All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 431 - Chapter 440

450 Chapters

第431話

「あの時、たとえ僕が死んだとしても、彼らを取り戻すことはできなかった。なのに、あいつは何もしなくても、父さんの愛を一身に受けられたんだ」明日香には、何と返せばいいのか分からなかった。樹は帝都のピラミッドの頂点。誰もが手の届かない場所に立つ存在だ。それなのに、周囲の人々は、彼が自分と同じように崩壊した家庭の出身であることを知らない。その意味では、二人はまるで同病相憐れむ仲のようだった。人は不幸であればあるほど、完璧な家庭を渇望するものだ。「神様って、そういうものなのかもしれない。金や地位を与える代わりに、他の何かを奪っていく。多くの人と比べれば、私たちはずっと幸運な方よ」明日香は決して欲張りではなかった。彼女が望むのは、ただ自由と、自分の意思で選び取る権利だけだ。樹の大きな手が、彼女のウェーブのかかった長い髪をそっと撫でる。「これから......僕には君しかいない。ずっと、そばにいてくれるんだろう?」その言葉は、あまりに重く、明日香の胸を少し息苦しくさせた。本当は、樹の周りにはたくさんの人がいて、自分ひとりだけではない。明日香も分かっている。かつて樹が最も深い闇の中にいたとき、彼は一筋の光と出会い、その光が彼を奈落の底から救い出したことを。たとえ南緒が過去に彼を裏切るようなことをしたとしても、それらは簡単に消えるものではない。だからこそ、明日香は樹の気持ちを理解していた。南緒は、彼にとってただの「過去」ではない。二人を結ぶ絆は、おそらく誰も代わることのできないものだろう。南緒が去り、樹が再び暗い日々に逆戻りしたとき、明日香は、偶然にも、彼が命を絶とうとするその瞬間に現れただけの存在。だから、樹と南緒の関係に、自分が入り込む余地などないことも、明日香は薄々気付いていた。そして今、南緒が戻ってきた。明日香は、まるで意図せず彼らの世界に迷い込んだ第三者......いや、部外者のような気持ちだった。彼女はかすかに口元を上げたが、何も言わなかった。樹は、自分を想ってくれていると信じている。けれど、彼の心の奥底では、いまだ南緒を忘れられずにいるのだと......しかし、この世界では、二人の関係に第三者が割り込むことは許されない。明日香は、その情熱的な瞳を見つめた。吸い込まれそうな深淵に立ちながら、
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第432話

康生は目を見開いた。「どうして、あの人が......」「明日香が話したんです。それでも、樹はほとんど動揺を見せませんでした」まさか、この女が子を産めぬ身体だったとは。彼にとっては、もはや価値のない道具に等しいはずだ。それでも樹は、すべてを知った上でなお明日香を気に入り、藤崎家に留め置いている。少なくとも、今のところ明日香は使えぬ女ではないらしい。「では、南緒は?今どこにいる」「病院です。樹の手の者に保護されています」康生の瞳が陰を帯びた。「南緒の件は、痕跡を残さず片付けろ。誰にも気取られるな。明日香が藤崎家に嫁げば、お前にとっても俺にとっても利益だ。行け」「承知しました」遼一は書斎を後にした。その扉の外では、江口が湯気立つスープ椀を手に、白い粉の小袋を器用に破り、音もなく中へ溶かし込んでいた。「ねえ、話は終わった?」遼一は片手をポケットに突っ込み、江口の脇を冷ややかに通り過ぎた。江口は艶然と微笑み、赤い着物の裾を揺らして腰をくねらせながら、静かに部屋へ入っていった。明日香は、静水病院で一週間以上も療養を続けていた。日和以外の面会は樹が制限していたが、それは実のところ彼女自身の希望でもあった。人の出入りの多さは、昔から性に合わないのだ。この数日、樹は病室をほとんど書斎代わりにし、長い時間を彼女と共に過ごした。視界から消えることはほぼなく、トイレに行くにも一言報告するほどだった。そんなことまで、する必要はないのに。明日香はもう、支えがなくてもベッドから起き上がれるほど回復していた。実際、医師からは退院許可も下りていたが、樹は首を縦に振らなかった。「無理しなくていい。フルーツでも食べな」「うん」樹は書類を閉じ、明日香の腰をそっと抱き寄せ、ソファへ座らせた。「退屈してない?」「こんなに長くここにいるんだもの。南緒に会いに行ったら?どうせ長い付き合いなんでしょう」その瞬間、樹の手が彼女の腰からすっと離れた。「まずはテレビでも見ててくれ。まだ片付いてない仕事がある」態度の急変に、なぜ怒ったのか明日香にはわからなかった。彼女は立ち上がり、窓際の椅子に腰を下ろして本を開いた。ちょうどその時、千尋が入ってきた。「社長、報告があります」千尋は一瞬、明日香に視線
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第433話

