All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話

智哉が甲殻類アレルギーだということは、家族と本当に親しい友人しか知らないはずだ。奈津子がなぜそれを知っているのか。智哉は複雑な眼差しで奈津子を見つめた。「私が甲殻類アレルギーだってこと、なぜご存知なんですか?」突然そう尋ねられて、奈津子は一瞬戸惑った。自分はなぜ智哉のアレルギーを知っているのか?もしかして潜在意識に残っていた記憶?もしそうだとしたら、自分は昔、智哉とどんな関係だったのだろう。記憶を失ってもなお、彼のアレルギーまで覚えている理由は?奈津子は咄嗟に動揺を隠し、適当な理由をでっち上げた。「この前一緒に食事をした時に、佳奈のお父さんが話していたような気がして……」そう言われて智哉は半信半疑ながらも、軽く頷いた。「以前から佳奈をすごく気遣ってくださっていたようですし、退院されたら改めてお礼に伺います。その時はぜひ手料理を食べさせてください」それを聞いた奈津子は目を丸くして驚き、信じられないといった表情を見せた。「本当ですか?本当に佳奈と一緒にうちに来てくれるの?」「ええ、退院の日に佳奈を連れて伺いますよ」智哉がそう約束すると、奈津子はまるでお菓子をもらった子供のように瞳を潤ませ、感激の笑顔を見せた。「嬉しい!じゃあ、約束ですよ。今のうちにメニューを書き出して、晴臣に準備させておくわね」そう言って枕元からスマホを取り出し、嬉しそうにメモを打ち込み始める。その表情は心から幸せそうだった。智哉はその様子を眺めて、しばしぼんやりと考え込んでしまった。なぜ奈津子の姿を見ていると、いつも誰かの面影が重なってしまうのだろう。彼女とはまったく関係のない人物のはずなのに。自分の錯覚か、それとも何か知らない秘密があるのだろうか。病院を出てからも、智哉はずっとそのことを考えていた。佳奈は彼がぼんやりしているのを見て、まだ拗ねているのだと勘違いした。赤信号で止まった隙に、佳奈はそっと顔を近づけて智哉の頬にキスを落とした。彼女はいたずらっぽく笑いながら言った。「うわっ、高橋社長ったら、ヤキモチの匂いぷんぷんだよ」その言葉に、智哉はようやく我に返り、隣で得意げに笑う佳奈に目を向けた。彼は佳奈の顎を指で軽く持ち上げ、意味深な目でじっと見つめる。「仕方がないよ。佳奈が大好き
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第352話

智哉は表情を沈め、淡々と口を開いた。「確かに何らかの接点はあったと思う。でも、彼女がどんな立場で俺に接触したのか、まったく覚えがないんだ」佳奈は少し考えてから言った。「それは別におかしくないよ。奈津子おばさん、昔ひどい火事に遭って顔に大やけどを負ったの。そのせいで、村にいた頃はいつもベールで顔を隠してたから、誰も彼女の素顔を見たことがない。私だって知らなかったんだよ。彼女は記憶喪失で自分の名前さえ分からなかったけど、村の人はみんな彼女を「九叔母さん」って呼んでて、晴臣は「九お兄ちゃん」って呼ばれてたの」「九お兄ちゃん」――その名を聞いた瞬間、智哉の胸がぎゅっと締め付けられた。佳奈が夢で何度も呼んでいた「九お兄ちゃん」というのは、つまり晴臣のことだ。二人はどれほど深い絆で結ばれていたのか、佳奈が夢の中でも頻繁に彼の名を口にするほどに。智哉は思わず奥歯を強く噛み締めた。彼女の記憶から晴臣に関するものすべてを消し去り、心の中を自分ひとりで満たしたい衝動に駆られた。もしあのとき美智子おばさんが陥れられなければ、佳奈と幼なじみとして一緒に成長したのは自分だったはずだ。ずっと彼女のそばにいて、彼女の「お兄ちゃん」と呼ばれていたのも自分だった。晴臣の入る余地など、最初からなかったのに。智哉の胸には、美智子おばさんを陥れた人物への強い憎悪が込み上げた。その人物がいなければ、自分は佳奈を幼い頃からずっと守ってこられたのだ。