的な視線とぶつかった。まだ、帰っていなかったのか。遼一は洗面台に投げ出されたヘアバンドに目を留め、その瞳に嵐のような感情が渦を巻いた。しかし、最終的には何も言わなかった。「自分で出てくるか......それとも迎えに行こうか?」無言のまま、明日香はトイレから出てきた。「薬を飲め」テーブルの上には、ティッシュの上に二錠の薬が並び、その横にぬるま湯が置かれている。普段なら体調が悪い時には、もう一錠余分に飲むのだが、今はちょうど薬を飲む時間だった。「ありがとう」薬を手に取り、ちょうど良い温度の水で喉の奥に流し込んだ。「帰って。一人にさせて」「いつまで続ける気だ?学校にも行かず、このままか?逃げるつもりなら......部屋に閉じこもってばかりで、何になる」言うが早いか、遼一は彼女の手を掴み、力任せに部屋から引きずり出した。「何するの!離して!遼一......離せって!」階段を降ろされる途中、明日香は何度も踏み外しそうになり、一階に着くころには足首をひねってしまっていた。しかし遼一は気づかず、鋭い痛みに耐えながら、彼女は足を引きずってリビングまでたどり着いた。使用人たちはすでに昼食の支度をしていた。遼一の手が離れた瞬間、明日香は床に崩れ落ちた。その光景を見た使用人たちは、無言で視線を逸らし、静かに立ち去っていく。立ち上がろうともがくが、足首の激痛がそれを許さない。遼一は、その腫れ上がった足首に気づき、細めた視線で見つめた。彼が手を伸ばしてくるのを見て、明日香は反射的に逃げるように立ち上がり、痛みを無視して遼一を押しのけ、階段の手すりを頼りに足を引きずりながら二階へ駆け上がった。遼一は芳江に命じて、サロメチールを持って二階へ行かせた。片手を腰に当て、もう一方の手で目を覆いながら、遼一は思った。自分は追い詰めすぎたのだろうか。これほどまでに心身ともに疲弊し、同時にどうしようもない無力感を覚えたことはなかった。藤崎家グループ。企画一部の責任者は、何度目になるかわからないほど、またも社長室から叩き出されていた。開け放たれた扉の前には、無惨に却下された企画書が
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第445話

絵が机の上に広げられ、その中に記された番号は明日香の名前だった。樹の指先がそっと絵の上をなぞる。「彼女が今回のコンテストの受賞者か?」明日香にまつわるものを見るたび、樹の感情は自然と落ち着きを取り戻した。「主催者側から送られてきたものです。社長のご意見を伺いたいと」しかし実情は異なった。千尋は以前から、明日香がこのコンテストに必ず参加することを知っていた。彼女は絵を描くことを愛し、その腕前はプロの画家にも劣らなかった。「彼女は、このコンテストが藤崎グループの共催であることを知っているのか?」と樹が尋ねた。「さあ......おそらくご存じないでしょう」「まず出てくれ」「はい」千尋が立ち去り、オフィスのドアが閉じられると、樹は絵の細部をじっくりと見つめた。ここ数日、明日香から連絡がなかったのは、この絵を描くためだったのかもしれない。明日香は冷静で、自分が何を望んでいるのかをしっかりと理解していた。どんな状況にあっても、常に理性を失わなかった。時には、樹は彼女が少しくらいわがままを言ってくれればいいのにと思うことがあった。何もしないより、少しでも気にかけられている実感が欲しかったのだ。彼が怒りを覚えるのは、明日香があまりにもあっさりと自分を他人に押し付けてしまったことだった。間もなく樹は主催者側に電話をかけた。五日後の午後。「何か食べるものはあるか?芳江さん、お腹が空いた」明日香の服は何日も替えていないようで、髪は固まり脂ぎっていた。体からは不快な匂いが漂う。芳江は野菜の選別をしていたが、明日香のぼさぼさの姿に目を丸くしたものの、特に言葉にはしなかった。「明日香さん、まだご飯の時間じゃないんじゃけど、卵チャーハン作ってあげましょうかのう?」「作るな。これからは食事の時間まで待て。甘やかす必要はない」遼一はそう告げた。部屋に持ち込んだお菓子はすでに食べ尽くし、髪をかきむしりながら眠そうな目をこすり、明日香は階段を降りてきた。ソファにだらりと座った遼一の膝の上にはノートパソコンが置かれ、会社の仕事に没頭している様子だった。明日香の姿を見た遼一は作業を中断した。だが明日香は彼を無視し、通り過ぎてテレビ台の下を開けた。普段ならお菓子が入っているはずだが、そこには空のビニール袋しかなかった。