病院の外、ケヤキの木は枝葉を豊かに茂らせて高くそびえ、その枝には数羽のスズメが並んで止まっていた。寒さのせいか、スズメたちは頭を羽の中に埋めて丸く縮こまっている。外の空気は、まるで樹から放たれる冷たいオーラと同じように、凍りつくように冷たかった。「別れるなんて、認めない」その声は冷たく、強引だった。明日香は腕を組み、視線をそらしてから振り返った。「そういう意味じゃないの。距離を置いて、お互いに少し時間がほしいってだけ。はっきりさせなきゃいけないことがあるでしょ。このまま本当に一緒にいていいのか、ちゃんと考えたいの。恋愛に三人目は許されないわ。南緒さんが危険にさらされてると知ったとき、あなたは彼女を助けに行った。理解できる......あの時のことも、彼女のことも、きっと忘れられてないんだろうって。でも、私だって感情がないわけじゃないわ。あなたも私も、相手の目に自分だけが映っていてほしいと思ってる」明日香の唇が、かすかに微笑んだ。「南緒に会って、ちゃんと話してみて。誤解があるかもしれないし、もしかしたらあなたの心のわだかまりも解けるかもしれない。どうなったとしても、私たちは最初の頃のようにいられるわ」樹の視線は明日香から離れなかった。明日香もまた彼をじっと見つめていた。二人の間に不気味な沈黙が続く。実は明日香がこう言ったのも、二人のためを思ってのことだった。お互いがまだ深く溺れ込んでしまう前に、過去の問題をすべて片づけてしまいたかったのだ。そうしなければ、南緒が二人の間に割って入り、この関係は穏やかではなくなる。それに、自分があまりにも惨めに見えるのも嫌だった。樹が自分を好きだと言いながら、南緒を忘れられないのなら、それは心の裏切りと何が違うのか。重苦しい沈黙を破ったのは千尋だった。「明日香さん、実は事態はあなたが思っているようなものではありません。過去のことはもう終わったことで、社長は絶対に振り返ったりしません。どうか社長を信じてください」「本当にそうなの?」明日香の短い言葉と、すべてを見透かすような澄んだ瞳に、樹は胸を締めつけられた。「実は私、全部知ってるの。お正月に海外に行ったことも、真夜中に彼女を探しに行ったことも。もしそれでも心に未練がないって証明できないなら......私、何て言えば
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第434話