佳奈は智哉の表情が険しくなったのを見て、心配そうに声をかけた。「どうしたの?何か気になることでもある?」智哉は唇を軽く持ち上げ、内心を隠して答えた。「いや、ただ二人の境遇がかわいそうだと思っただけだ」「本当にね。奈津子おばさんは当時、精神状態がすごく不安定で、発作を起こすと誰にも止められなくて、晴臣もよく傷だらけだったの。そのあと悪い人に見つかって追われるようになって、二人とも村を出て行方が分からなくなった」「追ってきた人って誰?」「分からない。でも、多分昔彼女を焼き殺そうとした人じゃないかな」その話を聞いて、智哉の呼吸が一瞬止まった。奈津子が火事に遭った当時、彼女は妊娠していたはずだ。彼女を殺そうとした人物の狙いは、その子供だったに違いない。奈津子が夢で頻繁に呼んで
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第353話

智哉が本邸に駆けつけた時には、すでに何台もの消防車が現場に到着していた。燃え盛る炎を見つめながら、智哉は拳を固く握りしめた。父のもとへ駆け寄り、「中はどうなってるんですか?なぜ火事が起きたんですか?」と問いただした。征爾は眉間に深い皺を寄せたまま答えた。「玲子がどこかでガソリンを手に入れて、使用人たちを全部外に出して、寝室で一人、自分に火をつけようとしたらしい。今のところ無事かどうかはわからん。消防隊が中に入って救出を試みてる」その言葉に、智哉の目が鋭く細まった。「どうして彼女が自殺しようとしたってわかるんですか?」「火をつける直前、俺にビデオ通話してきてな……変なことを言ったかと思ったら、そのまま俺の目の前で火をつけたんだ。智哉、これは絶対にマスコミに知られてはいけない。もし報道されたら、お前が母親を監禁してたって非難される。玲子の罪がまだ確定していない今、外部はお前が妻のために母親を閉じ込めてたって受け取るだろう。そうなったら、高橋グループの株も一気に下がる」智哉の黒い瞳には、ますます冷たい光が宿った。「もう手遅れかもしれません。これ、最初から誰かが仕組んでいた可能性が高いです。狙いは玲子を高橋夫人の座に戻すことと高橋グループを潰すこと」その直後、ボディーガードが報告に来た。「高橋社長、門の前に大勢の記者が来ています。取材したいとのことです」智哉は鋭い視線を門の方へと向けた。無数のカメラとスマートフォンが彼らに向けられていた。考えるまでもない。すでにネット上で炎上しているのは明らかだった。あいつを甘く見すぎてたな。本当の目的は、高橋家を潰すことか。そう思った瞬間、智哉は再び拳を握りしめ、低い声で命じた。「火災は危険だ。無関係の人間が巻き込まれるわけにはいかない。誰一人として中に入れるな」「はい、高橋社長」智哉は指揮している消防隊長の方を見て、沈んだ声で言った。「防火服を一式貸してください」消防隊長はきっぱりとした口調で返す。「高橋社長、火の勢いが非常に強いです。あなたは消防の専門家じゃありません。中に入ったら命に関わります。それは許可できません」智哉の声が一段と強まる。「防火服をくれと言ってるんだ!中の構造は俺の方がよくわかってる。すぐに母を見つけ出せる!」
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第354話

「智哉、ゲームはまだ始まったばかりだ。面白いのはこれからだよ」「旦那様、今回の件で必ず高橋グループは大きなダメージを受けます。智哉もネットで集中砲火を浴びるでしょう。これで私たちの計画を進めやすくなります」傍らに立つ秘書が頷きながら言った。男の顔に邪悪な笑みが浮かぶ。「智哉が必死になって守ろうとするものほど、俺は徹底的に潰す。どれほどの力で俺に立ち向かえるか……じっくり見物させてもらおう」そう言うと、彼はグラスを手に取り、ゆっくりと赤ワインを口に含んだ。その瞳には冷たい陰が漂っている。感覚を失った自らの脚を強く握りしめる。脳裏に再び浮かぶ、何年も前のあの光景――。