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第446話

どうせこの家は、最初から最後まで自分一人きりだったのだから、誰がいてもいなくても、何の問題もない、そう思っていた。明日香が遼一を避けて階段を上ろうとしたその瞬間、遼一は彼女の手を強く掴んだ。「ウメが交通事故で手術を受けて入院した」明日香の瞳には、依然として何の感情の揺らぎもなかった。「そう、じゃあ早く退院すればいいわ。私は見舞いには行かないけど」どれほど深い感情があったとしても、明日香には十数年も薬を盛り続けてきた相手と真正面から向き合うことなど到底できなかった。滑稽なことに、遼一は彼女を唯一の身内だと思っていたのだ。実際のところ、これらのことは明日香にとってずっと前からわかっていた。ただ、その事実と向き合う勇気がなかっただけだった。崩壊は遅かれ早かれ訪れるものだ。この一件だけが最後の一押しになったわけではなかった。明日香も自分を騙そうとしたが、どうしてもできなかった。抜け出したい、何もかも忘れたい。でも、いつ抜け出せるのか、まったく見当がつかなかった。おそらく、明日香の人生はこのまま日々をやり過ごすだけで、何の目的も持たずに生きていくのだろう。明日香は遼一の手からすっと手を引き抜き、一歩一歩階段を上がり、再び自分を閉じ込めた。かつてに比べれば、明日香はずいぶん良くなっていた。少なくとも、以前のようにずっと部屋に閉じこもることはなくなっていた。今の明日香は、ただ魂の抜けた空っぽの抜け殻のような存在だった。真っ暗な部屋に入ると、また部屋の片隅に座る女性の姿が見えたような気がした。彼女の顔は依然として闇に隠れていたが、振り返っても顔は見えず、ただ優しい声だけが耳に届いた。「明日香ちゃん、母さんに話したいことがある?」「父さんがいなくなった。もう二度と戻ってこない。私一人を置いていった」「明日香ちゃんには、まだ母さんがいるよ」「うん」朦朧とした意識の中、明日香はノックの音で目を覚ました。「お嬢様、ご飯を作りました。少しでも食べてください」ドアの前で声がしたが、明日香は睡眠薬を飲んだばかりで頭がぼんやりしており、中の人の言葉は聞き取れず、またうつらうつらと眠りに落ちていった。ドアの鍵が回り、次の瞬間、ドアが開いた。これは以前に新調した鍵だった。部屋の空気は淀み、嫌な匂いが漂っている。相変
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第447話

何かあると、明日香はただ逃げることしか考えられず、そんな自分が嫌で、何もできない自分自身をも憎んでいた。しかし、誰もどうすればいいのか教えてはくれなかった。明日香はまるで臆病で弱々しい、縮こまった亀のようだった。だから葵だけでなく、遼一の側近たちもみな、明日香を見下していた。彼女が育った環境は、まさにそういうものだった。明日香は変えられない自分を、深く憎んでいた。枕を抱え、うつむいたまま熱い視線を避けようとし、立ち去ろうとしたその時――見えない男の険しい表情の中で、数歩進んだ遼一が彼女の細い腕を掴み、その手から注射針を奪い取り地面に投げ捨て、無理やり浴室まで引きずり込んだ。明日香は虐待された子猫のように必死で彼の触れようとする手を拒み、服はあちこち破れ、胸の大部分が露わになっていた。「触らないで!」彼の顔を引っ掻き、櫛を叩きつけた。浴室のドアはロックされ、明日香は隅に縮こまって震えた。遼一は怒りに任せて手を出すかと思いきや、意外にも冷静だった。彼は彼女の前にかがみ込み、顔を覆う髪をそっと払いのけた。「お前を傷つけたくない。お風呂に入れてやろうか?」初めて、尋ねるような口調で声をかけた。10分後、遼一は湯を張り、適温に調整した浴槽に明日香を入れた。