All Chapters of 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

捨て台詞を吐き捨てると、教室は不気味なほどの静寂に包まれた。子供たちも大人たちも、感情を爆発させたこの男の子に啞然とするばかりだ。彼は夕月を睨みつけたまま、小さな肩を荒く上下させていた。その瞳には涙と怒り、そして絶望に近い期待が入り混じっていた。やがて彼は意を決したように踵を返し、教室を飛び出していった。けれど、廊下に出るとその足取りは次第に重く、遅くなる。彼は待っていたのだ。これまで数え切れないほどそうしてくれたように、ママが追いかけてきて抱きしめ、「よしよし」と慰めてくれるのを。しかし、夕月はただ静かに、息子が去っていく背中を見つめるだけだった。彼女はその手を、張り詰めた空気に不安そうな表情を浮かべる瑛優の肩にそっと置いた。それは、無言でありながらも確固たる「守る」という意志表示だった。瑛優はポカンと口を開けていた。橘邸で悠斗が癇癪を起こす姿には見慣れていたけれど、幼稚園での彼はいつも自信たっぷりで、まるで王様のように振る舞っていたはずだ。それなのに今は、まるで冬真そっくりの負け惜しみを残して逃げ出していくなんて。悠斗は廊下で足を止め、教室の方を振り返った。誰も、追いかけてこなかった。「行かないで」と引き止めてくれる人は、一人もいなかったのだ。その瞬間、悠斗の心に残っていた最後の微かな希望の灯火が、完全に吹き消された。巨大な失望と屈辱が、まるで津波のように小さな体を飲み込んでいく。「うぅ……っ」耐えきれずに漏れたその嗚咽は、張り裂けそうなほど悲痛なものだった。彼は傷ついた小動物のように勢いよく振り返ると、二度と後ろを見ることなく校門の方へと走り去っていった。「あ……」担任先生は立ち尽くし、気まずさに顔を歪めた。「夕月さん、橘社長に電話してみますね」彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、冬真の番号をコールした。受話器を耳に当てるも、相手が出る気配はない。彼女の唇はますます固く結ばれていく。二度目をかけたが、今度はすぐに切断されてしまった。着信拒否だ。担任先生の顔には、隠しきれない困惑と恥ずかしさが滲んでいた。教室内にも重苦しい空気が漂う。園児たちは顔を見合わせ、保護者たちはヒソヒソと低い声で言葉を交わし始めた。夕月は、悠斗が消えていった扉の方をじっと見つめていた。袖の下で指先が微かに震え、
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第572話

星来は拒絶するように首を振った。小さな手が凌一の車椅子の肘掛けを強く握りしめ、指の関節が白く浮き上がっている。彼はすがるような目で凌一を見上げた。凌一は何も言わず、ただその深淵のような瞳で静かに彼を見返した。そこには一切の急かす色はなく、しかしどっしりとした静謐な力が宿っていた。周囲の子供たちが口元を押さえ、クスクスと笑い声を漏らす。「あいつ、怖くて行けないんだ」「やっぱり変なやつー」保護者たちは慌てて自分の子供の口を塞いだ。ここにいるのが誰の養子なのか、大人たちはよく知っているからだ。「星来くん、早く行かなきゃ」瑛優が再び声を掛ける。その時、夕月がそっとしゃがみ込み、星来と目線の高さを合わせた。彼女の声は春の日差しのように柔らかく、勇気を与える響きを持っていた。「星来くん、見てごらん。こんなにたくさんのお友達が、あなたのちまきを選んでくれたの。それはみんなが『すごいね』って認めてくれた証拠よ。あなたはとても立派だわ。一人で行ける?さっきちまきを作った時みたいに、一つ一つ進めば大丈夫だから」瑛優も横で大きく頷く。「うん!星来くんは一番強いもん!」夕月の眼差しは優しく、彼女は星来に手を差し伸べた。「一緒に行こうか?」張り詰めていた星来の体が、少しずつ緩んでいった。彼は表彰台の上でキラキラと輝くメダルを見つめ、それから自分を応援してくれる二人を見た。