明日香は実家に戻らず、アパートへ向かった。鍵を取り出してドアを開けると、草と土の香りが鼻をくすぐった。どうやらベランダのドアは閉め忘れていたらしく、中に入ると、ベランダの植物が花を咲かせていた。部屋は埃ひとつなくきれいに掃除されており、青いソファの上には明らかに彼女のものではない制服が掛けられていた。明日香はふと淳也のことを思い出し、その制服を手に取った。淳也......今、君はどうしているのだろう。過去を振り返ると、この部屋には淳也との思い出が溢れていた。キッチンで料理を作り、食卓で勉強し、疲れればまるでおじいちゃんのようにソファで昼寝をし、午後の授業が始まるまで眠っていた。気づけば一週間以上が過ぎていた。その間、携帯の電源を切り、部屋から一歩も出ず、外で起きている出来事は何も知らなかった。この狭い部屋に閉じこもり、ソファの前の床に座って絵を描くことで、神経を麻痺させていた。時には一日中筆を走らせ続けることもあった。眠くなれば眠り、お腹が空けば適当に何かを口にした。勉強に関するものには、一切手をつけなかった。グラスに手を伸ばすと、中の水はすでに空だった。明日香はソファに手をつき、立ち上がると、何日も洗っていない髪をかきむしった。だらしない姿だったが、こんな状態になるのは初めてだった。沸かしたてのお湯を注ぎ、薬を飲むことを思い出す。机の上には抗うつ剤が半分ほど残っていた。いつ治るのか、見当もつかなかった。こんな自分は、自暴自棄なのだろうか、明日香自身にもわからなかった。コンコンコン......ノックの音がして、明日香は薬を一粒ちぎり取ったが、口に入れる前にドアの方へ向かった。訪ねてきた人物を見た瞬間、白い錠剤が床に落ちた。自分の失態に気づくとすぐに我に返り、床に落ちた薬を拾い上げ、絵の具のついた服で軽く拭いてから水で飲み込んだ。遼一が部屋に入り、ドアを閉めた。少し明るかった部屋は暗くなり、カーテンは閉め切られ、電気もついていない。部屋は散らかり、シンクやテーブルには洗っていない食器が置かれたままだった。いつもきれい好きな明日香が、こんなにもだらしなくなる日が来るとは思わなかった。遼一は、こんな彼女の姿を見たことがなかった。明日香は一言も発さず、再び座り込み、絵筆を手にキャンバスに向かった。「
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第435話

「私のことはもう放っておいて。白々しい顔で来ないで」遼一の視線は、絵筆を洗うための水が入ったバケツへ向けられていた。中には携帯が浸かり、バッテリーも外されてすでに水を含んで膨張している。遼一は立ち上がるとカーテンの前まで歩み寄り、勢いよくそれを引き開けて光を部屋に招き入れた。何日も太陽の光を浴びていなかった明日香は、眩しい光を手で遮り目を細めた。「何するの!カーテン閉めて!」突然、明日香は癇癪を起こした。「一時間だけだ。きれいに片付けて俺と帰るぞ」「遼一、あなた......どこかおかしいんじゃないの?帰ってどうするの?あそこがまだ私の家だとでも思ってるの?あそこはあなたと珠子の家でしょ。私が飲んでた牛乳に、何年もかけてこっそり薬を盛られたのも、ウメさんでしょう!?彼女もあなたの差し金だったんでしょうね!」遼一の顔を見ると、それらの事実が鮮明に蘇る。明日香には耐えがたい、いくつもの現実が。明日香は手にしていた絵筆を投げ捨て、裂けるような頭痛に髪をかきむしった。机へ歩み寄り、感情を抑えるための薬を数錠多めに飲み込み、赤く充血した目で彼を見据えた。「お願いだから、もう来ないで。私はあなたを恨んでる。遼一、あなたを憎んでるのよ!」私のすべてを破壊したあなたを憎む。なぜここまで私を苦しめるのか。靴も履かずに部屋へ戻ると、勢いよく「バンッ」とドアを閉めた。遼一は暗い光を宿した瞳で、固く閉ざされたドアを見つめていた。いま自分が何を考えているのか、彼自身にもわからなかった。心はまるで無数の糸が絡み合い、ぐちゃぐちゃに絡まっているかのようだった。明日香は部屋に戻ると、布団の中に体を丸めた。まるで深い淵に閉じ込められたようで、どうあがいても抜け出せない。やがて泣き疲れて眠りに落ちたくなった。眠ってしまえばきっと大丈夫。夢のなかなら、母に会えるかもしれない。だが、財布を失くし、中に入れていた写真がなくなって以来、明日香は長いこと母の夢を見ていなかった。明日香はベッドサイドに置かれた薬を五錠飲み込んだ。いまや、こうすることしか、自分の心を少しでも楽にする方法はなかった。今回の夢では、母の姿が見えたように思えた。ぼんやりとした意識のなか、母の声も聞こえた。母はアイボリーのニットワンピースを纏い、髪を綺麗に結い
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第436話