無理やり服を脱がせられ、浴槽に座る彼女はまるで、自由に弄ばれる人形のようだった。遼一は上着を脱ぎ、壁に掛け、黒いシャツの袖をまくり上げ、タオルで彼女の体を優しく拭った。「学校から電話があった。いつ戻るつもりだ?」しかし明日香の目には、何も映っていなかった。「この家から出て行って。もうあなたには会いたくない。あなたがここにいる限り、あなたにされたことを忘れられない。もし今の私にまだ価値があるのなら、死なせたくなければ、二度と私の前に現れないで」遼一を見るたび、明日香は苦しみから抜け出せなかった。「こんな姿になった私を見て、満足なの?あなたの復讐は成功したわ。私を壊したんだから。このまま自生自滅させて、廃人にしてみれば?そうすれば、あなたは手を汚さずに済むでしょう。そうでしょ?」遼一はボディソープを泡立てて彼女の体に塗りつけると、ふと背中にできていた知らぬ間の傷跡を見つけ、手を止めてその傷を避けた。確かに、目的は達成した。だが、明日香の今の姿を目
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第448話

なぜか、遼一の口からその答えを聞いてみたくなった。遼一は彼女の髪を乾かしながら、部屋には異様な沈黙が漂っていた。ウェーブのかかった腰まで届く長い髪は量も多く、乾かすのに手間がかかり、手入れも大変だった。毎回ドライヤーをかけるのに一時間以上かかり、たいていの場合、明日香は髪を半乾きのままタオルを敷いて寝てしまっていた。髪を乾かし終えた頃には、ちょうど時計の針は十二時を過ぎていた。残された長い夜を、どう過ごせばいいのか、遼一には分からなかった。散らかり放題の部屋を一瞥し、遼一は明日香をそっと横抱きにして部屋を出た。彼が何をしようと、明日香には抗う力もなく、無駄な抵抗は意味がない。階段を下りていると、ちょうど上がってきた芳江と出くわした。「あらまあ、この二人は何をしていたの!」その光景は見るに堪えなかった。「遼一様、ちょうど上がってきたとこじゃけど、このスープはまだ取っときましょか?明日を過ぎたら味が落ちるさかい」遼一は冷たい目で芳江を見つめた。「食べ物を多めに俺の部屋に持ってこい」「は、はい......かしこまりました」芳江は階段を下りていく二人の背中をぼんやりと見送った。ああ、神様。この二人の仲はただごとじゃおまへんのう!慌てて大量の食べ物を運んで二階に戻り、ドアをノックして中に入ると、遼一がベッドの上で明日香の着替えを手伝っていた。片方の袖を通したばかりで、服をゆっくりと下ろしているところだった。芳江はその光景に持っていたものを落としそうになった。お嬢様の体、丸見えじゃないか?「食べ物を置いて、ついでに上の部屋を片付けておけ」遼一が芳江に命じると、明日香は淡々と口を開いた。「いいの。明日自分で片付けるから。もう遅いし、芳江さんは先に休んでいいよ」「は、はい。お嬢様、ご飯はちゃんと食べてくださいねぇ。体を壊したらあきまへんで」「うん」遼一の部屋はシンプルでモノトーンな内装。机の上には何も置かれておらず、数枚の書類があるだけだった。知らなければ、誰かが住んでいるとは思えない部屋だった。遼一は傍らのスープを手に取り、明日香の口元へ運んだ。「食べて、少し休め。明日、連れ出してやる」「言ったでしょう、私に構わないで。珠子のところに行ってあげて。あなたは珠子の彼氏でしょう?ずっと
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第449話