瞳の奥にはまだ怯えの色が残っていたけれど、先ほどの混乱は消え去り、代わりに小さくとも確かな勇気が芽生え始めていた。彼は手を伸ばし、夕月の柔らかい手を、そこから力を吸い取るかのようにギュッと握り返した。そしてスマートフォンを取り出し、文字を打ち込んで夕月に見せた。【ぼく、ひとりでいける】夕月の顔に満開の花のような笑顔が咲いた。「ええ、わかったわ。星来くん、胸を張って歩いていらっしゃい」星来は一度深く息を吸い込むと、ついに車椅子の肘掛けを握りしめていた指を解いた。彼は誰の手も借りず、自らの足で歩き出す。その歩みはゆっくりとしていたが、表彰台へ向かう意思は痛いほどに固かった。先生から一等賞のメダルと大きな赤いリボンの花を受け取ると、会場からは温かく誠実な拍手が湧き起こる。星来は手の中のメダルをじっと見つめていた。蝶の羽のような長い睫毛が微かに震え、自分の手
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第573話

イベントホールの表彰台に、星来が上がった。普段は人の背後に姿を潜め、気配を消すことに全力を尽くしているせいで、彼に目を留める者はほとんどいない。だが今、スポットライトの中に立つ彼の姿を見て、会場の空気が変わった。光に照らされ一本一本までくっきりと際立つ長い睫毛。その影を落とす肌は、一点の曇りもなく透き通るような白磁のようだ。保護者も子供たちも、思わず息を呑んだ。堂々と真正面に立つ星来を改めてまじまじと見つめ、彼らは初めて気がついたのだ。この男の子がいかに愛らしい容姿をしているかということに。「星来くんって、天使みたい」子供たちの間から、そんなささやき声が漏れ聞こえてくる。しかし当の星来は、降り注ぐ眩しい照明と、四方八方から突き刺さる無数の視線に居心地の悪さを感じていた。心臓が早鐘を打ち、手のひらが汗ばむ。本能的に逃げ出したい衝動に駆られたが、彼はそれを必死に押し殺し、その場に踏みとどまった。顔を上げ、夕月と瑛優の姿を視界に捉えると、不思議な力が体の中に湧いてくるのを感じた。先生から小さなトロフィーを手渡され、星来はぺこりと一礼して受け取った。担任先生は彼に視線を合わせるようにしゃがみ込み、優しく問いかけた。「星来くん、一等賞だね。嬉しい?お友達に何か言いたいことはあるかな」彼女は星来が話さないことを知っている。だがそれは身体的な欠陥ではなく、閉ざされた心が外界との交流を拒んでいるだけだということも。彼が自ら壇上に上がろうとした瞬間、彼女の中に一筋の希望が生まれたのだ。もしかしたら、口を開いてくれるかもしれない、と。星来の体がピクリと強張った。彼は一瞬だけ視線を上げて、眼下に広がる黒い人の群れを見たが、すぐにまたうつむいてしまった。顔色がさらに白くなる。彼は反射的に、唯一の命綱であるかのように胸元のスマートフォンを抱きしめた。何か言わなきゃいけないのかな。トロフィーをもらって、確かにありがとうと言いたい相手はいる。白く細い指先が、スマートフォンの画面の上を素早く滑った。緊張のせいで、いつもよりタップする力が強い。数秒後、彼は画面を観客席に向けて掲げた。頭はさらに低く垂れ下がり、赤く染まった耳の先と、柔らかなつむじだけが見えている。画面にはこう表示されていた。【ありがとう。すごくうれしい】
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第574話

校舎の白い外壁が、夕陽の残照に染められ、温かな金色の輪郭を帯びていた。イベントを終えた子供たちは、まるで巣に帰る小鳥のようにさえずりながら、保護者の手を引いて次々と校門をくぐっていく。笑い声と「また明日ね」という挨拶が交じり合い、優しく賑やかな空気が満ちていた。夕月は凌一の車椅子をゆっくりと押しながら、瑛優の弾むようなお喋りに耳を傾けていた。彼女はまだ興奮冷めやらぬ様子で、先ほどの投票合戦の模様をピーチクパーチクと報告している。瑛優と手を繋いで歩く星来は、彼女が面白いことを言うたびに顔を上げ、瑛優と夕月の反応を交互に伺っていた。そんな二人の子供の姿に、凌一の涼やかな視線が静かに注がれている。