その時、秘書が一本の電話を受け、報告した。「旦那様、現場の者から報告です。智哉が玲子を助けるため、炎の中に飛び込んだそうです」男の目がわずかに細まった。あれほどの大火災に飛び込むとは―、智哉は死を恐れないのか?男は冷笑を漏らしながら命じた。「そこまで死にたいなら手伝ってやろう。火をもっと強くしろ」「はい、すぐに手配いたします」一方その頃。智哉は火の海に飛び込むと、一直線に玲子の部屋を目指していた。しかし室内を探しても玲子の姿はどこにも見当たらない。すると突然、消防隊員が駆け寄り、彼の腕を掴んだ。「高橋社長、ガス管が漏れています!すぐに爆発します、早くここから出てください!」智哉は強く歯を食いしばった。高橋家本邸は、防火防爆仕様の最高級の建材で作られている。これほどの火事でも簡単にはガス管が損傷するはずがない。しかも、大火災時にはガスの安全装置が自動的に作動する仕組みだ。つまり、意図的にガスを漏らした者がいるということになる。智哉は危機の重大さを瞬時に察知した。これは明らかに口封じのための殺人だ。彼は部屋の中で大声を張り上げた。「玲子、聞こえるか!誰かがお前を殺そうとしている。出てこないつもりなら、ここで死ぬだけだぞ!」その声が火の中を突き抜けて響いた。間もなく、隣の部屋から玲子の助けを求める声が聞こえた。「智哉!ここよ、助けて!」智哉は扉を蹴破り部屋に入った。目に飛び込んできたのは、頭に濡らした毛布を被り、台所のシンクのそばで震える玲子の姿だった。シンクには水が溢れ、床にまで流れ出てい
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第355話

建物全体が爆発に巻き込まれ、炎は天高く立ち上った。さっき飛び降りたばかりの人々さえも、その余波に巻き込まれた。消防隊長はすぐさま隊員を率いて駆け寄り、玲子を救出。そして、燃え盛る別邸の残骸を見つめながら、切迫した声で叫んだ。「高橋社長は!?なぜ下りてきていないんだ!」「高橋社長は高橋夫人を助けるため、私たちに先に飛び降りるよう命じて……まだ中に残っています!」消防隊長は顔色を変えた。「ふざけるな!あの人は高橋家の跡取りだぞ!万が一のことがあったら、うちの消防署全員クビだ!」すぐさま消火隊を再編成し、消火活動を続行させた。だが、炎はますます激しくなり、第三次爆発が起こる可能性さえあった。さらに、火が本邸全体に広がる恐れもある。その時、ある隊員が駆け寄って報告した。「隊長、ガス管が人為的に開かれていたことが判明しました。すでに修理済みで、これ以上の爆発は起きない見込みです!」「電気系統は全部遮断されたか?」「遮断済みです!」「よし、お前たち数人は俺と一緒に高橋社長の救出に向かう。残りは引き続き消火作業だ!」「了解!」消防隊長は仲間を率いて再び火の中へと飛び込んでいった。その頃、征爾は玲子だけが救出されたのを見て、すべてを察した。彼は奥歯を強く噛みしめ、すぐに指示を出した。「高木、彼女を病院へ運べ。それと、外の記者たちにはこう伝えろ。智哉は母親を助けるために火の中へ飛び込み、現在生死不明だと」高木はすぐにその命を受け、救急車と共に本邸を出発した。しかし、門の外には大勢の記者が押し寄せ、車を取り囲んでいた。高木は車から飛び降り、切羽詰まった声で叫んだ。「道を開けてください!高橋夫人の命がかかってるんです!これはうちの社長が命懸けで救い出したんです!」その一言に、記者たちは一斉にカメラを高木に向けた。「今の発言はどういう意味ですか?命懸けって?」高木は続けた。「うちの社長は、高橋夫人を救うため、自ら火の中へ入りました。高橋夫人を抱えて外に出た直後、第二次爆発に巻き込まれ、現在生死不明なんです。これ以上車を止めるようなら、高橋社長の親孝行が無駄になってしまう!」その言葉に、記者たちは慌てて道を開けた。救急車はサイレンを鳴らしながら門を通過していった。その場に残
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第356話