そのスープの一匙を、遼一は無理やり明日香に飲ませた。次の瞬間、明日香は胃がひっくり返るような激しい吐き気に襲われ、ベッドの縁にもたれかかりながらすべてを吐き出した。何も食べていなかった胃は空っぽで、最後には胃酸まで吐き出し、口の中には苦々しい味が広がった。その嫌な味はなかなか消えず、明日香は布団を蹴って起き上がろうとした。遼一は彼女の意図を察し、腰を抱えてトイレへ運んだ。便器にしがみつく明日香は、まるで胃ごと吐き出してしまいそうな感覚に襲われていた。胃酸が食道を焼くように痛む中、遼一はそっと彼女の背中を優しく叩いた。どれほどの時間が経ったのだろう。明日香は荒い息を繰り返し、体はぐったりとして立ち上がれず、目は涙で真っ赤に染まっていた。遼一は肩をつかみ支えようとしたが、彼女がしっかりと立つ間もなく、突然意識を失ってしまった。「明日香!」返事はなかった。遼一は考える間もなく、明日香を抱き上げて階下へ駆け下りた。静水病院。遼一が救急を呼び、明日香は点滴を受けながら、青白い顔で横たわっていた。「ご家族の方ですか?」看護師が尋ねた。「ああ」「患者さんは栄養失調気味です。食べたいものがあれば、少しずつ与えてください。一度にたくさん食べると胃に負担がかかります。数日入院して経過を見ましょう。何かあればすぐに対処できます」「うん」看護師が去ると、哲朗が入ってきて口元を緩めた。「珍しいね、お前がこんな姿を見せるなんて。妹に惚れた気分はどうだい?」特に康生と血縁関係があると知ってからのことだった。タブーと知りつつも、抑えきれない感情。哲朗は本当に楽しみにしていた。明日香がこの真実を知ったら、どんな反応をするのか。今よりさらに狂うのか?「何か用か?」冷たい視線を浴びて、哲朗は平然と近づいた。意識のない明日香を見て、ここしばらく辛い日々を送っていたことがわかった。「ふん、ずいぶん痛めつけられたようだな!一度も血縁検査をしてみなかったのか?もしかしたら違うかもしれないだろ?一方的に決めつけるなよ」その時、ベッドの上で苦しげな声が漏れた。「水......」「俺のことに口出しするな。出て行け!」哲朗は両手を挙げて降参のポーズをとり、相変わらず笑っていた。「長年の友達として忠告したまでさ。ま
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第450話

「これからは毎月、給料は私が払うわ」芳江は太ももを軽く叩きながら言った。「そやったら、すぐ鍵屋さんに連絡しまんね。遼一様に怒られたら、お嬢様......私のこと、なんとか助言してくれんさいねぇ。私には養わにゃあならん家族がおるんじゃけぇ!」「うん」数時間後、汗だくになって病院へ戻った芳江は、「玄関の鍵は交換しときましたわ。パスコードも指定どおりに設定しといたんじゃ」と報告した。「ご苦労さま」「いえいえ、お金いただいて仕事しとるんじゃけぇ、そりゃあ当然のこっちゃわ」明日香は病院のガウンを脱ぎ捨て、すぐに退院手続きを済ませた。医療費は康生からもらったカードで支払った。康生は毎月決まった額を振り込んでくれていて、普段あまり使わないため、かなり貯まっていた。病室を出たばかりの病院の廊下で、珠子に支えられながらエレベーターからゆっくりと歩いてきたウメとばったり出くわした。ウメは随分と老け込み、白髪も増えていた。彼女は明日香の目を見ると興奮し、明日香に近づいた。「明日香さん!病院に来たのは、私を見舞いに来てくれたの?最近ずっとあなたのことが気になってたのよ?」明日香は冷たくウメを見つめ、「お大事に」とだけ言い、足早に去っていった。かつては完全に信頼していたのに、結局、自分を最も傷つけた人物と一緒にはいられなかった。それに、自分はウメのしたことをまるでなかったかのように許すほど器の大きな人間でもない。「ウメさん!」そのとき、背後から珠子の叫び声が響いた。「明日香、ウメさんが気を失ったわ!お医者さん、早く来て!」明日香はエレベーターに乗り、ドアが閉まる寸前、白衣を纏った男が手でドアを押さえた。「明日香、こんなところで会うなんて偶然だね?どこに行くんだ?」明日香は何も答えず、その男を一瞥もしなかった。こんな男は医者の名を汚すだけで、ドクターコートを着る資格すらない。エレベーターが一階に着く頃には、明日香はすでに病院の玄関を出ていた。南苑の別荘に戻ると、今度は別荘のドアだけでなく、門にも電子ロックが設置されていた。リモコンがなければ外の車は入れない。パスコードを入力すると、「ピッ」という音とともに門が開いた。慣れ親しんだはずの別荘は、動揺と孤独に満ちていた。ここは彼女が長年暮らした家であると
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