「生意気になってきたな......ん?」男がゆっくりと立ち上がる。明日香は慌てて視線を逸らし、中途半端に垂れ下がった醜悪なものから目を背けた。「服を着て......出て行って」遼一は床に無造作に落ちていたシーツを拾い上げ、無言で腰に巻きつけた。上半身は鍛え抜かれた肉体で、腹筋は彫刻のように浮かび上がっていた。彼は一瞥もくれず、静かに部屋を出てリビングへと向かう。今日はやけに素直に言うことを聞く。そんな彼が少し意外だった。明日香はすぐにベッドを降り、ドアを閉めてクローゼットを開け、自分の服に着替える。睡眠薬を飲んでいたせいか、薬が効き始めたあの瞬間、遼一がどうやって自分のベッドに上がり込んできたのか、ほとんど覚えていなかった。部屋の防音は良くなく、外の気配がすぐ耳に届く。何かを思い出したように、着替えを終えた彼女はリビングに出て、未完成の絵の仕上げに取りかかった。数日前、偶然見つけた絵画コンテストの募集要項に応募を決めていた。今日がその提出締め切りの最終日。夜七時には主催者が作品を受け取りに来ることになっている。残された時間は、あと一時間半。バルコニーでは遼一が電話に出ていた。彼に構っている暇はない。朝から何も口にしていなかった明日香は、傍らのトーストをかじりながら筆を走らせた。幸い、残り三十分で絵は完成した。バルコニーからは煙草の煙が漂ってくる。ふと気づくと、遼一の視線が彼女の絵に注がれていた。絵の技法など彼にはわからないはずだが、それが陽光と希望に満ちた一枚であることだけは理解できたようだった。コンコン。ドアを叩く音が響く。主催者だろうか。明日香は絵を丁寧に乾かし、筒状に巻いた。だが、ドアを開けるとそこに立っていたのは中村だった。紙袋を手に提げている。中村は特に驚いた様子もなく口を開いた。「明日香さん」「何の用?」「社長の服をお届けにあがりました」「彼は今忙しいから、私が預かるわ」明日香は手を差し出した。遼一はその背後でわずかに眉を上げた。中村の胸に、二人の関係が再び......という疑念が一瞬よぎったが、その考えはすぐに打ち砕かれた。明日香は紙袋を受け取るや否や、三階の窓から外へと放り投げたのだ。中村は目を見開いた。「あなた......」何も答えず、明
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第437話

アパートは学校からほど近い場所にあり、ここ数日、彼女は一歩も外に出ていなかった。久方ぶりに活気あふれる街並みを目にすると、明日香の胸にほんの少しだけ明るさが差し込む。だが、携帯電話を失くしたことで、彼女は改めて気づいた。自分のことを案じ、連絡をくれる人間など、今の自分には一人もいないのだと。連絡を取り合える友人も身近にはおらず、彼女の世界は、誰よりも静まり返っていた。気がつけば、足は自然と、かつて淳也に連れてきてもらった馴染みの路地へと向かっていた。なぜここに来たのか、自分でもわからない。振り返り、そのまま立ち去ろうとしたとき、中から四、五十歳ほどの女性が洗面器を手に現れ、明日香の姿を見た瞬間、ぱっと表情を変えた。「あんた、見覚えがあるよ。淳也の友達だろ?」明日香は小さくうなずいた。「ちょうどいいわ。あの子が『預かってくれ』って言ってた物があるんだけど、こんなに日が経っても取りに来ないから......待ってな、今持ってくる」預かった物?一体なんだろう。前にここで食事をしたとき、店主には会ったが、この女将と顔を合わせた覚えはない。どうして自分を覚えていたのか、不思議に思いながら待っていると、女将は黒い箱に淡いピンクのリボンを結んだ贈り物を手に戻ってきた。「淳也が行く前に、あんたに渡せって言ってたんだよ。もう来ないんじゃないかって思ってた」「行くって......どこに?」「お母さんを連れて、ロシアで治療を受けるってさ。長いこと帰ってこないだろうって......知らなかったの?」明日香は、初めてその事実を知った。「ありがとうございます」「そんな、かしこまらなくていいよ」ちょうどそのとき、店の奥から客の声が飛んだ。「女将さん、麺おかわり!」「はい、すぐ!」箱の中身が気になった明日香は、公園へと足を向けた。ベンチに腰を下ろし、膝の上に箱を置いた。そっとリボンを解き、蓋を開けると、中には淡いピンク色の毛糸で編まれた手袋が入っていた。タグもなく、きっと手作りなのだろう。もしかして、あの優しい澪さんが編んでくれたのだろうか。それは、二度の人生を通じて、彼女が受け取った中で最も温もりを感じる贈り物だった。胸の奥に小さな波紋が広がった。淳也との約束を守れなかった。それだけ
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第438話