佳奈の声に、清司はびくりと体を震わせた。顔色が一気に蒼白になる。しばらく口ごもった末、ようやく言葉を発した。「ちょっと眠れなくてね、新鮮な空気でも吸おうと思って。君はどうして起きてきた?早く部屋に戻りなさい。下は冷えるぞ」そう言って佳奈を部屋へ戻そうとするが、彼女は素早く身をかわした。佳奈は父の目をまっすぐ見つめ、問いかけた。「お父さん、智哉は?何かあったの?」清司は無理に笑いながら答えた。「何もあるわけないさ。ちょっと会社でトラブルがあってな、それを片付けに戻っただけだ。すぐに帰ってくるよ。心配するな、さあ、寝よう」だが佳奈の疑念は増すばかりだった。父の様子は明らかに何かを隠している。無理にでも彼女を上へ戻そうとしているのが見え見えだった。「お父さん、私のスマホは?智哉に電話して、何してるのか直接聞く」清司は慌てて言い訳を並べた。「夜中にスマホなんて見ちゃいけない。赤ちゃんに悪い。智哉は大丈夫だよ。朝には戻ってくるから、ね、上へ戻ろう」そう言いながら、佳奈の肩を抱いて階段へ促す。だがその瞬間、佳奈は父のポケットからスマホをすっと取り出した。画面をつけると、そこには黒煙渦巻く火災現場のライブ配信が映し出されていた。無数のコメントが飛び交う中、佳奈の体は氷の中に投げ込まれたように凍りついた。彼女はスマホをぎゅっと握りしめ、怒涛の勢いで流れてくるコメントを食い入るように見つめていた。それでも、はっきりと目に映った。コメント欄は「智哉さんが無事でありますように」といった祈りの言葉で埋め尽くされていた。そして、火の手が上がっている場所は――他でもない、高橋家の本邸だった。 目に涙が溢れ、頬を伝い落ちる。彼女は目を潤ませながら清司に顔を向けた。「お父さん、高橋家本邸に連れて行って」清司はもう誤魔化せないことを悟り、静かに彼女をなだめた。「佳奈、あそこは今、危険すぎる。だがな、智哉はあのアフリカの内戦地帯からも無事に戻ってきた男だ。あんな火事、やつには敵わない。だから安心して、赤ちゃんのことを第一に考えるんだ」「お願い、お父さん、連れてって。赤ちゃんのことはちゃんと守るから。どうしても彼をこの目で見たいの」「佳奈、この火事は誰かが仕掛けたものだ。狙いは、君と智哉、二人を一
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第357話

三十分が過ぎ、大火はようやく鎮火された。だが、依然として智哉の消息はなかった。高橋家の中は混乱に包まれ、誰もが不安を隠せずにいた。そんな中、高橋お婆さんは痛みをこらえながら佳奈のもとへ歩み寄り、そっとその手を握った。「佳奈、怖がらないで。智哉がどうなろうと、あなたはうちの大切なお嫁さんだよ」その言葉に込められた意味を、佳奈が察しないはずもない。彼女は平静を装いながら答えた。「おばあさま、智哉は死んだりしません。あの人、赤ちゃんと一緒に育っていくって、私に約束してくれたんです。私は、彼がまだ生きていると信じています」その姿に、高橋お婆さんもとうとう堪えきれず、静かに涙をこぼした。佳奈の手をそっと叩きながら、力強く言った。「そうだね、一緒に待とう。あの子はきっと帰ってくる」時は過ぎ、夜空にわずかに白みが差し始める。消防隊員たちは、いまだ別邸の瓦礫の中で必死に捜索を続けていた。ネット上でも話題は収まることなく、全員が智哉発見の報せを待ち続けていた。ライブ配信のコメント欄は、祈りの言葉で埋め尽くされていた。そして、智哉の命がけの救出劇によって、高橋グループのイメージも徐々に回復しつつあった。その頃、郊外の別荘の一室。男は車椅子に座り、静かにスマホの画面を見つめていた。鋭く険しい表情には、薄らと満足げな笑みが浮かんでいる。秘書が小声で報告する。「旦那様、別邸は完全に崩壊しました。あれだけの爆発の中、智哉が生きてるなんて到底……もうすぐ高橋グループは混乱に陥るはずです。