校門にたどり着き、別れの挨拶をしようとしたその時だった。一人の女性の影が近寄ってくると同時に、猫なで声が飛んできた。「星来くん!おばさんがお迎えに来たわよー」夕月が顔を上げると、そこにはシャネルのセットアップに身を包み、完璧なメイクを施した安井綾子の姿があった。大急ぎで駆けつけたのだろう、額にはうっすらと汗が滲んでいる。彼女はまず、複雑な色を孕んだ視線を夕月へと投げた。そこには隠しきれない警戒心と、微かな嫉妬の色が見え隠れしていたが、彼女は瞬時にその感情を塗りつぶし、親しげな笑顔を張り付けて星来に手を伸ばした。「星来くん、一等賞を取ったんだって?すごいじゃない!さあ、一緒に帰りましょ。お祝いしてあげるから」ところが星来は、伸ばされた手を避けるようにサッと身を引き、夕月の背後へと逃げ込んだ。彼は自分の体をすっぽりと夕月の後ろに隠してしまい、綾子の方へ行く気配は微塵もない。その小さな手は、無意識のうちに夕月の服の裾をぎゅっと掴んでいた。綾子の笑顔が凍りつき、差し出された手は行き場をなくして空中に漂った。瞳の奥に、恥ずかしさと苛立ちが掠めていく。彼女は背筋を伸ばすと、恨めしさを滲ませて言った。「凌一さん。見てくださいよ、星来くんたら。最近どんどん私によそよそしくなっちゃって。私、実の叔母なのに」凌一の表情は変わらない。淡々と事実だけを口にする。「星来くんは元々そういう性格だ。君がもっと辛抱強く、彼と向き合うしかないだろう」その正論は、綾子にとって責められているようにしか聞こえなかった。彼女は唇を噛み締め、矛先を夕月へと向けた。
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第575話

涼は喉の奥で低く笑った。その声の響きは、夕暮れの風に乗って気だるく、そして色気を孕んで耳に届く。彼の視線はごく自然に夕月へと滑り、その瞳に宿る笑意はさらに深まった。「俺は、夕月を迎えに来たんだよ」空気中で、見えない火花がバチバチと音を立てたような気がした。綾子は、涼が夕月を公然と庇い、親しげに振る舞う様子を見せつけられ、さらに星来が自分を拒絶している事実と重ね合わせ、嫉妬で理性が焼き切れそうになっていた。引きつった笑みを貼り付けたまま、彼女は甲高い声で言った。「あら、桐嶋さんと藤宮社長は随分と仲がよろしいのね」この奇妙な空気感の板挟みになった夕月は、涼が近づいてきたことによる体温と、凌一から注がれる静かだが圧倒的な存在感の視線を同時に浴びていた。綾子の声が再び響く。「それにしても、藤宮社長はどんな魔法をお使いになったのかしら。うちの星来くんがこんなに懐くなんて。ねえ、凌一さん、ちゃんと見ておかないと。星来くんが変な人と付き合って、悪い影響を受けたり……」「綾子」凌一の声が不意に響いた。決して大きな声ではない。だがそこには、研ぎ澄まされた刃物のような冷徹な威厳が込められており、綾子が次に吐こうとしていたさらに醜悪な言葉を断ち切った。彼は顔を上げ、綾子を見据えた。その瞳からは先ほどの穏やかさが消え失せ、鋭利な審問者のような光だけが残っていた。「言葉を慎め」心臓を射抜くような眼差しに、綾子は息を呑んだ。続く言葉は喉の奥に押し戻され、顔色は赤くなったり青くなったりと忙しく変わる。涼はまるで極上の喜劇でも鑑賞しているかのように、楽しげにその場を眺めていた。そして、ここぞとばかりに火に油を注ぐような口調で、凌一に向かってニヤリと笑いかけた。「なあ、凌一大先生。あんたの『彼女』、ちょっと性格悪くないか?うちの夕月は何もしてないのにさ」「桐嶋さん!」凌一に叱責された直後に、涼からあからさまな皮肉を浴びせられ、綾子の顔は屈辱と怒りで沸騰しそうだった。凌一は涼の挑発に乗ることなく、再び夕月の方へ向き直った。その声はいつもの静けさを取り戻していたが、先ほど綾子に向けたものとは比較にならないほど、微かな温かみが滲んでいた。「今日は、ありがとう」夕月は微笑んで頷いた。「また近いうちに、星来くんと一緒に遊びにいらしてください」それを見
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第576話