明日香は、父から叱責されると覚悟していた。しかし予想に反し、家には父の姿はなかった。江口が妊娠したのだという。遼一の話では、すでに二ヶ月以上が経っており、康生はそれが自分の子であると疑うことなく信じていた。今、康生は江口を伴ってシンガポールへ療養に出かけており、この家には明日香ひとりが残されることとなった。この日々、康生は彼女の生死すら気に留めなかった。ほんのわずかに抱いていた期待も、その瞬間に跡形もなく崩れ去った。馴染み深く、それでいてどこかよそよそしい大広間へ足を踏み入れると、ウメが涙ぐみながら近寄ってきた。「明日香、この間は......外で、ずいぶん苦労したでしょうね」明日香は、冷ややかな視線を返した。もしこの人が本当に自分を案じ、子のように思ってくれていたのなら、なぜ、あの牛乳に薬を仕込んだのか。今さら心配そうな顔をして、何を気遣うふりをしているのか。......一体なぜ。ウメも遼一の側近のひとりだ。彼女の周りに、純粋な誠意で接してくれる人など、果たしているのだろうか。明日香はそっとウメの手を払いのけ、その眼差しはもはや赤の他人を見るように冷たかった。言葉を交わす気力すら湧いてこない。階段を上がる。かつては家族のように思っていた相手ですら裏切る。そう悟った瞬間、もう向き合うことはできなかった。遼一は外出前、芳江に明日香の世話を任せていた。今の彼女は情緒が不安定すぎると判断し、ウメは先にガーデンレジデンスへ行かせている。家に戻るや、明日香がまずしたのは、スナックやパンなど腹を満たせる食べ物を抱えて部屋にこもることだった。そして、誰かが入ってこないよう、ベッドサイドテーブルや椅子など動かせる家具すべてをドアに押し当てた。その行動も言葉も、常軌を逸していた。自分でもわかっている。こんなふうになりたくはない。狂気に飲まれてしまうのが怖くて、せめてこのやり方で自分を保とうとしていた。この空虚な場所から、抜け出したい。今の彼女を救える人は、もう誰もいない。救えるのは、自分だけだ。カーテンを引き切り、部屋を漆黒に沈めてようやく、わずかな安心が胸に宿った。食事の時間、芳江が料理を運び、階上でノックした。しかし返事はない。何度繰り返しても同じだった。この部屋は防音がよく、ノック
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第439話