この機を逃さず動き出しましょう」男の顔がぴくりと動き、低い声を発する。「玲子の様子は?」「軽い火傷だけで、命に別状はありません。今回の件、彼女のおかげで一気に状況を進められました」男は冷笑を浮かべた。「彼女が助けてくれた?違うな。あれは自分のためだ。騒がなければ、彼女が別邸から出られる可能性なんてゼロだった」「それもそうですね……ただ、智哉はあの瞬間、彼女を本気で守ろうとした。あの火の中、身を挺してまで」男は皮肉めいた鼻を鳴らす。「俺たちの狙いに気づいてたんだ。だから高橋グループを守るために飛び込んだ。やるじゃないか。頭も度胸もある。ああいう相手が死ぬのは惜しいな。次、同じレベルの敵を見つけるのは難しい」
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第358話

ずっと反応がなかった智哉の指先が、ほんのわずかに動いた。 瞳もかすかに動きを見せる。 医師がすぐに声を上げた。 「生命兆候あり!すぐに病院へ搬送を!」 その言葉に、高橋家の人々は一斉に安堵の息を漏らした。 征爾は目に涙を浮かべながら佳奈を見て言った。 「佳奈、心配するな。俺が最高の医者を揃えて、智哉を必ず治してみせる」 佳奈は拳を固く握りしめ、必死に冷静を保とうとする。 「高橋叔父さん、私も一緒に病院へ行きます。家のことはお願いできますか。玲子のガソリンは誰が渡したのか、それにガス管を細工したのは誰か……その犯人がわかれば、背後にいる黒幕もきっと見えてきます」 この状況でそこまで考えられる佳奈を見て、征爾は満足げに何度も頷いた。 「さすがはうちの嫁だな。任せてくれ。俺が全部調べる。信頼できる人間を一人つけて一緒に病院へ向かわせよう」 三十分後、智哉は救急処置室に搬送された。 家族たちは廊下で結果を待ち続けていた。 そこへ、知里も駆けつけてきた。脚のギプスはすでに外れており、足を引きずりながら佳奈のもとへ来た。 彼女は佳奈の姿を見て、目を潤ませながら声をかけた。 「佳奈、つらかったら泣いていいのよ。我慢しなくていい……見てるこっちまで辛くなるよ」 そのまま涙が彼女の頬をつたって落ちた。 すると、誠健が横から肘で突きながら小声で言った。 「本人が泣いてないのに、お前が先に泣くなよ……それで慰めてるつもりか?」 知里は目を吊り上げて誠健を睨みつけた。 「私の慰め方に文句言うな、うるさいわね!」 誠健は肩をすくめて頭を振った。 「はいはい、何も言いませんよ。でもな、佳奈をあっちに連れてって休ませてやれ。一晩中立ちっぱなしじゃ、赤ちゃんに障るぞ」 その一言には、さすがの知里も怒りを収めた。 彼女は佳奈の手を握りしめて言った。 「佳奈、無理しちゃダメ。赤ちゃんのことも考えて。まだ不安定な時期なんだから、無理しすぎたら流産の危険もあるの、忘れたの?」 佳奈の視線はずっと救急室の扉に向けられていた。 手はぎゅっと拳を握りしめている。 不安と焦りでいっぱいなのに、平然を装って立ち尽くしていた。掠れた声で言う。 「
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第359話

医師は佳奈に無菌服を着せ、彼女を救急室の中へ案内した。智哉の体に無数の医療機器が取り付けられている光景を目にした瞬間、佳奈の心の糸が今にも切れそうになった。両手を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んでも痛みは感じなかった。彼女はゆっくりと智哉のそばへ歩み寄り、冷えた小さな手で彼の大きな手をしっかりと握った。穏やかすぎるほどの声で語りかける。「智哉、あと数日で赤ちゃんは二ヶ月になるんだって。先生が言ってたの、二ヶ月目から心音が聞こえるって。あなた、感じてみたくない?」そう言って、佳奈は智哉の手を自分の下腹部にそっと置き、体温を、赤ちゃんの存在を彼に伝えようとした。無機質な心電図モニターを一瞥し、彼女は言葉を続けた。