「さあ、お乗りください。プリンセス」涼は完璧な紳士の振る舞いで、夕月と瑛優のためにドアを開けた。瑛優は真っ先にステップを上がり、小さなおレディらしく澄ました顔で彼に向き直った。「ありがとうございます」彼女が涼を好いている理由の一つは、彼が自分を決して「ただの子供」扱いしないことだ。いつだって一人の大人として対等に接し、敬意を払ってくれる。それが瑛優の自尊心を心地よく満たしてくれるのだ。それを見て夕月は口元を綻ばせた。娘の心を掴むのが相変わらず上手い男だ。*シルバーのスポーツカーは、濃くなり始めた夜の帳を切り裂くように走り、夕月のマンションへとなめらかに向かっていく。車内には落ち着いた音楽が流れている。一日中遊び回り、感情も大きく揺さぶられた瑛優は、チャイルドシートに身を預けたまま、すでにうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。夕月は窓の外を飛ぶように過ぎ去っていく夜景を眺めていた。だが脳裏に浮かぶのは、涙を溜め、絶望と期待を綯い交ぜにした悠斗の瞳、そして決別するように駆け出していった小さな背中だった。彼女は小さく溜息をつき、眉間を指で揉みほぐした。「どうした?」涼の声だ。彼はバックミラーを見ていなかったが、空気の変化で夕月の心情を敏感に察知したらしい。「実はね……冬真と悠斗、途中で帰っちゃったの」夕月は今日幼稚園で起きた一連の出来事を手短に話した。「本当に幼稚で、我慢が足りなくて、すぐ感情的になるんだから。まるで三歳児よ」言葉の端々に、冬真への苛立ちが滲む。「あんな環境で悠斗が育ったら……」そこで言葉が詰まった。続きを口にするのが憚られたのだ。実の息子に対して、あまりに惨い予測を立ててしまうことに心が痛んだ。「橘冬真って奴は、昔からそういう男だよ。プライドが何より大事で、自分の顔に泥を塗った相手には容赦がない」涼の声には、隠しきれない冷嘲が含まれていた。「それがたとえ、実の息子であってもな」夕月は黙り込んだ。涼の言う通りだとはわかっている。それでも、母親としての本能が疼き、胸のざわめきを鎮めることがどうしてもできなかった。車は間もなく、夕月が住む高級マンションのエントランス前に到着した。涼は車を停めると、手際よく後部座席に回り込み、天使のように眠る瑛優をチャイルドシートから慎重に抱き上げた。
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第577話

「橘家から通報があったのは一時間ほど前だ。警察が防犯カメラの映像を解析中らしいが……そっちにはまだ連絡なしか?」「そんなもの、あるわけないじゃない。私はもう、あの子の母親じゃないんだもの。それにあの家の人たちにとって、私なんて頭数にも入らない部外者よ」夕月は自嘲気味に吐き捨てた。胸の奥から焦燥感が湧き上がってくる。「でも、おかしいわ。二人とも確かに教室を出ていったのに。なんで突然行方不明になんて」混乱のあまり、夕月の声がつい大きくなる。静まり返った夜の住宅街に、その声が鋭く響いた。天野が淡々と事実を告げる。「どうやら橘冬真は息子と一緒に帰らなかったらしい。悠斗を運転手に押し付けて、自分だけさっさと会社に向かったそうだ。運転手の証言によれば、悠斗がどうしても遊園地に行きたいと駄々をこねたらしくてな。困り果てた運転手が橘冬真に確認を取って、許可が出たから連れて行った。ところがその後、ちょっと目を離した隙にいなくなったそうだ。四十分ほど必死で探したが見つからず、あわてて警察に通報したっていうのが事の顛末だよ」スマートフォンを握る指先に力が入り、関節が白く浮き出る。頭の中はぐちゃぐちゃだったが、夕月は必死に冷静さを取り戻そうと思考を巡らせた。「きっと隠れてるだけよ。あの子ったら、癇癪を起こすといつもそうなの。わざと隠れて息を潜めて、使用人たちが大騒ぎして探し回るのを待ってるんだわ」「警察もそう考えて、すでに園内をしらみ潰しに探している。橘家も私設の警備員を動員したらしいが……いなくなってからもう三時間だ。