電話の相手に気を取られている隙をつき、聖蘭は屈辱に顔を紅く染めながら、慌てて腰のスカートを引き下ろした。涙を滲ませた美しい瞳で哲朗を睨みつけ、力任せに彼を押しのけると、そのままオフィスを飛び出した。哲朗は去っていく女の背をしばらく目で追い、やがて視線をデスクに戻した。タバコを一本取り出し、ライターで火をつけると、肺いっぱいに煙を吸い込み、体内で燻る炎を無理やり押さえ込んだ。「状況からして、薬物療法と心理療法だな。だが結局は本人次第だ。抜け出せるかどうかは彼女の心の力にかかっている。もしその気がなければ、どんな薬を飲ませても、どんな処置を施しても無意味だ。それで......お前は心が揺らいだのか?」哲朗の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。返事を待つことなく、放埒な笑い声を上げた。「ふん、こんな日が来るのはわかっていたさ。遼一......忘れるな、お前の目的を。今さら手を引いたところで、もう遅い。十二年間も明日香に薬を飲ませ続けておいて、今さら優しくしたところで、彼女がお前を許すと思うか?お前がやってきたことを、俺が一々言い聞かせてやる必要があるか?一度放った矢は戻らない。お前はただ、闇の中を突き進むしかないんだ。さもなければ......彼女に喰い尽くされるぞ」通話が切れた。遼一は無言のまま、明日香の部屋の前へと足を運び、ドアをノックした。「明日香?」隙間から覗いた室内は、漆黒の闇に沈んでいた。灯りは消え、生活の気配はない。また、ひとりきりで部屋に籠もり、陽の光を拒んでいる。明日香は、ただ膝を抱え、部屋の隅でうずくまっていた。背後の壁は暗く沈み、彼女は何を考えているのか、自分でもわからない。床や机の上には無造作にスケッチが散らばっていた。キャンバスや画用紙に鉛筆で描かれたのは、ロングスカートを纏い、上品で優雅な雰囲気を漂わせる女性のシルエット。しかし、どの絵も顔の部分だけが空白のままだ。それは、夢の中で見た、母の姿だった。「明日香ちゃん......疲れたの?」暗闇の中、優しい声が耳元に響く。視線を上げると、微かな光の中、ベッドに腰掛ける女性の姿があった。その声は、紛れもなく母のものだった。明日香は闇の中に一筋の希望を見いだしたように、膝で床を進み、涙に濡れた瞳で女性を仰ぎ見た。「母さん。やっと来てくれた
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第440話

「母さん......どこへ行ったの?私を置いていかないで......」遼一は、その光景を前に息を呑んだ。目の前にいるのは、まるで正気を失った明日香だった。男の影がゆっくりと彼女を覆い、歩み寄っていく。「地面に跪いて、何をしている。立て」「何しに来たの?母さんが逃げちゃったじゃない......」明日香は静かに、しかし冷ややかに言った。遼一は彼女の腕を掴み、強引に立たせた。「よく見ろ。この部屋にいるのは、お前と俺だけだ」「嘘つき!確かに見たの。母さんがたくさん話しかけてくれた......疲れたら連れ出してくれるって。全部あなたのせいよ!母さんを追い払った!どうして入ってきたの!」その叫びに、遼一は初めて胸の奥に鈍い痛みを覚えた。目的を遂げるために彼女を追い詰め、狂わせ、地獄に突き落としてきた。そのはずだった。こんな感情を抱くべきではない。ましてや、明日香のために心を乱すなどあってはならないことだ。これまで「荷物」を抱えて銃弾の中をくぐり抜け、死地から幾度も生還してきた。そのときでさえ、動じず、恐れず、冷徹でいられた。すべては目的のため、手段を選ばず、必要なものを奪い取ってきた。多くの人間を利用し、数え切れぬ計画を成し遂げ、そのすべてを余裕と計算でやり遂げてきた。だが、明日香だけは違った。無残に傷つけられた彼女の姿を前にすると、心の奥に微かな憐憫が芽生えた。これが後悔というものなのか、遼一には分からなかった。彼は彼女を抱き締め、肩に押し付けた。明日香が泣き叫び、狂ったようにもがくのを、そのまま受け止めた。平然と装い、何事もなかったように振る舞うより、今はその方がまだましだった。「放して!母さんを探しに行くの!放してよ!」拘束から逃れられないと悟った明日香は、突如彼の肩に噛みついた。遼一は微動だにせず、その感情の爆発を黙って受け入れる。明日香が全身の力を込めて噛みつくと、口内に鉄のような血の味が広がった。それでも遼一は、決して彼女を離そうとはしなかった。黒いシャツの下、温かな液体が滲み、鋭い痛みが走る。十数分の膠着の末、遼一は視線を落とし、静まり返った彼女に低く問う。「もう済んだか?」その瞳には、これまで見せたことのない色が宿っていた。明日香は彼を突き飛ばし、俯い
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