「ねぇ……あと数ヶ月で、お腹の中で赤ちゃんが動くようになるんだって。みんな言ってたよ、その感覚はすごく不思議で幸せなんだって……あなた、味わってみたくない?あなた、自分で胎教してあげるって言ったじゃない。白石からもらったあの絵本、まだ一冊も読んであげてないよ……こんなふうにいなくなるなんてダメだよ、お願いだから、戻ってきて……」言葉を重ねるたびに声は詰まり、涙が頬を伝い、口元に流れ込んでも彼女は何も感じなかった。そのとき、智哉の指がわずかに動いた。心電図の波形も大きく反応を示し始める。医師がすぐに言った。「反応が出ています。引き続き刺激を!」涙に濡れた佳奈の顔に、一筋の喜びの光が差し込む。彼女は温かいタオルを取り出し、智哉の真っ黒にすすけた顔をそっと拭いた。そして静かに、彼の唇に口づけをした。ほんの軽い触れ合い――だがそれだけで智哉の体が反応した。最初は動かなかった唇が、次第に佳奈の唇を包み込み、吸い寄せてきた。そのぬくもりに、佳奈の涙は止まらず、ぽろぽろと彼の顔にこぼれ落ちる。どれほどの時間、二人が唇を重ねていたのか分からない。ようやく智哉の瞼がゆっくりと開き、その深い瞳には隠しきれない優しさと痛みが宿っていた。彼は手を上げ、佳奈の頬に伝う涙をそっと拭った。かすれた声で言う。「佳奈……ごめん。心配かけたな……」その声を聞いた瞬間、佳奈の心の堤防が崩れた。彼女は智哉の胸に顔を埋め、止まらない涙がぽとぽとと彼の身体を濡らしていく。その温もりを感じなが
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第360話

「でも、こうするには君に負担がかかる。俺が病院に入院してる間、リアリティを出すためには、君もずっとそばにいてもらうことになるけど……体、大丈夫か?」佳奈は首を横に振った。「大丈夫。お父さんが入院してたときも、私はずっと病院に泊まり込んでたけど、赤ちゃんは無事だった。後で外にいる人たちを呼んで、全部説明するね」智哉は愛おしそうに佳奈の頭を撫でた。「君と赤ちゃんには本当に苦労かけるな。全部片付いたら、二人で俺たちだけの人生を始めよう」二人は状況を見ながら策を練り直したあと、佳奈が救急室を出た。彼女が出てくると、全員が駆け寄ってきた。涙をたたえた瞳をわずかに上げる佳奈。その目にはどうしても隠しきれない痛みが滲んでいた。「佳奈、智哉はどう?」結翔が嫌な予感を覚えながら、彼女の肩を抱いた。佳奈は静かに首を数度振った。「まだ意識は戻っていません。先生は、一酸化炭素を大量に吸い込んで脳にダメージがあるって……目覚めても植物状態になる可能性が高いって言われました」その言葉に、場の空気が一瞬で重く沈んだ。知里は涙を溢れさせながら佳奈を抱きしめて泣き出した。「植物人間って……じゃあ佳奈と赤ちゃんはどうすればいいの……どうしてこんなことになったの、うぅ……苦しすぎるよ……」知里の嗚咽を聞いた誠健が慌てて彼女を引き寄せ、頭を軽く撫でながら低い声で言った。「そんなに泣いてどうすんだよ……一番つらいのは佳奈だ。今は支えるべきだろ」知里はようやく我に返り、涙を拭って言った。「ごめん、佳奈……でも安心して。たとえ智哉が一生目覚めなくても、赤ちゃんのことは私が守るから。一緒に育てようね」それを聞いた誠健は、呆れたように歯を食いしばる。「知里、お前さ、それが慰めか?まるで佳奈に別れを告げてるみたいじゃないか!」「どう言えばいいのよ!今は頭ぐちゃぐちゃで、何言ってるかわかんないのよ!あんたは黙ってて!」怒りながら誠健に蹴りを入れ、また佳奈を抱き寄せた。そのとき佳奈は、視線をそっと遠くへ向けた。すると、誰かがこちらをこっそり見ているのに気づいた。――監視役だ。完璧に演じなければならない。智哉が本当に植物状態になったと信じさせるために。佳奈は涙を拭い、低く呟いた。「みんな、中に入って彼に声をかけて
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