捜索範囲を広げざるを得ない状況になってきてる」天野の冷静で淀みない報告は、矢継ぎ早に夕月を打ちのめし、彼女の呼吸を乱れさせた。心配と怒りが胸の中で渦を巻き、ない交ぜになっていく。「夕月、聞いてるか?」低い声で呼びかけられ、夕月はハッと我に返った。無理やり心を落ち着かせ、震える声を整える。「お兄さん、お願い。警察の動きを逐一教えて。何か分かったら、すぐ連絡してほしいの」親権はない。法律上はもう、赤の他人かもしれない。それでも、お腹を痛めて産んだ我が子であることに変わりはないのだ。「分かってる。だから焦るな、自分を見失うなよ。それから、身の安全にはくれぐれも気をつけてくれ。もしこれが計画的な誘拐だとしたら、お前も狙われ
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第578話

夕月は深く息を吸い込み、胸の内で暴れ出しそうな不安と焦燥を無理やり押し殺した。そして、涼の目を真っ直ぐに見つめて告げる。「すぐ戻るから」「ああ、待ってる」涼はそう言うと、車のキーを彼女の手のひらに乗せた。その穏やかで揺るぎない眼差しは、どんな言葉よりも強く、無言のうちに夕月を支えていた。夕月は一刻も無駄にできないと、涼の車に乗り込み、事件を管轄する警察署へと急いだ。夜は深まりつつあったが、署内は煌々と明かりが灯り、物々しい空気に包まれている。ロビーに足を踏み入れた瞬間、張り詰めた緊張感が肌を刺した。受付で身分と来意を告げようとした矢先、すぐ傍の相談室から、ヒステリックな女性の叫び声が聞こえてきた。「……孫の身に何かあったら、ただじゃおかないからね!もうこんなに時間が経ってるのに、影も形も見つからないってどういうことなの!」夕月はその部屋へと歩み寄り、開かれたドアの前に立った。そこには、冬真の長身があった。彼は眉間に深い皺を刻み、片手を額に押し当てている。その指先が落とす影が、彼の瞳に宿る深い苦悩──あるいは隠しきれない疲労を覆い隠していた。その苛立ちの矛先が、母親である雲珠に向けられているのか、それとも悠斗の失踪そのものに向けられているのかは判然としない。椅子に座る雲珠は、ハンカチで涙を拭っているが、化粧は崩れ、その顔には焦燥と怒りが入り混じっている。対応にあたる警察官は、困り果てた様子で立ち尽くしていた。その表情を見るに、悠斗の失踪そのものより、この「橘家の女帝」からの叱責に対応するほうがよほど骨が折れる、と顔に書いてあるようだ。ふと気配を感じたのか、冬真が顔を上げた。入り口に立つ夕月と目が合うと、その瞳に驚きの色が走る。数人の視線が一斉に夕月へと注がれ、室内の空気が一瞬にして凍りついた。「……なぜ、ここに」冬真の声には、驚きと苛立ち、そして隠しきれない深い懸念が滲んでいた。夕月の姿を認めた途端、雲珠の目から涙が引いた。代わりに浮かんだのは、露骨な敵意と非難の色だ。「夕月!よくもぬけぬけと顔を出せたものね!まさかあんたじゃないでしょうね?あんたが私の孫をどこかに隠したんじゃないの!」雲珠は怒りに震えながら喚き散らす。「そうよ、どうせ橘家に対する腹いせなんでしょう!こんなやり方で復讐するなんて!」夕月は
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第579話

足元から底冷えするような感覚に襲われながら、夕月は言い放った。「橘冬真……あんた、子供だけじゃなくて、自分の脳味噌までどこかに落としてきたの?」予想外の罵倒に、冬真が目を見開いて絶句する。その隙を与えず、夕月は畳み掛けた。「よく思い出してみたら?今日、幼稚園で大勢の前にもかかわらず悠斗を怒鳴りつけたのは、どこの誰?悠斗を置き去りにしてさっさと帰ったのは誰よ?あの子はね、あんたを追いかけて外に出たの。あんたの目は節穴なの?まだ治ってないわけ?」「いい加減にしろ!」頭に血が上るのを感じながら、冬真は怒鳴り声を上げて夕月の言葉を遮った。彼はズボンのポケットに両手を突っ込み、凍りつくような声で吐き捨てる。「お前と言い争うつもりはない。今はそんなことをしている場合か」すかさず雲珠が金切り声で加勢した。「そうよ!夕月、少しでも良心があるなら、さっさと悠斗をどこに隠したか白状しなさい!そうじゃなきゃ、ただじゃおかないわよ!」「雲珠さんこそ、いい加減にしてください!」夕月の堪忍袋の緒が切れた。その声は鋭く、冷徹な響きを帯びていた。「お孫さんが心配なのは分かります。でも言葉を選んでいただきたい。証拠もないのに犯人扱いは名誉毀損です!私だって誰よりも悠斗の無事を願ってる。私がしたいのは警察への協力であって、あなたたちの妄想じみた言いがかりを聞くことじゃありません!」これ以上、彼らを相手にするのは時間の無駄だった。夕月は二人を無視し、すがるような思いで警官に向き直った。「刑事さん、運転手の方の供述調書と、遊園地の防犯カメラの解析状況、それから現在分かっている手掛かりを全て見せてください。あの子は時々、拗ねて隠れてしまうことがありますが、今回は時間が長すぎます。あの子一人でできる悪戯の範疇を超えている。……単なる家出ではない可能性が高いです」警官は深く頷いた。ようやくまともに会話ができる相手が現れたことに、救われるような表情を浮かべている。彼が口を開きかけたその時、冬真のスマートフォンが鳴り響いた。画面を確認した冬真の顔色が変わる。彼は即座に応答した。「……どうだ」静まり返った室内では、受話口から漏れる焦燥に満ちた部下の声が、夕月の耳にも断片的に届いた。「社長、判明しました!悠斗様は遊園地の東側ゲートから、お一人で駐車場の方へ向かわれたのがカ
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第580話

トラックの振動音が、まるで自分を飲み込む怪物の唸り声のように響く。底知れぬ闇と寒さが、どこまでも続いていくようだった。最初のパニックが過ぎ去ると、今度は耐え難い肉体的な苦痛が押し寄せてきた。床の硬くて冷たい鉄板が、体温を容赦なく奪っていく。イベントのために着せられた子供用の薄いブランドスーツでは、深夜の冷気を防ぐことなどできようはずもない。歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。手足の感覚はとうに麻痺し、縄が食い込んだ手首と足首の皮が擦りむけ、焼けるように痛んだ。「うぅ……!」空っぽの胃がキリキリと痙攣し、喉はカラカラに渇ききっている。口に詰められた布の、吐き気を催すようなカビ臭さが、さらに悠斗を追い詰めていった。悠斗は必死に身をよじり、少しでも音を出そうと足掻いた。縛られた踵でコンテナの側壁を懸命に蹴りつける。だが、そのかすかな衝撃音は、轟々と響くトラックの走行音に瞬く間にかき消されてしまう。鼻腔に充満するツンとした機械油の匂いに、何度も吐き気がこみ上げた。絶望という名の冷たい水が、ひたひたと水位を増していき、溺れてしまいそうだ。涙はもうとっくに涸れ果てていた。残されたのは、果てしない闇と静寂だけ。ママ……寒い。ママに抱っこしてほしい。こんなことになると分かっていれば、遊園地に行きたいなんて我がまま言わなかったのに。ママにあんな態度とらなきゃよかった。パパは今、どうしてるんだろう?僕がいなくなったこと、気づいてくれたかな?すぐに助けに来てくれるよね?……どうして、まだ来てくれないの!闇そのものが重量を持って、胸を押し潰そうとしているかのようだ。寒さと空腹、そして恐怖。小さく丸めた体から、冷気に晒されて意識が遠のき始めていた。その頃、マンションの一室で、瑛優が弾かれたように目を覚ました。「悠斗!」カッと見開いた瞳には、怯えの色が色濃く浮かんでいた。すぐに寝室のドアが開き、涼が明かりをつける。「瑛優ちゃん、どうした?」リビングにいた涼は、彼女の微かなうめき声に気づいて駆けつけてきたのだ。「怖い夢でも見たかい?」ベッドサイドに歩み寄り、顔を歪める彼女を覗き込む。瑛優はすがるように涼の袖を掴んだ。「涼おじさん……!夢に悠斗が出てきたの!まっくらで、すごく寒いところで泣いてた
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